なんとも言えない屈託のない笑顔を浮かべるスミレを見て、祖父は自分の選択が正しかったと保証をもらったような気になった。
隆三や今日子には説明しなかったが、新規事業の責任者になったときの経緯は、祖父が言葉にした範囲で済むような単純なものではなかった。祖父も決断までにはあれこれと迷った。 

松重コンツェルンの中核を担うのは、まず松重物産と松重銀行のふたつ。かつての松重鉱山は、今では松重化学となって、三本柱の一翼を担っている。 もとが日本橋の豪商だった松重屋からきているので、あちらの製品をほしがるこちらに売ることで利益を上げる、欲しがる人がいれば商品は何でも扱うという柔軟かつエネルギッシュな体質はそのまま今でも松重物産の気質となっている。

三本柱から、電機や建設、観光などなど様々に分社して、世界に広がっている松重グループは「人の松重」と呼ばれ、代々優れた経営者を輩出してきた。顧客第一主義は徹底されていて、人格者の経営のもと、大した無理もなく拡張してきた。

だから物産は、ザ松重といっても過言ではない。学閥にこだわらず、できる人間を採用する方針は、他の財閥と一線を画していた。だから祖父の時代、就職できたというだけで、村を挙げて祝いの酒宴が設けられたなどという同期がいくらもいた。

とはいえ、大企業の宿命、生き残るのに熾烈な競争があるのは必定だ。採用される人数に対し、ポストはそう多くはない。そして、ポストに関心がない者が、生き残れる職場でもない。年々採用されるキレ者たちとしのぎを削り、自分の仕事と居場所を確保して行くのは並大抵のことではない。

言うまでもなく、経営者が人格者だからといって、社員がすべて人格者なわけでもない。いや、どんな人格者でも、どこかに虎や狼を飼っているものだ。使えないと思えば枯れた花より簡単に切り捨てるし、邪魔だと思えば容赦なく蹴落とす。顧客獲得の前に、各部署との過酷なほどの闘争がある。誰が仲間で誰が敵かわからないような巨大な渦の中で、視野とバランス感覚を失わずにポストを上げていけるのは、一握りの人間だけだ。

そうやって部長になった。先に行っている同期もいることを思えば、決して早いとは言えないが、遅いわけでもない。よくやってきたと思っている。次のポストは、取締役に限りなく近づく。
祖父もそれがどういう意味かはわかっている。部長で止まっていて取締役に登って行く気持ちがないということは、次の異動は出向だ。このまま本社で終わりたかったら、家庭や家族のことよりも、次のポストをめがけて権謀術数の中に身を投じていなくてはならない。

今回部下が成し遂げた大きな契約も、「部下が育った、よかったよかった」などと隠居のようなことを言っているようでは、この会社ではのし上がることはできないのだ。部下の成功は俺の腕、というくらい当たり前のことだ。

ほんの少し前まで、祖父…いや、新吉も、そのつもりでいた。同期から出遅れた分だけ一発逆転の大ばくちを打つつもりだったのだ。今回の契約は、その前提で動き始めたものだった。部を挙げての大成功を収めることがどうしても必要だった。しかし、同じ時期に、「部長・星川新吉」としてでは決して観ることのない世界を覗きこんでしまった。自分が出世競争に明け暮れている間に、家族に起きていたこと、世間に広がっているものを知ってしまった。

妻を亡くしたことも重なって、思い切り長期の休暇を取ってしまった。
そうして、知ってしまった。
知ってしまったら、もうこれ以上、それまでの暮らしを続ける気持ちになれなくなってしまったのだ。
燃え尽きたというのとも少し違う。
しかし、一度湿った導線に火がつくことはもうないだろう。
それは、出世レースの敗北を意味していた。
そもそも、家族にスキャンダルを抱えた時点で、自分の部長以後のレースは消えたのだ。

出向となったら、今と同じ仕事を続けるのは無理なことだった。
新吉は、物産の仕事をこよなく愛していた。国境などないかのように、あちらでほしがるものを、世界中で探してきて売る。優秀な部下を従え、黒のアタッシュケースひとつで国際線に飛び乗る自分を、仕事を、契約が成立した時の顧客の笑顔を、この上なく愛してきたのだ。役職についてからも、新吉は自ら動いて契約の席に立った。そこから離れて、モチベーションを維持できるとは思えなかった。

スミレを育てることでさえ、物産での仕事の魅力には勝てなかったのだ。

しかし、スミレが長野に行ってしまってから、祖父の心は大きく揺らいだ。
仲間内で出世にしのぎを削ることに何の意味があるのだろうか。
そこに意義を見いだせなくなったことは認められる。
ただ、だからといって出向先での仕事に意義が見出せるとは思えない。
しかし、食っていかなくてはならないのだ。

逡巡の時だったのだ、新規事業を任せたいとの話が来たのは。
しかも、なぜかわからないが、会長のお声がかりだという。
なにもかも、あまりにも都合のよい話だった。
失敗したらトップとしての自分の責任かと思うと、門外漢だけにしり込みしたくなる。
やめたほうがいいんじゃないかと、自分の中の誰かが言いもする。
しかし、飛び込んでみるしかあるまい、と思った。
今度は、もう少し人間らしく、ゆっくり周りの風景を見まわしながら、お日様の温度を感じながら働こう。

これまで血が流れても離さなかった空中ブランコの横棒を手放した。
ストンと着地した。
「部長・星川新吉」ではなく、「祖父」であることも一緒に生きてみよう。
今度は、重力に負けないように背中を伸ばして、地を踏みしめて歩くのだ。のんびりね。
力を抜いたら、骨と骨の継ぎ目に、隙間ができてそよ風が吹き抜けたような気がした。

時はまさにバブルの絶頂期。
祖父が物産に別れを告げたわずか後に、この物産にも狂風が吹き荒れることなど、誰も思いもしなかった頃だった。







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