そうして、「役に立たなくてはいけない」は「休んでいる場合ではない」「遊ぶ価値など私にはない」となっていく。自分に楽しむことや心地よいこと、笑顔や幼さ、わがままや自信を禁じていくことになったのだ。

このことには10数年前から気付いていて、ずいぶんと解放してきたと思う。それがここにきて、またこの問題と向き合っているということは、以前よりも深い理解に到達する準備ができたということなんだろう。それはそれで楽しみだ。

私は誰かの役に立つことで、何を手に入れようとしていたのだろうか。
それは、「君は特別だ」「私は特別な価値ある人間だ」という保証であると同時に、もっと根本に、とても幼く切ない願いがあることに気付いたのだ。

「ここで安心して暮らしていいですか?」
「私があなたの気に入らない日でもあなたは私を好きでいてくれますか?」
「私の命には価値があるって言ってください!」

安心したかったのだ。愛されたかったのだ。大事だと思われたかったのだ。
ただ、それだけだった。
そうして、それは、それほど特別なものではなかった。

だが、残念ながら、私には与えられなかった。何十年も手に入れようとしたけれど、両親からそれを受け取ることは諦めた。両親の代わりに、いろいろな人に求めていた自分にも気付いた。それはもともと無理な話だ。

この年齢になって、自分の生き方を両親のせいにしても何の意味もない。それこそ自分の生き方に無責任な子供のままになってしまう。体験は前提として、自分の力で切り拓いてこそ、命を失わずここまで生きていた意味があるというものだろう。





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