ミドリより早く意識を取り戻していたスミレは別室で、優しく若い看護師がつきっきりになってくれていた。
看護師がそれとなく尋ねてみたが、スミレは倒れる直前に見たものを記憶していなかった。
お泊りに行ったの、新しいパジャマを買ってもらったんだよ、あれ?ママは?
ママは疲れてしまったので、別のお部屋で眠っているから、もうしばらく寝かせてあげましょうねと看護師が言うと、スミレは素直に頷いた。
あのね、これ、ママが買ってくれたの。スミレはポケットに入ったままになっていたキティちゃんのハンカチを広げて、看護師の目の前に差し出した。
何も知らない4歳児がこれまで見たであろう光景について、看護師はすでに理解していた。その後に続いた、父親の死亡についても聞かされていた。かわいそうに。この子は、これからもっと厳しい現実にぶち当たるのだ。
看護師が不意にふわりとスミレの小さな体を抱きしめた。
コロコロとふくよかな子どもが増えたというのに、スミレはあまりに細く、その名の通り、指先でつまめば折れてしまいそうな体をしていた。
突然抱きしめられて驚いたスミレは、無意識のうちにもがいて逃れようとしたが、看護師がそのまま髪をゆっくりと撫で始めると、体から力が抜けた。シクシクと泣きだしたのだった。
きっとこの子はずっと前から、こうして泣きたかったのだろう。
でも、泣けなかったのだ。
大好きなものに夢中になっている間、他のことを覚えていないというのは、「健全な物忘れ」だ。しかし、思い出すのがあまりに辛い出来事を、思い出せないようにロックをかけた現象を解離性健忘といい、精神性疾患の一症状だ。その出来事を体験した自分が、現実の自分と別々になっているのだ。別になった自分が別人格を持った状態を、解離性同一性障害という。いわゆる多重人格だ。スミレは、その入口に立っている。
神様、どうかこの幼子に幸せを。看護師は髪をなでながら祈った。ふと、戴帽式のときに見たロウソクの明かりを思い出した。看護師である自分には、この子にしてあげられることと言えば、母親が目覚めるまでの短い時間、この子の安らぎになることくらいしかない。けれども、これから将来、ほんのひとつ、小さくでいい。この子の心に明かりがともり続けますように。

ポチッと応援お願いします
コメント
コメント一覧 (4)
献身的な奉仕精神を持っていらっしゃる、と認識しております
美しい心が具現したワン・シーンですね
拙ブログにおいての殺人予告です
7月と8月も、殺人事件を関内署内で発生させます
物書きは文章の中において、殺人が許されるのであります^^
何の本で読んだのか忘れてしまいました。
いくつもの人格が生まれ、治療を通じて消滅していく。
生まれない環境で子どもを育てることが重要なんですね。
普通の家庭に育つだけで、十分幸せなのだと思います。
何度か入院したことがありますが、看護師さんが頼りで、
お気持ちの優しい方だと、それだけで早くよくなるような気がしました。
それにしても、またまた殺人事件が…
それではせめて、善良な女子大生などが犠牲になるのではなく、
箸にも棒にもかからない、しょーもない人にしてください。
心がよりよい居場所を求めて避難するというよりも、
苦しんでいる自分を他人だと思うことで切り捨てる、という方が妥当なように理解しています。
多重人格は、以前は特異な事例として話題になりましたが、
最近ではよくあることになってきているようです。
それだけ、世間が歪んできたのと、個人が弱くなったのと、相乗なのでしょうね。