その夜、かあさんは、暮らしている家に帰ってから、いつものようにすぐには部屋に引き取らず、リビングで人を待った。

「花亜様。お待たせをいたしました。」
「後藤。申し訳ありませんね、仕事があるのに呼びたてて。」
「なんの。ここは私の家でございますから、時間がくれば帰ってまいります。」
「それはそうだけれど…。」

後藤と呼ばれた男性は、かあさんと同じほどの年齢に見える。
いかにもフットワークの軽そうな、誠実そうな容貌をしている。 
かあさんの向かいのソファーに座った女性は、この男性にとてもよく似ている。
母親のようだ。

「それで、調べてくれましたか?」
「はい、花亜様。確かに、松重物産に長野支社はございません。本社の部長さんを異動させるような部署も見あたりません。そうでなくても出向は、本社の人間にとって致命的な話です。どちらにしても降格同様になってしまいます。」
「そうなのだけど。あれほどの人物を、残念だわ。」

「ただ…」
「何か?」
「はい。このたび旦那様は、新規事業をお考えのようで。」
「新規事業?また拡大するのね…。」
「拡大になりますかどうか。」
「今度は何を?」
「はい。旦那様は介護事業をお考えのようなのです。」
「介護?高齢者の?」

「今のところ、高齢者と限ってはいないようです。昨今の核家族化を考えれば、高齢者はもちろん、さまざまな事情で家族と暮らせない、しかし一人暮らしもままならないという人は増える一方だろうから、そういう方々に安心できるお住まいを提供する事業ということだそうで。」
「なるほど。お優しいお兄様らしいお考えね。」

「はい。それで、本格的に立ち上げる前に、どこか地方都市で実験的に着手したいとお考えの由。その中に…」
「その中に?」
「土地代、設置基準となる様々な法律、条例、行政のフットワークなどを勘案して、いくつかの候補地があるようですが、その中に安曇野市が入っているそうです。」
「まぁ!」
かあさんは膝を打った。
 
「では、お兄様に伝えて。新規事業の責任者にうってつけの人物をご推薦申し上げますと。」
「承知いたしました。」

「それから、後藤、これまで世話をかけました。家を出てからもう10年になるかしら。私も28になりました。」
「はい。私も同い年ですから存じ上げておりますとも。同じお屋敷の敷地内とは申せ、ご心配申し上げました。」
「後藤にもばあやにも本当に面倒をかけましたね。お母様もまさか私が今もこの家にいるとはご存知ないでしょう。」
「それはもう。お言葉通り、花亜様はここをお出になって行方が知れないと、奥様には申し上げております。胸が痛みますが…。」
「ふふふ。大してご心配の様子もなく、海外ですものね。」
「それは…。でも花亜様、突然何をおっしゃいます?」
 
「私、昨日結婚いたしました。」
「はあ?」
後藤親子の大声が音声多重で響く。

「ですから、私、昨日結婚いたしましたの。明日、その方の許へ引っ越します。今まで本当にありがとう。ばあや、あなたのことは一生忘れないわ!」
「あわ、あわ、あわわわ…」
ばあや、と呼ばれるには若すぎる女性は、口を漫画のようにパクパク動かすばかりで言葉が出てこない。
 
「か、花亜様、そのようなこと、旦那様にご相談もなく…」
「後藤。憲法第24条をご存じ?婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、と書いてあるわ。それに、お兄様は私の覚悟に反対なさったりはしないわ。」
「あの、それで、お相手は、やはり、あの?」
「そう。あの方。」

それまで、あわ、あわわを続けていた後藤の母が、かあさんに駆け寄り、椅子の前に膝をつくと、その白い両手を包むように握って言った。
「よくぞなさいました。花亜様。あなた様は必ずお幸せな家庭をお築きになります。ばあやが受け合いますよ。これからは、奥様としてしっかりとなさいませ!」

「か、母さん…」
自分が仕える令嬢と母とが同時に振り向いた
「ああ、女性とは、なんといつも思い切ったことを…」
ぐちぐちと言い続ける後藤を無視して、ばあやに向き直ると、かあさんは明るい声を出した。
「ね、ばあや。お屋敷最後の夜だから、今夜は一緒のベッドで寝てもいいでしょう?」 






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