Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2016年09月


恋待先生は、僕の言葉を辛抱強く待っている。
ヒグマのように大きな体を包んでいる白衣の前がはだけていて、中の丸くて大きなお腹が突き出している。
中に着た薄い水色のワイシャツは、きっと超特大サイズなのだろう。

「ここで抗がん剤の治療を受ける時、先生言いましたよね、しばらく子どもは作れないけれど、予定はないかい?って。」
「ああ、聞いた。」
「僕は当然ありませんよと答えた。何てこと聞くんですか?って。」
「そうだったかな?」
「あれ、どういう意味だったんですか?」
「意味?抗がん剤が精子の数を減らしてしまうことがあるから、子どもができにくい、ということだな。
でも、それだけではなくて、抗がん剤が精子の形成に与える影響を考えて、治療中は避妊が必要、ということでもある。
それに、抗がん剤は白血球を減らすから、感染症にもかかりやすくなる。性行為中の感染を避けたくもある。
くわえて、赤血球も減らすから、すぐに疲れたり呼吸が苦しくなったりしやすい。
子どもをつくるには向かない条件がそろっているということだよ。」
「そうなんですか。…なんだか、よく分かっていないくせに、予定はないって言っちゃいまいた。まぁ、事実だったし。」

「今、それを確認したいとこうことは、そういう予定ができたということ?」
恋待先生の全身から、なんだか温かいオーラが漂ってくる。
「いや、そういうわけじゃないんだけど…。
でも、夕べ、ふと気づいたんですよ。
僕、その、性欲っていうやつ、あんまり感じないなぁって。」
「おや、そうなのかい?」
さっきの温かなオーラがすぅっと30cm引いて行った。

「いや、女の子に興味がないってことはないですけど、なんていうか、高校生の頃みたいに切実に興味があるなんて気持ちにならなくなったというか…。」
「ほぉ。」
「あんまり考えたことなかったけど、改めて考えたら、病気の治療の前後で変わったと、昨夜気付いたんですよ。」
「なるほど。」
「そしたら、先生が言っていた言葉を思い出して。」
「ああ、そういうことか。」

ギシギシと椅子をきしませながら、先生は僕の方に向けて体を前傾させる。
その途中で、脇に控えていた看護師に目くばせでもしたらしい。
そっとカーテンの向こうに白衣のスカートの裾が引き込まれていき、診察室には僕と恋待先生だけになった。
「抗がん剤治療を受けていても、性行為そのものができない体になるわけじゃないんだよ。
治療中にそういう行為に及ぶ気持ちになれないのはストレスからだ。
テストステロンという男性ホルモンは、治療では減らないからね。
それに、君のように治療を終えて時間がたっていれば、 一時的に影響を受けていたいろいろな機能があったとしても、元にもどっているよ。
まぁ、個人差はあるがね。」
「そう、なんですか…。」
「希望するなら検査しようか。」
「どうだろう…。」
「どちらかというと、メンタルの影響ではないかと思うんだけどね。」
「メンタル、ですか。」
「そう。」

僕はどんどん歯切れが悪くなる自分にちゃんと気付いていた。
「決めつけることはできないけれどね、ひどい吐き気や脱毛や、そういう副作用が出ている時に、人に気が向かなくなっても当然だと思うんだ。
でも、全員がそうなるわけでもないんだよ。
実際、治療中の患者さんの中には、逆に、病気が発覚する前よりも性欲が高まった人は少なくないしね。
君の場合がどれに当たるかは調べてみないと正確なことは言えない。
けど、あのひどく辛い時期の感覚を、知らない間にずっと持ち続けてしまっているだけ、ということも大いにありうる。」
「持ち続けて…。」
「そう。無意識のうちにね。トラウマっていうやつだよ。」
「トラウマ!」
その言葉は知っている。
「まぁ、時が治してくれるものもあるよ。気にしない、気にしない。」
「そう、でしょうか…。」

「検査の予約を取っていくかい?」
「う…いや、まだいいです。」
「焦らないことだよ。誰か、この人、という女性が現れたら、気付かないうちにこんなことを『問題』と思わなくなっているかもしれない。でも、いつでも相談においで。こうして話すことそのものが治療になるからね。」
「はい。」
「じゃ、定期検診にしようか。最初から気になっていたんだけど、この微熱は何かな?」
「実は…」
僕は恋待先生に、さよりさんとでかけた夏祭りのことをありのままに打ち明けた。
「ふふふ。君にもそういうところがあるんだねぇ。いつも澄ましているけれど。」
 
半日かかって定期検査を終え、問題なしのお墨付きをいただいた。
微熱も心配ないという。
「では、またね。」
「はい。」

診察室を出た直後に、恋待先生が看護師へ、言うともなしに言った言葉を僕は知らない。
「どこか、幼いんだよなぁ。
四捨五入すれば30になる男が、小学生じゃあるまいし、自分が気を引かれた女性のことを、あんなにスラスラ話してしまうなんてね。
それに、体のことも、きっと抗がん剤じゃないよ。
あれは、家族を持つことが怖いんじゃないかねぇ。
家族というより、父親になること…か。
彼、父親とは縁が薄かったようだから。
まぁ、そんな彼だから、僕も、なんだかほっとけなくてねぇ。」






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さよりさんに誘われて出かけた盆踊りの夜に釣り上げたヨーヨーは、そのままゆかりさんへの土産になった。
「あら、まあまあ!」
ゆかりさんは懐かしそうな目をしながらそれを受け取ると、すこしの間首をかしげて考えていたけれど、戸棚を開けて、奥の方からガラスの鉢を引き出した。
そこに水を張り、ヨーヨーを浮かべたのだ。
ゆかりさんは、ヨーヨーの横に、外からとってきた朝顔の葉を添えた。
カウンターの端にその鉢をそっと置く。
それだけで、夏祭りが店の中にやってきたような雰囲気になった。
ちょうど客の切れ間だった。

「お借りした浴衣を汗まみれにしてしまいました。」
「いいのよ。浴衣とはそういうものだから。洗っておくから、そのまま返してね。」
「すみません。」

冷たいシャワーを頭から浴びて、ほてった体が少しだけ温度を下げる。
小紫はまだ営業しているから、着替えて店に出るつもりだったのだけど、部屋に戻ったところでけだるさに耐えられなくなった。
今夜は出なくていいと、朝からゆかりさんに言われている。
僕はそのまま眠ってしまうことにした。

自分の吐息が炎のように熱く、まるでゴジラにでもなったような気がして目が覚めた。
真夜中…いや、明け方に近いのかもしれないいが…正確な時間はわからない。
耳を澄ませてみるが、何の音もしないところから察するに、店じまいした後らしい。

今度はちゃんと目を覚ました状態で、大きくため息をついてみる。
やはり、息が熱い。
熱帯夜なのだろうか。
そういえば、窓を開けるのも忘れ、部屋に戻った勢いで寝てしまった。
喉が渇いている。
水を飲みたい、階下に降りようと思うのだが、体が布団に張り付いたようになっていて起き上がれない。

またか。
僕はもう数えきれないほど、こういう経験をしている。
少し緊張しすぎたのだろうか。
緊張ではなく、興奮か。無駄な期待か。
敏感な体は正直で、それが抱えきれないほど大きかったことを僕に教えてくれている。

さよりさん、きれいだったな。
もう少し一緒にいたかったな。
一緒にいて…それで…

その時、僕は、ものすごいことに気が付いた。
なぜ、今まで気付かなかったのだろう。
衝撃で、体がガタガタと震え出した。
いや、思い過ごしだ。こういうことには個人差があるに違いない。
無理にもまた眠ってしまおうと思った。
忘れた方がいい。その方が自分を傷つけない。
しかし、僕はそれきり、眠ることができなかった。


「おはよう。あれきり降りてこないから、疲れたんだろうと思ってたわ。」
それでも、ゆかりさんが起き出す音を確認してから、部屋を出た。
微熱は続いているようだけど、それ以上に…いや、だからこそ、起きなければならなかった。
「食欲があまりないんです。でも、喉が渇いて。」
「水がいい?」
「はい、冷たいのが。」
「わかったから、座って。顔色がよくないわ。」
「少し、熱が出たようで。」
「ああ…。」
ゆかりさんも、僕のこうした様子にはかなり慣れたようだ。

「宮田先生を呼びましょうか…。」
「いや、今日は恋待先生に診てもらおうかと思ってるんです。
定期検診には少し早いけど、こんな調子だし、ちょうどいいかと。」
「そうね、それがいいわ。一緒に行ってあげるから、安心して。」
「大丈夫ですよ、ひとりで。でも、タクシーで行こうかな。」
「ええ、ええ。それがいいわ。それなら安心。」
ガラスのコップでたっぷり2杯、冷えた水を飲み、ゆかりさんと話しているうちに、僕は少しだけ落ち着きを取り戻したような気がした。

「穂高、あのね…。」
座布団を二つに折って枕にして寝転び、食事の支度をしているゆかりさんを背にテレビを見ていると、ゆかりさんが声をかけてきた。
「はい?」
「昨日、穂高の浴衣姿を見てね、久しぶりに花火大会に行きたいなぁなんて思ったりしたのだけど…。」
そういえば、もうすぐ大きな花火大会がある。
「ものすごい人ごみですものね、疲れちゃうわよね。」
「そうですね、そうかもしれない。」
花火大会にはものすごく興味をそそられるけれど、夕べの夏祭りくらいでこの有様だ。
全国規模の花火大会にでかけるなんてことをしたら、その場で倒れてしまいかねない。
とはいうものの、ゆかりさんがこんなことを言い出すのは本当に珍しくて、もしかしたら昨日からずっと、一緒に行こうと言いたくて待っていたのかもしれないと思うと、断るのも気が引けた。

「それなら、ゆかりさん。庭で、花火しませんか?」
「まぁ、そうね、それもいいわね!」
「僕、子どもの頃から線香花火が大好きなんですよ。」
「男の子にしては静かな。ねずみ花火なんかが好きなのかと思ってたわ。」
「それもいいですけどね、線香花火は小遣いで10本一束が買えるから、姉さんと半分ずつ…。」
「ああ、そうなのね。思い出があるのね。」
「病院から戻ったら、今夜にでも。」
「熱が下がったらね。夏はまだ長いから。」
「そうですね。」
「じゃ、線香花火を買ってきておくことにしましょう。花火を買うなんて、本当に久しぶり。」

ゆかりさんは、一度止めていた手を動かして、朝食作りを再開した。
リズミカルな包丁の音が響いてくる。
僕は目を閉じて深呼吸をする。
ここにいられてよかったなぁ。
こんな時、一人きりだったら、どれほど心許なかったことか。
まぶたの裏に、子どもの頃、姉さんとどちらが長く球を落とさずにいるか競って見つめた線香花火がチカチカと映る。
「はっきりさせなきゃな。」
僕は改めて自分に言い聞かせた。

電話予約もせずにでかけたが、運よく恋待先生は病院にいて、少し待ったけれど、診察を受けることができた。
「微熱があるって?」
「夕べ、はしゃぎ過ぎたらしくて。」
「思うように体力があがらないね。」
「まあ、体力づくりに励んでいるとはお世辞にも言えませんから。」
「励んでみてほしいんだけどな。」
「元々の性格でしょう。」

僕は、本題を切り出しかねた。
でも、勘のいい先生は、僕に何か言いたいことがあるのだと気付いているらしい。
「何か相談でもあって来たのかな。何だろうね。」
先生は忙しい。
急かされる前に話さなければと分かっているのだが、言いにくくもあった。
でも、これ以上、言いあぐねてもいられない。

「先生、実は、昨夜気付いたことがあって。僕は、その…。」






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