ヒルクライムが2009年に出した『春夏秋冬』という歌がある。
説明するより、聞いてもった方が早いかな。
やってみたことなかったけれど、YouTubeのリンクをつけてみよう。
おや、簡単だ。
いきなり大きな音がしないように気をつけて、よかったら聞いてみてほしい。
(最初20秒くらい音がないので心配しないで!)
どうだろう。
あなたは、この映像と歌を、どんなふうに感じただろうか。
どんな感情を抱いただろうか。
または、何か、誰かを思い出しただろうか。
ある晩、不意にこの歌が耳に止まった。
聴き覚えがあったけれど、真剣に聴いたのはその時が初めてだった気がした。
驚くことに、体が勝手に泣きだした。
ぽろぽろと涙が流れて止まらない。
どうして?
ひとり、家のリビングで、テレビを見ていたのだ。
そうしたら、この曲が始まった。
SMAPとヒルクライムのコラボだった。
感動?いや、ちょっと違う。歌がうまいわけでもない。
心臓のあたりがギリギリと痛くて、ちょっと寒気がした。
どうにも涙が止まらないまま、ネットで改めてこの曲を聴き直した。
ますます、泣けてきた。
3回目だったろうか。
聴き直していた時に、不意に理解した。
この、恋人を思うハッピーなラブソングを聴きながら、私は失ったものを思い出しているのだ。正確に言うと、実際に失ったものを思い出しているのではなくて、この曲のようなことを言ってもらうような関係性や場面は、絶対に自分には与えられないという確信めいた悲しみが、私を泣かせているのだ。
これは、いったい、何?
自分で自分を理解して混乱する。
久しぶりのことだった。
その日から、この歌が頭を離れなくなった。
ひとりで帰る暗い道や、エレベーターの中で、不意に再生される。
そうして、また泣きそうになる。
私にとってこの歌は、悲しい歌の代表曲になった。
年末に熱を出して、これまでの生き方を振り返ることになった。結果ばかりを気にして、途中経過を全然大事にしない自分。プロセスに関心がない自分を見つけた。結果は思いどおりにならないのに、思い通りにしようと必死になって、でも、結果を出すための「今」は面倒で、厄介で、消したいばかりだった。
でも、結果ではなくて、プロセスのひとつひとつを大切にしたら…楽しいとか嬉しいとかいうのは結果ではなくて、今していることや、今目の前にあるものの中で探しだすものだと気付いてみたら…目の前の景色が激変したのだ。
楽しい一日というのは、眠りにつく寸前に「ああ、今日は楽しかった」と思えることではなかった。目覚めた瞬間から、楽しいを積み重ねて、積めるだけ積んで眠りにつくことだった。
そうと分かると、人生は、決断の連続なのだなと分かってきた。今この瞬間を幸せでいるには、気に食わない出来事を何百回目かの再生で思い出すか、次の週末の予定を考えるか、どちらを選ぶかは私に任されている。
今度はどこに行こうか?そんな楽しい予定が待っているなら、今これを終わらせよう。意識して生き始めると、楽しい気持ちでい続けることは、それほど難しくないのだと思えてきた。
年が改まり、仕事を再開して間もなく、暗い帰り道でまた『春夏秋冬』が鳴り始めた。ところが、この日は感じ方が180°変わっていた。この歌は、プロセスを生きること、そのものを歌っているのではないか?「ずっとあなたと一緒にいたい」という気持ちは、春夏秋冬、一緒にどこかへ行き、同じものを見て同じ風に当たって、小さな一緒を積み重ねて行くことで実現するんだね。
その一瞬を共にできる人ならば、まだまだたくさんいるはずだ。その中の幾人かは、いつか気付いたら長い親友になっているかもしれない。親友という結論が大事なのではなくて、当たり前につながっている時間の積み重ねこそが大事なんだな。
半年前はあんなに泣けた曲なのに、今は聴くたびにワクワクと楽しくなる曲だ。
不思議な歌もあったもんだと思う。
こんなこと、私だけでしょうかね?
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コメント
コメント一覧 (2)
200年以上も聴き続けられる音楽、かたや1年ともたない流行、
この違いは音楽性にあるのでしょう
歌詞に共感なさる話をお聞きします
思い出に残ればいいですね
クラシックの場合、多くが似たような歌詞のラテン語のため
共感とは違った領域になってしまいます
苦手なJ−POPの話題にコメントいただいて恐縮です。
私はクラッシックもJ−POPも、民謡もハウスも好きです。
でも、ジャンルに関わらず、まったく関心が持てない曲も多いです。
若い女性が束になって踊り歌う曲などは、一切無関心です。