反省会を続けよう。
厳しい生育環境から、安心安全に暮らしたい一心で、「人の役に立てば大事にされるのではないか?」と思った結果、どうだったか。
ある意味、成功はしたのだと思うが、思い通りの成功ではなかったところに、ポイントがある。「あなたは役に立つ、なくてはならない人だ」と評価してもらったら、安心安全快適になったか?いえいえ。安全ではなく暗然としたわけだ。
私が役に立つことは、相手にとって「当たり前」になっていく。役に立つのが当たり前で、ちょっとでも相手の思い通りの成果を上げないと、怠けているかのように言われる。私が全力でやっても、当然と思われて、感謝のひとつもない。
どこまで完成度をあげても、この構図は変わらない。いつも限界まで頑張るのに、誰も「すごいね」とは言わないのだ。理不尽な気がして、苛立ちもする、落胆もする。原因は、感謝が足りない相手ではない。私にあったんだ!
物事を決める時、役割を引き受けるとき、自分が優先して考えていることは、「やり遂げたら相手から高い評価を受けられそうなこと」が1番。「疲れないこと(安心安全な範囲)」が2番になっている。この優先順位を意図的に変えてみよう。
そうだな、1番には「やったら楽しそうなこと」、2番に「人とつながれそうなこと(人の美点が引き立つこと)」、3番に「疲れないこと」にしてみよう。これを試してみると…
なるほど、そうか。新しい優先順位を守るということは、自分が望むやり方を諦めるということだと分かった。新幹線で行く!と決めるのが自分のやりかたなら、目的地に着くなら、交通手段は何でもいいと思うことだと気付いたのだ。

コメント
コメント一覧 (3)
そんな気がします
でも、今はとっても幸せに暮らしております
駅徒歩圏内の不動産より、バス利用の新興住宅地のほうが
必ず安く分譲されますが
10年、20年と経過してそこで生活が始まると
いつの間にか相場は近付いてきます
バス便の不便さや何かの時にタクシーを使ったり、
結局は新興住宅地のほうが、経費が掛かるのにもかかわらず、です
世の中は段々と当たり前になっていく
その時に回収できないツケは経済的にも精神的にも
諦めなければならないことを知りました
…なるほど。
では、何を「ツケ」と思うかですね。
仕事を始めた早い段階で、
みんなのためにと気遣って始めたことは、
あっという間に「あなたがやるのが当たり前」になることに
気付きました。
その一つが朝のコーヒー淹れ。
8年間続けました。
私が出張でいないから、朝のコーヒーがなかったよなんて
何甘えてんだか呆れたものでした。
でも、それってツケじゃありませんでした。
珈琲を淹れるのは楽しかったし、
いつの間にか職場の珈琲倶楽部の皆さんは
「Hikariの味」じゃないと美味しくないと。
胃袋をつかんだらしかったです。
今、なかなか、おいしいコーヒー飲める処、
ないのですよね・・
おいしいコーヒーいれてくれる人のいる職場って、
すてきですね!