Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2016年03月


「初めは、混乱の一言に尽きる。
あと1年の命だと?
なぜそんなことになるんだ、どうしてこんな不運が自分に降りかかるんだ、そんなことしか考えられなくてなぁ。
嫁は泣いてばかりいるし、泣くなと言うと、無理して笑おうとして失敗するし。
そんな顔を見ていると無性にイライラして、暴れまわりたくなるんだ。
仕事をしている時が一番救われたよ。
他のことを考える余地のない時間がありがたかった。
でも、その仕事中でも、ふと頭をよぎるんだよ。
自分はいつまでこうして働けるのだろう、どうなってしまうのだろうって。
そうなると、もう何も手につかなくなるんだ。

夜が一番いけない。
眠ったら、そのまま目覚めないんじゃないかと思うと恐ろしい。
運命とか宿命とか、そんなことを思っても、突然ふりかかったこの事態に納得のいく説明はできない。
眠れなければ体力も落ちるし、嫁はますます心配する。
何もかも投げ出したいのに、握り締めた指が開かない。
そんな感じでなぁ。

転機は、半月後くらいだったろうか。
医者と話していて、俺は自分の大きな勘違いに気付かされたんだ。
『余命1年』というのは、まぁ1年は生きられるだろうといいうことだと思っていたんだが、違っていたんだ。
最長で1年、それまでの間いつ死んでも不思議はない、ってことなんだな。
飛び上がったよ。
尻に火が付いたとはあのことだ。
それまで俺は、眠ったらそのまま翌朝、目覚めないんじゃないかと考えながら、実はまだどこかに余裕があった。
何せ、目覚められないのは1年ほど先のことだと思っていたのだから。
ところが、正真正銘、明日がないかもしれないのが真実だと分かったら、突然、目の前の靄が晴れたんだ。

なぜ自分がこんな悲運に見舞われるのかなんて、いくら考えても答えがない難問に取り組んでいるヒマなんか、自分にはないんだ。
今できることを、今したいことを片っ端からやらなければ、砂時計の砂はいつ落ち切るか知れたものではない。
慌てたなぁ。
子どもを学校に行かせるのもイヤになった。
あの子の顔を少しでも長く見つめていたいからな。
俺が死ぬまで、学校は休ませてしまえとさえ思ったよ。
あれだけやりがいがあると思っていた仕事も、まったくやる気がなくなった。
覚えているか、俺が風邪をこじらせたといって1週間ほど休んだことがあったろう。
あの時だよ。
子どもも適当な理由をつけて休ませた。
俺はとにかく、嫁と子どもの顔を見て、好きなものを食い、身の回りを片づけて、いつ死んでもいい準備を始めたわけだ。

でも、それもどうやら違うと分からされた。
教えてくれたのは息子だよ。
あの子は俺の病気のことなんか知らないから、学校に行きたがるんだ。
行けば宿題がいやだの、忘れ物をして注意されたのと文句をいうのに、いざ行かなくていいというと、どうしてあれほど行きたがるのかね。
俺といるより友達がいいのかとスネて嫉妬してなぁ。
笑えるだろう?でも、どうしようもないんだよ。

何より恐ろしかったのは、この子も嫁も、俺が死んでしまったらどうなるのだろうってことだ。
いや、悲惨なことになるとは思わない。
生命保険もかけてあるし、実家だってしっかりしているから、生活に困ることはないだろう。
でも、それがかえって恐ろしくなった。
今はこうしてそばにいるけれど、あっという間に俺がいたことを忘れて、笑ったり楽しんだりして暮らせるようになるのだろう、その時、俺はそばにいない、でも、こいつらは笑うんだ。
では、今の俺は何なんだ?
いてもいなくてもいい存在なのか?

会社だってそうだ。
始めのうちは戸惑うことも、不自由なこともあるだろう。
でも、あっという間に役割を代わる人が出てきて、仕事は割り振られ、何事もなかったように回り始めるはずだ。
だいたい、そうなるように仕組んできたのは俺自身だからな。
こんなことを感じ始めると、もう止まらない。
何でもいいから刃物を持ち出して、この体を切り裂いてしまいたくなる。
この、何の意味もない風船以下のからだを消滅させたくてたまらない。
頭を抱えたよ。

だけどなぁ、頭を抱えながら気が付いた。
俺は、嫁や息子に笑ってほしくないのか?楽しみを奪うつもりか?
いや、違う。
断じて違う。
だとしたら、俺はどうしてこんなことをしているんだ?ってな。
息子を学校にやり、嫁を買い物に出してみて、やっと分かった。
その1週間の、俺の行動の原因になったものにな。

今まで気付いていなかったけれど、俺は自信がなかったんだなぁ。
俺が死んでも、家族は俺を忘れないだろうという自信。
同僚が俺を大事に思ってくれていると感じる自信がなかった。
おれが身を削って働いて影響力を示していなければ、たちまち見下され、バカにされて相手にされないに違いないと思っている自分に気付いたんだ。

驚いたよ。
どちらかと言えば俺は自信家で、押しつけがましいほどの世話焼きで、細かいことまで気付くくせに、指摘したら相手も気分が悪かろうと言葉を飲み込むような気遣いもできるタイプだと思っていた。
でも、本当のところは全く逆だったんだなぁ。
自信がなくて嫌われるのではないかと不安だから、人の世話を焼いて恩を売っておく。
言葉を飲み込むのは相手のためではなくて、自分の言うことなど尊重されるはずもないと思い込んでいたからなんだな。
仕事が好きだから打ち込んだのではなくて、上げ足を取らせないために必要以上に完璧を目指していたんだ。
自信家に見せていただけで、心の中ではいつでもびくびくブルブル震えていたんだ。

まったく、驚いた。
この期に及んで、こんなみっともなくて情けない自分を見つけるとは思わなかった。
いったい、どうしてそんなに自信を失ったんだろうかと考えた。
そうして、思い出したんだ。
子どものころの、出来事を。」





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「なんだって?!」
岩城さんは舘さんに体ごと詰め寄った。
「どういう意味だ。ゴールテープが見えただと?」
舘さんは小さく頷くと、そのまま俯いて言った。
「ガンだそうだ。余命宣告というのを受けたよ。あれは、ドラマだけじゃないんだな…。」

普段はあれほど聞き耳を立てていると見せてはならないと口を酸っぱくして言うゆかりさんが、あからさまに目を剥いた。
こんなゆかりさんを見るのは初めてかもしれない。
そして、それ以上に驚いた顔をしているはずの僕は、ゆかりさんと目を合わせている。
お客様を見てはならない瞬間なら、互いの顔を穴が開くほど見つめるしかない。

「だってお前、そんなこと…。」
「驚いたよ。今年はいつもの健康診断ではなくて、半世紀生きた記念に人間ドッグを受けてみようかと、半ば冗談で行ってみただけなんだ。」
「ああ。」
「そうしたら、再検査だ、精密検査だと続いて…。挙句に、手の施しようがないガンです、今後の生き方を選んでくださいって言うんだから、どうもこうも…。」

そんなことがあるのだろうか。
セカンドオピニオンは?ちゃんと確認したのだろうか。
僕は、姉さんが病気だと言われたのと同じくらい動揺していた。
もっとも僕の姉さんには、病気の方が寄り付かないと思うが。

「嫁も、嫁の両親も言うから、いくつかの病院で検査を受けた。
結果はどこも同じだったよ。」
「そうか。それでも間違いじゃないかと…。」
「いや、もう、診断結果を疑うのはやめた。」
「そんな…!」
「限られた命だと分かっても、治療を受けることは当然できる。
でも、病院にこもって治療するのではなく、家にいて、したいことをして過ごすこともできる。
どうしたいかと聞かれたよ。」

舘さんは、こうしてグラスに指をかけながら話している姿を見ているだけでは、そんな病気があるようには見えない。
話もしっかりとしているし、顔色が悪いわけでもない。
だるそうにも、痛そうにも見えない。
それなのに、何年、何十年と生きるのが難しいなんて、そんなことがあるのだろうか。

「あと1年。あと1年なんだそうだ。」
「うそだ。」
「うそじゃない。どこの医者も同じことを言っていた。」
「医者は神じゃない。」
「俺は考えたよ。息子はまだ幼い。できるだけ長く生きて、彼の成長を支えたいし、見守りたい。」
「ああ。そうだろう。」
「だから、治療を受けてくれと、奇跡的に治るかもしれないと、嫁は毎日言うよ。」
「当然だ。」
「俺も最初はそのつもりだった。でも…。」
「でも、何だ?まさか、治療は受けないつもりじゃないだろうな?」
「治療は…受けない。そう決めた。」
「お前!」

岩城さんは乱暴に立ち上がった。
そうして舘さんの肩を両手で握り、がくがくと揺さぶる。
「お前、何言ってるんだ!なんなんだ!」
叫び声一歩手前の最後は、涙が湿らせて、言葉になっていない。
ゆかりさんと僕は、もう一度目を見かわした。
止めなくていい。止めてはいけないと。

「もう少しだけ、聞いてくれないか?」
舘さんが、岩城さんの手首をそっと持って見上げている。
岩城さんは鼻をすすりながら、椅子に戻った。

「最初から諦めたわけじゃないんだよ。
俺だって、治るものなら治りたい。
でも、もしもそれが叶わないなら…。
俺なぁ、人生で初めて、生きるために必死で考えたよ。
必ず死ぬって書いて必死だろ?
おかしいよな、生きるために必死って。」
「冗談言ってる場合じゃない!」
「ああ、悪い悪い。」
「その、必死で考えた結論が、治療しない、なのか?」
「簡単にたどり着いたわけじゃないんだ。」

そう言って舘さんは言葉を切った。
そして、はっとしたように周囲を見回し、僕たちのところで視線を止めた。
「すみません。お二人とも…。」

僕は内心で飛び上がった。
きっと聞き耳を立てていたことをご不快に思われたのだ。
お詫びしなくてはと動き出す前に、ゆかりさんが頭を下げていた。
「申し訳ございません、不調法をいたしました。」
「いやいや、そうじゃありませんよ。こんな話、声も潜めずにしていたら、聞こえて当然ですし。そうじゃなくて、これから僕が話すことを、お二人も聞いていてくれませんか。」
「は?」
「最後まで聞いていただければ、お願いした理由もご理解いただけると思います。
客のわがままだと思って、聞き届けてやってください。」
舘さんはゆっくりと頭を下げた。

断ることができようか。
ゆかりさんの目くばせで、僕は店の外へ出て、看板を裏返した。
戻り際、カギをかけるのも忘れなかった。
その間に、ゆかりさんの提案で、席をテーブルの方へ移した。
四人で座るにはそちらの方がよいし、カウンターのスツールより座りやすく、疲れにくいからというのも、理由のように思う。

舘さんが、席を移る時に「あそこにあるハイランドパークの25年を」と言ったのを、僕の耳が聞き取った。
ゆかりさんは「召し上がって大丈夫なのですか」とは言わない。
かしこまりましたと答えて、音もたてずに用意した。
それをテーブルに運ぶと、そのまま空いている席に座ったゆかりさんは、僕にも隣に来るように言う。
僕たちは、舘さんの話の続きを待った。





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実は…と言いよどむなんて、何か告白話が始まるに違いない。
僕は、二人連れのどちらが何を言うのか、声を聴き分けたくてしかたがない。
布巾を手にして立ち上がると、さっき磨き上げたグラスを、音をたてないように棚に戻し、新たなグラスを取り出して…本当はこのグラスにも、一点の曇りもないのだけど…磨くことにした。

「春は、まだ遠いな。」
「唐突だな。実は…の続きはどうした?」
何か言いたいことがあるのは、黒髪の方のようだ。
舘ひろしみたいな風貌をしている。
男から見ても男前、ということだ。よし、こっちは舘さんと呼ぼう。
で、同じくらいの歳に見えるのに、すっかり白髪になっているほうが聞き役だ。
こちらは…そうだ、岩城滉一と言ったっけ。あんな感じ。
こっちは岩城さんだな。
つまり、二人はどことなく似ている。そうして、かなりイケている。

「最近思うんだが、人間というのは、先の楽しみがないと、今を生きる気力がなくなるものなんだな。」
舘さんが、しみじみと言う。 
「俺、子どものころから桜が好きでさ。ほら、学生のころ、毎年お前たちと花見に行ったじゃないか。」
「ああ、行ったなぁ。」
岩城さんが、眼を細めた。
「あれがさ、けっこう楽しかったわけよ。」
「そうか。そうだな、楽しかったな。次の日の商談を気にしないでいられたしな。」
「いや、まぁ、そうだな。」
話が逸れかけたと思ったのだろうか、舘さんは言葉を切って、ゆっくりとグラスを傾けた。

「今を生きるって言うだろ?
過去はもう変えられないし、未来はまだ来ていないし、あるのは今だけだって。」
「ああ、言うな。」
「で、なるほどそのとおりだと思って、今に生きてみようと思ったわけだ。
過去にとらわれず、未来に期待せず、今に集中する。」
「寺で説法でも聞いてるようだ。」
「雑念を捨てろってな。そうだよなぁ。」
「で、やってみたのか?」
「ああ。今日が懸命に生きられたらそれでいいじゃないかってな。」
「ほう。それで?」
「数日はそれでよかった。
今に集中するっていいなぁと思ったんだが…。
でもなぁ、だんだん、なんでそんな風に生きるのか、分からなくなったんだよ。」
「ほう。」
「人が元気に生き生きと生きるには、未来が必要なんだと気付いた。」
「…。」
「次の家族旅行は北海道にしようかとか、もう一度あの店の焼き肉を食いに行こうとか、シェーバーの替え刃を今日こそ買うぞとか、去年は墓参りに行けなかったから今年こそとか、自分がしたいことを自由に思い浮かべて、それを楽しみに今日を過ごす。別に、できるかどうかは問題じゃない。できるに越したことはないが、できなくても、未来への期待は、今日のエネルギーになるんだよなぁ。」
「ああ、そういうことか。なるほど、それはあるなぁ。」
「だろ?」
「今日を懸命に生きたとして、その褒美というか、成果というか、そういうものを受け取る未来がなくっちゃ、頑張れないな。そういうことか?」
「…ああ、そういうことだな。」

分かるような、分からないような話だ。
この二人は、なぜこんな話をしているのだろう。
グラスはもう磨きようもない。
僕はあまり意味がないのだが、コーヒーカップを磨き始めた。

「それでな、また気付いたんだ。
今日は今日だけど、過去の、いつかあの日の未来でもあるんだなぁって。」
「うん?」
「去年の年末だったか、俺、ふと思ったんだよ。お前とずっとちゃんと話していないなぁ、今度飲みに行くかって。」
「そうだったのか。」
「つまり、今日は、その日の俺の未来なんだな。したかった望みが叶ったわけだ。」
「そうか。別に俺と飲むなんて、もっと気軽に考えてくれていいんだぞ。」
「ふふふ。そうもいくまい。怖い嫁さんに、そろそろ父親の非行に手厳しくなってきた娘御がいるんだもんなぁ。」
「おいおい、ずいぶんな言いようだな。」
「お前がいつも言っていることじゃないか。」
「ははは。否定できないところが苦しい。」
「ウチだってそうだよ。」
「お子さんは確か…。」
「男だ。今年小学校に上がったばかりなんだ。」
「そうだったな。」
「遅くにできた一人っ子で、妻は猫っ可愛がりしているよ。あれじゃ甘やかし過ぎでろくな大人になれないと思うんだが、俺の口出しする余地は1ミリもないほどで、見ていないと危なっかしくて。」
「とかなんとか言いながら、マイホームパパになったわけだ。」
「お互いにな。」
「自分の欲求だけが自分の希望じゃない。」
「ああ。」
「家族の役に立っているって自覚も、常に失いたくないんだ。それも強い希望だな。」

「お前、どうしたんだ。何かあったんだろう。」
とうとう、岩城さんが体を向き直らせて問いただした。
舘さんは、それでもまだ言いあぐねている。
それでも観念したのか、一息ついてから、ぽつりと言った。
「俺なぁ、未来が当たり前でなくなったんだ。」
「え?」
「命のゴールテープが、見えちまったんだ。突然に。」










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スッキリしない発熱がようやく消えるのに1週間かかった。
「飲みに来たついでだよ。」と言いながら往診してくれる宮田先生の言葉で、僕はこの1週間を案外心穏やかに過ごすことができた。
「穂高くんの体は弱いのではなくて、勇敢なんだよ。」
「勇敢って、いさましいとか、そういう勇敢ですか?」
「そうそう。」
「そんなこと、言われたのは初めてですよ。」

先生が言うには、こういうことだ。
場所にはどこでも、そこ特有のものがある。
常在菌、なんていうそうだ。
大概の人は、それがもともと持っているものと多少違っても、平然と受け入れられる。
でも、僕の体は頑固で妥協がないらしく、「お前、違うだろ!」とすぐに戦いを挑むのだそうだ。
それで、熱が出る。
ひとしきり戦って、「しょーがない、大して害はなさそうだから共存してやるか」となれば落ち着く。
外敵を許さない勇士がたくさん住んでいる体だと思えばいいというのだ。

そんな風に表現すると、ちょっと笑える話だ。
勇士というより、好戦的な短気者としか思えないではないか。
「それでも、ひどい目にあっているのに鈍感な人もいるからね。いいじゃないか。」
なんて言ってもらえると、そうだなぁという気がしてきた。
物事はとらえようだ。
僕は小紫に来てから、そんなことをずっと重ねて学んでいる気がする。



その二人連れがやってきたのは、僕が小紫のカウンターに復帰して数日たったころだった。
2月の声も聞こえそうな夜はヒリヒリと寒さが積もり、開店の準備を終えて扉を開け、外の様子を覗くと、息が真っ白に煙った。

こんな夜は客も少ない。
しばらく誰も来ないまま時が過ぎ、やっと入ってきた5人は大学生のようだ。
女の子が3人、男が2人。
むくむくと重ね着をして、毛糸の帽子をかぶってなだれこんできたかと思うと、じろじろと店内を見回している。
「あのー、あたしたち、地元の隠れた名店を探すサークルなんです。」
その中の一人が面白いことを言いだした。
「あら、名店だなんて光栄だわ。」
ゆかりさんが対応に出る。
「駅前で聞き込み調査をしたら、ごはんがとっても美味しいバーがあるって。」
「それに、空気がきれいで、心が落ち着いて、気分がよくなるとも聞きました!」
「あの、僕、酒は飲めない性質なんですけど、そういう人も来ていいんですか?」
と尋ねた男の言葉には、どこか東北をにおわせるイントネーションが混ざっている。
「もちろんですよ。では、何か召し上がりますか?」
わぁっと歓声をあげて、彼らは注文を選び始める。
まるで学食のようだ。

学生の懐具合というものを、ゆかりさんはよく理解しているようだ。
お手頃価格のものをいくつか選び、バラエティー豊かに見えるようにしてテーブルを埋めた。
アルコールを頼んだ者がいなかったのも面白い。
「これ、すっごく美味しいです!色味が美しい!」
「うわぁ!これ、本当に麻婆豆腐ですか?豆腐がまるでクリームチーズみたい!」
口々に、食レポ顔負けのコメントを連発しながら喜んでいる。
それを眺めてさらに嬉しそうなのがゆかりさんだ。

5人組の話が弾んで、いつの間にか日常の世間話になっている。
10号館の裏のベンチであの二人…とか、南のカフェテラスのキャラメルラテが…とかいうのを聞いていて、なぜかカラー映像が浮かぶことに気付いた僕は、彼らがどうやら僕の後輩らしいことに思い至った。
そうか、学部生ってこんなにかわいらしかったか。
毎日がキラキラしているんだろうな。
悩んだり、怒ったり泣いたり、無駄にガマンしたり。
いろいろあっても、輝いているんだよ、君たち。
なんて思う自分は、いつの間に老け込んだんだ?僕だってまだ20代だ!

ひとりツッコミをしているときに、カウベルが鳴った。
この二人連れは、きちんとスーツを着た大人だ。
50代、だろうか。
初めてのお客様だ。
後ろでキャンキャンしている大学生に比べると、ずしりと人生の重みを感じる。
「いらっしゃいませ。どうぞお好きなお席へ。」
僕が言うと、ふたりは目を見かわして、言葉はないままにカウンターへ並んで腰かけた。
質の良いカシミヤのマフラーをしている。
きっと、いい会社に勤めているのだろう。

「美味しかったなぁ。」
「絶対またすぐ食べたくなりそう!」
「友達誘ってきてもいいですか?」
大学生たちはもう席を立ちあがったようだ。
「もちろん。お待ちしていますよ。」
うちは定食屋じゃないんだぞと言ってやってもいいのに…。
中にはゆかりさんに握手をねだっている女の子までいる。
それほど美味かったか。
きっと君も、ろくなもの食べてないな!

騒々しい集団がドアの外へ消えると、店内は一気に静まり、BGMのスロージャズがやっと聞こえるようになった。
二人連れは、それぞれに水割りを頼み、黙ってグラスを傾け始める。
並んできた割には無口だ。
同じくらいの年齢に見えるが、片方はずいぶん白髪が目立ち、片方は真っ黒だ。
それ以外に違いというと…
「穂高、また悪い癖。」
ゆかりさんにそっとたしなめられて、僕は視線を逸らす。
お客様をじろじろと観察するのはひどく失礼なことだと何度も言われながら、ぼくはこの癖がなくならない。

特にご注文もご要望もないので、ぼくらは少し下がって控えている。
先ほどの学生たちがたくさん皿を使ったから、奥に入って洗い物をしてもいいのだが、皿がぶつかる音など、このお客様方に聞かせなくてもいい。
小紫の皿が足りなくなることもないし。


「大学生だったな。」
「…さっき、出ていった客か?」
「うん。」
「そうだろうな。無邪気なもんだ。」
「多少、懐かしくもあるな。」
「そうか?」
会話は、そこで途切れる。

以前からの友達なのだろうが、久しぶりの再会ではなさそうだ。
もしそうなら、近況はどうかとか、あの頃はどうだったとか、そんな話になるものだ。
すでにその部分を他の店で済ませてきたのだろうか。
つまみを頼もうとしないから、食事をしっかりしてきた可能性は高いよな。

なんだか、探偵気分だ。
「こらってば。」
またゆかりさんに小突かれた。
僕は慌てて布巾をもち、そこらへんを拭き始めた。

「で、何か話か?」
「なんで。」
「いや、一緒に接待に出るのは珍しくないけど、帰りにもう一軒なんて、10年以上はなかった気がするからさ。」
「そうか。」
「で?大学時代の思い出話をしたくなったわけでもあるまい。」
「まあな。」
「何か、あったか?」
「ああ…。実はな…。」






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