コースターの上に冷えた麦茶を入れたグラスを置くと、真理は祖父の斜め脇の席に腰を下ろした。
祖父は改めて、スミレが世話になった礼を述べようとした。が、今度ははっきりと、真理に止められてしまった。
「頑張ったのは私ではありません。スミレさんです。辛かったのも私ではありません。スミレさんの方がずっと…。」
真理は穏やかな笑顔を浮かべている。

「スミレと話していると、まるで生まれ変わったようです。」
「ええ、本当に生まれ変わったのですよ。」
「と、おっしゃると?」
「スミレさんはここで、赤ちゃんから…というより、胎内から6年分の時間をやり直したのです。 」
「どういうことでしょう?」
「それはともかく…。」
真理は細かいことを話さなかった。
もし話していたら、出来事のひとつひとつに、きっと祖父は目を剥いたことだろう。 
祖父もまた、それ以上、問い詰めてまで聞き出そうとはしなかった。

「長谷川さんは、なぜこの仕事を?」
深い意味で聞いたわけではなかった。
この謙虚で底抜けに明るい女性に好意を感じたのは事実だが、祖父にとっては一般的な挨拶の延長程度の問いかけだった。
それが、無言で目を見開き、言葉を飲んだ真理を見て、祖父は何か大きな地雷を踏んだことを知った。
「今日子さんからは何も?」

「いや、何も聞いていません。すみません、何か立ち入ったことを聞いてしまったようだ。」
「いえ、そんなことはありませんが、今まで利用者さんのご家族からそんなふうに聞かれたことがなかったので。」
「そうですか。すみません、本当に。忘れてください!」

「いえ、聞いてください。星川さんには、お話ししていいような気がしますので。」
ああ、この人もまた、何か抱えているのだなと思う。

「娘を、亡くしました。」
そう切り出した真理を、祖父は見つめてよいものかどうか、わからなかった。
それでも、静かにまっすぐに見つめてくる真理の瞳から、祖父は目を離すことができなかった。

「元々私は、高齢者介護の仕事をしていました。夫とは職場結婚でした。忙しいのに安月給で、周囲にいるのはお年寄りばかりでしょう。でも忙しくって遊びに行く暇なんてないんです。だから出会いも何もないと思っていましたんですよ。でも他の施設から彼が異動してきたんです。同じ介護職同士、彼とは最初から気が合って。30歳を目前にウエディングドレスを着たんです。おじいちゃん、おばあちゃんたちが本当に祝福してくれて、嬉しくて。」
真理の唇が震える。

「幸運にも、私たちは1年も待たず、すぐに子どもを授かりました。 ヘルパーの仕事になんかならないのに、みなさんが来い来いって言ってくださるから、毎日のように職場に行って、たくさんの利用者さんにお腹を撫でていただいて。この子はきっと、すごく幸せな子になるだろうって思っていました。みんなに喜ばれて、祝われて、注目されて、私も夫も本当に待ち焦がれて。」
祖父の目に、せり出したお腹を抱えるように歩く真理に、あちこちからお腹に手を伸ばし話しかけるおじいちゃん、おばあちゃんたちの姿、それに笑顔で答える真理が見えるような気がした。

「小さく生んで大きく育てると言いますけれど、 生まれた娘は本当に小さかった。それでも、大きな産声を聞いて…。」
真理の言葉が途切れた。
今も祖父を見つめる瞳はうるんで、今にも大粒の涙がこぼれ落ちそうになっていた。






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