あと30分もすればスミレが登校してくる。
学習ボランティアとして松葉が丘小学校1年1組の下駄箱前でスミレを待ちうけている小林幸子は、まだ時間があるから、もう一度部屋の様子を見直してこようと、下駄箱を離れた。
初めてスミレの様子を見せてもらった1か月前のことをありありと思い出す。
「ずいぶんと小柄ですね…。」
思わず独り言を言った幸子の言葉を、施設長は聞き逃さなかった。
「愛情遮断性低体重・低身長の診断が出ています。」
「そうですか…。」
「スミレちゃんは10代の両親の元に生まれ、物心つく前から父親から母親に対する暴力をずっと見続けていました。昨年、父親は電車に飛び込んで自殺、母親はその時受けた暴力が元で倒れていたところをスミレちゃん自身が発見しています。入院した母親に代わり、祖父母が養育にあたりましたが、祖母が間もなく心筋梗塞で死去。その間、母親の精神状態は悪化の一途をたどり、激しいパニックが続きました。精神科の診療とともに服薬していましたが、落ちついたのを機に親子二人で暮らしたいと言い出し、今年1月、独立しました。けれども、体調をくずしてしまったスミレちゃんの面倒をみられず、完全な育児放棄。スミレちゃんは1週間以上も飲まず食わずのまま放置されるという体験をしています。身体的暴力もふるわれたようです。その時の記憶をしっかりと留めていますが、父親のことはよく覚えていないようです。ところどころ、記憶が飛んでいるようです。」
「小学校でもいじめに遭ったとか。」
「はい。 入学わずか10日で、人殺しのこどもだとかバカだとか、ひどいことを…」
説明しながら今日子は涙を滲ませた。
「もうどんな重荷も背負えないほど傷ついていたと言うのに…。」
「今はずいぶん元気を取り戻しているように見えますが。」
幸子は細かな過去をそれ以上聞こうとはせず、同年代の女の子と追いかけっこをしているスミレを目で追い続けた。
「ようやく最近のことです。ここでの生活に抵抗が強く、これまでの不安が一気に噴き出す形で、苦しかったと思います。」
真理が言葉を添えた。
「愛着障害、ですか?」
幸子の口からその言葉が出たことに、今日子も真理も息を飲んだ。
「小林さんはお医者さんの免許もお持ちだそうです。」
校長が説明すると、二人は納得したように顔を見合わせた。
すぐにスミレを紹介しようと言う今日子を押しとどめて、幸子は帰って行った。9月に学校で出会いたい、という幸子の申し出に、校長も学園の職員も、なんとも言えない安心感を持った。
いきなり1年1組の教室に連れていく気はなかった。
しばらくは、たんぽぽ学級の片隅に机を置いて、ここからスタートしようと幸子は決めていた。
幸子に与えられた第一ミッションは「スミレがクラスに自然となじむように支援すること 」だった。
担任と細かく打ち合わせをすること、教頭に必ず許可を取ることが条件ではあったが、幸子のアイディアはことごとく受け入れられ、今日の日を迎えていた。
学校側は、幸子の発想に脱帽だった。突飛な発想に首をかしげつつも、それがどんな効果を発揮するのか見てみたいという空気が濃厚だった。いまや、東大出の医師であり教育学博士でもある幸子の動向は、松葉が丘の注目の的だった。
「よし!」
教室の点検を終えて、幸子は小さくつぶやいた。
「小林さん、そろそろ昇降口に行きましょうか。」
担任の矢口先生が迎えに来た。幸子と同年齢くらいに見える、小柄でぽっちゃりした矢口先生は子どもたちから密かに”たこやき先生”と呼ばれている。
「はい。なんだか、落ち着かなくて。」
おっとりと幸子が笑うと、矢口先生はあなたでも?と言いたそうに目を丸くしたが、口は違うことを言った。
「新しい子どもを迎えるのは、いつでもドキドキです。」
真理に付き添われて、スミレがやってきた。
正門をくぐる前に立ち止まって、真理から何か言われているところを、ふたりは昇降口から見守った。迎えに出ようとする矢口先生をひきとめたのは幸子だった。
「待ちましょう、自分で来たくなるまで。」
それは、たいして長い時間ではなかった。
スミレは、自分から歩きだし、昇降口までやってきた。
「はじめまして、スミレちゃん。担任の矢口です。」
矢口先生は膝を折ってスミレの顔を覗きこんだ。
「スミレちゃんと一緒に勉強する、マリアンヌです!」
幸子の挨拶に一番驚いたのは矢口先生だったかもしれない。膝を折った姿勢のまま、勢いよく首をぐるりと回して、背後に立っている幸子を見上げた。真理もキョトンとしている。
「マリアンヌっていうの?ガイジンなの?」
スミレはしげしげと幸子の顔を見上げた。
「日本人でもマリアンヌです。スミレちゃんもマリアンヌって呼んでね。」
「うん、わかった!」
「じゃ、仲良しの握手。」
二人で握手をすると、スミレはそれだけで大笑いし始めた。

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コメント
コメント一覧 (4)
楽しみです。
なんちゅう才媛なんでしょうね。
アンジェリーナやニコールという感じじゃないのかも。
年齢の割には、すさまじい経験をしていますよね。
これを乗り越えたら、強い大人になれそうです。
「小林先生」という呼び方を見て、これからの展開に間違いがなかったと保証をいただいたような気がします。
ありがとうございます。
よかったら、続きもよろしくお願いします。
ニコールと言われたら、きっと作り笑顔がひきつってしまうなぁ。
「強い大人」
もう、いやですよぉ。
そんなに見透かさないで〜。