かあさんは、知ってか知らずか、僕を姉さんの背中が見える席に案内してくれました。いくぶん猫背にうつむいている姉さんの向かいに座っているのは、いかにも仕事ができそうな男でした。姉さんと同年代に見えますが、ふたり同時に視界に入れた時、僕は衝撃を受けました。姉さんが、ひどくみすぼらしく見えたからです。

「ひどい。」
姉さんの声がして、僕は心が凍りつきそうになりました。姉さんが誰かを責める声を初めて聞いたからです。これが「彼」なのでしょうか。姉さんはこういう男を好きになる人だったのでしょうか。なんとなく、姉さんには似合わない気がしました。

「私が体調を崩した時くらい、優しい言葉が聴けると思ってた。」
ということは、普段は優しい言葉ひとつ聞けないのでしょうか。こんなに優しい姉さんに、普段から優しくできない男など、いるのでしょうか。僕の頭の中は、苛立ちと疑問が渦をまいて、くらくらしてきました。

かあさんが「ご注文はいかがなさいますか?」と遠慮がちに問いかけます。「カピバラオムレツと有機野菜たっぷりサラダを。」「はい。」僕は、かあさんの「はい。」も、とても好きです。透き通るような笑顔が添えられた返事の気持ちよいこと。くらくらする頭に小さな落ち着きの種がまかれたようでした。

「お前といると、俺は自分がとんでもない罪人のような気がしてくるんだよ。お前はいつも正しく清らかで、か弱くて守ってやらなくてはならない。でも俺は無力で穢れていて、お前を傷つけるだけのダメなやつだって言われているようで、苦しいんだよ。」

男が言う声がしました。姉さんになんてことを言うのか!僕は席を立って行って、うつむく姉さんの代わりに怒鳴ってやろうかと思いました。姉さん、怒れ!怒っていいんだ!!僕は心の中で叫びました。しかし、姉さんはうつむいたままです。

「ひどい。」
姉さんが言い返した言葉は、それだけでした。「これまでだね。さようなら。」男はそれ以上何も言わず、帰って行きました。

僕のテーブルにカピバラオムレツと有機野菜たっぷりサラダがやってきました。僕はかあさんにそっと耳打ちすると、二つの大皿を持って、姉さんのテーブルに行きました。
「姉さん、一緒に食べない?」
 
勘のいい姉さんは、のろのろと僕を見上げると、すべてを察したのでしょう。
「融…。」
「ちゃんと食べないと、姉さんの代わりにお腹の虫が考え事をするんだ。」
「お腹の虫が代わりに考えてくれるなら、任せたい気分なんだけど…」
「だめだめ。考えるのは脳みその仕事だよ。脳みそを使わないから心や体が傷むんだ。」
「うん。そうかもしれないね。」
「何か食べたいものある?おやじさんが何でも作ってくれるよ。」
「ううん。このサラダが食べたい。それから、オムレツもちょっとだけ。」
 
姉さんのテーブルには水のグラスが2つあるだけでした。注文もせずに別れ話になったのでしょうか。その時、僕の大好きな姉さんはいなくなって、まるで親に捨てられた子猫のように頼りなさげな女性が、僕の目の前に座っているのでした。 







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