会社の仲間とはしゃいでいるさよりさんを見ていて、僕はなんだか落ち着かない。
まるで自分が無視されているような感覚に苛まれるのだ。
でも、さよりさんは店に客としてきて、客らしく楽しく飲んでいるにすぎない。
他のお客様と同じように。
来てくださってありがとうございますと思うのが、僕の仕事だ。
そんなこと、頭では十分分かっているのだけど。
「あのぉ。」
少しぼんやりしていた僕に、カウンターでひとり飲んでいた初老の紳士が声をかけてきた。
静かにゆっくりとグラスを口に運ぶ姿が洗練されている。
「は、はい。すみません、ご注文ですか?」
それに比べて、ひとつの返事に、僕はしゃべりすぎている。
「なんだかね、冷ややっこが食べたくなってきてね。」
「はい。ご用意いたします。」
「そうかい。どんなふうにできるだろうね?」
召し上がりたいものがあるだけでなく、お話がなさりたいのだろう。
この会話は、ゆかりさんに任せた方がよさそうだ。
「お好みがおありですか?」
ゆかりさんがすっと隣にやってきて、僕と何のやりとりもなく話を継いだのが、紳士を喜ばせたらしい。
「そういうことではないのだが、ほら、簡単な料理ほど、いろいろ工夫ができるものだろう?」
「そうですね…。」
ゆかりさんは人差し指をあごにあてて、少し首をかしげて見せた。
「お嫌いでなければ、ショウガと青しそに、少しミョウガを添えてお出ししてみましょうか。」
「おお、ミョウガか。それはいい。」
「ミョウガはお好みでない方も多いので、あまりお出しすることはないのですよ。」
「そうかもしれないね。
いえね、子どものころ住んでいた家の庭に、ミョウガが勝手に生えてくるんですよ。
それで、夏の間はそうめんだのなんだのと言うたびにミョウガがついてくる。
子どものころはあれが苦手でね。」
紳士は懐かしそうに眼を細めている。
「新潟の出身なんだがね。」
「そうでしたか。」
「故郷を離れて暮らす方がずっと長くなったけど、今頃になって子どもの頃の味が懐かしい時があるねぇ。」
「はい、はい。そうでございましょう。」
いつもは一度奥の調理場に入って支度をするのだが、今はお話が続いているので、僕が奥に入り、耳にした材料をそろえてカウンターに持ってきた。
「白ごまもね。」
ゆかりさんの耳打ちを聞いて僕は急いで身を翻す。
ゆかりさんは会話を途切れさせることなく、紳士ご用命の冷ややっこを仕上げた。
切り子が美しいガラスの器に盛りつけ、箸ではなく、木のスプーンを添えた。
「これはこれは。目に涼しく、舌に涼しく、だねぇ。」
あくまで細く切られた青しその上に白ゴマが散っている様子が、淡雪のようにも見える。
「うまい。これは、うまい!上等な豆腐を使っているね。」
紳士はたいそうご機嫌だ。
「ところでママさん。あなたの今夜の着物は、きっと上布だろうね。」
「まぁ、よくご存じで。その通り、ご出身の新潟でできた越後上布ですわ。」
「よく似合っているねぇ。」
「あら、お上手ですこと!」
今夜の着物は「上布(じょうふ)」というそうだ。
麻でできていて、薄く、軽いのだそうだ。
深い紺色の中に、井形の模様が白く浮き出ている。
「この布が仕上がるまでには、50工程もの手作業が必要なの。」
昨年、この着物を初めて見た日にゆかりさんが教えてくれた。
「越後上布は重要無形文化財になっているの。織るにも染めるにも、職人さんが精魂傾けてひとつひとつ手を動かして作り上げるのね。それをこうして着せていただけるのは、本当にすばらしい気持ちになるのよ。」
ベージュ…いや、今夜は練色(ねりいろ)と呼ぼう… の帯とのコントラストがいかにも涼しげな着こなしなのだ。
七夕の夜の、特別なしつらえなのだろう。
この着物を着ると、ゆかりさんはいつもの数倍、しゃんとして、きれいに見える。
「越後上布は年取った職人が糸をつむぐのは知っているでしょう?」
「はい。存じております。」
「今はそれが、できなくなってしまった。」
「まぁ!それは存じませんでした。どうしたのでしょう?」
「新潟で、大きな地震があったのは、もうずいぶん前のことに思えるが…。」
「覚えておりますよ。」
「あの地震でね、土地の職人たちが怪我をしたり、避難したり、都会の子どもたちの家に引き取られたりして、糸を紡げる職人がいなくなってしまったのだよ。」
「…!」
「今では伝統のままに作られる越後上布は、年に2反か3反か、そんなものだそうだ。」
ゆかりさんは息を飲んでいる。
「だからね、ママさんの越後上布は買ったときも高かっただろが、これからますます価値が出るでしょうよ。」
紳士はあっというまに冷ややっこを腹に収めている。
薬味のわずかな破片も残さないきれいな食べ方に、器を下げながら、僕はちょっと憧れめいた感覚を覚えた。
「君、ママさんのあの着物、いくらぐらいすると思う?」
「はぁ…。」
こういう時は、当てるより外れる方が喜ばれる。
でも、本当に、いくらなのか想像もつかない。
盛大に高値を言ってみようか。
「20万円くらいかなぁ。」
「わっはっはっはっ!」
紳士は大爆笑の体だ。
「違いましたか!」
「20万円では帯も買えないだろう。
ゼロがひとつ足りないよ。
いや、ゼロをもうひとつ足したくらいでは買えないんだと思いますよ。」
「ほ、本当ですか!」
僕は瞬きの仕方を忘れてしまった。
ゆかりさんは微笑むだけで、頷きもしなければ首を振りもしない。
「穂高くーん!」
もうすっかり出来上がったさよりさんが呼んでいる。
紳士が、行っておいでと手を振る。
世の中には、僕が想像もできない世界がまだまだたくさんあるんだなぁ。
「ねぇ、願い事書いておいたから、笹につけてきてよ。」
「はい。」
年下の癖に、相変わらず人使いが荒い。
「それからね、月末にね、会社で盆踊り大会があるんだけど、穂高くんも来ない?」
「へ?」
「来るでしょ?花火大会もあるんだ。ね?じゃ、そういうことで。」
「あ?」
「あんた、いいねぇ、姉御に誘われるなんてさぁ。」
ことに色黒の筋肉が、僕の背中をバンと叩いてガッハッハと笑った。
ゆかりさんは「何言ってんのよぉ」とご機嫌だ。
僕はまだ、背中を打たれた勢いで息が止まったままだというのに。
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