「融(とおる)、なんだか少し疲れちゃったから、帰っていいかな。」
観劇の後、弓子姉さんは浮かない顔で言いました。わざわざ人に心配をかけるようなことは言わない人が、こう言うのだから、よほど疲れているのでしょう。「送るよ。」タクシーを止めようとした僕の腕を強く引いて、姉さんは言いました。「いいの。タクシーの臭いのほうが気分悪くなりそう。あなたはご飯食べていくでしょう?」

姉さんは一人で帰りたいようでした。僕は送ると言い張ることもできず、地下鉄へ向かう階段の入口で別れました。どことなく、空中遊泳をしているような足取りで、背中からは、大好きなはずの観劇が少しも楽しくなかったのだろうと思わせる空気を漂わせています。「姉さん。」声をかけましたが、届かなかったようです。後姿が階段の奥へと消えて行きました。

ひとりになった僕は、ここから行ける、最近行っていない店はどこかと考え始めました。そうだ。『カピバラ食堂』がいい。姉さんのことは少し心配だけど、今は腹が減った。腹が減った時にあれこれ考えても、いいアイディアは浮かばないものだ。その前に本屋に寄って、連続小説の新刊を買っていくか。電子書籍もいいが、あのインクの香りはやめられない。

久しぶりの本屋を丹念に歩いて目的の本を買ったあと、『カピバラ食堂』に着きました。ここは、仲の良い夫婦が経営している定食屋で、以前は『やじろべえ』という店でしたが、突然しばらく休んだかと思ったら、『カピバラ食堂』になっていました。初めて来たときは姉さんに連れてきたもらったのだったな…。

「いらっしゃいませ。お久しぶりですね!」かあさん、と呼ばれているこの店の女将さんが迎えてくれました。いつもの席には家族連れが座っていて、さて、どこに座ろうかと店内を見まわした時です。一番奥の2人席に、入口に背を向けて座っている長い髪の女性が見えました。間違いなく弓子姉さんでした。 







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