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あなたも幸せ。私も幸せ。

2015年09月


『Luna Y Sol』。
その店の看板に書かれた文字が英語でないことくらいしか、僕には分からなかった。
姉さんにそっと尋ねると、ルナソル、と答えた。
そのやり取りを聞いていたらしい男が、勝手に割り込んできた。

「Lunaは月で、Solは太陽。真ん中のYはイと読むんだけど、店の名前では省略ね。
で、月と太陽だから、朝から晩まで。つまり、一日中ステキなところだよって気持ちを込めて名付けたんだ。
ちなみに、スペイン語だよ。」
なるほどと、一瞬感心しかけたが、いかんいかん。
僕は、どうもこの男がいけ好かない。
初対面で、ほとんど会話らしい会話もしていないのにいけ好かないなどと言ってはいけないが、女の勘に勝るとも劣らず、弟の勘というのは鋭いのだ。

案の定、姉さんは男の話にかなり嬉しげに聞き入っている。
数年来の農作業から、2か月ほどでは全く褪せない小麦色の肌に、真っ白いシャツが眩しいほどに似合っている姉さん。
スペイン語だと?
日本人は、日本語が美しく話せればいいのだ。
無意味な反感がどこから湧いてくるのか自覚できるだけに、よけいに気に食わない。

「私ね、サトル、コーヒーのことをもっと知りたくなったの。」
「ふうん。」
木で鼻をくくったような返事をして、僕は人間たちから目を逸らす。
けっこうキツい坂の途中、住宅街の真ん中に、ルナソルは存在感をありありと示して建っていた。
白い壁のオシャレな家が並ぶ中、ルナソルは驚くほどのオレンジ色をしたレンガで覆われていた。
通りからわずかに奥まった扉までの間には真っ白な石畳が敷かれ、両脇には濃い緑の葉が、ほどよい高さで茂っている。

こげ茶色の木の扉を押すと、カウベルが鳴った。
店の中も、石畳のような質感の床になっている。
オーナーらしき男の年齢には不釣合いな、使い込まれて味の出たテーブルや椅子が、真っ白い店内に温かみを添えている。

カウンターの向こうには、20cm四方くらいに区切られた、ドアと同じ色の板で作られた格子の棚が広がり、一目で美しさに吸い寄せられるようなカップたちが並んでいる。
ただ、美しいと言っても、ウエッジウッドだのロイヤルコペンハーゲンだのといった、紅茶に似合いそうな人工的な煌めきの美しさではない。
ただただ、存在感のある、はっとさせられるような器たちだ。

そういえば、平日の昼下がりというのに、それなりに客がいる。
ひとりでいるテーブルはほとんどなくて、二人、三人と楽しげに語り合っている。
喫茶店なんて何度も入ったことはないけれど、この店はけっこう大きい方なのではないかと思う。
テーブルが、1、2、3、4…8つもある。
それに、カウンター席。

奥の席にいた年配の品がよさそうな夫人がそっと手を挙げた。
「葉月ちゃん。」
男が声をかけるのよりも一歩早く、姉さんは僕の脇を離れて、そちらへ向かっていた。
「君のお姉さんは本当によく気が付く。動きも機敏で素晴らしい。こういう人に働いてもらうと、手放したくないと思うのは当然だろ?」
突然何を言い出すかと思えば、この無礼な男は、人の大事な姉を「ちゃん」づけで呼んだ挙句に、手放したくないときたもんだ。

僕は男に答えてやる義務はないとばかりに、格子の棚に目を戻した。
さっき見た中にひとつ、僕を釘づけにしたのがあったのだ。
丁度両手の中にすっぽりと収まるほどの大きさで、外側が、驚くほど鮮やかな黄緑色をしている。
そこに、花が一輪。
あれは、多分姫百合だろう。
内側はどうなっているのだろうか…

カリンと、水滴をいっぱいにつけて氷だけになっていたグラスの中で、その氷が音をたてた。
飲もうと思ってグラスを手にした僕は、そのままテーブルに戻す。
グラスの下の方で、アイスコーヒーが何倍にも薄まって、わずかに残っている。
ばつが悪くて、水滴に濡れた指をナプキンで拭いてみた。

「オーナー。」
注文を受けたらしい姉さんが男を呼ぶ。
図々しく、僕の目の前に腰かけていた男は、立ち上がりながら言った。
「次はホットでいかがですか、お客様。あちらのカップでお気に召したものがあれば、それを使ってご用意いたします。」
「あの、黄緑の、姫百合がついた…。」
僕はつい、本音で答えてしまった。
「かしこまりました。少しお待ちください。」
男は、先ほどまでの馴れ馴れしさとは打って変わって、丁重に頭を下げるとカウンターの向こうへ帰っていった。

伝票をちらりと確認する。
密閉されたガラス容器の一つから、豆を取り出すと、カリカリと音がし始めた。
「ああやってね、ご注文をいただいてから豆を挽くのよ。」
いつの間にか戻ってきた姉さんが言う。
カウンターに遮られてよく見えずもどかしく思ううちに、次に見えたときには男の手にポットがあって、その口から細く湯が流れ出るところだった。
しぐさのひとつひとつに、真剣さが宿っている。
じきに、音もたてずに、ひとつのカップ&ソーサーがカウンターに置かれた。
真っ白い器を、姉さんがすっと受け取り、トレイに乗せて運んでいった。

目をカウンターの奥に戻すと、男があの黄緑色のカップを棚から下ろしたところだった。
これも、コーヒーマジックか。
僕は、さっきまでいけ好かないと反感しか感じなかった男のすることから、いつの間にか目が離せなくなっていた。





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梅雨が明けた。
故郷に比べると年中まとわりつくような湿気を感じる東京では、夏の日差しが強まるほど「暑い」よりも「蒸し暑い」と思う時間が増える。
ゆかりさんが北海道へ旅行に行ってしまい、小紫は一足早い夏休み。
僕はこの5日間をどう使おうかと考えているうちに当日を迎えてしまい、自分の手際の悪さに苦笑いしながら、さしあたり、窓と玄関を全開にして、せっせと掃除機をかけた。
それから、シーツと枕カバー、タオルケットにバスタオル、お風呂マットとトイレマットも洗おうかと、洗濯三昧のうちに半日が終わってしまった。

うちにはタオルケットを干すような場所はない。
そんな時には使うといいわと、ゆかりさんが言ってくれていたのを思い出し、僕は洗い立てでずっしり重たいタオルケットとシーツを洗濯カゴに山盛りにして、小紫の隣にある、ゆかりさんの家に向かった。
小さな庭に、物干しがある。
今は何も干してないので、2本ある洗濯竿の片方にタオルケットを、もう片方にシーツをびしりと伸ばして干す。
家では、いくつかに折りたたんで吊るすしかないのに比べると、これはもう贅沢としか言いようがない。
この庭には、うまい具合に陽が差す。
今日は風も日差しも申し分ない。
夕方とりこみに来れば、今夜は陽だまりの香りに包まれて眠ることができるだろう。

洗濯カゴを縁側の隅に置かせてもらうと、僕はそのまま、出かけたくなった。
とはいえ、遠出がしたいわけではない。
夏休みなのは自分だけで、世間一般はただの平日と思えば、友達を誘いだすのも難しい。
おなじみの元さんや長さんだって、いまは仕事の時間だ。
それに、どういう加減か、今日は一人でもよい気がする。
では、ひとりでどこへ行こうか、映画?美術館?買い物?
どれも違う気がする。

差しあたり駅へ向かう道を歩く。
改めてこうしてみると、普段気付かないでいたけれど、ずいぶんと静かな街だ。
いや、違う。
街とは本来、どこもこんなふうに静かなのだろう。
渋谷や新宿や、日本の中にいくつもないような街を基準にするよりも、こういうごく普通の街のほうを基準にするのが妥当というものだ。

他愛ないことを考えていたら、ふと、頭にひとつの風景が浮かんだ。
そうだ、これだ。
あそこへ行こう。
僕は駅から電車に乗り、病院へ向かうルートをたどることにした。

家からさほど時間がかかるわけではない。
病院に行くのと同じ駅を降り、病院とは逆の出口から街へ出る。
病院がある方はかなりにぎやかに開けていて人も多いが、反対側は駅に近いあたりにこそ店も集まっているが、それもすぐに途切れて、閑静な住宅街が広がる。
道はゆるやかな坂になり、次第に勾配を増していく。
初夏の日差しを浴びながら坂を上るうち、僕はぐっしょりを汗をかいた。

一般の人は、いったい何歳くらいから、坂を上りながら、自分の体重を感じるようになるのだろう。
さほど体力に恵まれた子供でもなかった僕でも、小中学生の頃は、きつい坂を上って息を切らせることはあっても、体とは存外重たいものなのだなどと感じたことはなかった気がする。
僕がそのことに初めて気づいたのは18歳の夏、この坂から振り向くと、家並みの向こうにそびえたっているあの巨大な病院で過ごした2か月ほどの後、退院の日に、姉さんとこの坂を歩いた時だった。

きっかけは、こうだ。
「姉さん、病院にいない時間、どこで何をしているの?」
退院間近になったある日、僕は何気なく姉さんに尋ねた。
「いろいろ。なんで?」
「別に理由はないけど、最近はそんなに病院にいてもらうわけでもなくなっただろ?
毎日掃除するほど広い家に住んでるわけでもないし、何しているのかなぁと思って。」
「あ、なるほどね。」
姉さんはすぐに納得すると、なぜかちょっと照れ笑いを浮かべた。
「え?何?」
「ああ、何でもない、何でもない。
実は、先月からバイトしてるんだ。」
「バイト?そうなんだ!」
「うん。でも、あんたの医療費が足りないとかじゃないよ。
せっかく東京に来たんだし、何か、あっちにいたらできないことをしてみようかなぁと思って。」
「ふうん。で、何のバイト?」
「喫茶店のね、ウエイトレス。」
「ウエイトレス?」

僕は姉さんがあの服…ええっと、なんていうんだっけ?…そうそう、メイド服!あれを着て働いている姿を想像してしまった。
それでさっき、赤面したのか?
「まさか、メイド喫茶とかいう、あれじゃないだろうな?」
「はぁ?!あんた、何想像しているの?」
姉さんは、抗がん剤の副作用ですっかり髪がなくなっている僕の頭を遠慮なくピシャリと叩いた。
「なんだよ、痛えなぁ!」
「そんないかがわしい仕事をすると思う?」
「いかがわしいかどうか、知らないよ。行ったことないし。」
「違うわよ。すぐそこの、普通のコーヒー専門店よ。」
「へぇ。そうなんだ。」
「うん。あのさ、母さんの日記の最後になんて書いてあったか覚えてる?」

姉さんに尋ねられて、僕はすぐに思い出した。
「うん。覚えてる。もう一度、コーヒーが飲みたかったなって。」
「そうそう。あたしね、あれがずっと気になってたのよ。
うちにはインスタントコーヒーしかなかったでしょ?
だから、母さんがいう『コーヒーが飲みたかった』って、きっとレギュラーコーヒーだよねって、話したことあったよね。」
「ああ、そうだったね。」
「それで、こっちに来てから、買い物のついでとか、美術館に行ったときとか、あっちこっちのコーヒーショップに入ってみたのよ。」
「ふーん。うまかったか?」
「それがねぇ…。気軽なコーヒーショップのコーヒーって、美味しいけど、なにかこう、砂糖を飲んでいるみたいに甘くて、母さんがあれを好きだったとは思えなかった。」
「確かにそうだね。母さん、別に甘いものがすごく好きってわけではなかったと思う。」
「嫌いじゃなかったけどね。で、喫茶店で、砂糖とかミルクとか入れないコーヒーを飲んでみようと思ってね、これもあちこち、行ってみたの。」

でも、それほど違いがあるわけでもなく、姉さんも最初からコーヒーが好きだったのでもなかったから、母さんがコーヒーの何が好きだったのか、よくわからなかったらしい。
「でもね、あの店…今、バイトしているところね…そこで飲んだコーヒーが、ほんとに美味しかったの。」
「何が違うの?」
「うーん、一口では言えない。でも、確かに美味しいコーヒーってあるんだよ。」
「そうなのか。」
「あたしね、時々そこでコーヒー飲むうちに、コーヒーの奥深さに引き込まれたんだ。
もっと知りたいと思っていたら、丁度バイトの募集をしているって聞いたの。
病院からも近いし、ブラブラしているのも性に合わないしね。」

それじゃ、退院したら連れて行ってよと僕が言った。
いいよと答えた姉さんは約束通り、退院のその足で、僕をその店に案内してくれ、すっと奥に引っ込むと、真っ白い七分袖のワイシャツに黒くて長いエプロンを腰骨で締めた、ダンディな姿で再登場した。
「うわっ!」
僕は驚いてしまった。
姉さんって、案外美人だったんだなと思ったのはこの時だ。
実はメイド服だって似合うのかもしれないと、余計な考えが頭をかすめたけれど、姉さんには言わなかった。

「そう、君が葉月ちゃんの弟くんか。退院おめでとう。」
どこか癇に障る男が、ここのオーナーだった。
アイドルみたいな顔をした、30そこそこの男だ。

そいつが差し出してくれたアイスコーヒーを、退院してすぐの重たい体を引きずるように坂を上ってきた僕は、すごい勢いで飲んだ。
ミルクだのガムシロだのを入れるのはすっかり忘れていた。
「うまーい!」
それは、本当に美味しかった。
姉さんの顔がパッと輝くように笑った。
「でしょ?」

僕はドキリとした。
姉さんは、コーヒーの魔法にかかっていたのだ。





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「ご心配をおかけしました。」
再び小紫の営業時間にちゃんと働けるようになった僕は、常連さん方のお見舞いの言葉に平身低頭、何度も頭を下げた。
大事をとってと言ってくれるのに甘えていたけれど、昨日にはゆかりさんの家で世話になるのもおしまいにして、アパートに戻った。
もう、大丈夫。
体が回復してくると、気持ちも持ち上がり、気持ちが持ち上がると、体の回復はもっと早まった。

運よく、ゆかりさんにインフルエンザをうつしてしまうこともなかった。
それにしても、どこからもらったものか。
ここのお客様でインフルエンザに苦しんだ人がいるのだろうか。
それとも街で?

「穂高くん、こっち来なさいよ。」
元さんが高く手招きしながら呼んでいる。
「いいわよ、行って。ホストになったと思って、楽しませてさしあげなさい。」
ゆかりさんが変なことを言って、僕の背中をポンとたたいた。
久しぶりに着たバーテンダーの服は、少しだぶついているようだ。
熱を出している間に、ちょっと体重も減ったのだろう。

いつもの定位置で、元さんのほかに、宮田先生と八百屋の長さんも一緒に飲んでいる。
「もうすっかりいいのか?」
元さんが僕の顔色を覗き込む。
「はい。もう薬も飲んでいないし、飯も食えます。ひとにもうつらないそうです。」
「そりゃよかった。大変だったな。」
「はぁ、熱の出初めは、このまま死ぬんじゃないかと思いましたぁ!」
僕の言葉に元さんと長さんは大笑いしたけれど、宮田先生はそっと微笑んだだけだ。

「それにしてもさ、インフルエンザは確かに大変だけど、なんだって大学病院になんか行くんだ?」
元さんはそこのところが不思議だったらしい。
「それもさ、あの病院は、ちょっと熱出したからって診てもらえるような病院じゃないだろ?先生にいくら聞いても教えてくれないんだよ。」
「そりゃ、いくらいい加減な私でも、守秘義務くらいは知ってますからねぇ、穂高くん。」
宮田先生は、僕の既往を黙ってくれているらしい。

大学病院で薬をもらったと話したのは僕自身だ。
そんなことに疑問を持たれるとは想像もしなかった。
過去の病気のことも、隠し通そうと思っているわけではない。
ただ、言いふらすことでもないと思っているだけなのだ。

「ママに聞いても教えてくれないし。」
「ママは私よりよっぽどたくさんの秘密を守っているからね。」
宮田先生が空になったグラスを僕に渡しながら言う。
僕は宮田先生のグラスに氷を足し、琥珀色の液体を静かに注ぎながら、この人たちにならば話してもいいかと思った。
「7年くらい前に、入院していたんですよ、あの病院に。それで、今でも年に1度は検査に行くので、主治医がいるんです。」
「7年というと…18歳か?どこが悪かったんだい?」
元さんの問いかけは、稲刈りを終えた農夫たちが、肩が痛い腰が痛いと言い合うような気楽さで、 僕は僕の答えがその軽さにそぐわないことを知りながら口に出すことがためらわれて、言いよどんでしまう。

「ん?無理に言わんでいいんだぞ。」
何かを感じた長さんが助け舟を出す。
「あ、いえ。僕はその時、白血病だったんです。」
できるだけ、深刻に聞こえないように、頭痛や肩こりと同じくらいに聞こえるように…
「なんだって?」
それでもやはり、元さんは目を剥いて、瞬きを忘れてしまったようだ。
「白血病とは…今は元気そうに見えるけど、まだ悪いのか?治療しながら生活してるのか?それとも九死に一生を得たってことか?」

よく分かっている宮田先生以外の2人は、明らかにしょげ返ってしまった。
晩酌の店で、酒のつまみに聞く話として、若い命が消えかけた話は重たすぎる。
「あまり知られていませんが、子どもがかかる白血病はほとんど治るんですよ。」
宮田先生が、患児の親に説明するときのような思いやりのこもった声で説明する。
「治る?だって、白血病っていうのは血液のガンなんだろ?ガンは簡単には治らないんじゃないのか?」
「白血病といっても、細かく言うと何種類かあるんだけどね、今ではどれも治療法が分かってきていて、成人でも半分くらいは治るし、子どもの場合はもっと薬が効くから、80%以上が発症後5年たってもちゃんと生きている。もう不治の病じゃないんだよ。」

5年生存率は80%。
姉さんが恋待先生から聞いた数字もそうだった。
僕の病気は、微妙な年齢だったから、どちらに属するか…というところだった。
でも、運よく、小児の白血病と同じ経過をたどった。
3週間ほどの抗がん剤治療で寛解期を迎え、白血病の症状は消えていた。
そこから完治に向けて、3年ほどの治療が続いた。
でも、その3年間、ずっと入院していたわけでも、活動制限があったわけでもない。
1年の夏休みは入院と自宅療養で消えたけど、その後の僕は普通に大学に通い、普通に遊んで暮らすことができた。
そのうち、病気が消えていったのだ。
僕は運よく80%の方に属することができた。
確かに、ベッドを並べて入院していた子の中には、残る20%の方だった子もいた。
紙一重といえば、確かにそうだ。
ともかく、僕は最短最善の治療効果を得て、病気と手を切ることができた。

「そうなのか。それにしても、ただならぬ経験をしたのは確かだな。」
「僕は言われるままに治してもらっていただけだけですけど、姉は辛かったと思います。」
これは本音だ。
「僕の身内は姉だけなんです。5歳年上ではありますが、あの頃の姉さんはまだ23だったわけで、5人に1人は5年以内に命を落とすかもと言われたら、4人は助かるとは考えられないですよね。」
引っ越して、仕事もやめて、僕の闘病生活に付き合ってくれた姉さんの胸の内を思う。

子どものころから、姉さんはいろんなものを背負っていた。
一人で子育てをする母さんを支えて、いつまでも子供の僕に母親の愛情を譲ってくれたようなものだ。
母さんが亡くなった時も、ひとりで僕を待っていた。
それでも、姉さんはいつでも、僕の姉さんでいてくれる。
「すごい人なんですよ、姉は。」
「どうも、そうみたいだね。」
元さんが、うす汗のにじんだ額を撫で上げながら言う。
「見上げた人だ。」
「弟から言うのもなんですが、けっこう美人なんです。」
「へぇ。それはお目にかかりたい。」
「ええ、いつかきっと、ぜひ。」

僕はちょっと居住まいを正して、はっきりとお願いすることにした。
「あの病気には再発のリスクも確かにあるんです。
だから、毎年検査を受け続けてます。
もし再発しても、早期発見ができれば、やっぱり治療はできるそうです。
僕はこうして元気ですし、だからみなさんも、僕を特別扱いしないでくださいね。
ただ、高熱を出すのはちょっと怖いので、コイツ熱があるか?危ないなぁと思ったら…」
「すぐに私のところへ連れてくるように。」
宮田先生がようやく声をたてて笑った。

僕はあれから、5年生存率の5年を生き延びた。
負けるもんか。
僕の人生は、まだまだ始まったばかりなのだから。






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一晩点滴を打ってから連れ帰ってもらったゆかりさんの家で、僕は結局1週間を寝て過ごした。
悪い病気の再発ではなく、季節外れのインフルエンザだったと分かった時は、安心するやら拍子抜けするやら、なんとも複雑な心境だったが、高熱の原因がはっきりすると、それはそれでやはり辛くて、我ながら情けないことになった。

もし一人暮らしのアパートに帰って、腹が減った時には自分でどうにかしなければならない状態だったら 、少しはシャキッとしたのかもしれない。
でも、温かくて作り立ての消化が良くて美味い食事が、声をかける必要すらなく、そっと運ばれてくるし、朝になるとパリッと洗濯をして洗剤が香るようなパジャマが出てきて着替えさせてくれるし、何不自由ない。
湯上りに体を冷やさなければ、さっと汗をながすための入浴もOKとのことで、自分の部屋では味わえない、ヒノキの浴槽でたっぷりのお湯の水圧を感じたりしていると、かえって病気でいるほうが都合がよいような気がしてしまうほどで、なんだか気合いが入らない。

四六時中見張っていなければならない状態ではないからと、ゆかりさんは店にいることが多い。
この部屋が小紫のほうに寄っているからだろう、 時折カチャンカチャンと食器を洗う音がしたり、まな板の音が響いたりする。
夜になればカラリンコロンとカウベルも聞こえる。
ああ、みんなあそこにいるんだなと思うと、それだけで温かい。
それだけで、具合が悪いことが心の負担にならなくなる。

ゆかりさんは食事を運んできてくれると、僕が食べ終わるまでの間そこに座って、 なにかれとなく話していく。
その様子は入院中の姉さんを思い出させた。

抗がん剤治療は副作用が出る。
基本的に苦しいわけだが、それでもふと、ましな時がある。
そんな時を見計らうように、姉さんとあれやこれやよもやま話をする。
「姉さん、あのさ、一度も聞いたことがなかったけど、僕たちの父親ってどうして死んだの?」

姉さんにとっては唐突すぎる質問だっただろう。
眼玉を丸くむき出して息を止めた後、ふぅっと力を抜いて、弱々しく笑った。
「なに?突然。」
「前から気になっていたんだけど、なんだか母さんには聞きづらかった。姉さんも全然父親の話をしないし。」
「それはね…。」
「事故?それとも、病気?もしかして、僕と同じ病気とか?」

姉さんはしばらく言いあぐねていたけれど、 まぁ、もういいかとつぶやいて、話してくれた。
「母さんはあんたに、父親は死んだと言っていたけれど、本当は死んでないのよ。」
「は?うそ!」
「よく考えてごらんなさいよ。うちに仏壇あった?お墓参りに行ったことある?」 
「あー、そういえば、ない。」
「そういうことよ。」
「まさかそんな!2時間サスペンスじゃないんだからさぁ。」
「でもその、2時間サスペンスなのよ。」

会社が倒産したのに、父親は通勤しているふりをして、半年も毎朝、母さんが作った弁当を抱えて出かけていたそうだ。
給料は、景気が悪いからと、現金袋にいくらかずつ減っていく収入をそのまま、母さんに手渡していたらしい。
それがある日、ぷつりと帰ってこなかった。
それきりなのだそうだ。

「そんなバカげた話ってあるか?」
僕は自分の病気も副作用の吐き気も忘れて起き上がった。
「バカげているかどうか知らないけど、事実なんだからしかたないじゃない。」
給料うんぬんのくだりは、姉さんが後から母さんに聞いたらしい。
ということは、失踪したのか。

「あんたを身ごもったと母さんが気付いたのは、父さんがいなくなってから2か月も後だったんだって。」
「ってことは、することしてから間もなく消えたって?」
「ま、そういうこと、かな。」
「ふざけんな〜!」
「だって、できたかどうかなんて分からないものでしょうが。」
「そうだけどさぁ…。」

ひとりで僕を産んだ母さんは、姉さんによく言い聞かせたらいい。
この赤ちゃんは母さんのあなたとでかわいがってあげましょうね。
お父さんが死んでしまったのだから、3人で助け合わないと。

死んでしまったと、姉さんも一度は信じたそうだ。
でも、中学生の時に、お墓参りに行きたいと母さんに問いただした。
賢い娘のことだ。
母さんも、無駄に隠し立てするより、味方につけようと思ったのだろう。
そうして、のんびり屋で体の弱い弟には、「死んでしまった」で押し通す約束をしたのだと言う。

まったく、もう。
まんまと、騙された。

「探したの?」
「もちろん。捜索願も出したし、心当たりは全部探したって、母さん言ってた。」
「どうして失踪なんてしたんだろう。僕たちを置いて…。」
「真面目な人だったみたいだから、会社が倒産したなんて言い出せなくて、苦しくなっちゃったのかしら?」
「意味わかんねー。 会社の倒産って、ひとりの社員のせいじゃないだろ?」
「まあね。」
「それとも、父さんが何か会社に迷惑をかけて、それで倒産したとか?」
「解らない。でも、違うんじゃないかな?」
「姉さんは、父さんのこと、何か覚えているの?」
「うーん、ほんの少しね。」
「どんなこと?」
「もう20近くも前になっちゃったから、ちゃんとは覚えてないのよ。
でも、ひとつだけ、すごくはっきり覚えていることがある。」
「何?」

姉さんは、また、話すかどうか、迷っている。
「話すから、ちゃんと寝なさい。疲れちゃうわよ。」
いくらか話をそらして、それから、大した記憶じゃないよと言わんばかりに、さらりと言った。
「父さんが会社から帰ってきて、あたしが玄関で出迎えて、父さんの黒い鞄を受け取るの。そうしたら、おっきな手で頭を撫でられて、『気が利くいい子だね』って言われた。」

それだけ言うと、姉さんは椅子から立ち上がり、「ちょっと喉乾いちゃったから、外出てくるね。」と行ってしまった。

僕は、姉さんが言いよどんだ理由をようやく覚った。
姉さんは、父親との、僅かであっても愛された記憶が残っている。
でも、それが、僕には望めなかった。
姉さんはそのことに気兼ねしたのだろう。

そんなこと、気を遣わなくていいのに…と思った端から、羨ましいなという気持ちが入道雲のように沸き立ってきた。
自分で自分の気持ちが抑えられなくて驚く。
これまで、密かに、何度も思い描いた様々なシーンがある。
「父親」という架空の存在と僕との、絵空事。
あのうちの、どれかひとつだけでいい。
確かな現実であったなら、僕はどれほど嬉しかっただろう。
でも、それは望みようもないのだと諦めるしかなかった。
なのに、もしかしたら、僕の父親は今もどこかで生きていて、ある日突然、僕の目の前に現れるかもしれないと思うと、僕の頭の中はこんがらがった毛糸みたいに、どうしようもなくなってしまった。

不意に吐き気を催して、ぐぐぐと唸る。
唸る喉の底から、味わったことがない感情がじわりじわりと滲む。
これは、怒りか、憎しみか。
それとも…


窓の外で大きな雷鳴が響いた。
いくつかの轟音の後で、強い雨が降り出した。
ずぶぬれになったのか、姉さんはあの日、病院に戻ってこなかった。





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