怒りも恨みも、気持ちが通じ合わないことも、考え方がかけ離れていることも、どれも苦しいものだ。だったら、いっそ感じなければよいのに、気付くと自ら進んで苦しさを感じようとしていることがある。

執着はよくないと言われるけれど、なぜいけないかというと、こだわっている物事が思い通りにならないと、たちまち苦しみに変わるからだ。苦しみはストレスとなって、私たちの体や心をダイレクトに蝕む。

腹立たしいと感じたことを、なぜ繰り返し繰り返し思い出してはイライラし続けるのか。なぜ苦しみを握りしめて手放そうとしないのか。心を大きくして、強くして、苦しみなんか手放せる人間になるべきだ。そんな本や考え方も多い。

けれども、苦しみを握りしめ続けるのと同じくらい、そこにある苦しみを無視しようとしたり、無理して何もないふうを装うのは私たちを損なうのだと思う。また、その必要もない。なぜなら、私たちはひとりで生きているわけではないからだ。

叱られて、身にしみて覚えることがある。怒られて、ようやく気付く真実がある。恨まれて、初めて振り返れる欠点がある。そうやって、人は自分だけでは見えない自分を見たり、育てたりすることができる。誰かの苦しみが私を育てる。

できれば誰かの苦しみに寄らず育ちたいものだけれど、そういう一面は確かにある。だから、苦しみは抱える意味も価値も、きっとあるのだ。かといって、しがみつく必要もない。いずれ速やかに手放すつもりで、あるうちは大事にしてみる。

今回私を心底落胆させ、怒りを通り越して悲しい気持ちにさせた人物も、ダイレクトに気持ちをぶつけられて、さすがに背筋が伸びたらしい。その後ちらりと見かけたら、表情が引き締まっていた。ま、恐怖に戦いているだけかも知れんが。





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