仕事を辞めました。融がいなくなって、何も頑張る気になれませんでした。1ヶ月ほどたった時でした。融の携帯電話がないと聞いたことを、不意に思い出しました。あの子は最後の晩、私と観劇に行く時、ノースリーブを着てきました。上着を持っていたはずです。

もしかしたら『カピバラ食堂』に忘れてきたのかもしれないという気がしました。携帯電話も上着のポケットに入っているのではないでしょうか。弟の葬儀以来、ろくに外出もしていませんでしたが、この時は体が動きました。私はカピバラ食堂に向かいました。

残暑の街は息苦しく、どこを探してもまだ秋の匂いはありませんでした。私は営業時間が終わるころを見計らって、カピバラ食堂の暖簾をかき分けました。引き戸を開けた私を見るなり、かあさんが融の上着のことを思い出してくれました。

センスの良い子でした。麻の上着を手にした途端、私に融の体温が伝わってきました。赤ん坊のあの子を背負っていた時の重みや、耳元に聞こえる声を思い出した時、私は立っていられなくなりました。1ヶ月こぼれなかった涙がとめどなくあふれてきました。

私が初めてカピバラ食堂に来たのは、まだ「やじろべえ」という名前の時でした。付き合っていた彼とお酒を飲もうと入ってみたら、飲み屋ではなく定食屋でした。しかたなく注文したご飯の美味しいこと美味しいこと!

こんな店に引き寄せられる私たちはきっとうまくいくと思った彼とは、あの晩別れてしまったけど、それまでは何度も、ひとりで、弟を誘って、友達と、食事に行きました。お味だけでなく、お店の人たちに惚れこんでいたからです。

なんとも気持ちの良い、私の知らない世界の住人たちのようでした。だから迷わず、おやじさんに「ここで働かせてください!」と言ってしまいました。運命だと思いました。融がわざと上着を忘れて仕組んでくれた、私の運命なのだと。 







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