「穂高くん、分かるかい?」
首筋に何か冷たい感触があって、僕は目を覚ました。
ぼやけた視界に人影が写る。
人影の上に電燈があるから、僕を覗き込んでいるその人の顔は見えない。
けれども、いくらか間を置いて、僕はそれが宮田先生の声だと気付いた。
「すみません。ご迷惑を…。」
「今度はこうなる前に自分で電話してほしいね。
そうしたら、ゆかりさんにも心配かけずにすむからね。
辛かったろう。
どんな具合だ?どこか痛むかい?」
宮田先生のおっとりとした穏やかな声を聞いているだけで、僕はもう大丈夫なんだと全身の細胞が全て安心したようになって、眼が勝手に涙をこぼし始めた。
「よく、分かりません。うまく、動けなくなって。」
「そうだろうね。急にこんな熱が出たら、動けなくて当然だ。」
そう言いながら先生は、僕の腕を布団から引き出して見つめているようだ。
「心配ないと思うけどね、一応、主治医の先生のところへ行きましょう。
私も君の生活医として、一度お話をしておきたいところだからね。」
生活医…。
宮田先生のところへは、花見に庭へお邪魔したことがあるだけで、医院へは行ったことがない。
会うのはいつも夜の小紫。
なのに、やっぱりすべてを承知しているらしい。
ゆかりさんが話したのか、姉さんが先生にまで手紙を書いたのか…。
「とにかく救急外来へ行きましょう。
たとえ先生がいなくても、点滴は必要でしょうから、朝まで待てばいい。」
宮田先生の決断は早く、ゆかりさんの連絡はさらに早く、あっという間にタクシーがやってきて、僕は両親に付き添われた子どものように、通いなれたあの巨大な建物へと吸い込まれた。
運がよかったのだろう。
僕の主治医である恋待先生が当直で病院にいてくれた。
すぐに診察を受けることができた僕は、なんとインフルエンザだった。
なんでこの季節外れにインフルエンザ?
いずれかのお客様からもらったのだろうか??
宮田先生は手が空いた後の恋待先生とずいぶん話し込んだらしい。
僕が点滴を終えるまでの2時間に「手が空く時間」ができたなら、その夜はかなりレアな夜だったのだろう。
先生が当直の夜は体調を崩す患者さんが多くて大変だから、看護師たちが嫌がるのだと、入院していた時に笑いながら話してくれたことがあった。
恋を待つなんて、なんだか華やいだお名前ですねと、不躾な姉さんが言うと、先生はふふふと笑って、よく言われますと流した後で言ったそうだ。
「これで、かわいい女の子だったらいいんでしょうが、なんといっても相撲取りと間違われてもおかしくない、大きなオジサンだからねぇ。 痛い治療をされたおじいちゃんなんかに、『患者がどんどん来ないかと恋しくて待ってるって意味だろう』なんてイヤミを言われたりしたから、僕は小児科にしたんだもんねぇ。」
僕は恋待先生を関取だと思ったことはないが、くまのプーさんみたいだなとは思っていた。
その愛すべき外見からは想像しにくいが、彼は小児がんのエキスパートだ。
固い診療台に横たわって点滴を受けている間に、僕は眠り込んだらしい。
夢の中で、誰かの指が僕の髪をそっと撫で続けている。
きっと、汗をかいて額に張り付いているのだろう、前髪をそっと掻き上げたりする。
でも、僕を起こさないよう、肌には触らずにいることが僕にでも分かる。
誰だろうと思ってすごく重たい瞼を開けると、母さんの姿が見えた。
「母さん。」
「サトル、目が覚めた?来るのが遅くてごめんね。 まだ寝ていてもいいよ。」
僕はもう一度、ゆっくりと目を閉じた。
「僕、インフルエンザなんだって。病気が再発したのかと思って、生きた心地がしなかった。怖かった。本当に怖かったよ。」
優しい指が、また僕の髪を撫でる。
そうだ。
子どもの頃、熱を出して学校を休んでいる僕が眠っている間に会社へ顔を出した母さんは、帰ってくるといつも決まってこうやって、髪を撫でてくれた。
「よかったわ。怖かったでしょう。でも、あなたはとってもいい子だから、神様が守ってくださるわ。」
「そうかな。」
「そうよ。だから心配いらないわ。」
「ふふ。ねえ母さん、お腹空いたな。」
「あら、食欲があるのはいいことだわ。でも、まだおかゆね。」
「うーん、じゃおかずに、あれを作ってよ。」
「あれって?」
「あれだよ。おかゆの時に、いつも母さんが作ってくれる、かぼちゃのやつ。」
「かぼちゃ?」
「やだなぁ。忘れちゃったの?ほら、ほくほくの栗かぼちゃを一口サイズの四角に切って、甘辛く煮たやつに、鶏のひき肉の透明なあんかけがかかったやつ。」
「ああ、あれね。」
「あれだけは、姉さんのより母さんのが美味かった。」
「あら、失礼な子。あれ”だけ”って何?」
「作ってくれる?僕ずっと、あれが食べたかったんだ。入院していた時も、ずっと。なのに、母さん死んでしまって、来てくれないから…!」
「わかったわ。ごめんね。もう少しおやすみなさい。点滴もあと半分くらいみたいだから。」
「うん。」
「ほんと、あなたはいい子ね。寂しい思いをさせて、本当にごめんなさいね。」
運び込まれた時間が遅かったのと、恋待先生が経過を確認したがったのとで、僕は次の朝までその診療台にいた。
宮田先生はご自身の診療があるからと、夜のうちに帰ったらしい。
僕がいくらか落ち着いて目を覚ました時、恋待先生がいて、大きなお腹をゆすりながら近づいてきた。
「目が覚めましたか。まだ頭が痛いかな。」
体を起こそうとして、ズキンと鳴った頭を片手で抱える僕を見て、先生は微笑んだ。
「タミフル、処方しますから、飲んでください。サトル君、ずいぶんと体力が付きましたね。」
「そうですか?」
「うん。いいことだ。とてもいい。それに…」
「はい?」
「素晴らしい環境で社会生活を送っているようだ。」
「そう…そうですね!」
マスクを手渡され、多少辛くても、歩いて帰れますよと処置室から送り出されてみれば、廊下に沿って並べられた椅子で、ゆかりさんがうとうとしていた。
「ゆかりさん!」
「あっ!」
すぐに目を覚ましたゆかりさんは、眩しそうに僕を見て、にっこりと微笑んだ。
「よかった、本当によかった!」
「よくないですよ。僕、インフルエンザですよ。ゆかりさん、うつっちゃったかもしれませんよ。」
「大丈夫よ。ウイルスも、こんなおばあちゃんを狙ったりはしないでしょ?」
「すみません、本当に!」
「それより、お腹空いたでしょう?もしよかったら、私の家に帰って休まない?ごはんも拵えられるし、もう何日かは寝てなくちゃならないのでしょう?」
「でも、それじゃ…。」
「宮田先生も毎晩来るから、往診の手間が省けるし、私も安心だし、人助けと思って。ね?」
僕はゆかりさんの厚意に甘えることにした。
タクシーで戻る途中、アパートによって、布団の下敷きになっていたケータイと着替えを持ってゆかりさんの家に向かった。
それだけでかなり疲れて、ぐったりと横になっていると、しばらくして、ゆかりさんがお盆を持って入ってきた。
「はい、お待たせしました。」
布団の脇に置かれたお盆の上には、つややかに湯気を立てるおかゆと、そぼろあんかけがかかったかぼちゃが並んでいる。
「あ!」
「うふふ。」
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