冬休みで溜めたはずのゆとりや体力が、どんどん消費されていく。体力の低下は気力の低下に直結し、気力の低下は情緒不安定に直結する。
みなさんは「ナナ」をご記憶だろうか。
この、私のチームにいる恐ろしく仕事ができない彼女も対象とした、数十人規模の研修を担当していた。 年間を通して行われるもので、昨日がその最終回だった。大仕事がひとつ終わる爽快感は、いつ味わってもよいものだ。
Sさんは、ナナと同期採用の切れ者だ。
仕事のできかたもそうだが、人に当たる時の感覚がとても優れていると感じる。丁寧さと意思の表出を併せ持つ若者は最近貴重だ。
研修の一環として、ナナとSさんと、もうひとりが入って、3人で話し合いをする場面があった。フリートークだったのだが、Sさんともうひとりが専門的な話で盛り上がり、積極的に話し合っているところで、ナナは最初のうちは何かと発言していたものの、途中から石のように固まって、姿勢も視線も声も、まったく動かなくなってしまった。
私は会場全体の様子を観察しながら、ナナのことが気になって仕方がなかった。その場で展開されているマニアックな話題は、ナナも大学で専門教育を受けてきた分野のことで、門外漢ではない。しかし、見るからに、まったくついていけていないどころか、居ながらにしてエスケープしている。
Sさんも、もうひとりも、ナナのその様子に気付いているのかいないのか、まったく気遣う様子が見られない。5分、10分、15分…。そろそろ私はフリートーク終了を告げなくてはならない。 活気に満ちた会場の中で、ナナだけ時間が止まったままだ。
研修終了後、私はSさんともうひとり、それぞれに、ナナの様子に気付いたかどうかを確認した。もう一人の方は、うすうす気づいていたが、配慮すべき場面とは感じなかったそうだ。それでいいの?と私に聞かれ、はっとした様子だった。
Sさんにも、同じことを尋ねた。「気付いていました。」Sさんははっきりと答えた。
それでいいの?と尋ねると、Sさんは予想外の答えをした。「私もナナさんも同期、同格。同じ研修の受講者として対等です。私は私の研修を追求する権利があります。ほかの方に配慮するゆとりはありませんでした。」
私は何か腑に落ちず、「それでも、あなたほど周囲が見え、配慮もできる人が、20分も石のように固まっている人間を前にしてそれを放置するというのはどうかと思います。私ならこんなふうに言葉をかけたかもしれません。ナナさんだからというだけでなく、一人の人が、20分も石になっていたことが、私には悲しいのです。だから尋ねています。」
すると、Sさんは即答した。「それは、私にはできませんし、したくありません。Hikariさんはベテランで、私たちを指導できる立場だからおっしゃれるんです。私たちは対等です。ナナさんがどのようであれ、それがナナさんならそれでいいと思います。ナナさんから頼まれたら、できる範囲で応えようと思いますが、頼まれもしないことを察して手伝うのは、友達を見下すようで、やりたくないです。」
ああ、なるほど。Sさんの優れた対人感覚は察していたけれども、それを言葉にすると、こういうことだったのかと納得した。私はいつでも「困った人」を「どうにかしなければ」と思ってみていた。もちろん、それが私に任された仕事だから当然なのだが、一方でそれは、その人をありのままに受け入れるという人としての根本姿勢には反したことなのかもしれない。
Sさんは、その人がそうであるなら、困っていてもかまわない、と言っている。
人を助けることより、自分の成長を最優先して当然と言っている。
これは私にとって全く新たなものの見方だった。
そうか、場合によっては、困らせておくことが、その人を尊重することになるんだ。
感心すると同時に、ちょっと自信がなくなった。Sさんの倍は生きているのに、私は間違っていたなと思った。その人がその人であることを否定するために、毎日粉骨砕身して、イライラして、腹を立てて、疲れきって、自分の時間や体力が擦り減っていくことを許していたんだなぁ。ああ、無駄だった。
優れた若者がいるということは、希望だ。
ナナのことは、この研修に関しては、Sさんに任せることにした。最終回の昨日、ああ言ったSさんであったが、私の懸念や悲しみに、充分に応えてくれていた。やはり、優れた若者の存在は、財産であり、希望そのものだ。
その日から、私はナナのすることに動揺しなくなった。叱るのも、教えるのもやめた。危険が伴う時、お客様が損なわれる時だけスッと注意する。あとは放置した。とてもとても、楽になった。
しかし、楽になったのは私だけではない。ナナも、本当に解放されたようだ。表情が明るくなった。しかし、私が手を引いた分、ほかの人が埋め合わせるようにナナを叱るようになった。加えて、ナナは私に叱られることで、自分のすべきことに漏れなく気付くことができていたのに、何も言われなくなったので、気は楽だけど、どうしたらいいかが分からなくなったようだ。
それがナナなら、それでいいじゃないか。自分でなんとかしなさい。できるでしょう?
察して手伝っていると、相手の成長を妨げることになる。これは子育ての大原則で、これまでも再三語ってきたのに、自分でできていなかった。
そして、「困ること」「苦しむこと」を含めて、相手のありのままを認めるということは、相手の可能性を尊重することでもあると、改めて気がついた。
これで自分が楽になるのだから、いいこと尽くしだ。ナナを気遣うのをやめた分、自分や本当に今私の力を必要としている人に注目するゆとりができた。これはいい。
いいことに気付かせてもらったが、これはこれ単独の気付きとして、大事にしようと思っただけだった。
次回につづく。

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コメント
コメント一覧 (4)
先回りして助けるより、転ばせて痛みを知ったほうがいいかもしれません。
私は非常に面倒見の悪いベテランです…。
OJTを任されても、何をどうしたらいいものか手探りで進みます。
新人は転びまくり。
他のベテランの指導を盗み見て、マネするしかない…(゜゜)〜
転びまくった方が、新人さんも将来感謝してくれるかもしれません。
私なんぞ、杖をくれないと言って恨まれるんだから、やってられません。
しかし、OJTは大切ですね。
学校教育・家庭教育だけでは社会が成り立たなくなっています。
先日テレビでライオンの社長が同じことを言っていました。
危機感は、いずこも同じようで。
けど一方で、育つ可能性が高い若者よりも、
自分も含め、薹がたったオジサン・オバサンの悪影響の方を憂えるべきかもしれませぬ。
徒弟制度が中心だった頃は、ついていけないものは
切り捨てられていたように思いますし、
上司先輩と足並みを合わせられないものは潰されていました
立場が違うので、違った感想なのでしょうが
Hikariさんが随分と優しいような気がします
切り捨てられて潰された者たちが行きつく先を
想像なさったことがありますか?
その痛みや哀しみを味わうことがなければいいのにと思うことが優しさならば
確かに私は優しすぎるのかもしれません。