私怒っていますと、わざわざ相手に知らせるやり方は、人に聞かれた時には否定したことはないけれど、自分では特別な時しか選ばないやり方だった。なのに、今回そんな方法を選んだ陰には、ナナの影響が大きい。

ナナは出来事の背景や関連、人の感情を読み取れないので、ことあるごとに「これはね…」と説明する。お客様の感情や事情が多いが、時に私自身についても語らなくてはならない。

自分の感情や考えについて、誰でもわかるくらい分かりやすく端的に語るには、私自身がその感情や考えを正確につかんでいる必要がある。「あなたがこうした結果、私の仕事が増えて、私はとてもつらいよ。」なぜ、つらい?

時間が足りないから?体が疲れたから?仕事が面倒だから?いつもなら曖昧に、ぼんやりと眺めて通り過ぎる「つらい」をじっくりと凝視して観察する。すると、日によってつらい理由が違うことが分かってきた。

そうこうしているうちに、私自身の中にある、苦しさを生みだす源のようなものに行き当たった。とても幼稚で身勝手なそれは、そんなものを持っていますと表に出すには恥ずかしいようなものだ。でも、それが、確かにそこにある。

それに触れられるたびに、私は様々な苦しみを生みだす。始終触れられるから、始終苦しい。そうやって自分を苦しめて、心も身体もオーバーワークになってきたのだろう。なるほど、そういう仕組みだったか。

だったら、人に触れられる前に、自分でケアできないのだろうか?と最初は思った。でも、何か違う。そうじゃない。表に出すのを恥じなければいいじゃないか。多分、これを持っているのは私だけじゃないはずだ。





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