人は誰でも、誰かにとっての環境である。会議の場でも、電車の中でも、家族の中でも、そこに自分以外の人がいたら、その人にとって私は環境の一部なのだ。いったい、自分はどんな環境でありたい?
なんとなく感じていたこのことが、人に伝えられるほど明確になったのは、昨年度、新人教育担当をしたからだった。着る物の色、話声のトーン、話題、しぐさ…何もかもが雰囲気を作り出す。ある人は居心地良く、ある人は逃げたくなるような。
そして、人は無意味な出来事には出会わない。自分がその体験をしているということは、その体験が自分にとって必要だったからだということだ。では、なぜ必要なのか。それがわかると、体験から受けるあらゆるものが恩恵になる。
ならば、私がナナに出会って、教育担当をしているというのも、私にとって意味のある体験だということだ。そうして、その意味を解明した時には、私が今味わっている苦痛や悲しみは、すべて恩恵になるのだろう。
それは、逆から考えてみれば、ナナにとっても私は環境の一部であり、私と出会ったことがナナにとって必要不可欠な意味を持っているのだろう。では、私はナナのどのような環境になり、どのような意味をフィードバックできるのか。
ナナと仕事を始めてわずか10日で私がまずたどり着いたのは、理想を手放すことだった。私が私の理想の状態に固執する限り、そしてそれをナナがいる場で目指す限り、理想には到達せず、ナナにはその理想を見ることすらできず、互いに常に挫折し続けることになる。
7割でいい。私がごく一般的な仲間たちと組んでやれば達成できることの7割できたら合格にしよう。ベテランたちと組んでインスパイアされた時に達成されるものを求めたりはしない。合格ラインが足の下にできた私は、これでかなり楽になったけれど、ナナにとってはまだラインがはるか頭上のようだ。

コメント
コメント一覧 (4)
ごめんなさい。どうしても、かんじへんかんしません。
どうしてしまったのか??
宗教論と認識していた若い自分がいました
本を読めばやがてその地に出かける予定ができたり、
東北なんて行くことはない、と思ったのに
最も出かける遠方となったり・・・
過ぎゆく時のすべてを経験値に換えることができたら
なんとすばらしいことなのでしょう
わずかずつですが、適いつつあります^^
ナナを純粋とすると、
それに手を焼く私は不純ということになるんだろうなと
考え込んでしまいました。
確かに、自分を純粋とは言えない。
清濁併せのんで幾星霜・・・
もはや河童も棲まない泥沼状態。
漢字変換キーの下に、妖怪がいますよ、きっと
私の場合、事象を全て有意義なものととらえる見方を
経験論として手に入れました。
そうとでも思わなければ、生きていけない現実がありました。
宗教とは、そうして生まれたものだと思うので、
やはり宗教論につながるのでしょう。
適いつつある日々を、大切に楽しんでほしいなぁと
心から思います。