スミレがお泊りに行った夜、ミドリは哲也の帰りを何年振りかで待ち受ける気分で過ごした。
今夜こそ、しっかりと話し合うのだ。
何が問題なのか、どうやって解決したらいいのか。
あらゆる覚悟はできていた。
スミレさえ手元に残れば、私は何もいらない。
とうとう哲也が帰宅した。
少し酔っているようだった。
帰宅時間もいつもより遅い。
このところ、時々あることだったので、ミドリは気にしかなった。
「晩ご飯の支度ができているけど。」
「食べてきた。」
「そう。それなら連絡くれたら嬉しいんだけど。」
「何だと?」
ほら、始まった。
でも、今夜の私はひるまない。スミレがいなんだ。気にしなければならないことは何もない。
「外でご飯を食べるときは連絡してほしいの。そうしたら、私、食費を無駄にしなくて済むわ。」
「俺の飯が無駄だというのか!」
論理も何もないことに、哲也は気付いているのだろうか。
「話したいことがあるの。あなた、私と結婚したことを後悔しているんでしょう?だったら別れて。あなたはあなたの生きたいように生きてほしい。」
遠回しに言っても聞いてもらえないことは分かっていた。だから、一番言いたいことだけを伝えた。
哲也は一瞬戸惑ったように見えたが、すぐに顔を真っ赤にして硬直した。
暴力を振るい始める前兆だ。
いつもは、この表情を見ると体がすくんで動かなくなった。いつの頃からか、意識もぼんやりするようになっていた。殴られている間の記憶はあまり残らない。痛すぎて覚えていないのだろうとミドリは思っていた。
これが「解離」と呼ばれる精神症状の一つであることを、ミドリは知らなかった。
しかし、この夜のミドリは少しもひるまなかった。
「殴るの?殴ったら何か解決するの?大学に行きたいなら行けばいい。サッカーをしたいならすればいい。あなたほどの実力なら、やりたいと思った時からやり始めたら、休んでいた期間のことなんか、すぐに取り戻せるでしょう。」
ひるんだのは、哲也の方だった。
いつもと違うミドリに、哲也は驚きを隠せなかった。
「お金のことだってそう。両方の家が助けてくれると言っているんだから、お願いすればいいじゃない。それを意地を張って拒否するから、あなたは仕事を辞められないと思っている。でも、それって身勝手。自己満足でしかないと思う。」
哲也の握りこぶしがブルブルと震えだした。
「まだ23歳じゃない。人生いくらだってやり直せる。あなた、サッカーから何を教わったの?」
哲也は答えない。唇が震えている。
「サッカーは思い通りにならないことばかり。思い通りにパスは通らない。ロングボールも期待した位置には落ちない。どんなに一緒に過ごしても、仲間がすべてあなたの意思どおりに動く日なんか来やしない。監督には気持ちが通じないこともある。相手が自分より何倍も上手いことだって、珍しくなかったじゃない。
それでも、腐らず、諦めず、何度も何度もやり直すのがサッカーでしょう?キックして、セカンドボールを競って、足元で止めて、気持ちを込めてパス出して。相手に1対1で立ち向かって、ミスを誘って、攻めてきたら防いで。シュートが決まるまで、それを何度でも繰り返すのがサッカーでしょう?
何度でも、自分ならやり直せると信じて、今できることに向き合うのがサッカー選手でしょう?1回怪我しても、またピッチに立とうと地道にリハビリして、仲間に応援してもらって、支えてもらって、再起するのがサッカー選手でしょう?
あなたがキャプテンでいられたのはね、あなたよりサッカーが下手なたくさんの部員たちに支えられていたからよ。気が利かないマネージャーたちにも。サッカーなんかやったことないのに顧問を引き受けてくださった先生にもね。あなたの才能は、たくさんの無能な人たちに支えられていたのよ。
サッカーは、生きるのに必要なことを、全部教えてくれたじゃない!」

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コメント
コメント一覧 (4)
実際に口に出すことは、難しいのでしょうね
Hikariさんのそんな思いを想像しながら拝読しました
かつて何度も何度も話し合おうとしました
でも妻らしきことの何一つできません
それでもかまわなかったのですが、離婚した今
元の妻は誰にも気遣いのない生活が楽なようです
よかったよかった。
いきなり、別れてと言うとは思いませんでした。
で、どうなるのかしらん。
話し合いって苦手です。
なんだか言ったらそこですべてが切れてしまうようで。
飲み込むことの方が多いかな。
いきなり「別れて!」ってダメですかね。
そこまでいきつく前に言ってよ!と言われたことが
複数回あったりしたりして・・・・