週末とはいえゴールデンウィークを目の前にしたことだから、きっと空いているだろうと思っていた特急あずさ3号の自由席は、季節を逆戻りさせたような冬支度の乗客で満席だった。 以前流行した『あずさ2号』をどうしても思い出すことに、祖父は苦笑してしまう。そういえば先日ラジオで、『かいじ101号』とかいう、やけに歌唱力のある男性たちが歌う、あずさ2号をもじった歌を聴いた。「8時くらいのあずさじゃなくて…」とかいう歌詞につい、吹き出してしまった。

運よくスミレと並んで座ることができた。窓際に座ったスミレは、目をいくぶん大きく開けて、新宿駅を出発してから刻々と変わっていく風景を眺めつづけている。
ふと、この子はこんな列車に乗るのも初めてなのだろうかという気がして、尋ねてみようとした。
「スミレ、あの…」
言いかけたが、続く言葉を飲み込んだ。
スミレの場合、どの記憶がどこにつながっているか分からない。こちらが何でもないことと思っていても、スミレには思い出したくない記憶かもしれない。

ミドリとの想像を絶する1週間を破綻のうちにすごした後、警察官から事情聴取を受けたスミレは、驚くことに、意識を失う前までのことを、理路整然と説明した。ただし、母親から暴行を受けたことだけは頑として認めなかった。体にあざが残っていた。スミレの嘘は明らかだったが、平然と「そんなことはない」と言い続け、貫いた。

そうかと思うと、父親と母親との間にあったことは、本当によく覚えていないらしい。父親の顔も思い出せないと言う。どうも嘘とは思えないのだが、ミドリをかばってか、暴行は受けていないと平然と言うスミレだから、父親の記憶がないというのも、嘘とは言い切れない気がしていた。

水曜に、シスター今日子が、子どもの頃に度重なる苦痛を味わった子どもの中には、平然と嘘をつけるようになる子どもがいると言っていた。シスターには黙っていたが、何か、なるほどと納得する点があった。

あれこれ考えているうちに、心地よい振動から睡魔に襲われた祖父と違って、スミレは眠くなるどころではなく、窓の外に高速で流れて行く風景に飽きることなく目を奪われていた。

向かい合わせの席に座った夫婦は、登山にでも行くのだろうか。
話しの中身はわからなかったが、あれこれと話しては笑い合っている夫婦のことを、スミレは不思議なものでも観るような目でみつめていた。
その視線に気付いた奥さんが、ウエストバッグからキャンディーを出してスミレに手渡そうとした。
「どう?」
「あ、ありがとう。」

スミレの小さな声で、祖父は目を覚ました。
見ると、スミレは小さな手で、キャンディの包みをほどいているところだった。
サクマのいちごミルク。その薄桃色が透けて見える小さな三角形を口に放り込むと、スミレはなんとも言えない幸せそうな顔をした。

「どうも、ありがとうございます。」
祖父からも礼をいうと、向かいの夫婦は温かな笑顔で、また互いのおしゃべりに戻って行った。
祖父は思う。この子は、こんなものが好きだったんだな。俺はおやつといっては、せんべいしか用意してやらなかったが…。
また、グラリと自信が揺らいだ。


松本駅で列車を降りる。
佐々木夫妻は既に迎えに来てくれており、祖父とスミレに気付くと、二人で大きく手を振った。
「スミレ、佐々木さんと今日子さんだ。」
「こんにちは。」
スミレはまた小さな声で挨拶をした。
「よく来てくれたわね。疲れてない?トイレは?お腹すいたでしょう?どこか痛いところはない?」
シスター今日子があれこれと尋ねる。スミレは人見知りをして答えられないだろうと思いながら見ていると、
「大丈夫。痛くない。トイレ、さっき行って来た。お腹、ちょっと空いた。」
と、答えるではないか。

ああ、子どもには、女性特有の、こんなこまごました気遣いというか、しつこさというか、そんなものが必要なのかもしれない。
祖父はまた、さらに自信を失った。

隆三が運転する車にみなで乗り込んだ。






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