グァテマラの姉さんからコーヒーが届くたびに、いったいあの人はどんなところでどんなふうに暮らしているのだろうか、何をしているのだろうかと考える。
電話もないというし、手紙も滅多に来ない。
僕からも送らない。
だから、全然分からない。
頭の良い行動派の姉は僕の心配なんかいらないくらい、自分でやっていける人だ。
きっと日本の小さな常識やしがらみから解放されて、のびのびやっているに違いない。
ゆかりさんのように、日常を離れてやりたいことがある、というわけでもない僕には、非日常のことをしろと言われて思い浮かべられるのは姉さんくらいだった。
「連絡してみようか。」
自分のひとりごとが耳に届いてハッとする。
「いや…パスポート、まだ生きてるかな?」
電話も使えない、手紙はいつ届くか分からないなんて人へ連絡しても、返事を待っている間に1か月くらい経ってしまうかもしれない。
住所は分かっているんだから、直接行ってしまった方が確実なのではないか。
だいたい、姉さんの家なんだから、許可をとらなくても会いに行くくらいいいだろう。
思いついたら、何か偉大な発見をしたような、高揚した気分が胃の下の方から突き上げてくる。
「おお。いかにも非日常だぁ!」
動き回ることをあまり好まないで生きてきた僕にしては、これは非日常を超えて大冒険だ。
世間には、ちょっとまとまった休みがあるとすぐに海外へ飛び出していく人々がいることを、小紫に来てから知った。
僕には想像もつかない行動力だけれど、その人たちには日常を支える楽しいイベントのようだ。
僕は信じられない思いで体験談を聞くばかりだった。
店が再開したときに、「僕も…」と珍しい異国の話をする自分を想像する。
ああ、ダメダメ。
ここは僕の話をする場所じゃなかった!
いつの間にか外は真っ暗で、元さんが帰っていった夕方からずいぶん時間が経っていることにようやく気付いた。
「腹、減ったな。」
このところ、ゆかりさんの手の込んだ美味い料理しか食べていない。
自分のためだけに厨房に立つのは、やっぱりなんだか億劫だ。
「コンビニ、久しぶりだな。」
ついでに貯金を確認するか。
さらについでに、旅行会社の窓口がどこにあるか確認しておいて、明日一番で行ってみよう。
ようやく自分がしたいことが見つかって、自責の念から解放された僕は、着替えもせぬまま外に出た。
22時。
今の僕にとっては昼間と変わらない。
コンビニで稲荷寿司とビールを買ってきた。
それをつまみながらインターネットで調べてみる。
甘じょっぱい稲荷がなんだかたまらなく美味い。
350mlのハイネケンがグイグイと減っていく。
なんと、グァテマラは物価が安い。
宿泊費もいらないと思えば、一日1000円もあれば足りそうだ。
旅行費用の大半は航空機代。
空港から姉さんの住まいまではどのくらいかかるのだろう。
飛行機は…一番安くて…往復40万くらいか。
いや、120万くらいのほうが多いな。
そういえば、母さんの生命保険料を使わせてほしいと姉さんが言ったときも200万とかだった。
なるほど。
大した使い道もなくコツコツ貯めていたし、それこそ母さんの保険も使ってよければ苦になる金額ではなさそうだった。
20時間も飛行機に乗るんだなぁ。
どんな気温だろ。服はどのくらい持って行こうか。
いっそ、向こうで手に入れるつもりで、下着だけでいいか…。
最近はあまり出番がなくなった、グレゴリーのリュックひとつで行けたなら、なんだかカッコイイかも。
考えていたらすっかり面白くなってしまった。
今までどうしてこんなに面白いことを面倒に思っていたのだろう。
とにかく、自分の手だけではどうにもならないのは明らかだった。
駅前に旅行会社があるのはさっき確かめた。
10時になったら行ってみよう。
今夜は早く寝ることにしようと、風呂に向かった。
ゆかりさんがいる時と違って、風呂も自分で用意しなくてはならない。
ひとり暮らしの時には当たり前だったことが、今ではすっかり頼りきりになっている。
目を閉じて、シャワーを顔の正面からザバザバと浴びたときだ。
不意に、すっかり忘れていたことを思い出した。
あれは、僕がまだ小学校に上がる前ではなかっただろうか。
そうだ、病院で見た出来事だった。
幼いころから体が弱かった僕は、始終熱を出しては母さんに抱かれて病院に行っていた。
その時もきっと、熱を出したのだろう。
僕は病院の待合室にいた。
母さんがそばにいなかったのは、医者と話していたのか、トイレにでも立っていたのか。
とにかく、僕はひとりだった。
ひとつ向こうの長椅子に、僕と同じくらいの歳の男の子がパジャマ姿のまま、母親の隣に座っていた。
ひどく泣いている。
大きな泣き声で、僕もびっくりして見つめていた。
母親が静かにしなさいとヒステリックな声をあげて注意する。
男の子はますます大声を上げる。
僕の母さんは、あんなふうに恐ろしい声で真っ赤な顔をして怒ることはない。
だから、僕はその女の人が怖かった。
目が離せなくなった。
女の人が不意に荒々しく立ち上がった。
膝に乗っていたバッグが床に落ちて散らばった。
女の人はバッグには目もくれず、掌を一閃させた。
バシッ!
掌はものすごい速さで、男の子の頭を横から叩いていた。
男の子は長椅子に倒れそうになり、それでも堪えて泣いている。
バシッ!
もう一発。
僕は恐ろしくて声も出ない。
男の子が今にも死んでしまうのではないかという声で泣き叫んだ。
すると、女の人は泣き声に負けないほど悲痛に絶叫した。
「だから、あんたなんか産みたくなかったのよ。あんたなんかいらなかったのよ!」
そうして、床に落ちたバッグをガサガサと拾い集めると、泣いている男の子を残して、待合室を出て行ってしまったのだ!
後はよく分からない。
白衣を着た人がやってきて、男の子を抱いていたような気もするし、女の人を追いかけていったような気もする。
すっかり混乱し、恐ろしくなった僕まで泣き出していたけれど、母さんが戻ってきていて、僕を抱きしめてくれた。
僕は母さんにすがりついた。
あの時の母さんの大きさや温かさ、玉子焼きみたいな匂いも思い出した。
僕は思ったんだ。
あの男の子がお母さんの言うことを聞かずに泣いたりするから叩かれたんだ。
わがままを言って困らせると、おかあさんに捨てられてしまうんだ。
僕の母さんも、そうなんだろうか。
どうして今、あの出来事を思い出したのか分からない。
あの時の僕は、自分が見たものや感じたことを母さんに説明するには幼すぎた。
さらに、僕の前であの男の子の身に起きた出来事と、自分のこととを区別する力もなかったようだ。
僕はすっかり怖気づいたのだ。
母さんの言うことを聞いて、おとなしく、いい子でいなければいけないと思い込んだ。
僕はなかなか丈夫になれなかったから、何もしなくても迷惑をかけているのだから、なおさらおとなしいいい子でいなければ。
損な思い込みが、僕の様々な選択の基盤に、ひたひたと流れ続けていたのだ!
僕の行動原則は、母さんに見捨てられて一人ぼっちになる恐怖を避けることが最優先だったのだ!
まだ大したことはないけれど、ちょっと人生経験を積んでみたら分かることだった。
あれは人の身の上に起きたことで、僕と僕の母さんのことではなかった。
母さんは、僕があんなに気遣わなくたって、大丈夫だったと思う。
それとも…?
それより、僕のこれって、世間で言う「マザコン」ってやつじゃないか!
シャワーを切り上げて、そわそわしたまま部屋に戻った。
おかしなことを思い出したものだ。
おかげで、自分のことがまた一段理解できた気がするけど。
母さんはもうこの世にいない。
僕は、母さんに捨てられないように気を付けながら、家の中から出ないで囚人のように過ごす必要なんか最初からなかったし、今はさらに自由なんだ。
何かが光っている。
ケータイに着信があったらしい。
確かめると、公衆着信とある。
このケータイに電話が来ることなどめったにないから、これは事件だ!なんて思う。
そうか、ゆかりさんが家のことを気にしてかけてくれたに違いない。
丁度その時、掌の中のケータイがブルブルと震えた。
びっくりして、取り落としそうになる。
慌てて液晶に表示された文字を見ると、また公衆着信だ。
なんだか、おっかなびっくり出てみる。
「はい。」
「あ、サトル?あたし!」
「は?」
僕をサトルと本名で呼ぶ人と最近あまり会っていない。
まして女性なんて?
「は?じゃないわよ。あたし。葉月よ。」
「えーっ、姉さん??」
「もう寝てた?」
「いや、起きてたけど…。え?何?グァテマラから電話してんの?」
「違うわよ。さっきね、帰ってきたの。」
「帰って?さっき!?」
「そう。一応連絡しとこうと思って。明日、時間ある?」
「時間はあるけど、何、どうしたの?何かあったの?」
「そういうこと、全部説明するから。今夜は疲れたからもう寝るわ。」
「どこにいるの?」
「成田。今夜はホテル。」
「はぁ。」
「会わせたい人もいるし。」
「なんだよ、それ。まさか男じゃないだろうな?」
こういう時の決まり文句だよね、このツッコミは。
「うん、男の人。じゃ、明日また電話するわ。おやすみー!」
なんでこのタイミングで帰って来るんだ?
一方的に切れたケータイを握ったまま、一世一代の冒険旅行が泡と消えたことを噛みしめた。
自分の部屋にいながらでもジェットコースターに乗った気分は味わえるんだなと、冷静に考えている自分に、僕は満足した。
でも、次の瞬間。
「なにーっ!男だとぉぉ!」
なんだよ、これ。
僕、妬いてんの??!
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