その学習ボランティアは、市の広報を通じて募集された。
ボランティアなので、交通費相当の謝礼とも呼べない、いくばくかが渡されるだけで、収入と呼べるようなものにはならない。スミレのような複雑なケースを理解してサポートできるような人材が見つかるとは、考えにくかった。
それでも4名も応募があったことに、校長は自分で言い出しながら、少なからず驚いた。
しかし、面接してみて、世の中そううまくはいかないと、溜息をつくことになった。
応募者のうち2名は男性だった。
広報に、女性のみを募集するとは書けない。性差別につながりかねない表現は慎まなくてはならない。
しかし、幼いとはいえ女児に身近くついてもらうので、できれば女性が望ましかった。
公表できない内部事情はどこにでも存在する。
これといって決め手を欠く人材だったことがかえってありがたかった。
残り2名は女性だったので、校長も自然と面接に力が入る。
しかし、面接を終えた後の校長の顔は、干からびたサボテンのようになっていた。
「ありゃ、だめだね、教頭。」
「はい。あれはいけませんね。」
ひとりは、人柄はまずまずと見えたが、高齢の域に達していて、膝や腰の痛みがあるから座ったままでできる範囲で…との申し出だった。希望を叶えてあげたいところだが、小学校1年生の活動が座ったままでできるはずもなく、お断りするしかなかった。
もう一人は40代半ばの女性で、子育ての経験もあり、教育学の修士課程を終えていた。書類上、大変好ましいように思われ、内定のつもりで面接を迎えた。しかし、実際に会って話しているうちに、校長はどうも自分の違和感の証拠を探すようになっていた。
理由がはっきりすると、校長は採用の意思をなくしていた。
彼女の話からは、自分のことしか出てこなかったのだ。これから一緒に学ぶ子どもに対する思いというか、好奇心というか、そういうものが一切感じられなかった。自分のやりがい、自分の決意、自分の経歴、自分の…。
校種を問わず、教育の主人公は常に子どもたちだ。
どんなに優れた授業技術を持っていても、知識が豊富でも、受け取り手である子どもたちを無視する教育者の活動は、教育ではなく自己満足にすぎない。
ボランティアに、それを求めるのは無理なのかとも考えた。
今はその点がわからなくても、スミレがやってくるまでに伝えていけばいいのかとも考えた。
しかし、何度かもみの木学園に自ら足を運んでスミレの様子を見続けてきた校長は、スミレに寄りそう人を選ぶにあたって、この点を妥協する気には、どうしてもなれなかった。
知識が足りないならば教えればどうにかなるかもしれない。しかし、教育者のセンスというものは、もともと持っている資質が大きいと校長は思っている。人に対する思いは、教えられて身に着くものではない。
即戦力を求めている今回のボランティア募集では、採用者自身が失敗しながら身につけていくのを待つゆとりはなかった。
かといって、誰もいないでは始まらない。
「でも、校長。応募の締め切りにはまだ5日ほどありますから。次に期待しましょう。」
能吏タイプの女性教頭は、不適格な応募者を切り捨てると、さっと気持ちを切り替えた。

ポチッと応援お願いします
コメント
コメント一覧 (4)
今の世の中、いくらでも人材はあるのでしょうが
そこにお互いが辿りつくには、山あり谷ありですね
仕事のできない業者と組めば、利益など簡単に吹き飛んでしまいます
人材は「育ててなんぼ」だというのは、本当に身にしみています。
特に私の仕事は「環境設定」が仕事の7割くらい。
使えない人材という発想はあまりなくて、
能力を発揮させる環境設定ができていないということで
指導者側の能力を疑われる構造です。
とはいえ、即戦力がほしい時も多々ありますね。
しかし、どちらかを選ばねばならないとしたら、どっちがいいんでしょうね。
自分のことばかり話す40代?
足腰が弱っている高齢の方?
私は高齢の方のほうがいいと思いました。
でも、慌てちゃいけません。
きっと、もっといい人が登場するに違いありません(笑)
私も校長先生だったら、二択を迫られたら高齢の方ですね。
自己中はいけません。
けど…砂希さんにはいつも展開がバレてしまう〜〜〜
えっ!?と言わせたくなりますね。
そうか。こうして作家たちは趣向を凝らすようになるのね。