Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2016年05月


グァテマラの姉さんからコーヒーが届くたびに、いったいあの人はどんなところでどんなふうに暮らしているのだろうか、何をしているのだろうかと考える。
電話もないというし、手紙も滅多に来ない。
僕からも送らない。
だから、全然分からない。

頭の良い行動派の姉は僕の心配なんかいらないくらい、自分でやっていける人だ。
きっと日本の小さな常識やしがらみから解放されて、のびのびやっているに違いない。

ゆかりさんのように、日常を離れてやりたいことがある、というわけでもない僕には、非日常のことをしろと言われて思い浮かべられるのは姉さんくらいだった。
「連絡してみようか。」
自分のひとりごとが耳に届いてハッとする。
「いや…パスポート、まだ生きてるかな?」

電話も使えない、手紙はいつ届くか分からないなんて人へ連絡しても、返事を待っている間に1か月くらい経ってしまうかもしれない。
住所は分かっているんだから、直接行ってしまった方が確実なのではないか。
だいたい、姉さんの家なんだから、許可をとらなくても会いに行くくらいいいだろう。

思いついたら、何か偉大な発見をしたような、高揚した気分が胃の下の方から突き上げてくる。
「おお。いかにも非日常だぁ!」

動き回ることをあまり好まないで生きてきた僕にしては、これは非日常を超えて大冒険だ。
世間には、ちょっとまとまった休みがあるとすぐに海外へ飛び出していく人々がいることを、小紫に来てから知った。
僕には想像もつかない行動力だけれど、その人たちには日常を支える楽しいイベントのようだ。
僕は信じられない思いで体験談を聞くばかりだった。
店が再開したときに、「僕も…」と珍しい異国の話をする自分を想像する。
ああ、ダメダメ。
ここは僕の話をする場所じゃなかった!

いつの間にか外は真っ暗で、元さんが帰っていった夕方からずいぶん時間が経っていることにようやく気付いた。
「腹、減ったな。」
このところ、ゆかりさんの手の込んだ美味い料理しか食べていない。
自分のためだけに厨房に立つのは、やっぱりなんだか億劫だ。
「コンビニ、久しぶりだな。」
ついでに貯金を確認するか。
さらについでに、旅行会社の窓口がどこにあるか確認しておいて、明日一番で行ってみよう。
ようやく自分がしたいことが見つかって、自責の念から解放された僕は、着替えもせぬまま外に出た。
22時。
今の僕にとっては昼間と変わらない。


コンビニで稲荷寿司とビールを買ってきた。
それをつまみながらインターネットで調べてみる。
甘じょっぱい稲荷がなんだかたまらなく美味い。
350mlのハイネケンがグイグイと減っていく。

なんと、グァテマラは物価が安い。
宿泊費もいらないと思えば、一日1000円もあれば足りそうだ。
旅行費用の大半は航空機代。
空港から姉さんの住まいまではどのくらいかかるのだろう。
飛行機は…一番安くて…往復40万くらいか。
いや、120万くらいのほうが多いな。
そういえば、母さんの生命保険料を使わせてほしいと姉さんが言ったときも200万とかだった。
なるほど。
大した使い道もなくコツコツ貯めていたし、それこそ母さんの保険も使ってよければ苦になる金額ではなさそうだった。

20時間も飛行機に乗るんだなぁ。
どんな気温だろ。服はどのくらい持って行こうか。
いっそ、向こうで手に入れるつもりで、下着だけでいいか…。
最近はあまり出番がなくなった、グレゴリーのリュックひとつで行けたなら、なんだかカッコイイかも。
考えていたらすっかり面白くなってしまった。
今までどうしてこんなに面白いことを面倒に思っていたのだろう。

とにかく、自分の手だけではどうにもならないのは明らかだった。
駅前に旅行会社があるのはさっき確かめた。
10時になったら行ってみよう。
今夜は早く寝ることにしようと、風呂に向かった。
ゆかりさんがいる時と違って、風呂も自分で用意しなくてはならない。
ひとり暮らしの時には当たり前だったことが、今ではすっかり頼りきりになっている。

目を閉じて、シャワーを顔の正面からザバザバと浴びたときだ。
不意に、すっかり忘れていたことを思い出した。
あれは、僕がまだ小学校に上がる前ではなかっただろうか。
そうだ、病院で見た出来事だった。

幼いころから体が弱かった僕は、始終熱を出しては母さんに抱かれて病院に行っていた。
その時もきっと、熱を出したのだろう。
僕は病院の待合室にいた。
母さんがそばにいなかったのは、医者と話していたのか、トイレにでも立っていたのか。
とにかく、僕はひとりだった。

ひとつ向こうの長椅子に、僕と同じくらいの歳の男の子がパジャマ姿のまま、母親の隣に座っていた。
ひどく泣いている。
大きな泣き声で、僕もびっくりして見つめていた。
母親が静かにしなさいとヒステリックな声をあげて注意する。
男の子はますます大声を上げる。

僕の母さんは、あんなふうに恐ろしい声で真っ赤な顔をして怒ることはない。
だから、僕はその女の人が怖かった。
目が離せなくなった。
女の人が不意に荒々しく立ち上がった。
膝に乗っていたバッグが床に落ちて散らばった。
女の人はバッグには目もくれず、掌を一閃させた。
バシッ!
掌はものすごい速さで、男の子の頭を横から叩いていた。
男の子は長椅子に倒れそうになり、それでも堪えて泣いている。
バシッ!
もう一発。
僕は恐ろしくて声も出ない。
男の子が今にも死んでしまうのではないかという声で泣き叫んだ。
すると、女の人は泣き声に負けないほど悲痛に絶叫した。
「だから、あんたなんか産みたくなかったのよ。あんたなんかいらなかったのよ!」
そうして、床に落ちたバッグをガサガサと拾い集めると、泣いている男の子を残して、待合室を出て行ってしまったのだ!

後はよく分からない。
白衣を着た人がやってきて、男の子を抱いていたような気もするし、女の人を追いかけていったような気もする。
すっかり混乱し、恐ろしくなった僕まで泣き出していたけれど、母さんが戻ってきていて、僕を抱きしめてくれた。
僕は母さんにすがりついた。
あの時の母さんの大きさや温かさ、玉子焼きみたいな匂いも思い出した。
僕は思ったんだ。
あの男の子がお母さんの言うことを聞かずに泣いたりするから叩かれたんだ。
わがままを言って困らせると、おかあさんに捨てられてしまうんだ。
僕の母さんも、そうなんだろうか。


どうして今、あの出来事を思い出したのか分からない。
あの時の僕は、自分が見たものや感じたことを母さんに説明するには幼すぎた。
さらに、僕の前であの男の子の身に起きた出来事と、自分のこととを区別する力もなかったようだ。
僕はすっかり怖気づいたのだ。
母さんの言うことを聞いて、おとなしく、いい子でいなければいけないと思い込んだ。
僕はなかなか丈夫になれなかったから、何もしなくても迷惑をかけているのだから、なおさらおとなしいいい子でいなければ。
損な思い込みが、僕の様々な選択の基盤に、ひたひたと流れ続けていたのだ!
僕の行動原則は、母さんに見捨てられて一人ぼっちになる恐怖を避けることが最優先だったのだ!

まだ大したことはないけれど、ちょっと人生経験を積んでみたら分かることだった。
あれは人の身の上に起きたことで、僕と僕の母さんのことではなかった。
母さんは、僕があんなに気遣わなくたって、大丈夫だったと思う。
それとも…?
それより、僕のこれって、世間で言う「マザコン」ってやつじゃないか!

シャワーを切り上げて、そわそわしたまま部屋に戻った。
おかしなことを思い出したものだ。
おかげで、自分のことがまた一段理解できた気がするけど。
母さんはもうこの世にいない。
僕は、母さんに捨てられないように気を付けながら、家の中から出ないで囚人のように過ごす必要なんか最初からなかったし、今はさらに自由なんだ。

何かが光っている。
ケータイに着信があったらしい。
確かめると、公衆着信とある。
このケータイに電話が来ることなどめったにないから、これは事件だ!なんて思う。
そうか、ゆかりさんが家のことを気にしてかけてくれたに違いない。

丁度その時、掌の中のケータイがブルブルと震えた。
びっくりして、取り落としそうになる。
慌てて液晶に表示された文字を見ると、また公衆着信だ。
なんだか、おっかなびっくり出てみる。

「はい。」
「あ、サトル?あたし!」
「は?」

僕をサトルと本名で呼ぶ人と最近あまり会っていない。
まして女性なんて?

「は?じゃないわよ。あたし。葉月よ。」
「えーっ、姉さん??」
「もう寝てた?」
「いや、起きてたけど…。え?何?グァテマラから電話してんの?」
「違うわよ。さっきね、帰ってきたの。」
「帰って?さっき!?」
「そう。一応連絡しとこうと思って。明日、時間ある?」
「時間はあるけど、何、どうしたの?何かあったの?」
「そういうこと、全部説明するから。今夜は疲れたからもう寝るわ。」
「どこにいるの?」
「成田。今夜はホテル。」
「はぁ。」
「会わせたい人もいるし。」
「なんだよ、それ。まさか男じゃないだろうな?」
こういう時の決まり文句だよね、このツッコミは。
「うん、男の人。じゃ、明日また電話するわ。おやすみー!」

なんでこのタイミングで帰って来るんだ?
一方的に切れたケータイを握ったまま、一世一代の冒険旅行が泡と消えたことを噛みしめた。
自分の部屋にいながらでもジェットコースターに乗った気分は味わえるんだなと、冷静に考えている自分に、僕は満足した。

でも、次の瞬間。

「なにーっ!男だとぉぉ!」
なんだよ、これ。
僕、妬いてんの??!






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尼寺に行くわねと、ゆかりさんは宣言して、いそいそと出かけてしまった。
店に残った僕は、急転直下の展開について行けず、ぼけっとするばかりだ。
車が飛び込んできて店をぶっ壊すなんて想像もしていなかったし、店がぶっ壊れたからといって、ゆかりさんが以前からの念願を叶えるチャンスだと言い出すなんて思いもしなかったのだから、心の準備ができていなくてもしかたがないじゃないか。

自由な人だなぁ、ゆかりさんは。

半ばあきれる思いでいたが、前の仕事を終わらせて日が落ちる頃にやってきた元さんの話を聞いて、ちょっとだけ納得した。
店の改修は、もう何年も前からの懸案だったと言うのだ。

元さんはすでに、改修案の設計図を持っていた。
費用のことも計画済みらしい。
改修計画が止まっていたのは、なんと僕を雇ったからだとも聞かされ、眼を丸くした。
仕事を始めてすぐに休業ではかわいそうと思ってくれたということだろうか。
一緒に働いてみれば、僕は病弱で世間知らずで、きっと放り出せなかったんだろう。
心底優しい人だからな。

僕は落ち込みかけた。
なんて迷惑をかけちゃったんだろう。
本当はもっと早く、綺麗な店にしたかったのだろうに。
僕のために犠牲を払わせてしまった…と思ったからだ。

「それはちょっと違うんじゃないかな?」
元さんは僕の気持ちを察したように、顔を覗き込みながら言った。
「そうでしょうか。なんだか負担をかけたなぁって気がします。
もっと自立した男を雇っていれば、計画通りに進められたんじゃないですか?」
「計画通りに進んでいたらどうなっていたと思う?」
「は?」
「直して1年もたたずに車が飛び込んできて、再修理ってわけだ。」
「あ…。」
「君が出会ったいろんな客たちとの出会いもなかった。」
「それは…。」
「あの人はそういう大事なものを当たり前に大事にできる人なんだよ。」
「はい。」
「すまないとか、迷惑をかけたとか思うのは、かえってあの人に失礼なんじゃないかねぇ。」
「……。」
「改修中は念願だった寺での暮らしを体験したいというのも、前から言っていたことなんだよ。」
「そうなんですか?」
「ああ。憧れていた尼さんがいるんだそうだ。」
「憧れ、ですか?」
「奔放に生きて、それを小説にしたり講演したりしているんだとか言っていたかな。」
「小説?それって…。」
「俺は関心ないから知らんがね。有名人なのか?」
「もしも僕が思うのと同じ人なら、かなりの有名人です。」
「そうか。いかにもあの人らしいなぁ。何歳になっても夢を捨てないってのはなかなかできることじゃないよ。」
「そうですね。」
「ところで、ここは無人になるから管理を頼むとも言われているが、君はどうするんだ?」
「ああ、そのことですけど…。」

そうなのだ。
僕はゆかりさんに約束させられた。
1か月ほど、ゆかりさんが尼寺へ行っている間、僕にも何か、非日常のことをしろというのだ。
学校と本と、ときどき病院、そこそこのアルバイトだけで暮らしてきたような僕には、この小紫での毎日そのものが非日常だった。
だから、改めて非日常のことをしろと言われても、何も浮かんでこない。
「本当はやりたかったけど、できていないことにチャレンジよ。」

やりたいことが決まっている人は簡単にそんなことを言うけれど、僕にはそんな雲をつかむようなことを考えさせられるのが苦痛だ。
「ママに『穂高がぐずぐずしていたら家から追い出して』って頼まれているからなぁ。
今夜くらいは大目に見てやるけど、明日はでかけろよ。
カギはもう預かっているからさ。」

元さんは壊れたところを一通りチェックすると、ひと月後に会おうと言って帰って行ってしまった。

おいおい、どうするんだよ、僕。
やりたかったけど、できていないことってなんだ?

僕は部屋に戻り、布団に寝転んで思いを巡らせてみた。
子どものころを思い出してみる。
母さんがいて、姉さんがいて、あの懐かしい小さな部屋が浮かんでくる。

どこかへ行きたいと思ったことも、誰かに会いたいと思ったこともない小さな自分がそこにいた。
大人になったら何になりたいと思ったのだっけ?
思い出せない。
同級生たちのように、野球選手だの弁護士だのと考えたことはなかった。

病気をしたときに、医者になりたいと思ったことがちょっとだけあったっけ。
でも、たちまちそんな気持ちは消えた。
自分には数学や理科の才能がなさすぎた。

母さんに楽させたいと思ったことはある。
どうやったら楽をさせられるのか、思いつく前に母さんは死んでしまったけど。

「うーん。」
声に出して唸ってみた。
思いつかない。

そのまましばらくウトウトと眠ったらしい。
不意に目が覚めて、と同時に浮かんだことがあった。
「そうだ。グァテマラの姉さんに会いに行ってみようか。」

ふううと大きなため息が出た。
僕の胸から外に出ようとしていた思いはこれだったらしい。
「パスポート、切れてないかな?」
僕は机の引き出しをガサゴソと探し始めた。




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店に車が飛び込んでくるなど、誰が考えるだろう。
僕とゆかりさんはただひたすら驚いているだけだったが、誰かが通報したらしく、じきに警察や救急車が来て、あたりは大騒ぎになった。
救急車はなぜか消防車と一緒に来たから、小紫は火事を出したと勘違いしたご近所さんが避難する騒ぎもあったのだと後になって耳にした。

事故を起こした車を運転していた人は骨折など重傷を負ったが命に別状なかった。
奇跡に思える。
それほどに、小紫は壊れてしまった。
眠れない夜が明けて、僕とゆかりさんは恐る恐る外に出てみた。

突っ込んできた車は実況見分を朝からするとのことで、まだそのままになっている。
ドアがはずれ、窓ガラスが割れ落ちたことはわかっていたが、大事にしてきた看板がタイヤの下で粉々になっているのを見て、ゆかりさんは涙ぐんでいる。

「…でも、穂高に怪我がなくて本当によかったわ」
「ああ、そういえば…」
僕は、沖縄帰りのお客様にいただいたシーサーのことを思い出していた。
「あのシーサーが僕の身代わりになってくれたのかもしれないなぁなんて思うんです」
「ええ、きっとそうね。本当によかった。だって、ほんの1分、いえ30秒長く外にいたら、あなたがあの看板みたいになっていたに違いないのよ!」

僕は、事故の直後は驚きのあまりに腰を抜かして震えていたが、次第に驚きが冷めて、落ち着きを取り戻した。
ゆかりさんは逆だった。
僕が無事だとわかると、だんだん落ち着きをなくし、事故の様子がはっきりするにつれ、いつもの穏やかさをすっかり忘れて取り乱している。
こんなゆかりさんは見たことがなかったから、内心目を見張る思いだった。

ゆかりさんを一番不安にさせたのが、店のことではなく、僕の「無事」だった。
だってあと一歩遅かったら…と、何十回言われただろう。
僕が怪我を負うことが、それほどまでに大きな痛手になるのかと、改めてゆかりさんの思いやり深さに打たれた。
大事にしてきた店がこんなことになってしまったのに、そのことは一言も言わないのだ。

「おい、大丈夫か!」
聞きなれた声は元さんだ。
「すまなかったなぁ、何も知らなくて。
今仕事に行こうとして外に出たら、近所の人がここに車が突っ込んだと話していてなぁ。
飛んで来てみたら、なんてこった、こりゃ!」
「私たちはご覧のとおり大丈夫。
朝からごめんなさいね、心配かけて」
ゆかりさんがちょっとだけ「ママ」の顔に戻った。

それからの数日は大変だった。
実況見分とやらが終わるのには思いのほか時間がかかった。
それに、僕は人生で初めて事情聴取というのを受けた。
一番近い目撃者なので、警察署まで御足労願えませんかという。
それって犯人が聞かれるものじゃないんですかと尋ねたら、制服の警察官は、いえ関係者の皆さんからお話を伺っていますと、刑事ドラマみたいなことを本当に言った。

根掘り葉掘り聞かれるものだ。
僕がゆかりさんの息子ではないとわかると、ではなぜここに住んでいるのか、どういった経緯で働き始めたのかなどと聞いてくる。
そんなの、知らない車が店に飛び込んできたことと関係ないじゃないかと言いたくもなるが、相手が警察官だと思うと、なぜが言えなかった。
別に僕には疚しいことなど何一つないのに!

様々なことについて、それは何時ですか?確かですか?と何回聞かれただろう。
聞かれているうちに、自分の記憶に自信がなくなっていく。
そもそも、分刻みで時計を見ながら動いているわけではないのだ。
しかも、一番近い目撃者と言われても、扉を閉めたら車が突っ込んできたに過ぎない。
他に見聞きしたことは何もないのだ!!

どちらかというと気が長い方だと思って生きてきたが、そうでもないかもしれないと思うほど、この事情聴取には時間がかかった。
くわえて、僕を苛立たせたことがもう一つある。
「調書を取りますので、いいですね?」と言われてどうぞと答えると、警察官は僕の言い分をいちいちパソコンに入力し始めたのだ。
それが、遅いのなんの!
しかも、これで終わりです、こちらが調書です、内容を読んで間違いがなければ…と言うので読んだら、内容に間違いはなかったけれど、漢字は変換ミスだらけではないか!

少し迷ったけれど、僕が認めたサインが残ると思うと嫌だったので、ここのこの字が違いますと指摘し続け、まるで国語の先生が漢字テストを採点しているみたいなことになってしまった。
さっきまで、どちらかと言えば居丈高だった警察官が、不愉快そうに唇を引き結んで漢字を直している姿に、彼も人間なんだなぁなどとおかしなことを考えているうちに、イライラが消えていたから、まぁ、よかった。


事故車が片づけられ、店の入り口と窓にはとりあえずブルーシートが張られた。
僕が警察に出向いている間に、ゆかりさんはご近所の方の手伝いもあったとかで、飛び散ったガラスや使えなくなった看板をすっかり片づけていた。

事故の3日後になって、ようやく2人とも心の波が引き潮になったらしかった。
「あのー、ゆかりさん」
「なに?」
「朝からすいません、僕、久しぶりに本気で腹が減りました」
「あら、穂高も?実は私もなのよ!」

食事を抜いていたわけではないのだけど、食べている気がしていなかったことにやっと気が付いた。
あれから店はずっと閉めたままだから、夜は早く寝るし、朝はいつも通りだしで、健康的な暮らしのはずなのに、心が体に向いていなかったのだろう。

さあできたわよと呼ばれてテーブルにつくと、その日の朝飯は料亭にでも来たかのような豪華さだった。
「体に失礼なことをしちゃったみたいだから、ちゃんと美味しいものをいただいて、労わらないとね」
ゆかりさん独特の発想だなと、心地よく聞きながら、いただきますと手を合わせた。

こうして笑い合いながらのんびり食べるのはいつものことなのに、特に美味しく感じる。
「このだし巻玉子、絶品ですねぇ!」
などと言いながら、丁度良く腹が満たされたところで、ゆかりさんが言い出した。

「あのね、お店をちょっとまとめて改装しようかと思うのよ」
「え?」
「壊れたところを修理するだけじゃなくて、ちょっとね」
ゆかりさんがいたずらっぽく微笑む。
「そんなこと、していいんですか?」
「していいって?」
「よくわからないけど、事故で壊れたんだから、保険がきくっていうか、賠償金はもらえると思うけど、それって元に戻すための費用ですよね?でも、それ以上の費用は出ないんじゃないですか?」
「それはそうかもしれないし、違うかもしれない」
「違うかも?」
「だって、あの運転手さんが保険に入っていたかどうかもまだわからないわけでしょ?逆に考えれば、こうして営業ができなくなっている間の補償を求めることもできるかもしれないってことよね?」
「まぁ、確かに…」
「分からないことの答えが出るのをただ待っているのも、時間の無駄のような気がするの。
だったら、好きにしましょうって思ったのね」
「はあ」
僕にはゆかりさんが大胆過ぎるように思える。

僕の気持ちが顔に出ていたのだろうか。
ゆかりさんは化粧っ気のない顔を僕に近づけて、ねえ穂高、と呼びかけた。
「はい」
「穂高は、幸せでいたい?」
「そりゃそうですよ。違う人なんていませんよ」
「本当に、そう思ってる?」
「思ってますよ、当然」
「じゃ、どうしたら幸せでいられると思う?」
「え?」
いきなりそんな哲学的なことを聞かれても答えられない。
どうしたら幸せでいられるかなんて、人類普遍の問題ではないか。

「何かを手に入れる?何かを成し遂げる?もしもそれが条件なら、赤ちゃんや子どもたち、お年寄りはみんな不幸でいるしかないってことになっちゃうわね?」
「うん、確かにそうだなぁ」
「最低限の幸せって言ったらいいかしら。
何かものすごいことをしなくても、ただ生きているだけで幸せという状態の裏にあるものは何かと考えてみたことある?」
「いや、ありません…」
「間違っているかもしれないけれどね、私は今日まで生きてきて、いろいろな方に出会って、思うことがあるのよ。
それはね、幸せでいたければ、幸せな考え方をしたほうがいいってこと」
「幸せな考え方?」
「ええ。
悲しい時や苦しい時に、無理矢理前向きの考えを持てということではないから、誤解しないでね。
感じることと、考えることは違う。
穂高にはその2つを区別できる?」
「できる…気がします。」

「それなら、私が言いたいのは、感じることではなくて、考えることの方なの。
感じることは、何をどうしたって、勝手に感じてしまうから、誤魔化さずにそのまま受け止めたほうがいいと思うわ。
辛い、苦しい、寂しい、恥ずかしい、怖い、悲しい、不安だ、そういうものも、うれしい、たのしい、安心だ、みたいなものも全部ね。
でも、考えるって、自分で選べるような気がするのよね」
「例えば?」
「例えば、昔の嫌なことを何度も思い出しては人を責めてしまうとか、自分を責めてしまうとか。
人の欠点ばかりが目について、非難してばかりいるとか。
出来事を全部人のせいにして、愚痴や悪口ばかり言い続けるとか。
そういうことを頭の中でやっている時って、幸せかしら?」
「いやー、幸せなはずないですよ!
だって、そんなときって、自分はいつも被害者だーってベースがあるじゃないですか。
幸せな被害者なんて、いないんじゃないかなぁ」

「でしょう?私もそう思うのよ。
だとしたら、口や表情に出さなくても、頭の中で愚痴や悪口や非難や、そんな不幸なことを考え続けながら幸せでいたいと思うこと自体、矛盾していると思って。
幸せでいたかったら、幸せなことを考えてないと。
というよりも、幸せなことを考え続けていたら、何もしていなくても、持っていなくても、幸せなんじゃないかしら?」
「おおお!」
ゆかりさんの言いたいことが、僕にもようやく理解できた。

「今回の事故も、ぼんやりしていると、不幸な考えの種になってしまいそうな気がするの。
ご近所の方も心配したり、お気の毒ねなんて言ってくれたりするでしょう?
思いやりからだとは分かっているけど、そのままハイハイと聞いていたら、本当に被害者になってしまうわ。
私、それは嫌だなぁって、夕べしみじみ考えたの。
幸い、あの運転手さんも命に別状はないことだし、悪い人ではないでしょうから、いずれできることで償ってくれるでしょう。
被害を受けたことは、それで帳消しにして、私はね、この降ってわいたような『働けない時間』を、やりたかったけどまだできていないことをする時間にしようと決めたの。」

「へぇぇぇ!」
僕は心底感心してしまった。
メッチャすごい人に出会ってしまったんだ。
こんな考え方、こうして言われなければ一生気付かなかったと思う。

「ドアと窓を直すだけではすぐ終わっちゃうから、もうちょっと盛大に手をいれてもらって、時間稼ぎをね!?」
なんとまぁ。
真面目なんだか、イカレてるんだか。
とにかく、すごいおばちゃんだ!!

「そういうわけで、私、今夜から尼寺に行くわね。」
「はぁ???」






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そのお客様は、疲れた顔で小紫に入ってきた。
初めての方だった。
40代ほどに見えるその男性は黒いポロシャツにかなり履きこんだデニムと、元は白だったスニーカーといういでたち。
背負ったリュックはサイズ相応に膨らんで、何やら詰めてあるようだ。
街使いするデザインではなく、多分登山用なのだろう。

開店して間もなくのことで、まだ19時前だった。
4月になってから、歓送迎会の流れのお客様でにぎわうようになっていたけれど、こんな時間の一人客は珍しい。
ゆかりさんも奥から顔を出し、いらっしゃいませと声をかけた。

カウンター席の方を気にしているようなので、こちらでいかがですかとスツールを引くと、はいと答えてリュックを下ろしながら歩みを進め、ひょいと腰かけた。
「なにになさいますか」
問いかけながら気付く。
どこか、日差しの強いところへ行ってきた帰りなのだろう。
お顔が陽に焼けているのだ。
特に頬の高いところが赤くなっている。

「ものすごく冷えたビールが飲みたいなぁ」
「では、生で」
「いや、瓶がいい。小さめのサイズがあれば、なおいい」
「でしたら、こちらのピルスナーなどいかがでしょう。最近ご注文がなかったので、キンキンに冷え切っています」
「おお!それそれ」

ドイツ生まれのラーデベルガーをお勧めしたら、お気に召したらしい。
おしぼりとお通しを置いてすぐ、こちらもキンキンに冷やした細いグラスを添えてお出しする。
目の前でグラスに注ぐと、シュワシュワと音を立てて泡が立つ。
それを嬉しそうに眺めていると思ったら、喉を鳴らして一息に飲み干した。
「あーーーー、うまいっ!」
瓶に残っていた分は、ご自身で注いで飲み干してしまった。
「ビールはこの最初の1杯か2杯が最高に美味いんだよなぁ」

いや、実はさっき沖縄から帰ってきてねと、お客様は問わず語りに話し始めた。
修学旅行の引率だったとか。
つまり、この方は学校の先生なのだ。

僕の修学旅行は中学も高校も秋だった。
4月にって珍しいのではないかと思い、聞いてみた。
すると、旅行代金節約のために4月に設定したのだという。
「そんなに違うんですか?」
「大違いですよ」
「沖縄へ2泊3日なんて、新聞とかに39000円くらいで行けそうなプランがよく載ってるじゃないですか」
「あれは個人旅行だから安いんだ」
「修学旅行と違うんですか?」
「まったく違うんだよ。同じことをしてもこちらは10万くらいかかる」
「どうして?!」
「団体旅行料金というのは設定が別らしいんだな。それが法律なのか業界ルールなのかは知らないけど」
「そうなんですか」
「まぁ、大人数でいろいろと配慮もしてもらうからね、しかたがないこともあるんだろうけど」
「それで、秋と今ではどのくらいの差が?」
「4月中旬と下旬なら軽く1万円くらい。5月以降はハイシーズンだから、秋まで3〜4万円変わるかな」
「そ、そんなに!」
「最近は修学旅行どころか毎日の暮らしが苦しい家庭も増えているからね」
「それで…」
「でも、経験させてやりたいじゃないか。
空港を一歩出ただけで全身で感じる気温と湿度、青い海、普段は聞けない言葉、味、悲惨な歴史から学べる教訓…」
「みなさん、楽しまれたでしょうね。お疲れさまでした」
「ははは!楽しみすぎてハメをはずすのが必ずいるんだなぁ」
先生はそれ以上は言わず、うまそうにお通しの小鉢をつついている。

「ビール一本飲んだら帰るつもりだったのだけど、なんだか物足りないな」
奥からゆかりさんが出てきた。
「では、あと一杯だけ召し上がっては?」
「そうだね。何にしよう」
「もし、ご興味がおありでしたら…」
ゆかりさんが奥の冷蔵庫から350mlの缶ビールを持ってきた。
「あ、これは!」
「はい、沖縄のオリジナルビールといえばこのオリオンビールです。
もしかしたら、お仕事中では見ることはあっても飲めなかったのではないかと…」
「そうなんだよ。夜は先生たちだけ集まって酒盛り!なんてことが許されていた時代はもう30年前に終わっているからね」
「よく冷えていますよ」
「では、それを」
「グラスを替えましょうね」
「いいですよ、これで」
「いいえ。オリオンビールはこういうオシャレなグラスには合いません」
「あははは!なるほどね」

小腹が空いているから、何か腹にたまるつまみをと言われて、ゆかりさんはポーク玉子とやらを作った。
「これは?」
僕も聞きたかった。
「スパムという缶詰をご存じですか?」
「ええ。米軍が沖縄にいるせいで、沖縄の味になったみたいだね」
「あのスパムを細切りにして、炒り卵の中に入れるだけです。あとは適度に塩コショウ、ケチャップを添えてできあがり!」
「簡単だね。それなら僕でも作れる」
「美味しかったらお試しください」
「どれ…おっ、この塩味、疲れた体に沁みるねぇ」
「ビールにもなかなか合いますよ」

先生は沖縄で見たおもしろい風景の話をしながら、今度はゆっくりとオリオンビールを飲んだ。
ゆかりさんと聞きながらこちらも笑ってしまうような面白さがある。
でも、生徒さんのことは何も話さない。
僕は知っている。これは、守秘義務ってやつだ。

店にいらしてから30分ほどだろうか。
「ごちそうさま」
先生は爽やかに立ち上がった。
リュックを抱えて歩き出そうとして、ふと、立ち止まった。
「そうだ、これを差し上げましょう」
スツールにリュックを置くと、ジッパーを開けてごそごそと箱を取り出し、ゆかりさんに渡した。
沖縄土産の袋に、四角い箱が入っている。

「まぁ!嬉しいですが、いただくほどのことは何も…」
「いえね、僕は一人暮らしでね。
集団行動に疲れて、さっさと帰ってビールでも飲むかと思っていたのだけど、どうも今日はそういう気になれなくて、ふらりと入ってきたんですよ。
そしたら、思いがけず楽しませてもらった」
「それはありがとうございます。そのお言葉だけで」
「でも、それ、持っていたくないところもあってね」
「どうかなさったのですか?」
「お土産にあげたい人があったのだけど、渡しそびれた」
「では、ぜひその方に。今日でなくてもよいのでは?」
「ほかの人からもらっていたようだからね」

詳しく聞くこともない。
いろいろあって、小紫にたどり着いてくださったのだろう。
「では、ありがたくいただきます」
先生は、足取り軽く帰っていった。

まだ次のお客様には間がありそうで、僕らはその包みを開けてみることにした。
中にはシーサーが一匹。
きれいに彩られていて、怖くはなく、かえってかわいいほどの顔で笑っている。
「ああ、素焼きに絵付けをなさったのね。」
きっと、生徒さんの体験学習に付き合って作ったのだろう。
その手作りを渡したい誰かがいた。
だけど、他の誰かから、多分同じように手作りの何かを受け取っている姿を見てしまった。
手作りってやはりどこか特別だ。
思いがこもっている。
その、渡したかった相手に向ける先生の密かで微かな思いが。
きっと、残念だったよな。

「ここでいいかしら」
ゆかりさんは、カウンターの脇にそっと笑顔のシーサーを置いた。
極彩色の置物は、カウンターに南国の花を添えたようだ。
「いいですねぇ。僕も行ってみたくなったなぁ」
「穂高の修学旅行は?」
「東京でした。ディズニーランドですよ」
「あらま!」


その日のお客様はそれほど多くなくて、小紫は日付が変わる前に店じまいにした。
いつものように片づけをする。
カウンターを丁寧に拭き清めていたのはゆかりさんだ。
「あっ!」
という声の次に、ガチャン!と何かが割れる音がした。
「大丈夫ですか?」
テーブル席を拭いていた僕は飛び上がり、駆け寄った。
「大丈夫だけど、せっかくいただいたシーサーを割ってしまったわ…」
ゆかりさんがそんなことをするなんて信じられない。
僕ならいざ知らず…

「袖が触れただけだったんだけど…」
シーサーは固い床に落ちて、粉々に砕けてしまっている。
大きな破片を集め、あとは掃除機で吸い取ることにする。
「ああ、申し訳ないことをしてしまったわ」
ゆかりさんは珍しく、すっかり落ち込んでしまった。

「ほら、身代わりになってくれたんですよ、きっと」
「身代わり?」
「そう。思いを込めて作ったものだから、ゆかりさんの身に降りかかる悪いことを、代わりに受けてくれたんじゃないですか?
だから、ありがとうって思いましょうよ」
「そうかしら。
そうね、落ちるようなぶつかり方をしたわけでもないのに、こんなに砕けてしまうなんて、余程のことよね」

破片を入れた紙袋を両手で捧げ持ったゆかりさんが奥へ入るのを見送って、僕は店の外に出た。
看板の電源を切って、札をClosedにし、ドアに鍵をかけた時だった。
ギュィーン、ドッカーン!
ガッシャーン!
バリバリメリメリ…


とてつもない爆音と衝撃で、僕は吹き飛び、床に倒れ込んだ。
「なに?」
ゆかりさんの声が悲鳴に変わった。
「キャーッ!」
僕は全身が震え、腰が抜けてしまって動けない。
「穂高、穂高!」
ゆかりさんが駆け寄ってきて、抱きしめてくれなかったら、気を失っていたのではないかと思うほど驚いていた。

事態が理解できるまでどれくらいかかったのだろう。
僕がさっき鍵を閉めたドアが外れて傾き、車の頭が店にめり込んでいる。
脇の窓は割れ落ちている。
すさまじい物音を聞きつけたご近所さんたちが出てきたらしく、人の声もする。
僕は交通事故だと分かっても声が出ず、ひたすら震え続けていた。






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