そうして、「役に立たなくてはいけない」は「休んでいる場合ではない」「遊ぶ価値など私にはない」となっていく。自分に楽しむことや心地よいこと、笑顔や幼さ、わがままや自信を禁じていくことになったのだ。
このことには10数年前から気付いていて、ずいぶんと解放してきたと思う。それがここにきて、またこの問題と向き合っているということは、以前よりも深い理解に到達する準備ができたということなんだろう。それはそれで楽しみだ。
私は誰かの役に立つことで、何を手に入れようとしていたのだろうか。
それは、「君は特別だ」「私は特別な価値ある人間だ」という保証であると同時に、もっと根本に、とても幼く切ない願いがあることに気付いたのだ。
「ここで安心して暮らしていいですか?」
「私があなたの気に入らない日でもあなたは私を好きでいてくれますか?」
「私の命には価値があるって言ってください!」
安心したかったのだ。愛されたかったのだ。大事だと思われたかったのだ。
ただ、それだけだった。
そうして、それは、それほど特別なものではなかった。
だが、残念ながら、私には与えられなかった。何十年も手に入れようとしたけれど、両親からそれを受け取ることは諦めた。両親の代わりに、いろいろな人に求めていた自分にも気付いた。それはもともと無理な話だ。
この年齢になって、自分の生き方を両親のせいにしても何の意味もない。それこそ自分の生き方に無責任な子供のままになってしまう。体験は前提として、自分の力で切り拓いてこそ、命を失わずここまで生きていた意味があるというものだろう。

コメント
コメント一覧 (3)
もしかしたら傲慢なのかも知れません
でも世間で多くのかたがた、もしかしたらほとんどの人間が
それを望んでいるとしたら、既に市民権を得た欲求です
Hikariさんが望まれても、何ら不思議はないような気がします
考え方が違うことは日常茶飯事ですが
ひっくるめた包括的な意味で、誰か一人でも必要と感じる
人がいたら存在価値があるように思います
独身で家族のいない私ですが、私を必要としていらっしゃるかたがたが
いくつかのシーンで感じ取られ、私は幸福です
同様、それ以上にHikariさんは必要とされているように思います
Hikariさんは人妻なので、女性として求めてはおりませんが
ブログでお付き合いをさせていただくようになってから、
様々なことを勉強させていただきました
これからも教えていただきたいことだらけです
人として私は、Hikariさんを必要としていることを
あえて申し添え、今夜は寝ます…ぐうすうぴい
ありがとうございます。
多分、父も、私を必要としていたのだと思います。
自分のうっ憤を自由にぶつけられる、
生殺与奪を握った人形として。
誰か一人でも必要とする人がいれば存在価値があるなら
私は常に存在価値があったのでしょう。
彼らからそういう認知をされたということは
とても残念ではありますが、
それはもういいと割り切った今、
かつてのような憎しみや恨みの気持ちはなくなって
謝れとか、償えとか言う気も失せて、
それだけでもかなり楽になりました。
どうやら、ブログを書く時間を、もっと大切にした方が
よさそうですね。
ぐうすうぴいを最優先にしている昨今…