人は誰でも、誰かにとっての環境である。会議の場でも、電車の中でも、家族の中でも、そこに自分以外の人がいたら、その人にとって私は環境の一部なのだ。いったい、自分はどんな環境でありたい?

なんとなく感じていたこのことが、人に伝えられるほど明確になったのは、昨年度、新人教育担当をしたからだった。着る物の色、話声のトーン、話題、しぐさ…何もかもが雰囲気を作り出す。ある人は居心地良く、ある人は逃げたくなるような。

そして、人は無意味な出来事には出会わない。自分がその体験をしているということは、その体験が自分にとって必要だったからだということだ。では、なぜ必要なのか。それがわかると、体験から受けるあらゆるものが恩恵になる。

ならば、私がナナに出会って、教育担当をしているというのも、私にとって意味のある体験だということだ。そうして、その意味を解明した時には、私が今味わっている苦痛や悲しみは、すべて恩恵になるのだろう。

それは、逆から考えてみれば、ナナにとっても私は環境の一部であり、私と出会ったことがナナにとって必要不可欠な意味を持っているのだろう。では、私はナナのどのような環境になり、どのような意味をフィードバックできるのか。

ナナと仕事を始めてわずか10日で私がまずたどり着いたのは、理想を手放すことだった。私が私の理想の状態に固執する限り、そしてそれをナナがいる場で目指す限り、理想には到達せず、ナナにはその理想を見ることすらできず、互いに常に挫折し続けることになる。

7割でいい。私がごく一般的な仲間たちと組んでやれば達成できることの7割できたら合格にしよう。ベテランたちと組んでインスパイアされた時に達成されるものを求めたりはしない。合格ラインが足の下にできた私は、これでかなり楽になったけれど、ナナにとってはまだラインがはるか頭上のようだ。






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