「異動って?」
隆三はスミレと半分に分けたエビ一貫を前に置き、箸でつまもうとしたまま、祖父に詰め寄った。
「それが、奇跡のような話で。」
「もったいぶるな!早く言えって。」
「あのなぁ、安曇野に、異動になったんだよ。」
「はぁ?!だってお前、ブッサンには長野支店はないから、異動のしようがないって言っていたじゃないか。下請けがある会社でもなし、可能性はないって。」
「そうなんだ。だいたい、本社が一部長の家庭の事情を、年度末でもないのにあれこれするはずもなし、辞めるしかないと思っていたんだよ。ところが…」
「だから、早く言え!」
「今説明してるだろ。それが、会長のお声掛かりでなぁ。」
「会長?会長って、松重誠一郎氏のことか?」
「そうだ。先代がお亡くなりになってもう10年になるか、神と言われた先代に劣らず、現会長もお若いのに優れた人でなぁ。経営センスは先代以上かもしれないともっぱらの評判で。」
「その会長と知り合いなのか?」
「とんでもない。年始のパーティーで遠くから姿を見るくらいなものさ。松重コンツェルンに連なる企業がいくつあると思う?そりゃ、ブッサンは中心企業の一つだが、一部長がお知り合いなど、あり得んな。」
「じゃ、なんでそんな天上人のお声掛かりなんだ?」
「そこが分からない。分からんが、突然社長に呼ばれて言われたんだよ。会長が新規事業をお考えでいらっしゃる。君はその責任者に選ばれたって。」
「何だ?その新規事業って。」
「介護だ。具体的なことはまだ話せないが、松重ホームを立ち上げるんだ。」
「松重ホーム?」
「ああ。俺は会長からの名指しで、この新規事業の責任者になってしまった。あまりにも専門外、経験外、重責すぎるからお断りしようと思ったのだが・・・。」
「だが?」
「この安曇野で試験的にスタートする、ついては安曇野に引越せと言うんだよ。社宅として、隆ちゃんたちが住んでいるあの住宅街な、あそこに家を借りてくれるそうだ。」
「おい、新ちゃん、どんな魔法使った?」
「いや、皆目見当がつかん。こんな好都合な偶然があっていいものだろうか?」
「で、受けたんだな?」
「ああ。やってみようと思う。今の部署ではもう俺がいなくても大丈夫だしな。最後にひと花咲かせるのも面白い。それに、介護の世界にはスミレや今日子さんを通じて興味を持ったところだし、ミドリにも、この自然の中で過ごすのはとてもいいように思うんだ。」
「何しろ、俺たちの故郷だしな。」
「ああ。」
今日子がしみじみと言った。
「私たちは、本当に神様に愛されているのね。スミレちゃん、聞いていた?おじいちゃん、ここに引っ越してくるんだって!」
レーンに流れてくる皿を捕まえることに慣れてきたスミレは、厚焼き卵を捕まえたところだった。
大きな口をあけて、パクリと行く寸前に今日子に話しかけられ、そのまま動作が止まった。
「おじいちゃんが、引っ越し?」
「そうよ。おばちゃんちのそばのおうちに住むんだって。」
厚焼き卵が箸からスローモーションで落ちた。
真横に座っている祖父をのそりと見る。
「ほんと!」
祖父を見上げたスミレの顔が満面の笑みに包まれた。 
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コメント
コメント一覧 (4)
それなりの布石があっての移動なのでしょう
拝読していて、
もう一度、事業を立ち上げてみようか
などと思ったりするから不思議ですね
必死で何かをやっていれば、力を貸してくれる人もいます。
運も実力のうちとは、よくいったものですね。
よかった、よかった。
もう一度、事業を?
そんなふうに感じながら読んでいただけるのはとてもありがたいことです。
事業を立ち上げるなどとは別世界に住んでいますが、
少しは迫れたかな。
はい、そういう展開になりました!
ちょっとずつ仕込んだことが、ずっと読んでくださっている方にだけわかるようにしてあります。
運も実力のうちと聞いて、実力を伸ばすより、運をどうにかできないかと真剣に考えた大学受験の頃を思い出しました。
実力の方ともっと向き合っていたら、砂希さんと一緒の出身にはならなかったのかなぁ。