ミドリも同じ勘違いをした。
何と言っても、高校を中退してまで愛した男だ。
この人の子どもなら、絶対に生んで育てようと決心した相手だ。
不都合が起きたからと言って諦めたら、自分の人生はなんだったというのだ。
なんとかこれをうまく乗り切ること。
それしか選択肢はないと思われた。
哲也が立ち直るためになら、何でもしようと思った。 

二人の両親には、このことは秘密にされた。
哲也からも黙っていてくれと懇願されたし、言われなくても口外する気はなかった。
そんなことをしたら、両親は別れろというに決まっている。

ミドリは、なぜ哲也がこんなに変わってしまったのか、うすうす気づいていることがあった。
初めて暴力を振るわれてから2年がたっている。
スミレは幼稚園に通うようになっていた。
日中、スミレから手を離せるようになり、ミドリは何か行動を起こさなければならないという気になっていた。

もっと早く保育園に預けようと考え、ずいぶん調べもしたし、申し込みもした。
しかし、働いていない母親と、近所に住む祖母たちの存在は、ミドリとスミレを保育園に近づけてくれなかった。
預けなければ働けません、というミドリに、担当者は「働き始めたら申し込みに来てください。みなさん、そうなさっているのですよ。」と答えるばかりだった。

祖母たちに預けて働きに出たいと言うためには、なぜ働きたいか説明しなくてはならない。
うまく説明する自信がなかった。

スミレはすっかり大きくなっている。
毎日のように母親が殴られる姿を見て、平気なはずはない。
哲也がスミレに手を上げないことだけが、ミドリの救いだった。
しかし、直接殴られなくても、受動喫煙と同じように、痛みは娘にも及んでいるのだろう。
もはや猶予はないと思われた。

その日は、ミドリが指折り数えて待った、スミレの「お泊りの日」だ。
家からも近い公民館に、年少さんがそろって一泊する。
スミレはおとなしい子に育った。
わがままも言わず、ふざけることもない。感情を表に出さない子だ。
時々、大人のような目をしてミドリと哲也を見つめる。
その目を見ると、哲也が激昂するので、ミドリにとっては脅威だった。

哲也が暴力を振るい出すと、初めの頃は「やめて、ママを叩かないで」と叫び泣いていたスミレだったが、いつしか押し入れの中に隠れてしまうようになった。
ところが、幼稚園に入ってから、スミレは隠れない。
部屋の隅に膝を抱えて、じっと親の姿を見ている。
じっと、黙って見ている。
その目は、氷のように冷たかった。






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