
熱が出た時、うとうとしながら『火つけじじい』と話をする。
長い読者さんはご記憶かもしれない。以前高熱が下がらなかった時に見た夢の中に出てきたこのじいさまは、私の中に溜まった「もういらなくなったもの」に放火して、ボウボウ燃やしつくすのを楽しみにしている。ついでに、何がどういらないのか、語ってくれるのだ。
じいさま、今度は何ですか?あの時は高熱が1週間も下がらないほどの大火事でしたけど、今度はたき火くらいですかね。
「つまりよ、プロセスじゃな。」
じいさまは唐突に言い始めた。プロセス、という言葉が言いようのない鮮明さで響き渡る。
「は?」
「おまえ様と周囲の人々との違いは、結果を見ているかプロセスを見ているかの差じゃよ。」
「ほ?」
「後は、自分で考えるのじゃ。」
「はぁ。」
でも、考えるまでもなく、これは分かってしまった。
そうか、そういうことか。
Mさんも、Sさんも、でき過ぎくんも、お師匠様も、今目の前にあり、取り組んでいる・あるいは取り組もうとしているできごとにフォーカスしている。取り組んだ結果どうなるか…忙しくなるとか疲れるとか、成功するとかしないとか…は、背景としてぼんやり広がっているにすぎない。今することに、楽しみとか幸福とか快適とか驚きとか、そういうワクワクするものを探しながら生きているから、楽しみの連続なのだ。
だから、毎日が充実するのだ!
ところが私は、取り組んだ結果にフォーカスしている。いかに忙しさを減らすか、どれほど疲れるか、どんな形の成功をめざすか…。遠い結果にフォーカスするから、今目の前にあるものがぼんやりとする。日々の活動はルーチンと化し、簡略化・合理化を目指す対象でしかなくなる。毎日目の前に起きることは、どれもこれもやりたくない、面倒で苦痛なことになっている。食べることも、動くことも、誰かに会うことも、生きる全てが。
ところが、結果というものは思い通りになると決まっているものではない。それを思い通りにしようとコントロールを試みても、時として徒労に終わる。もともと、疲れないように努力した結果が徒労になると、これはもう、層倍の無力感となって身をさいなむことになるわけで、自らの墓穴を掘るとはこのことだ。
そうか。私の疲労感は体力の足りなさだけではない。休む時間が短いからでもない。私の生き方そのものが、私を疲れさせているんだ!
気付いたら、熱が下がっていた。
その日から、気付いたことの証明が始まった。
次回につづく。

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コメント
コメント一覧 (4)
疲れ切っていたのに、会社から電話が入り、「生徒の○○さんを採用します」なんて言われた日には元気100倍です!
「やったやった〜」とハイタッチをかわし、みんな明るくなりますわ(笑)
こういうパワーを自在に活用できたらいいのですが。
私もプロセスに目を向けるようにしようかな〜。
それを被写界深度を深く、つまり絞りを絞れば
全体に合焦しているように見える、俗にいうパンフォーカスになります
反対に絞りを開放すれば、合焦点以外をボケさせた
雰囲気のある撮影ができますが、
実はある程度以上の絞り開放を望めば機材の価格が高くなります
適度にフォーカスできて、適度に生きていけるといいですね
行き先がどこであれ、生徒の進路が決まった!という
あの瞬間はほんとうに嬉しく、気持ちが晴れやかになりますよね〜。
3年分の疲れが吹き飛ぶようなこともあったりして。
ときどき、あの気分を缶詰にして保管しておきたくなりますわ。
そして、こりゃヤバイという時に開けるんです!
なるほど、そうなのですね。
安いカメラしか持ったことがないので、
どうにもFREUDEさんがお撮りになるような写真にならず、
どうしてだろう?と思っていました。
機能の違いだったのですね。
持ち物しかり、人間しかりのようで。