Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2015年12月


「ああ、だめだわ。」
「ほんと、意外と難しいわね。」
6人のご婦人方はしばらく『死ぬまでにしたい10のこと』について黙考していたのだが、とうとう深いため息とともに投げ出した。

手元に配られたどのカードにも文字はまだなさそうだ。
ため息とともにペンを置いて、かわりにそれぞれのグラスに手が伸びる。
いつも機知にとんだ軽妙な会話を交わす集団だけに、僕は少し肩透かしを食らったような気がした。

「死ぬまでにって言われると、あと何年あるかしらとまず思うのよ。」
「そうね。」
白髪が混じっていてもよさそうなのに、一筋の白も見えない頭たちが頷く。

肌触りがよさそうなベージュのブラウスを着た60前後の一人が、唇を尖らせながら言い出した。
「100まで生きると思えばあと40年くらいあるわけでしょ。
そうすると、長いなぁ、なんでもできそうと思えてきますよ。
でも、待った待ったと、もう一人の私が言うの。
お前はそんなに生きられると思うのか?いいとこ残り10年だぞと。」
「そんなことないわよ。あなた、長生きしそうだもの。」
「あら、憎まれっ子世にはばかるとでも?」
「いい歳をして、自分を『子』だなんて言えるんだもの、太鼓判だわ。」

うふふ、あははと笑い合ってから、話が続く。
「仮に10年だと思うと、その間にしたいことは年に1つずつよね。」
「まあ、そういうことになるかしら。」
「ピンピンコロリと逝くとしてのことだけど。」
「それが理想よぉ。」
どなたも異存はないようだ。

「これから1年に1つずつ、これだけはということをしていこうと思うと、なんだかしっかり考えなければと思い始めて。」
「ええ、ええ。」
「でも、考えれば考えるほど、どうでもいいことばかり浮かぶのよぉ。」
「例えば?」
僕は耳をそばだてた。

「最初に浮かんだのはね、ステーキなの。」
「ステーキ?」
「あの、牛肉を焼くステーキのこと?」
「そうよ、そのステーキ。」
「まぁ。それで?」
「私ね、一度でいいから、鉄板焼きというのかしら、そこへ、こう、こういう厚みの最高級のお肉を載せてジュジューッと焼いて、網目みたいな焦げ跡がついたステーキをね、食べてみたいと思ったの。」
彼女は右手を顔の高さに挙げて、人差し指と親指で5センチくらいの隙間を作っている。
分厚いステーキに憧れているのだな。

「ナイフがすーっと吸い込まれるように切れて、内側はいい感じに赤みなのに、生ではないのよ。それを一口頬張ると…」
彼女は架空のステーキをスッと切ると、左手に持っているらしいフォークで口に運んだ。
もぐもぐもぐ。
「あー、なんて柔らかいのかしら。まるでとろけるみたい!なんて言ってみたいわけよ。」

彼女の熱演に、周りは頬を緩めている。
「いいじゃない。それで1つ目はクリアで。」
「ところがよ。」
「何?」
「そんなの、今日の帰りでもできると思うのよ。」
「まあ、確かに。そういわれてみればそうね。」
「それに、分かっているわけでしょ?」
「え?」
「やってみたらどうなるかが分かってる。美味しいに決まってるもの。」
「ああ、そういうこと。」
「もしも美味しくなかったら、それこそショックよね。」
「でしょう?私の死ぬまでにしたい大事な10個のうちのひとつが、そんなお手軽なことでいいのかしら?って思ったら、なんだか書けなくなったのよ!」

「私もいくつか浮かびはしたのよ。」
「あら、聞かせてー。」
「たとえばね、あ、穂高くん、さっきの赤ワイン、ボトルごとちょうだい。」
「はい、かしこまりました。」
僕は盗み聞きを見抜かれた気がして、内心ギクリとしながら立ちあがったが、深緑のベルベットのジャケットを着た彼女はすぐに話に戻っていった。
「あと5キロ痩せたいとか、畳替えしたいとか、ハワイに行きたいとか、野生のシロクマが見たいとか。」
「なんだか…雑多ね。」
「でしょう?自分でもそう思うもの。思い浮かぶ端から、『それ、真剣にやりたいの、私?』って尋ねてみるとね、どうもなんだか違うしね。」
「興味があるには違いないのに、どうして違うのかしらね?」
問いかけたのは一番年上に見える女性だ。

「それなんですよ。さっきからずっと考えていて、分かった気がするの。」
「教えて?何?」
「やってもやらなくても、何も変わらないってこと。」
「あら、そんなことないわ。何かしたら、きっと何かが変わるわよ。」
「それはそうなんだけど…もっとうまい言い方はないかしら。えーっと…。」
瞳を左右に動かしながら考え込む彼女を見て、口元をほころばせた最年長がボソリと言い添えた。
「つまり、それをやって変わるとしても、そんな変化は望んでいないと。」
「そうですわ。そうなんです!」

「私、伺っていて思ったんですけどね、やりたいことを先に考えるから迷ってしまうのではないかしら。目的地を定めずに旅立ったのと同じように。」
最年長の言葉はしっとりとした重みがある。
声を張らないから、ともすれば聞き逃しそうだ。
だから、彼女が話し出すと、みんなの耳がそちらに集中する。
きっと、生きる知恵がふんだんに込められていることを、みんな知っているのだと思ったりする。
おばあちゃんの知恵袋って言うし。

「お題を聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのは、何をしたいかではなくて、どう死にたいかだったの。」
「まぁ!」
「だって、もう明日お迎えが来てもおかしくない歳ですもの。」
「そんなことないですよ。」
「縁起でもないことおっしゃらないで。」
彼女に対しては、みなが少し丁寧な言葉を使う。

「いいんですよ、本当のことだから。
このくらいになると、死ぬという現実から目を背けてはいられないの。
いかに死ぬかはいかに生きたかの結果だというけれど、私は少し違うかもと思うの。」
みな静かに彼女の話の続きを待っている。

赤ワインのグラスをわずかに減らしてテーブルに戻すと、彼女は続きをゆっくりと話し出した。
「この中でも、あの戦争のことを覚えているのは私と…あなたくらいよねぇ。」
「ええ、そうですわね。」
視線を向けられた琥珀色の花柄をしたステキなジャケットの女性が頷く。
「それでも、あなたが覚えているのは戦後のことでしょう。
爆弾が空から降ってくるあの恐ろしさを覚えているのは私だけね。」
みな一様に押し黙った。

「お友達はみな疎開していたけれど、私は体が弱くてね、母が手元に置いておくしかなかったの。
だから、あの東京の大空襲をこの身で体験したの。
あの日も熱を出して寝ていたの。ひどい空襲でね。
お庭に小さな防空壕が作ってあったのだけど、それでは心許なくなって、母は私の手をひいて、もっと安全なところへ逃げようとしたのね。
あの時の恐ろしさは今でも昨日のことのよう。」
彼女の目の裏には、きっとその時の光景がまざまざと浮かんでいるのだろう。
静かに閉じた目をゆっくりと空けると、彼女は言葉を続けた。

「あれはどこだったのか、走り疲れて座り込んだのね。
自分の体の中から上ってくる熱い息と、それ以上に熱い空気が頬をチリチリと焼き続けて…。
息をつく間もなく、爆弾が近くに落ちて、私たちは建物の下敷きになった。
オレンジ色の火花、悲鳴、何もかもが焼けていく臭い、どこが痛いのか分からないくらいの激痛…。
その時私、思ったの。
ここで死ぬのかもしれないって。
でも、そんなのは嫌だ!と思ったのよ。
非国民でもかまわない。
大好きなおうちのお布団で、お父様やお母様や弟と一緒にいて、私は幸せねって思いながら死にたいって、心の底から思ったの。」

「助けられたのですね。」
「ええ。母も怪我はしたけれど、命は助かったの。
父はパラオで戦死してしまいました。
だから、母と、遠くに疎開していた弟と3人、戦後を生きたの。
時代はどんどん移り変わって、私は歳を重ねたけれど、あの時の思いを忘れることはなかったわ。
両親はもういないし、弟まで先立ってしまったけれど、それでも、自分の家で、家族に囲まれて、幸せだったと感じながら逝きたいと誓った気持ちは変わらないの。」

この話には誰もが頷くしかない。
いつの間にかゆかりさんが僕の隣にいて、彼女の話を一緒に聞いていたようだ。
何度も深く頷いている。
「あの時の恐ろしさに比べたら、その後の人生で起きた辛いことや困ったことは、みんな自分の力でなんとかなりそうな気がしたわ。
空から降ってくる爆弾を止める力はなかったけれど、死にたいように死ぬことは、自分の努力でできそうな気がするんですもの。
あの日からずっと、私はその日に向かって生きてるのだわ。
どうやって生きていたら、最後に幸せだと思えるかしらってね。」

「このお題は私たちにとても大切なことを気付かせてくれそうね。」
「ほんとにそうだわ。ぜひ、いい加減に終わらせてしまわずに、納得いくまで話しましょう。」
「ええ、そうしましょう、そうしましょう。」
「穂高くん!」

突然呼ばれて驚いた。
手招きされたので、急いで席に近づく。」
「はい、お呼びでしょうか。」
「よく聞いていたでしょ。」
「はい、すみません。」
「いいのよ。あなたも考えていらっしゃい。」
「は?」
「聞きたいわ。お若いあなたの『死ぬまでにしたい10のこと』。」
「はぁ。」
「ママさん、あなたもね!」

とんでもないことになってしまった。





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そのご婦人方は、だいたい月に1度くらいの割合でやってくる。
一番若い人で50歳くらい、上は…80代かもしれない。
6人組だ。
それぞれに、人目を意識した、きちんとした服装をしている。
多分、ここに集まる日は、彼女たちにとってちょっと特別な日なのだろう。

カラリンコロン。
カウベルが鳴ってドアが開くと、彼女たちがやってきた。
残暑も消えた10月、もう長袖でよいが、コートはいらない。
彼女たちのオシャレが一番輝く季節かもしれない。
その日も、それぞれにお似合いの服を着こなしている。
主張しすぎない、でも、ひとりひとりが個性を発揮している。

どう見ても、仕事がらみの関係ではなさそうだ。
いつも聞こえているわけではないけれど、仕事の話が出てきたことがない。

家族の話もしない。
このくらいの年齢のご婦人が話していると、話題はたいてい、ご夫君の腹が立つこと、お子のこと、お嫁さんの気に食わない点、お姑さんのいじわる、病気のこと、年金のこと、王子のようにかわいらしいスケート選手のこと…と相場は決まっている。
でも、この集団は、いっさいそういう話をしない。
そこに気付いて興味を持ったくらい、珍しいことだ。
きっと、家族がいない人も混ざっているのだろうと、勝手に思っている。

名前の呼び方も面白い。
○○さんと苗字を呼ばないから、正直、どれがだれだか分からない。
みーちゃんだの、はっちんだの、くーこだのと、元の名前が想像できない。
ときどき「ぱるる」と聞こえる。
ちょっと前まで、郵便貯金がそんな名前じゃなかったか?

さらに、日によって「座長」が回るらしい。
仕切り屋さんが入れ替わって、「それでは…」と乾杯したあと、「今日のお題は…」と続く。
そこで提示されたお題について、6人はそれぞれに歓談するのだ。
これまでのお題はどれも面白可笑しいものだった。
「都内で一番おいしいケーキ屋さんは」「人生で一度は観なくちゃ損する名作映画」「パーフェクトな男性に一点だけ残念なところがあり、一気に気持ちが離れるとしたら、その一点は?」などなど。
その答えがまた、いちいち可笑しい。

6人がまとまって座れるテーブルは、小紫には一つしかないから、彼女たちは案内されなくてもそこへ行く。
そういえば、彼女たちがいない日は、いつもの常連さん…元さんや宮田先生や長さんが…そこにいるのだが、どういうわけか、かちあったことがないなぁ。

さざ波のような笑い声を立てながら、座に落ち着き、ぞれぞれの前にグラスが置かれると、今日の座長が腰を進めて声を出した。
「では、残暑とのお別れに乾杯!やっと平常心で生きられるわね。」
「ほんとうに。きつかったわぁ。」
今日の座長はどうやら、一番若い彼女らしい。
「さて、みなさん、今日のお題を発表してもいい?」
「ええ、もちろん。今日は何かしら?」
僕もつい、聞き耳を立てる。

「今日のお題は、『死ぬまでにしたい10のこと』です。」
「えっ?」
「私たちもだんだん残りの人生が見えてきているじゃないですかぁ。」
「何言ってんの。あなたは100まで生きそうだから、あと50年はあるわよ。」
あはははと笑い声がそろう。
「だとしてもです。その50年は今までと同じって訳にいかないでしょう?耳は遠くなる、歯は抜ける、髪は薄くなる、筋力は衰える、知力に至っては保証圏外でしょ?」
「うわぁ、ネガティブねぇ。」
「ネガ?」
「後ろ向きってことよ。」
「ああ。裏返しね。」
多少話の辻つまが合わなくなるのはしょっちゅうなので、気にしないことになっているらしいのも、このチームの特徴だ。

「ここまでくると、毎日毎日が、残りの人生の中で一番若い日なのよね。」
「ああ、確かにそうだわ。」
「一番なんでもできて、一番自由が利く日を一つずつ消費して生きていくのよ。」
「うんうん。」
「だから、ここらで一度、これはしておこうという大事なことをはっきりさせてみたらどうかと思って。」
「いいわねぇ。」

座長はバッグを手繰り寄せると、中からカードを取り出した。
「はい、これ、記入用のカードね。よく考えてここに書いてから、発表会というのはどう?」
「あらぁ、かわいい。ありがとう。」

カードがそれぞれの手にいきわたると、それぞれが自分のバッグから筆記具を取り出した。
全員がペンを持ち歩いていることに、小さな驚きを感じる。
どういう人たちなのかなぁ。

ところが、いつもと違って、ここからシーンと静まり返ってしまった。
あの面白おかしいやり取りは、ひとつもない。
それぞれが自分の考えに没頭している。
僕は、どんな決意が飛び出すのか、興味津々で話が始まるのを待った。






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「貴船さんと話していると、忘れていたことを思い出しますね。」
「そう?」
「ええ。でもこれって…。」
「何?」
「思い出しても大丈夫になったからなんですねぇ。」
「なんだい、しみじみと。」

貴船オーナーは下げてきたばかりのカップを丁寧に洗いながら声だけで答えている。
その気安さが嬉しい。
小さく揺れるオーナーの背中を見ていると、僕は本当に幸せなんだよなと改めて思う。

「病気が分かった時も、姉さんが日本を出たときも、あの教育実習も、その場その場ではショックで傷ついたりもしたけど、僕にはいつでも心強い味方がいて、安心できる居場所があったなぁと。
だから、ちょっとぐらい痛くても大丈夫だと思えるんだぁって。
で、実際、心の傷はいつの間にかふさがっていて、思い出しても痛まなくなってる。
それって、幸せなことですよね。」

最後の水滴を拭き上げたオーナーは、カップとソーサーを丁寧に棚に戻すと、ふふんと鼻を鳴らしながら笑った。
「そういうことを改めて言葉にされると、なんとも尻がくすぐったいというか、照れくさいものだなぁ。
でも、その通りなんだろうね。」

「青年!」

オーナーの声にかぶさるように、背後から突然声をかけられて、僕は呼ばれたからというより驚いて、振り向いた。
そこには先ほどまで深刻そうな話をしていた、今では女子高生のようにはしゃいでいる二人の妙齢の女性がいた。
「ぼくですか?」
「そう。悪いけど、話が聞こえちゃって。」
「すみません、うるさかったですね。」
「そうじゃないわよ。あなた、いいことに気付いたじゃないの!」
「はぁ、そうですか?」
「そうよ。若いのに、なかなかいいじゃない。」
「はぁ、ありがとうございます。」
掛け合い漫才のようなテンポの良さに押されて、ついお礼まで言ってしまった。

「今の自分の幸せに気付きながら生きるのは、きっと幸せな人生の近道よ。」
「そうそう。私なんか、日ごろの忙しさや目先のイライラに惑わされて、本筋をすぐ忘れちゃうもんねぇ。」
「それって、そもそも忘れやすい歳になったってことでしょ?」
「あら、そうかしら。」
「さっき、自分で言ってたじゃないのぉ。もう忘れたの?」
「あらぁ、ほんと、忘れちゃったわ。あはは。」

自分はいら立ちのあまりに、利用者さんを殺してしまうのではないか。
この、こちら側の人は、そんな話をしていたのだ。
でも、今はすっかり忘れたのか、肚の底から笑っている。
ここ『ルナソル』でのひと時が、この人の心にそよ風をもたらしたことは疑いない。

「ここはいいですね、貴船さん。」
「僕が心血注いでいる店ですから。」
「じゃ、今日はこれで帰りますけど、よかったら僕の店にも来てください。」
「もちろんうかがうよ。」
僕はその返事を聞きながら、こんな時のために、いつも財布に入れて持ち歩いている名刺をオーナーに手渡した。
「へぇ、穂高くんか。」
「ええ。僕も源氏名をもらいましてね。今ではホタカと呼ばれる方が断然多くて、どっちが本名か分からないくらい馴染んじゃいました。」

そうして、僕はオーナーにしか聞こえないくらい声を潜めて頼んだ。
「すいませんけど、何か書くもの貸してください。」
僕の意を察したらしいオーナーは、注文をメモするためのボールペンを胸元からさっと出して貸してくれた。
木目の美しい軸のペンだ。
こういうところまで100円均一にしないところが貴船たるゆえんなのだろう。

ヘンなところに関心しながら、僕はもう一枚の名刺を裏返して書き込んだ。

素晴らしい笑顔のお二人へ
今日の出会いが次に続きますよう
これをお持ちいただいたら、
お二人にお似合いのカクテルを1杯ずつ
サービスさせていただきます。
         幸せに気付いた青年より


オーナーにペンを返し、席を立つと、僕は二人の女性に向かってその名刺を差し出した。
「よかったら、次回はこちらにいらしてお話しなさってください。」
目を丸くした熟女たちは、名刺の裏を読むと歓声をあげた。
「ほんとにプレゼントしてくれるの?」
「はい、もちろん。お待ちしています。」
「もう、絶対行っちゃう!だってここ、案外近いじゃない!」

貴船オーナーに会釈して店を出た。
来た時以上の暑さが、ドアの外に広がっている。
ゆかりさんの家の庭に干したタオルケットとシーツを思い出す。
これならば、もうすっかり乾いたに違いない。

電車を降りてゆかりさんの家に向かう。
この道を歩いていると、ここが僕の居場所なんだなと、じわりじわりと安心感が広がっていく。
ルナソルも好きだけど、僕のホームタウンはここなんだ。
普段よりも宙に浮いている時間が少し長いかもしれない速足で、僕はゆかりさんの家に向かった。
「ゆかりさん、早く帰ってこないかな。」

5日間の北海道旅行にでかけたゆかりさんが帰るまで、あと2日ある。
自由人だから、「ちょっと延長ね」と連絡が来ても何の不思議もない。
別にいないと困るわけではないけど、仕事が休みだと、なんだか手持無沙汰だ。

ゆかりさんの家が見えてきて、僕は首をかしげた。
庭が見えるけど、洗濯物が見えない。
あれ?風に吹き飛ばされてしまったのかな?
それほど強い風が吹いたとは思えないけどといぶかしがりながら、僕は駆け出した。
「やっぱり、ない!」

庭に飛び込み、きょろきょろする。
洗濯カゴは置いた場所にそのままあるのに…

その時だった。
「穂高、ただいま!」
「ゆかりさん!!」

庭に面したガラス戸がガラリと開いて、ゆかりさんが全身を見せた。
「帰ってきていたんですか?あと2日残っていたでしょ?」
「それがね、聞いてよ。」

ゆかりさんはおいでとも言わないけれど、僕は縁側からゆかりさんのうちに勝手に入った。
それを咎めもせずに、ゆかりさんは旅が短くなった顛末を話している。
ふと見ると、畳の部屋にはアイロン台が出してあって、僕のシーツが半分、一つのしわもなく平らになっているところだった。





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教育実習が始まった月曜から衝撃の告白を聞かされた金曜まで、梅雨時にも限らず一度も雨が降らなかった。
なのに、土曜日は、早朝からしとしとと、絹糸を引くような雨になった。
僕は思うように眠れず、右へ左へと寝返りを打つばかりの夜を持て余した。
義理の父親からあらぬ振る舞いをされていると告げたあの女子生徒を思うと、居ても立っても居られない。
けれど、自分に何ができるのだろうか。
答えはみつからない。

自分がいまこうして煩悶している間にも、またひどい目にあっているのではないかと思うと、内臓を搾り上げられるような痛みが突き抜ける。
息が詰まってあえぐ。

誰にも言わないでと、彼女は繰り返した。
その思いに逆らってよいものだろうか。

いっそ警察に相談するのがよいだろうか。
僕がきっかけと分からぬよう、うまく実情を探ってはくれないか。

いや、警察は、目の前で起きるとか本人の訴えがあるとかでないと動かないと聞いたことがある。
そんなの、だめだ。遅きに失する。

逆光の中で、黒いシルエットの肩が震えていたのを思い出す。
ぐずぐずしている場合じゃないと、布団を蹴り上げて飛び起きる。

でも…。

長い長い土曜日は、そうやって焦燥のうちに過ぎた。
何を食べ、何を見、何をしたか、何も覚えていない。
ただただ、おろおろするばかりだった。

日曜日も雨は降り続いた。
蒸し暑くて、それだけでも気は晴れない。
やるせないほどに苛立つ空気と、時折不意に沸騰し、逆流するかのように感じる血流。
いっそ何も聞かなかったことにして、彼女の願い通り誰にも言わず、僕の胸の内に秘めておくのがベストだと、何百回も思おうとした。

けれども、結局僕にはそんな割り切りができなかった。
実習生とはいえ、彼女は今、僕の生徒なのだから。

やはり、指導教官の山田先生に相談するのが一番いい。
山田先生ならば、彼女のために最もいい道へ導いてくれるにちがいない。

一度そう心を決めると、月曜を待つ気になれなかった。
日曜日はもちろん学校は休みだが、山田先生はソフトテニス部の顧問でもあるから、部活に来ているかもしれない。
今思えば、あの雨の日にテニスをしているはずはないと思うほうが自然だが、その時の僕にはそんな常識さえ浮かばず、普段着に傘一つで学校へ向かった。

「練習は中止にしたんですけどね、たまった仕事をちょっと進めようかと思って。どうしたんです?何か指導案のことでも相談に?明日でも間に合うのに。」
山田先生はしんとした職員室で、生徒の作文を読んでいるところだった。
職員室に人の気配がないことを、僕は天の助けだと思った。
「山田先生、実は、生徒から大変なことを聞いてしまって…。」

僕は彼女から聞いたままを、できるだけ正確に、山田先生に伝えた。
初めは片手に赤ボールペンを持ったまま半身で聞いていた山田先生だったが、途中からペンを置いて、椅子ごと僕の方に向き直って聴き入ってくれた。
「そうですか。そんなことが…。」

僕の話を聞き終えると、山田先生はしばらく考え込んだ。
僕はその場に立ったまま、山田先生の考えがまとまるのを待った。
僕だってあんなに長く考えたのだ。
時間がかかって当然だと思った。

けれども、山田先生の沈黙は、長くは続かなかった。
「わかりました。彼女の担任に相談をとも思ったけれど、それより僕からさりげなく彼女に聞いてみることにしましょう。事実確認ができるまでは、知っている人の数は少ない方がいいでしょう。」 
その言葉で、僕はあらゆる重荷から一気に解放された気がした。
「ありがとうございます!よろしく願いします。」
肚の底から感謝し、学校を出た。
手に余る難問は一気によき道へと引き継がれ、僕の裁量から去っていった。
雨はますます降り募っていたけれども、帰りの足取りは軽かった。

途中でトンコツラーメンに舌鼓を打ち、帰宅すると同時に布団に倒れ込むと、翌朝まで、僕は一度も目を覚まさなかった。

事件は、月曜日に起きた。

週末に仕上げると約束してあった指導案が一文字も進んでいないことを確認すると、山田先生は月曜日一日を指導案づくりにしてよいと言ってくれた。
ホームルームも実習の一部だけれど、その日はそれも免除だという。
正直、職員室にこもっている免罪符を受け取った僕は、内心ほっとしていた。
この状況で、不意に彼女と対面するのが怖かった。

この教材のまとめが、研究授業になる。
この教材で、彼らの人生に役立つ何を伝えたいか。
それを、どうやって伝えるか。
僕は考えに没頭した。
指導案の白紙が、次第に文字で埋まっていく。
頭の中で、僕は何度も教壇に立ち、説明し、生徒の答えを聞いた。

「あの、ちょっといいですか。」
山田先生に呼ばれて我に返った時、時計はすでに午後5時を過ぎていた。
「はい、何でしょう。たくさん時間をいただけたので、指導案ならもうすぐ見ていただけるくらいになりそうです。」
「いえ、そのことではなく、ちょっと校長室へ。」
「あ、はい。」
あのことだなと、ピンときた。

山田先生に続いて校長室に入ると、驚くことに、大学のゼミの教授が校長の横に立っていた。
教授が実習中に訪問することは聞いていたが、水曜か金曜のどちらか、僕が授業をする日だと聞かされていた。
何か予定が変わったのだろうか。
怪訝に思いつつ、言われるままに、黒い応接セットのソファーに腰かけた。

「あなたから情報があった生徒の件ですが…。」
口を切ったのは、僕の正面に座った校長先生だった。
校長先生の隣には、一足遅れて山田先生が座った。
教授は僕の隣で、硬い表情をしている。

校長の視線を受けて、後を山田先生が引き継いだ。
「昼休みに、丁度彼女がひとりでいたので、最近困っていることはないかと、軽く尋ねてみました。
すると、驚いた顔をして、ぜひとも聞いてもらいたいことがあるというのですよ。
その場では話しづらそうでしたので、相談室に来てもらい、じっくりと聞くことにしました。
それによるとですね、どうも、あなたの説明とは少し状況が違うようなのです。」

「どういうことでしょう?」
僕は前のめりに尋ねた。
「放課後、教室で本を読んでいると、実習生がやってきて、しつこく話しかけるというのですよ。」
「ええっ?」
「近くに座ってきたり、馴れ馴れしく…気分を害したらすまないのですが、彼女の言葉を借りるとですね…接してきたりするとか。」
「そ、そんなつもりは!」
「これは、あなたの物ですね。」

山田先生が大理石を模したローテーブルにことりと置いたのは、僕の本だった。
彼女に貸した『葉桜と魔笛』だ。
「頼んでもいないのに、こんな本を押し付けられた、断り切れず借りてしまったが、触りたくないのでカバーをかけたと…。」
「う…。」
嘘だと言おうとして、ふと止まった。
確かに、彼女から貸してくれと言われたのではない。
読みたいなら貸しましょうかと言い出したのは僕の方だった。
それにしても、なんという悪意に満ちた誤解だろう!
いやならば、断ってくれればよかったのに!!

「金曜日も、ひとりでいるところへあなたが当然のようにやってきて、あれこれ悩みを相談され戸惑っていたら、君も話せと言われていよいよ気分が悪くなり、なんとかその場を逃れるために、でっちあげの相談めいた話をしたのだそうです。」
「で、では、あの話は嘘だと?」
「彼女はそう言っています。さらに、あの実習生の姿は二度と見たくない、あの人が来る間は学校を休むと言っています。」
「ご、誤解です。僕はそんな…。」

そこで、校長先生が厳かに言った。
「教室には行っていない、本も貸していないと?」
「いえ、そうではありません。それは僕の本ですし、教室にも行きました。彼女と話もしています。でも、邪な考えなんかかけらもありません!そんなのは誤解です!!」

「ええ。彼女の誤解かもしれません。でも、私たちは、私たちの生徒を信じます。」
揺るがぬ巨岩にぶつかったような衝撃だった。
「彼女の理解が誤解か正解かは別にして、彼女が誤解するような振る舞いが、あなたにあったという点が重要なのです。」
「…。」
僕は絶句するしかない。

「私たちが一番に大切にしたいのは、申し訳ないが実習生のあなたではなく、我々の生徒です。彼女を休ませてあなたの実習を遂げさせる選択肢は、私たちにはありません。彼女のクラスでの授業を続けてもらうことはできないし、他のクラスで研究授業をしてもらっても、教育実習全体の評価として、及第点を出すことは難しいでしょう。」
「あの…彼女と話し合わせてください。僕が誤解を与えたなら謝らなければならないし、僕が聞いたあの話も、嘘とは思えないんです!」

「お気持ちだけで。彼女にはそう我々から伝えましょう。」
山田先生が、いつもの穏やかな声で言う。
「実習は打ち切りということで。よろしいでしょうか?」
校長先生の最後の問いは、僕にではなく、教授に向けられていた。
「はい。承知いたしました。大変なご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。その生徒さんが受けた心の傷を、どうか…。」
「はい、お任せください。」

一緒に帰ろう、荷物をもっておいでと教授に小声で言われ、僕は宇宙遊泳でもするような足取りで職員室に向かった。
他にお世話になった先生方がたくさんいらっしゃる。
でも、僕はそこであいさつをする気にもなれなかった。

校門を出るときに一度だけ学校を振り向いた。
希望と期待に煌めていていた場所が、今では灰色にくすんだ降魔殿に見える。
グラウンドから響く野球部の声も、吹奏楽の音色も、全てが葬送行進曲だ。

「先生、僕は…。」
「ええ。分かっています。あなたはそういうことをする人ではないからね。
高校が生徒さんを信じるように、私は君を信じていますから。」
「あ…。」
ありがとうが声にならず、不覚にも、大粒の涙が零れ落ちた。
顔を上げられない僕に、教授はひとことの小言も苦言もなく、かといって慰めもしなかった。
「こんなことがあっても先生になりたいなら、実習先はいくらでもあるから、またチャレンジすればいいでしょう。でも、君、よかったら大学院で研究を続ける道を選びませんか?」

僕は黙って頭を下げ、身をひるがえして、ここ、貴船オーナーがいる「ルナソル」を目指して駆け出したのだ。

あれから、3年。
僕は二度と教育実習に行くことなく、大学院へ進んだ。
あの日、屈辱に涙が止まらない僕を、閉店時間を過ぎてもずっと見守ってくれた貴船オーナーとは、言葉では表せない絆を結んだ。

今まで思い出すことも避けてきたが、あの時の女子高生は、あれからどうしたのだろうか。
僕が秘密を守らなかったことを覚って、彼女はあんな言い逃れをしたのだろう。
それとも、はなから僕をからかおうとしていたのだろうか。
あの逆光の中で震わせた肩は、泣いていたのではなく嘲笑っていたのか。

それでも僕には今でも、あの時の彼女の告白は、真実だったのではないかと思えてならない。
学校は、彼女の言い分を信じて僕を切り捨てる見返りに、親による重大な犯罪行為を見過ごしたのではないか。
彼女は希望通り、地方の大学に受かって家を出られただろうか。
僕には一切関係のないことだが。





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