最近、つくづく思う。

「得意」とか「好き」というのは、その物事に対して、どれだけ時間をかけたかで決まるんだなと。
それも、「行動した時間」だ。

今の職場に異動してすぐのことだった。
同僚たちが自己紹介をし合う場面があった。
大学を出たての人から、もうすぐ定年退職とおっしゃる方まで年齢層はバラバラ。かつて所属していた「Hikariが最高齢-1歳」という若い集団とは大分雰囲気が違う。

「私は歌が得意で、大好きです。」
「私はこう見えても合気道○段です。」
「絵を描くのが好きです。描いてほしいものがあったら言ってください。」
「陶芸が趣味です。」
「大学でアメフトをやっていたので、今でも週末は試合です。」
「料理が好きです。ご飯を作っていると幸せを感じます。」
「ジョギングと山登りが大好きです。」
「運動も音楽もいろいろやりますが、最近トランペットを習い始めました。」
「カメラが好きです。旅に出て、写真撮影するために働いています!」

なんなんだ?この人たちは。
私の自己紹介の順番は、一番最後だ。
誰ひとり、「好き」や「得意」を言えない人がいない。
いや、ひとりだけいた。

「私はこれといって特技はないのですが、ミミズを飼っています。」
「え〜っ
元からの同僚たちも知らなかった話のようで、ざわめいている。
「ミミズといっても、私が飼っているのは…」

その人は、ミミズについてなんと30分近く語った。
30分後に話が終わったのは、話せることが尽きたからではない。
「そろそろ次の人にいきましょう!」と司会が声をかけたからだ。

私は圧倒されてしまった。
自分がミミズみたいに小さく…いやいやミジンコ…いや、ミドリムシみたいに小さく感じた。
頭はグルグル回転して、この場に相応しい「できる」「すき」を探していた。
でも…とうとう順番が来てしまった。

「私は歌を歌いますが、音痴です。料理もたまにしますが、ヘタクソと言われます。運動は苦手で、すぐに疲れてしまいます。キャッチボールはできないし、バドミントンも空振りするから続きません。絵を描いたら幼稚園児以下です。」

情けない自己紹介になった。
「あ、ラッコが好きなので、日本中で飼育されているラッコに会いに行ったことがあります。」
過去完了形か。
ここ2年ほど、生ラッコには会っていない。

「本を読むのが好きです。ジャンルは問いません。」
しまりのない「好き」だ。
「ケーキも好きですが、体を壊して以来、あまり食べられなくなりました。」
もういい。
みなさんの視線に、明らかな「憐み」が浮かんでいる。ような気がした。

ここでもし「ホームページ時代から現在のブログに至るまで、25年間記事を書き続けています。」と言えたら、きっとへぇぇと言われたのだろうか。

人の言動を観察して、その背景に隠されている心理をいくらか分析することが得意ですと言ったら、ええっ!と言われたのだろうか。

ただ話しているだけで相手がやる気の炎を燃やしてしまうことがあります、涙がこぼれて心がスッキリしてしまうことも多いです、などと言ったら信用してもらえたのだろうか。

つまりだ。
私の「好き」や「得意」は、「料理」「絵」「歌」「アメフト」「トランペット」「ミミズ」みたいに、伝わりやすいものではないのだ。

それは、私が自分の行動する時間を、そういう分かりやすいものにかけてこなかったということだ。

千切りキャベツはあんなに上手にできるのに、味付けはいつもズレているのは、味付けが上手くなるために時間や行動を使って来なかったからだ。そーかー。そういうことか。「だいたいできたから、最後の仕上げしといてください。」とくまさんに頼み続けたのが徒となったわけだ。


「そういうわけで、いらっしゃらないと思いますが、人に自慢できるなにも持っていないと思われる方は私と気が合うと思うので、お友達になってください。」
自己紹介をそう言って締めくくった。

一呼吸置いて、なぜか大きな拍手が沸き起こった。






ポチッと応援お願いします