「どういうことですか?」私はうまく理解できず、尋ねました。
「私自身がまだよく分かっていないのよ。ええっと、例えばね、しっかりとした家庭を持って、幸せに暮らしている娘がいるとするでしょう?そこに歳をとった自分が病を得て、身動きできなくなるとするわけ。

それまで娘とはとても幸せな関係が続いていたとして、『残りの人生はあなたと一緒に暮らしたい』『もちろん、どこまでもお世話します』ってことになったとしたらね、娘のしっかりとした幸せな暮らしというのはペースが乱れるわよね。そして、娘が築き上げたテリトリーに母は踏み込むことになるでしょう?

でも、『あなたのことは信用ならないわ!』と母が本心から言うような状態だったら、娘は腹を立てたりがっかりしたりして、母と距離をうまく取ろうとするでしょう?そうしたら、母は娘の幸せなテリトリーに踏み込んだりペースを乱したりしなくて済むじゃありませんか。

認知症って、実は子供思いの…周囲の人の尊厳を守るために、自分の尊厳を犠牲にするというか…そういう病気なのかもしれないと、ふと思ったの。拒絶は一見不幸だけど、相手の独立した幸せを守っているのかもしれません。」
「ああ、そうですね。そうかもしれません。納得しました。」

私は心の底からかあさんの気付いたことに感動していました。どのような病気も怪我も、災いなんかではなくて、何かを知らせていたり、大切な役割を担っているのかもしれません。私たち現代人がそれと気付かず、体が教えてくれることに気付く前に薬や機械で症状だけ消そうとしているのかもしれません。

「かあさん、だとしたら、おばあちゃんも…。」
「ええ、そうね。そうだわ。母ももしかしたら、私をあの家から心おきなく自由になるための役割を担ってくれていたのかもしれないわ。今回もそう。最後まで分かり合えないとはっきりさせて、私に後悔させないように…」

「考えて、わざとそんな役を演じていらっしゃるわけではないと思いますけど。」
「それはそうね。でも、神様から与えられた役割を、懸命に生きている姿があれなのかもしれないわ。すべては、必要なものなのね。」 







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