Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2015年07月


姉さんのコーヒーはやっぱり美味い。
残りの粉は小紫に持っていこう。
真夜中のコーヒーが好きなさよりさんに出してもいいし、ゆかりさんに淹れてもらって二人で楽しんでもいい。

姉さんに叩かれた頬と頭の痛みが、記憶の底からじーんと蘇る。 
冷めないうちにカップの中身を飲み干して、すかさず片づけにかかる。
ミルは定位置に。
カップはこのまま乾いてしまうと渋が残るから、できるだけ素早く洗うのがいい。

どうも、今日は体調が悪い。
こんなに母さんのことを思い出すのも、きっとそのせいだ。
体が熱い。
でもそれは、気温や湿度が高いからから、体温が高いのか、その境目がわからない。
今のうちに小紫へ行ってしまえば、もしも熱が出てもゆかりさんがいる。
でも、窓の外で向こうが煙るほどに降っている雨を見ると、その気が萎える。

ちょっと横になろうか。
一度片づけた布団を敷いて、ゴロンと横になってみる。
今、何時なのだろう。
布団が熱い。部屋が暑い。

母さんの通夜や告別式のことは、会社の人たちが何もかも取り仕切ってくれ、姉さんと僕はただ泣いていればよかった。
それしかできなかった。
僕を思い切りたたいた姉さんの心の痛みは計り知れなかった。
「ごめん、あんたは何も知らなかったんだもんね。」
という端から、
「けど、なんで電話くらいしなかったの?」
になり、
「こんなことになるなら、北海道なんか行かなきゃよかった」
になり、
「あたしが大学に行くの、母さん本当はすごく推してたのに。行けばよかった。」
になった。
後悔の渦で息もできないほど溺れていた。

僕は僕で、あの朝、なんで時間より早く出てしまったのだろうとか、一緒に行きたそうな様子だったのをもっと真剣に考えればよかったとか、約束通りあの日のうちに電話しなかった自分のいい加減さを呪ったり、姉さんを待たせたり、姉さんだけに痛みを負わせた時間を思うと申し訳なくて、悲しいとか辛いという以前に、もう消えてしまいたかった。

そうやって僕らは、10日ほども二人で家にこもって泣き続けた。
心配した会社や近所の人たちが、時々食べるものを届けてくれたり、様子を見に来で慰めてくれたりしたが、少しずつ足も遠のいて…だって、何も言うことがなくなったのだろうし、悲嘆にくれる姉弟を見るのは辛いだろうし…最後の方は誰も現れなくなった。

本気で心底泣き続けると、10日もすると涙は涸れるものらしい。
僕らはふと、もがきぬいた体から力を抜いたのだろう。
実は水面の上に空気があることを、10日ぶりに思い出したのだ。
「サトル、お腹空かない?」
姉さんが聞いてきた。
「そうだね。空いたかもしれない。」
「まともに食べてなかったもんね。何か作るよ。」
「いいよ。姉さんも疲れてるし。」
「ううん。何か、作りたい。待ってなさい。」

姉さんはいかにも重たそうな体を起こし、立ち上がると、冷蔵庫を開けた。
「……買い物、行った方がよさそう。」
そんな、面倒だからいいよと言いかけたけれど、黙っていた。
姉さんの気持ちには、何一つ逆らいたくなかった。

「あ、これ。」
買い物に行こうとした姉さんが気付いたのは、置きっぱなしになっていた母さんのバッグだった。
もう何年前から使っているのか、すっかりくたびれているのだけど、母さんはこのバッグを使い続けていた。
子どもたちの持ち物や着るものにはあれこれ言うくせに、自分の持ち物にはまったく気を使わない人だった。
「だった」と思った自分に、また傷ついた。

姉さんはそのバッグを持って、僕が座ったままのテーブルまで戻ってきた。
ペタンと座ると、バッグを開けて、中身を覗く。
見慣れた財布と小銭入れ。タオルハンカチ。ポケットティッシュ。
「これ、何だろう?」
姉さんが取り出したのは、手帳と呼ぶにはかわいらしすぎる、にぎやかな花柄の表紙をしたノートのようなものだった。
白くて細いボールペンも添えてある。

僕の目の前まで差し出して、姉さんはそのノートをパラパラとめくった。
「これって…」
「日記、かな?」
「うそ!母さん、日記なんて書いてた?」
「僕は気付かなかった。姉さんは?」
「知らない。初めて見た!」

カバンの中に忍ばせてあるところを見ると、母さんは会社にいる間とかに、これを書いていたに違いない。
文字は確かに母さんのもので、走り書きではなく、キチンとテーブルにノートを置いて、丁寧に書いた文字が並んでいた。
姉さんが、あるページで指を止め、じっと読み始めた。
そこには、こんなことが書いてあった。

「今朝は葉月がご機嫌で、あの子の笑顔を見ていると、本当に気分がよくなる。
葉月には、都会の暮らしや学生生活よりも、農業の方が合っているのかもしれない。
大切なのは、あの子が笑っていて、健康で、自信を持って毎日を生きていることだけ。
それさえあれば、私も幸せでいられる。
大学のことではあの子を困らせてしまったけれど、ちゃんと気付けてよかった。」

「母さん!」
一度止まった涙が、また溢れ出していた。

別のページには、こんなことも書いてあった。
「ああ、コーヒーが飲みたい!
インスタントではなくて、丁寧に豆を挽いて、じっくりお湯を注いでいれた、香りのいいコーヒー。
最後に飲んだのはいつかしら?
そんな贅沢している場合ではないことくらい、よく分かってる。
だから、考えるだけ。
モカ、キリマンジャロ、ブラジル、グァテマラ !
ああ、美味しい!」

「母さん、コーヒー好きだったの?」
「知らない。缶コーヒーだって、飲んでいるところ見たことないし。」
「こんなに好きだったんだね。」
「言ってくれたら、バイト代でおごれたのに。」
「ほんと!もしも1杯500円でも、平気だったのにね。」
「飲ませてあげたかったね。」
「お供えしようか。」
「うん。」

最後のページを見た。

「今日、優が東京へ行ってしまった。
あんなに赤ちゃんだったのに、あっという間に大きくなっちゃった。
あの子が生まれた時のことを思い出す。
私は優しい子に育ってくれればそれでいいと言っているのに、あの人は、賢い子に育ってほしいと言って譲らない。
だから、「優」という漢字を「サトル」と読ませることにした。
二人とも、これならばととても気に入ったのだった。
私みたいな母親で、父親がいなくて、残念に思うこともあっただろうに、優も葉月ものびのびと、優しい子に育ってくれた。
それに、ふたりとも、とっても賢い。
私たちの願いはどちらも叶ったのだから、すごい。
私は本当に幸せ。
今日から、私はひとりで暮らす日が増えるのだろう。
でも、一生懸命働いて、あの子たちが帰ってくるこの場所を守っていよう。
あの子たちが私を心配して、自分のしたいことを後回しにすることがないように、しっかりと生きていこう。
葉月、優、あなた方がいてくれなかったら、私は生きる意味がわからなかった。
私の子どもに生まれてくれて、本当にありがとう。」

僕も姉さんも、声をあげて泣いた。
僕を見送って家に誰もいなくなった時、母さんは初めてこのノートを家で書いたのだろう。
書き終えて、ノートをカバンに戻した後で倒れたのだ。

泣いて泣いて、声が出なくなった時、姉さんが僕の肩を揺さぶって言った。
「今のあたしたちを見たら、母さんが悲しむね。心配、するよね。」









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姉さんが送ってくれたコーヒー豆を抱えたまま、ぼんやりとあの頃のことを思い出していた僕は、母さんのことにたどり着いた途端に、ふっと現実に戻った。
ひとつ頭を振ってから立ち上がり、台所に置いてあるコーヒーミルを取りに行く。
僕のコーヒーミルは木製の手動式で、カリカリと優しい音をさせながら、1杯分の豆を挽くのに丁度いい。
途中、目に入った窓の外は、やっぱり雨が降っている。

コーヒーは空気に触れさせるとすぐに酸化するから、封を切ったらすぐに密閉容器に移すようにと姉さんから教わった。
それほど大きくない袋を切り、すぐに瓶に移してふたを閉めた。
そうして、1杯分の豆だけをミルに入れて、 左手でしっかり押さえると、小さなハンドルをくるくるとゆっくり回し始める。
荷物をほどいた時よりも鮮やかな香りが立ち上ったから、思い切り吸い込んでみる。 
えも言われぬ芳香に、吸った息がほうっとため息になってこぼれる。

母さんの命を奪ったのは、くも膜下出血だったそうだ。
倒れている母さんを見つけたのは会社の人だった。
僕が家を出たあの朝、母さんは会社に行くと言っていたが、実際には出社しなかったという。
そんなことは一度もなかったから、不審に思った会社の人が電話をくれた。
母さんは、電話に出なかった。
昼休みに、母さんと特に仲が良かった事務の人が、すぐ近くだからと家を訪ねてくれた。
そこで、倒れている母さんを見つけたのだ。
すでに意識はなく、意識を取り戻すこともなかったと聞いた。

姉さんはあれでも、僕がいつ家を出るかをよく分かっていて、母さんが寂しくないようにと、同じ日の夕方に帰宅したのだそうだ。
そういう心遣いが姉さんらしい。
でも、待っていたのは隣の部屋のおばちゃんたちの「大変だよ!」で、姉さんは慌てて救急車が母さんを運んだ病院へ駆けつけた。
その時にはすでに、母さんは帰らぬ人となっていたのだ。

それから姉さんは、僕を探した。
けれどもまだ入学式の前で、僕は借りた部屋のことを大学へは届けていなかった。
ついでに、今夜連絡するからと気軽に約束して放っておいたほど、何も考えていなかった僕は、母さんにも姉さんにも、新しい部屋の住所を伝えていなかったのだ!
入学式にはやってくる母さんを東京駅まで迎えに行くつもりでいたし、その時には当然住所もなにも分かるわけで、わざわざメモを置いておくなど考えもしなかった。
だから、姉さんは僕を見つけられず、ひたすら僕からの連絡を待つしかなかったのだ。

姉さんはそうやって、5日も僕を待ったのだ。
怒鳴られて泣かれて、当然だった。
いくらなんでも、亡くなった人を5日も放ってはおけず、今夜には通夜をしてやろうということになったのだと言われて、僕は跳ね上がった。
そのまま、近くにあったカバンをひっつかみ、その日買って、今切れたばかりのケータイは握り締めたものの、玄関のカギを閉め忘れたまま故郷へ戻った。

かりかりかりかり。
ゆっくりと手を動かしていると、記憶が遠くへ飛んでしまう。
できたかな。
小さな引き出しには、細かな粒に…僕は粗びきが好きだ…なったコーヒーたちが、さあお次へどうぞと待っている。
もう一度立ち上がって、台所へ行く。
湯を沸かすあいだに、フレンチプレスを用意する。
これは多分、紅茶を淹れるための道具だ。
でも、姉さんが、これが一番美味いのだと教えてくれた。

ペーパーフィルターは、紙の質しだいで、実はコーヒーににおいが移っていることがある。
サイフォンは楽しいが、布フィルターを常に清潔かつ濡らしておかねばならず、素人には扱いがむずかしい。
その点、フレンチプレスは、コーヒー本来の味が楽しめるからいいのよ。
沸騰した湯を、一息おいて注ぐ。
腕時計で3分計って、丸い取っ手をじっくりと下へ押し下げる。
余った湯で温めておいたカップにすぐ、ざらざらした粉が移らないよう気を付けながら、そっと注ぐ。
注ぎ切らないのが秘訣だ。

そうやって淹れたコーヒーを片手に、僕はリビングに戻る。
一口。
砂糖もミルクも入れていないのに、甘みのある深い味わいが体中の細胞に沁みるような気がする。
姉さんのコーヒーはやっぱりうまい。

あの日、5日ぶりに開ける玄関のノブを引いたと同時に、姉さんが顔を出した。
そうして、鬼のように真っ赤な顔をして、思い切り、僕の頬を平手打ちした。
バッシッ!
本当に、本当に、本当に痛かった。
目玉が火の粉を散らして飛び出し、玄関の外のコンクリートに転がり落ちたのではないかと思った。
立っていられず、頬を押さえてその場にしゃがみこんだ僕の頭を、上からもう一発バシッとたたいた姉さんの、はだしのつま先が見えた。

「自分が待たれていることに鈍感な男は、大っ嫌い!」








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僕を乗せた列車が故郷を離れるにつれ、僕の心が落ち着いたかというととんでもない。
次に止まった駅ではそのまま降りてしまおうかと思ったし、どんどん離れていくと思いが極まった時には、できることなら窓を開けて、飛び降りてしまおうかとさえ思った。

でも、東京駅に着いて、大きな荷物を人にぶつけて謝り謝り顔を上げた一瞬、目が回るほどの人混みを見て、僕の郷愁は吹き飛んだ。
代わりに、足の裏から全身を隈なく熱い思いが駆け巡った。
僕は、これからここで生きていくんだ。
なにくそ、始める前からくじけてたまるか!

すでに何度か足を運んでいた部屋へは迷わずたどり着いた。
玄関に電気とガスがつながったと知らせるビニール入りの札が下がってた他には何一つない部屋でも、 僕は一国一城の主になったと思えば、ひどく満足だった。
気付けば、電話がない。
流行りの携帯電話は、持つ必要がなかったから持ってない。
母さんに連絡すると約束したけど、夜になってから公衆電話に行こうと決めて、早速買い物に行くことにした。

雨戸がないから、カーテンが必要だった。
それに、ハンガーやタオルや、入浴グッズ。
近くにコインランドリーを見つけてあったから、バイト代がたまるまでは洗濯機は見送り。
その代わり、茶碗や箸やコップ類は、あまり値札にこだわらず、気に入ったものを選んだ。
こんな買い物が、これほど楽しいとは思ってもみなかった。

両手いっぱいの荷物をいったん部屋に置いてから、大変なことに気付いた。
布団が、ない。
僕にとって安眠は、何にも代えがたいものなのだ。
慌てて駅前の商店街を歩きまわり、布団屋を探した。 
年中立てたままらしい『大安売り』の色あせたのぼりがあるその店は、でも、品ぞろえはけっこう豊かで、僕は迷いに迷って羊毛敷布団とマイヤー毛布と、人生初の羽根布団を買った。

後で無料で届けるからという言葉にありがたく甘えて、僕は満足感だけを手に店を出た。
いつの間にか、3月の空は真っ暗で、故郷に比べればずっと温かな風が吹いている。
僕は商店街を戻りながら、帰ったら米を炊こうと、惣菜だけをちょっと買って家に戻った。

ところが、だった。
家に入り、玄関の明かりをつける。
オレンジ色の薄暗い明かりが、小さな「靴脱ぎ場」を照らす。
次の一手で、全てがつながった部屋の明かりをつけたつもりが、部屋の中は暗いままだ。
「あれ?」
おもちゃみたいに小さな台所の明かりはつく。
白い30cmほどの蛍光灯が、ジジーツと音をたてて灯った。
もう一度、部屋の電気のスイッチと思われるところをパチパチ切り替える。
「あれ?なんでつかないんだろう。」
故障かと見上げたところで気が付いた。
「あっ!照明器具がついてないんじゃないか!」

僕は買ってきた惣菜を放り出して、再び商店街に飛び出した。
今日は生まれて初めての買い物がなんと多いことか。
まごまごしていると、布団屋さんが来てしまうと思いつつ、明かり選びは楽しくて、思いのほかに時間がかかった。
値段とデザインと明るさと。
僕が選んだのは、なんとリモコンスイッチがついた、天井にくっついているような形のものだ。
これならば、布団に入ってから本を読み、起き上がることなく明かりを消せるではないか。

大きな段ボールを抱えて帰り、なかば手探りでなんとか取り付ける。
電気屋さんが貸してくれた足台は、明日返しに行こう。
ぱっと白い明かりがつく。
「うぉぉっ。」
一人で歓声を上げる。
これは、明るい。
実家の古い蛍光灯とはけた違いの明るさだった。

段ボールを片づけているところへ布団屋がさっき買ったものを届けてくれた。
布団もシーツも、枕も毛布も掛け布団も新品だ。
タグがついているものは切り離し、部屋のど真ん中に敷いてみる。
リモコンを握り締めて、モゾモゾと布団に入ってみる。
どこもかしこも、新品の香りがする。
ピッピッピッ!
明かりも確かに消せる。
「こりゃいいなぁ。」

起きてご飯を炊くつもりだったのに、僕はそのまま寝入ってしまった。
目が覚めたのは翌朝十分に明るくなってからだった。
「うわ!」
飛び起きた僕は、自分の腹が減りすぎていることをすぐに思い出した。
母さんが持たせてくれた炊飯器を引き出し、鞄に詰め込んだ故郷の米も抱えて台所に立つ。
「あ、母さんに電話するの忘れたなぁ。」
まだ寒い季節で、夕べ買った惣菜が傷んだ様子はない。
「今日は鍋とフライパンと冷蔵庫、見てこようか。」
冷蔵庫は、昨日のうちにリサイクルショップで格安のものをみつけていた。
ついでに、テーブルとイスと、こたつもほしい。
もちろん、テレビも。

米が炊き上がるまでの香りが、なぜか懐かしい。
翌日も、僕は買い物に追われて、母さんに電話するのをすっかり忘れてしまった。
まあ、電話一本、ないからといって母さんが慌てるとは思えない。
電話がないのは元気な証拠と苦笑いしているだろう。

結局、固定電話を引くつもりが、考え抜いて、携帯電話ひとつにすることに決めて、購入したのは、僕が東京に来て5日目のことだった。
あさっては入学式。
明日には母さんがやってくる約束だ。
だから一生懸命、部屋を整えたのだ。

買ったばかりのケータイで、最初にかけた電話は実家だった。
なんだかドキドキする。
しばらく鳴らした後、ガチャッと音がして、はい、と重い声が聞こえた。
「あ、母さん?僕、僕。ケータイ買ったん…」
「あんた、何やってるの!」
いきなり怒鳴られた。
姉さんだった。
「何って…。」
「母さん、死んじゃったのよ!あんた、連絡先も分からなくて、どれだけ、どれだけ!」
電話の向こうで姉さんがわっと泣き出した。

今、なんて言った?
母さんが、どうしたって??








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僕が東京へ向かったのは、寒い朝だった。

姉さんは前の週から北海道へ研修に行って留守だった。
僕の旅立ちを見送る気など、さらさらなかったらしい。
「東京へ行くっていっても、こことは陸続きだし、いつでも帰ってくるでしょ?」
「そうだね。」
「じゃ、あたしはあたしで。
オーナーの知り合いで、面白い野菜作りをしている人が北海道にいるの。
寒さにも虫にも強い種の開発を…。」
姉さんは楽しげに語ると、スポーツバッグがパンパンになるまで着替えを詰め込んででかけていった。
「いつ帰ってくるの?」
「決めてない。ひと段落ついたらね。」
「そうか。風邪ひくなよ。北海道は湯上りに裸でいると凍るぞ。」
「うるさいわねぇ。」

それから 数日、僕は母さんと二人で過ごした。
二人とも口には出さなかったけれど、姉さんがいない家はなんだか間が抜けていて、彼女がこの家の明かりであることがしみじみ思われた。
久しぶりに仕事の後で料理をしなければならなくなった母さんだけど、すでに卒業式を終えていて、家でゴロゴロしているだけの僕にやっておけとは言わなかった。
今夜のご飯を食べながら「明日の晩は何がいい?なんでも作るよ」なんて話をするのは、ちょっと可笑しかった。
僕は、遠慮なしに思いついたことを口に出した。
母さんは、うんうんと頷いてくれる。

僕が高校で部活動に入らなかったのは、家族3人で晩飯を食うという我が家の掟を破りたくなかったからだ。
その掟以上に魅力的な部活はなかったし、もともとさほど丈夫な体でもなかったから、授業を終えたらのそりと家に帰って丁度いいくらいだった。
男子高校生の生活としては気持ち悪いと言われそうだが、僕は家族があれば他に必要なものはないような気がしていた。
もちろん、友達もいたし、気になる女の子もいるにはいた。
けれど、どういうわけか、執着するほどの気持ちにならなかった。
そこがサラリとしていて「いい人」だと、不特定多数の女子に好評だったりして…。
実はマザコン・シスコンと知れたら、何を言われていたことか。

僕がいよいよ東京に発つという前の晩、布団を並べて寝ながら、母さんがおかしなことを言いだした。
「ね、ほんとに明日行かないといけないの?」
「え?何か都合悪いことある?」
「いえね、そういうわけではないけれど、入学式はまだ先なんだから、前の日に一緒に行ってもいいのかなと思って。」
「でも、部屋は借りたけど、まだ何もないからね。
時間があるうちに準備したいだろ?」
「そうかぁ。そうだよねぇ。」
「あれ?もしかして、寂しがってる?」
「そーゆーわけじゃないけど、葉月もいつ帰ってくるかわからないし…。」
葉月というのは姉さんのことだ。
「よく考えてみたら、あたしってひとりでいたことがないのよね。いつもお前たちがいてくれたから…。」
「子供のころからそうなの?」
という僕の問いには、いつものように答えず、ぼそりと、しかたがないよねぇとつぶやいた。

朝になると、前夜の話などなかったかのように、母さんは明るく振舞って、僕に腹いっぱい以上に朝飯を食わせてくれた。
この朝のメニューは、リクエストしておいた稲荷寿司とあおさの味噌汁だ。
母さんの稲荷寿司は本当にうまい。
3種類ある。
ひとつは、すし飯に炒った白ごまと刻みショウガと一緒に混ぜたもの。
もうひとつは、紅ショウガを細かく刻んで混ぜたもの。
最後は、すし飯だけで、混ぜ物がないもの。
煮しめた油揚げにご飯を詰めて半分に切って並べると、紅白に見えてなんともめでたいのだ。
母さんはこの手間のかかる朝飯のために、ずいぶん早起きしたらしい。
あの時の味は、今でもすぐに思い出せる。
本当に、本当にうまかった。

やたらとたくさん作ったと思ったら、弁当に持っていけと、使い捨てられる容器に、残った稲荷寿司を綺麗に並べてくれた。
それから、買って隠してあったらしいアイロンと炊飯器を持ち出してきた。
「これも、持っていきなさいね。」
「重いよ。」
「でも、すぐ使うでしょうから。」
「送ってくれたらいいのに。」
「だってほら、送料ってバカにならないでしょ?」
実は母さんはこれを持って、僕についてくる気でいたのかもしれないと思いながら、ありがとうと受け取った。
「今日、一緒に来る?」
「何言っているの。無理よ、仕事休むって言ってないし。」

母さんは、近所の部品工場で事務をしている。
社員は全部で80人くらいというから、小さい工場ではない。
けれど、事務員は少なくて、母さんは会計を一手にやっているらしかった。
だから、僕が熱を出して休んだ日も、落ち着けば1時間、2時間でも仕事に行っていた。
「だって、すぐに伝票が山になるのよ。それにねぇ…。」
母さんはいつも言うのだ。
「必要とされるって、本当にありがたいことよ。
私みたいな取り柄のない人間でも、いてくれないと困るって言われるの。
毎月ちゃんとお給料をいただけるから、あんたたちともこうして普通に暮らせるんだもの、ありがたいとしか言いようがないわ。
毎日行く場所があって、必要としてくれる人がいて、家にはこんないに可愛い子どもたちが待っていてくれて。
これ以上ないくらい幸せな人生だわ。」

そういえば、母さんが給料のことで嘆いているのを聞いたことがなかった。
やりくりしなければやっていけないほどの薄給であることは明々白々だったけど、会社の悪口を言うのを聞いたこともない。
だから、こんな時でも会社を大切に思うのは、母さんらしくて当たり前に感じた。

本当はもう少しゆっくりしてから家を出ても十分間に合うのだけど、僕は予定より2時間も早く家を出ることにした。
そのまま母さんと過ごしていたら、東京へ行きたくなくなるような気がしたからだ。
まだ一歩も家を出ていないのに、向こうについたら大急ぎで家財道具をそろえて、入学式前にいったんこっちへ帰ってこようかと考えている自分がいた。

「入学式には行くからね。あんたの晴れ姿、見たいもんね。」
「晴れ姿って、成人式とか結婚式とかに使う言葉じゃねーの?」
「いいのいいの。大学の門の前で一緒に記念撮影しようね。」
「そんな、小学生じゃあるまいし。」
「心配なわけじゃないけど、着いたら電話してよ。」
「わかったよ。じゃあね!」
「いってらっしゃい!」

外へ出ると、いつもよりずっと寒くて、首筋が一気に凍る気がした。
まだ玄関から外に出て手を振っている母さんに、寒いから早く入れと叫んで背を向けた。
まさか、この「いってらっしゃい」が、僕が聞いた母さんの最後の言葉になるなんて、思いもしなかった。






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