ガリレオ・ガリレイが『天文対話』を書いて地動説を世に問うていたころ、日本では徳川幕府二代将軍秀忠が世をさった。同じ1632年、円空さんは岐阜県に生まれた。
家族との縁が薄かったらしい。父についてはよくわからない。母は、円空さんが19の頃、大洪水で亡くなったという。僧侶となるが、寺にいつくことなく、旅から旅へ。仏像作りは、母への供養から始まったとも読んだ。
「円空仏」という言葉がある。
それくらい、独特な仏様を彫ったのが円空さんだ。
実物を見たのが初めてというわけではないが、裏側まで覗いて見られたのは初めてだ。丸太を彫るのではなかった。1/2とか1/4とかに丸太を分割して、表だけ仏様にするものが多かった。
一見して荒削り。
しかし、よく見ると、荒いのではなくて、手数が少ないのだ。
中にはものすごく彫り込んで、磨き上げたものもある。
思い入れの違いのようだ。
生涯で12万体彫ったとか、彫ろうと願を立てたとかいう伝説があるらしい。
1695年に亡くなるまでの間、例えば50年間毎日彫ったとして・・・1年に2400体。1日に6.57体。中には1週間も2週間もかかったろうと思える作もあるから、日によっては30体くらい彫った日があったに違いない。
これは、すごいことだ。
一刀で微笑みの目元を彫り出す。
次の一刀で引き締まった口元を彫り出す。
およそ、迷いと言うものがなかったのだろうと思われる。
旅先で、誰彼となく頼まれては、気軽に彫ってあげたようで、今でも一般家庭に普通に受け継がれているらしい。
「円空さん、円空さん。最近雨が降らなくて困る。どうかひとつ、雨降りの仏さんを彫ってもらえんかね?」
「よいとも、よいとも。そら、できた。」
「円空さん、円空さん。うちの娘は子ができん。どうか子宝地蔵を彫ってもらえんだろうか?」
「よいとも、よいとも。そら、できた。」
「円空さん、円空さん。そんならウチの旦那の浮気の虫も治まるか?」
「よいとも。それそれ、弁天様じゃ。おまえ様にちょっと似とるだろう?」
「円空さん、円空さん。それならうちの子の体が丈夫になるように、ひとつ仏様をお願いします。」
「よいとも、よいとも。薬師如来様じゃ。毎日大事に拝むのじゃぞ。」
「ありがとうございます、ありがとうございます。」
なんて会話があったかどうか知らないが、狭い展示室に、目いっぱいに展示された円空仏たちを、ごそごそと満員の観衆と共に眺めていると、そんな声が聞えて来るような気がした。
「この狭さは、なんだか円空さんらしい空気を作りだすのに効果的ですね」
「だけど、ちょっと暗すぎるね。」
丁寧に眺めていたら、あっという間に出口になり、それでも1時間も見ていたようだった。
参考
円空展はこちらのリンクをご覧ください。円空仏の写真もたくさん見られます。
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1556
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コメント
コメント一覧 (4)
亀裂が入ると残念ですが…。
会話はHikariさんの創作でしょうか。
ほのぼのとしていて、妙に安心します。
私には菩薩様を作ってほしいな〜。
それが今では、お金を生むことの大切さを
少しだけわかったような気がしています
夢とか理想とか、すばらしいのですが
生きていくだけの収入が仏像堀りで得られたのか、
それとも他に収入があったのか…
会話は私の勝手な創作です。
でも、そんな空想が浮かぶような像を彫った円空さん作といったほうが
いいのかもしれませんね。
菩薩様ですか?何か思い入れがおありなのかしら。
私は何がいいかなぁ?
展示作の中ではカラス天狗の「迦楼羅像」が気に入りましたよ。
江戸時代初期の僧侶に対する庶民の厚遇は
そのまま信仰の裏返しであったろうと思われます。
特に蓄財に熱心な僧侶は別でしょうが、
僧侶が食べるために収入を得ようとする必要はなく、
僧侶を食べさせるのは市民の力であり、
当たり前の習慣だったと学びました。
彫ったがために食べられた、ということは多々あったでしょうが、
食べるために彫ろうか、ということはそれほどなかったのではないでしょうか。
街角に佇むだけで、喜捨を受けられる時代のお話です。