僕が姉さんを両親以上に大切に思うようになったのには、きっかけがありました。あれは、何歳の時だったでしょうか。母から思いがけない話を聞かされたのです。僕がまだようやく歩き始めた頃のこと、母が体調を崩して入院したそうです。折り悪しく、父はどうしても行かなくてはならない出張があり、家を留守にしたと言うのです。父も母も、僕をどうすることもできず、姉さんに学校を休んで僕を見ているように言ったそうです。

でも、まじめな姉さんは、学校を休みたくなかったのでしょう。僕を背負って学校に行ったらしいのです。学校は大騒ぎ。泣きやまない僕を子育て経験豊富な保健室の先生が抱きとり、教頭先生やら校長先生やらが代わりばんこに抱いて、ミルクを飲ませてくれ、姉さんを授業に出してくれたそうなのです。

それを、父が帰るまでの2泊3日、姉さんは繰り返したと言います。
「お前は姉さんに頭が上がらなくて当然なんだよ」という母に、僕は心の底からの落胆と侮蔑の念を禁じえませんでした。小学生の子供に、どうやって3日も赤ん坊の面倒を見ろというのでしょうか。何の手だてもなく出張に行く父も父です。

弓子姉さんにその時のことを確認しました。すると、姉さんはかすかに笑って言いました。「みんなが親切にしてくれて、本当にありがたかったわ。本当は私、どうしたらいいか分からなかったの。帰ってきた父さんに事情を話したら、ずいぶん叱られたわ。先生に迷惑をかけたって。母さんには『しっかりしていると思って任せたのに、ダメね』って言われたわ。ほんと、ダメな姉さんよね。」

僕の心の中で、両親に対する温かな思いの源が崩壊したのはこの時でした。代わりに、その時の心の痛みを僕が代わって癒してあげたいと、痛烈に思いました。赤ん坊を学校に連れて行ったことをきっかけに、姉さんがひどいいじめに合うようになったのだと知ったのは、それからずっと後でしたが。

姉さんは、ケータイを両手で握ったまま、うとうとし始めていました。「彼とは…」同じ場所を何度も修正していたメールは、送信ボタンを押されないまま、画面に残っています。姉さんの頭が軽く揺れるたび、長い髪の先が、僕の肩をチクチクとかすめます。声をかけようと、からだの向きを変えた時、姉さんの長い黒髪の先に、小さな白い埃がついていることに気付きました。

唐突に、僕は、姉さんが今、少しも幸せではないことを悟ったのでした。







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