太宰の本を彼女に貸した翌日は、実習最初の一週間の最終日でもあり、彼女がいるA組の2度目の授業でもあった。
6月の梅雨時だというのに、その1週間は雨が降らなかった。
高2にしては簡単すぎるのではないか?と思うほどわかりやすい評論を教えるのはたやすく感じられ、物足りなく思う生徒の存在を思って、僕は少しずつ脱線して、あれこれと蘊蓄を織り交ぜた。
物足りなく思う存在…その時僕は漠然とそう考えていたけれど、今にして思えば、それは、あの彼女のことだったのだと言い切れる。
授業は無難に終わり、放課後遅く、僕はまた彼女の教室を覗きにいった。
いてもいいかと問われた通り、彼女はまだ教室にいて、その日も本を読んでいた。
吹奏楽部はにぎやかにマーチを奏で、グラウンドの野球部は時折高い金属音をさせながら盛大に声を上げている。
「やあ、熱心だね。」
「あ、先生。今日も黒板の練習ですか?」
「うん。読書の邪魔にならない?ここは君の教室ですから。」
「邪魔なんて!どうぞ。」
「では、失礼して。」
そう言いながら彼女は、もう読書に戻ることはなく、僕は僕で黒板に字を書く前の難問に答えを出せずにいた。
どういう経緯だったか、僕はその難問を彼女に話したのだ。
「来週の今日が研究授業なんですけどね、今日の僕の授業を見て、山田先生から難問をいただいてしまったんだ。」
山田先生は僕の指導教官だ。
40代半ばくらいの穏やかな男性で、いつもきちんとアイロンがかかったシャツに、無地ではないスラックスを履いている。
口調もおっとりとしていて、この先生が生徒を叱るところなど想像できないほどなのだが、なぜか山田先生が教卓の前に立つと、生徒はふっとおしゃべりをやめて前を向く。
僕は大声をあげなければ振り向いてもらえないのに。
「難問って何ですか?私が聞いてはいけないようなこと?」
「生徒に聞かせていいかどうかわからないけれど…。まぁ、いいでしょう。あのね、山田先生は僕の授業を『評論文を教えている』授業だとおっしゃるんだ。」
「え?でも、評論ですよね?」
「確かに評論だよ。でも、山田先生がおっしゃるには、『本物の国語教師は評論”を”教えるのではなく、評論”で”教えるのだ』ということなんだ。僕にはその違いが分かるようで分からない。」
「”を”と”で”の違いってことですよね?」
「まぁ、そういうことなんだろうね。」
彼女は漆黒の長い黒髪を片頬に落として、しばらく考えると、ふとつぶやいた。
「そうか!だから山田先生の授業っていつも面白いのね。」
「どういうこと??」
僕は教卓の前から彼女が座っている机の隣に移り、その椅子に座った。
「つまり、目的と手段ってことですよね。」
「え?」
「先生は評論を教えることを目的になさっている。でも、山田先生には教えたいことはほかにあって、評論文はその手段だっていうこと。」
「ああ、なるほどね。で、その教えたいことって?」
「そのことに、私も今気づいたんです。山田先生はいつも、生きる知恵みたいなこととか、社会のルールとか、なにかこう、教科書にそのまま書いてあったりはしないんだけど、すごく大切そうなことを話してくれていたんだって。だから私たち、山田先生の国語はみんな大好きで、けっこうやんちゃな人たちも授業の邪魔をしたりしないんですよ。」
ああ、そういうことか。そうか!
僕の目の前の黒いカーテンがサッと開いて、眩しい朝日が差し込んできたような、よろめきに似た衝撃を感じた。
ならば、分かりやすいものを解りやすく言い直しているだけの僕の話は、授業なんて呼べるものではない。
僕には生徒たちに伝えたい何物もない。
衝撃ではあったけれど、あの時の僕は心底気持ちが前向きだったのだろう。
よし、次の水曜日にまたA組に行くまでまだ時間がある、そこのところをもっと考えてみようと思えた。
「ありがとう。君のおかげで、悩みも解決。スッキリしたよ。お礼に、僕も君の悩みを聞いてあげるよ。」
深い意図などあろうはずもない。
ただ、本当に軽い気持ちで口にした言葉だった。
「お礼だなんて。」
彼女は口元を小さく微笑みの形にした。
「悩み、ないの?」
「悩みですか?」
彼女が特にこれと言い出さないので、僕は勝手にしゃべり続けた。
「それにしても君は毎日こうして暗くなるまで教室で本を読んでいるの?本なら家でも読めるでしょうに。何か帰りたくない理由でもあるのかな?」
その時の、彼女のはっとした表情は今でも思い出せる。
「先生、私の悩み、聞いてくれるんですか?」
「聞くよ。」
「誰にも言わない?」
「もちろん。」
守秘義務については、実習前に誓約書を書いた。
校長先生からもしつこいほどに言われたから、よく分かっている。
彼女はごくりと唾を飲み込んだようだ。
丁度、西日が強く差し込み始めた。
窓を背にして座る彼女を見ると、眩しくて仕方がない。
強いオレンジの光に守られて、僕には彼女の表情が見えない。
「私の母は、私がまだ小さいときに離婚して、今の父と再婚したんです。
私、新しい父のこと、けっこう好きで、すぐに仲良くなりました。
でも、私が中学生になったころから、父がなんだかおかしくなったんです。」
「おかしく?」
「私の入浴中にお風呂場をのぞいてきたり…。」
「…。」
「最初は気にしないようにしてたんです。でも、だんだんひどくなってきて。母がいないとき、家に二人だけになると服を脱げとか…下着をとって見せろとか…。」
「そんな、そんなばかな!」
「いうことを聞かないと殴られるんです。」
「だめだ。お母さんは?お母さんには相談したの?」
「ずっと言えませんでした。でも、耐えられなくて…。」
「お母さんは何て?お父さんと話し合ってくれたの?」
「話し合いというか、ケンカに。でも、私が悪いって言うんです。」
「なぜ!?」
「……。」
僕は絶句した。
こんなひどい話があるだろうか。
僕は興奮の極みにいた。義憤というのだろうか。
「あの、こんなこと聞いてはいけないと思うけど、でも、あの、見せろって言われるだけなの?あの、その、触られたり…はしていないの?」
そんなことを聞いて、僕はいったいどうするつもりだったのだろう。
何の考えもなかったくせに。
「…。」
彼女の答えはなく、代わりにひと際強くなった光の中で、黒いシルエットの肩が震えているように見えた。
「ダメだよ。許せない。」
「ありがとう、先生。聞いてくれて。」
「聞いただけじゃ!それで君、家に帰りたくないから、こうしてここにいるんでしょう?」
「いいんです。誰にも言わないでください。
大丈夫、私。地方の大学に行きます。
それで、家を出ます。それで終わりますから。
誰にも言えないけど、誰かに聞いてほしかったんです。
だからもう、忘れてください。」
「そんな馬鹿な!」
「じゃ、さようなら。ほんと、忘れてくださいね。」
彼女は素早く身を翻すと、教室を駆け出していった。
僕は、教室に一人取り残された。
この部屋に来た時よりも何百倍も何千倍も大きな難問を抱えて。

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