「初めは、混乱の一言に尽きる。
あと1年の命だと?
なぜそんなことになるんだ、どうしてこんな不運が自分に降りかかるんだ、そんなことしか考えられなくてなぁ。
嫁は泣いてばかりいるし、泣くなと言うと、無理して笑おうとして失敗するし。
そんな顔を見ていると無性にイライラして、暴れまわりたくなるんだ。
仕事をしている時が一番救われたよ。
他のことを考える余地のない時間がありがたかった。
でも、その仕事中でも、ふと頭をよぎるんだよ。
自分はいつまでこうして働けるのだろう、どうなってしまうのだろうって。
そうなると、もう何も手につかなくなるんだ。
夜が一番いけない。
眠ったら、そのまま目覚めないんじゃないかと思うと恐ろしい。
運命とか宿命とか、そんなことを思っても、突然ふりかかったこの事態に納得のいく説明はできない。
眠れなければ体力も落ちるし、嫁はますます心配する。
何もかも投げ出したいのに、握り締めた指が開かない。
そんな感じでなぁ。
転機は、半月後くらいだったろうか。
医者と話していて、俺は自分の大きな勘違いに気付かされたんだ。
『余命1年』というのは、まぁ1年は生きられるだろうといいうことだと思っていたんだが、違っていたんだ。
最長で1年、それまでの間いつ死んでも不思議はない、ってことなんだな。
飛び上がったよ。
尻に火が付いたとはあのことだ。
それまで俺は、眠ったらそのまま翌朝、目覚めないんじゃないかと考えながら、実はまだどこかに余裕があった。
何せ、目覚められないのは1年ほど先のことだと思っていたのだから。
ところが、正真正銘、明日がないかもしれないのが真実だと分かったら、突然、目の前の靄が晴れたんだ。
なぜ自分がこんな悲運に見舞われるのかなんて、いくら考えても答えがない難問に取り組んでいるヒマなんか、自分にはないんだ。
今できることを、今したいことを片っ端からやらなければ、砂時計の砂はいつ落ち切るか知れたものではない。
慌てたなぁ。
子どもを学校に行かせるのもイヤになった。
あの子の顔を少しでも長く見つめていたいからな。
俺が死ぬまで、学校は休ませてしまえとさえ思ったよ。
あれだけやりがいがあると思っていた仕事も、まったくやる気がなくなった。
覚えているか、俺が風邪をこじらせたといって1週間ほど休んだことがあったろう。
あの時だよ。
子どもも適当な理由をつけて休ませた。
俺はとにかく、嫁と子どもの顔を見て、好きなものを食い、身の回りを片づけて、いつ死んでもいい準備を始めたわけだ。
でも、それもどうやら違うと分からされた。
教えてくれたのは息子だよ。
あの子は俺の病気のことなんか知らないから、学校に行きたがるんだ。
行けば宿題がいやだの、忘れ物をして注意されたのと文句をいうのに、いざ行かなくていいというと、どうしてあれほど行きたがるのかね。
俺といるより友達がいいのかとスネて嫉妬してなぁ。
笑えるだろう?でも、どうしようもないんだよ。
何より恐ろしかったのは、この子も嫁も、俺が死んでしまったらどうなるのだろうってことだ。
いや、悲惨なことになるとは思わない。
生命保険もかけてあるし、実家だってしっかりしているから、生活に困ることはないだろう。
でも、それがかえって恐ろしくなった。
今はこうしてそばにいるけれど、あっという間に俺がいたことを忘れて、笑ったり楽しんだりして暮らせるようになるのだろう、その時、俺はそばにいない、でも、こいつらは笑うんだ。
では、今の俺は何なんだ?
いてもいなくてもいい存在なのか?
会社だってそうだ。
始めのうちは戸惑うことも、不自由なこともあるだろう。
でも、あっという間に役割を代わる人が出てきて、仕事は割り振られ、何事もなかったように回り始めるはずだ。
だいたい、そうなるように仕組んできたのは俺自身だからな。
こんなことを感じ始めると、もう止まらない。
何でもいいから刃物を持ち出して、この体を切り裂いてしまいたくなる。
この、何の意味もない風船以下のからだを消滅させたくてたまらない。
頭を抱えたよ。
だけどなぁ、頭を抱えながら気が付いた。
俺は、嫁や息子に笑ってほしくないのか?楽しみを奪うつもりか?
いや、違う。
断じて違う。
だとしたら、俺はどうしてこんなことをしているんだ?ってな。
息子を学校にやり、嫁を買い物に出してみて、やっと分かった。
その1週間の、俺の行動の原因になったものにな。
今まで気付いていなかったけれど、俺は自信がなかったんだなぁ。
俺が死んでも、家族は俺を忘れないだろうという自信。
同僚が俺を大事に思ってくれていると感じる自信がなかった。
おれが身を削って働いて影響力を示していなければ、たちまち見下され、バカにされて相手にされないに違いないと思っている自分に気付いたんだ。
驚いたよ。
どちらかと言えば俺は自信家で、押しつけがましいほどの世話焼きで、細かいことまで気付くくせに、指摘したら相手も気分が悪かろうと言葉を飲み込むような気遣いもできるタイプだと思っていた。
でも、本当のところは全く逆だったんだなぁ。
自信がなくて嫌われるのではないかと不安だから、人の世話を焼いて恩を売っておく。
言葉を飲み込むのは相手のためではなくて、自分の言うことなど尊重されるはずもないと思い込んでいたからなんだな。
仕事が好きだから打ち込んだのではなくて、上げ足を取らせないために必要以上に完璧を目指していたんだ。
自信家に見せていただけで、心の中ではいつでもびくびくブルブル震えていたんだ。
まったく、驚いた。
この期に及んで、こんなみっともなくて情けない自分を見つけるとは思わなかった。
いったい、どうしてそんなに自信を失ったんだろうかと考えた。
そうして、思い出したんだ。
子どものころの、出来事を。」
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