「ああ、だめだわ。」
「ほんと、意外と難しいわね。」
6人のご婦人方はしばらく『死ぬまでにしたい10のこと』について黙考していたのだが、とうとう深いため息とともに投げ出した。
手元に配られたどのカードにも文字はまだなさそうだ。
ため息とともにペンを置いて、かわりにそれぞれのグラスに手が伸びる。
いつも機知にとんだ軽妙な会話を交わす集団だけに、僕は少し肩透かしを食らったような気がした。
「死ぬまでにって言われると、あと何年あるかしらとまず思うのよ。」
「そうね。」
白髪が混じっていてもよさそうなのに、一筋の白も見えない頭たちが頷く。
肌触りがよさそうなベージュのブラウスを着た60前後の一人が、唇を尖らせながら言い出した。
「100まで生きると思えばあと40年くらいあるわけでしょ。
そうすると、長いなぁ、なんでもできそうと思えてきますよ。
でも、待った待ったと、もう一人の私が言うの。
お前はそんなに生きられると思うのか?いいとこ残り10年だぞと。」
「そんなことないわよ。あなた、長生きしそうだもの。」
「あら、憎まれっ子世にはばかるとでも?」
「いい歳をして、自分を『子』だなんて言えるんだもの、太鼓判だわ。」
うふふ、あははと笑い合ってから、話が続く。
「仮に10年だと思うと、その間にしたいことは年に1つずつよね。」
「まあ、そういうことになるかしら。」
「ピンピンコロリと逝くとしてのことだけど。」
「それが理想よぉ。」
どなたも異存はないようだ。
「これから1年に1つずつ、これだけはということをしていこうと思うと、なんだかしっかり考えなければと思い始めて。」
「ええ、ええ。」
「でも、考えれば考えるほど、どうでもいいことばかり浮かぶのよぉ。」
「例えば?」
僕は耳をそばだてた。
「最初に浮かんだのはね、ステーキなの。」
「ステーキ?」
「あの、牛肉を焼くステーキのこと?」
「そうよ、そのステーキ。」
「まぁ。それで?」
「私ね、一度でいいから、鉄板焼きというのかしら、そこへ、こう、こういう厚みの最高級のお肉を載せてジュジューッと焼いて、網目みたいな焦げ跡がついたステーキをね、食べてみたいと思ったの。」
彼女は右手を顔の高さに挙げて、人差し指と親指で5センチくらいの隙間を作っている。
分厚いステーキに憧れているのだな。
「ナイフがすーっと吸い込まれるように切れて、内側はいい感じに赤みなのに、生ではないのよ。それを一口頬張ると…」
彼女は架空のステーキをスッと切ると、左手に持っているらしいフォークで口に運んだ。
もぐもぐもぐ。
「あー、なんて柔らかいのかしら。まるでとろけるみたい!なんて言ってみたいわけよ。」
彼女の熱演に、周りは頬を緩めている。
「いいじゃない。それで1つ目はクリアで。」
「ところがよ。」
「何?」
「そんなの、今日の帰りでもできると思うのよ。」
「まあ、確かに。そういわれてみればそうね。」
「それに、分かっているわけでしょ?」
「え?」
「やってみたらどうなるかが分かってる。美味しいに決まってるもの。」
「ああ、そういうこと。」
「もしも美味しくなかったら、それこそショックよね。」
「でしょう?私の死ぬまでにしたい大事な10個のうちのひとつが、そんなお手軽なことでいいのかしら?って思ったら、なんだか書けなくなったのよ!」
「私もいくつか浮かびはしたのよ。」
「あら、聞かせてー。」
「たとえばね、あ、穂高くん、さっきの赤ワイン、ボトルごとちょうだい。」
「はい、かしこまりました。」
僕は盗み聞きを見抜かれた気がして、内心ギクリとしながら立ちあがったが、深緑のベルベットのジャケットを着た彼女はすぐに話に戻っていった。
「あと5キロ痩せたいとか、畳替えしたいとか、ハワイに行きたいとか、野生のシロクマが見たいとか。」
「なんだか…雑多ね。」
「でしょう?自分でもそう思うもの。思い浮かぶ端から、『それ、真剣にやりたいの、私?』って尋ねてみるとね、どうもなんだか違うしね。」
「興味があるには違いないのに、どうして違うのかしらね?」
問いかけたのは一番年上に見える女性だ。
「それなんですよ。さっきからずっと考えていて、分かった気がするの。」
「教えて?何?」
「やってもやらなくても、何も変わらないってこと。」
「あら、そんなことないわ。何かしたら、きっと何かが変わるわよ。」
「それはそうなんだけど…もっとうまい言い方はないかしら。えーっと…。」
瞳を左右に動かしながら考え込む彼女を見て、口元をほころばせた最年長がボソリと言い添えた。
「つまり、それをやって変わるとしても、そんな変化は望んでいないと。」
「そうですわ。そうなんです!」
「私、伺っていて思ったんですけどね、やりたいことを先に考えるから迷ってしまうのではないかしら。目的地を定めずに旅立ったのと同じように。」
最年長の言葉はしっとりとした重みがある。
声を張らないから、ともすれば聞き逃しそうだ。
だから、彼女が話し出すと、みんなの耳がそちらに集中する。
きっと、生きる知恵がふんだんに込められていることを、みんな知っているのだと思ったりする。
おばあちゃんの知恵袋って言うし。
「お題を聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのは、何をしたいかではなくて、どう死にたいかだったの。」
「まぁ!」
「だって、もう明日お迎えが来てもおかしくない歳ですもの。」
「そんなことないですよ。」
「縁起でもないことおっしゃらないで。」
彼女に対しては、みなが少し丁寧な言葉を使う。
「いいんですよ、本当のことだから。
このくらいになると、死ぬという現実から目を背けてはいられないの。
いかに死ぬかはいかに生きたかの結果だというけれど、私は少し違うかもと思うの。」
みな静かに彼女の話の続きを待っている。
赤ワインのグラスをわずかに減らしてテーブルに戻すと、彼女は続きをゆっくりと話し出した。
「この中でも、あの戦争のことを覚えているのは私と…あなたくらいよねぇ。」
「ええ、そうですわね。」
視線を向けられた琥珀色の花柄をしたステキなジャケットの女性が頷く。
「それでも、あなたが覚えているのは戦後のことでしょう。
爆弾が空から降ってくるあの恐ろしさを覚えているのは私だけね。」
みな一様に押し黙った。
「お友達はみな疎開していたけれど、私は体が弱くてね、母が手元に置いておくしかなかったの。
だから、あの東京の大空襲をこの身で体験したの。
あの日も熱を出して寝ていたの。ひどい空襲でね。
お庭に小さな防空壕が作ってあったのだけど、それでは心許なくなって、母は私の手をひいて、もっと安全なところへ逃げようとしたのね。
あの時の恐ろしさは今でも昨日のことのよう。」
彼女の目の裏には、きっとその時の光景がまざまざと浮かんでいるのだろう。
静かに閉じた目をゆっくりと空けると、彼女は言葉を続けた。
「あれはどこだったのか、走り疲れて座り込んだのね。
自分の体の中から上ってくる熱い息と、それ以上に熱い空気が頬をチリチリと焼き続けて…。
息をつく間もなく、爆弾が近くに落ちて、私たちは建物の下敷きになった。
オレンジ色の火花、悲鳴、何もかもが焼けていく臭い、どこが痛いのか分からないくらいの激痛…。
その時私、思ったの。
ここで死ぬのかもしれないって。
でも、そんなのは嫌だ!と思ったのよ。
非国民でもかまわない。
大好きなおうちのお布団で、お父様やお母様や弟と一緒にいて、私は幸せねって思いながら死にたいって、心の底から思ったの。」
「助けられたのですね。」
「ええ。母も怪我はしたけれど、命は助かったの。
父はパラオで戦死してしまいました。
だから、母と、遠くに疎開していた弟と3人、戦後を生きたの。
時代はどんどん移り変わって、私は歳を重ねたけれど、あの時の思いを忘れることはなかったわ。
両親はもういないし、弟まで先立ってしまったけれど、それでも、自分の家で、家族に囲まれて、幸せだったと感じながら逝きたいと誓った気持ちは変わらないの。」
この話には誰もが頷くしかない。
いつの間にかゆかりさんが僕の隣にいて、彼女の話を一緒に聞いていたようだ。
何度も深く頷いている。
「あの時の恐ろしさに比べたら、その後の人生で起きた辛いことや困ったことは、みんな自分の力でなんとかなりそうな気がしたわ。
空から降ってくる爆弾を止める力はなかったけれど、死にたいように死ぬことは、自分の努力でできそうな気がするんですもの。
あの日からずっと、私はその日に向かって生きてるのだわ。
どうやって生きていたら、最後に幸せだと思えるかしらってね。」
「このお題は私たちにとても大切なことを気付かせてくれそうね。」
「ほんとにそうだわ。ぜひ、いい加減に終わらせてしまわずに、納得いくまで話しましょう。」
「ええ、そうしましょう、そうしましょう。」
「穂高くん!」
突然呼ばれて驚いた。
手招きされたので、急いで席に近づく。」
「はい、お呼びでしょうか。」
「よく聞いていたでしょ。」
「はい、すみません。」
「いいのよ。あなたも考えていらっしゃい。」
「は?」
「聞きたいわ。お若いあなたの『死ぬまでにしたい10のこと』。」
「はぁ。」
「ママさん、あなたもね!」
とんでもないことになってしまった。
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