哲也は頭の中が真っ白になった。
いつものように殴りかかろうとミドリの胸倉を鷲づかみにしたが、殴れなかった。
いつもは怖がって小さく身をかがめるミドリが、この日は真っ直ぐに自分を見返してきたからだ。
その目には、燃えるような決意が見て取れた。

「殴るんでしょう?殴ればいいわ。でも、今日で最後よ。私はもう二度と、誰にも私を殴らせないと決めたの。あなたが今から一発でも私を殴ったら、私は家を出る。あなたがどんなに謝っても、二度と帰らないわ。そうして、警察に行く。あなたを更生させてくれるよう、今までのことを全部話して助けてもらうわ!」

振り上げたこぶしを、哲也は振りおろせなかった。
「私、働きに出たいの。スミレが幼稚園に行っている間なら働けるから。わずかかもしれないけど、家計の足しにする。私とスミレふたりぐらい、生きていけるでしょう。だから私たちのことは気にせず、あなたは大学にでもサッカーにでも戻って。やりたいことをやって。」

「ふざけるな。」
哲也が初めて口を開いた。
「今更ふざけたことを言うな。4年もブランクがあるんだぞ。今更戻れるわけないだろう。簡単に言うな。」
「簡単じゃないことはわかってる。でも、始めてもみないでできないと決めつけることもないでしょう。」
「おまえなんかに何がわかる。サッカーはそんな簡単なものじゃない。」
「簡単なものじゃないことは、私も分かってると思う。でも、」
「でももへったくれもあるか!やり直してどうにもならなかったら、俺の人生は二重に無駄になるじゃないか!そんな馬鹿らしいことやってられるか!」
「どうして無駄になると決めつけるの?サッカーをもう一度始めることに無駄なんてあるの?」

「そこらで趣味のサッカーやれってのか?この俺に!?」
「趣味のサッカーから始めればいいって言っているの。いつまでも趣味で留まるのがいやだったら、どんどんあなたのいたい場所へ登っていけばいいんじゃないの?」
「ふざけるな。」
「ふざけてなんかないわよ。だいたい、あなた、最初からプロになんかなる気はなかったでしょう?だから社会人を断って、大学目指したんじゃなかったの?」

その年、日本サッカー界は大きな転機を迎えていた。
Jリーグが発足したのだ。
長く社会の注目を浴びぬまま努力を重ねてきたサッカー選手たちは、ここにきて、一躍ヒーローへの道を歩き出した。
ブラジルから、スーパースターのジーコがやってきたことも大きかった。
サッカーを知らない人たちも、すごいと噂のジーコを一目見ようとサッカー場に押し寄せていた。

哲也はミドリとの生活を選んだこと以前に、社会人リーグでサッカーを続けることを軽視した自分の選択が誤っていたことを、実に分かりやすく突きつけられた。
その痛手から、ずっと目を逸らし続けてきた。
それをズケズケと無神経に、いや、攻撃的に突きつけてくるミドリに、怒りを越えた何かを感じ始めていた。






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