Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2015年06月


僕自身が進学校でしのぎを削り、難関と言われる大学になんとか入学し、大学院に残って研究を続けるという道を歩み切った今なら、きっと東大に行けるからと大人に言われた姉さんの気持ちが少しは分かる気がする。
ふすまの奥で姉さんの声だけ聞いたあの頃には分からなかったけど、18歳のできすぎた女子高生には、その期待が際限のない重さに感じただろう。

もしも姉さんが真面目な努力家で、何をやってもうまくいく原因がその努力のおかげだと周囲のだれもが知っていたら、きっと姉さんはあんな風には悩まなかったのではないだろうか。
でも、姉さんはさほど努力をしたわけではなかった。
きっと、眼や耳や脳の配線がとってもうまくいっていて、授業中によくよく聞いて理解してしまい、あとは効率よく知識を広げていけたのだろう。
だから、周囲には…きっと、姉さんに自身にも…努力しているようには見えなかった。

努力というのは、失敗の免罪符になり得る。
しかし、努力をしないで物事を成してきた人にとっては、改めて努力をすることが、自分の価値を下げるような感覚になるのではないかと思い至った時、僕は姉さんの懊悩の本質に触れたような気がした。
姉さんにとっては、「母さんの手や気を煩わせないいい子でいること」が、何よりも大切だったのだろう。
そういう家族構成だったから、姉さんは早くから甘えたがりの子供としての自分を抑圧して、早熟な大人のように生きねばならなかったのだ。
もしもそれが、姉さんがもっと幼いうちに起きたなら、逆に「当たり前のこと」として、姉さんを子供らしく過ごさせたのかもしれない。
僕がそうだったように。
いや、やっぱり違う。
姉さんは、母さんの頼れる相棒として、僕の乳母として、こぶしを握り締め、歯を食いしばり、でも涼しい顔して見せていたに違いない。

5年も遅れて生まれた僕は、二人の心優しい女性に大事にされて、よく熱を出してはますます優しく看病されて、心配も迷惑もいっぱいかけて育った。
心配や迷惑をかけているなど、思いもせずに。
そんな僕を見て、姉さんはどんな思いでいたのだろう。

姉さんは結局、1か月とちょっと、高校を休んだ。
また通い出したのは、母さんが大学進学をあっけなく諦めたからだ。
「そんなに興味がないなら、無理に行くことないわよ。」
母さんは、どんなに学校を休んでもバイトは休まず、家にはきちんと帰ってくる姉さんにそう言ったのだそうだ。
「あたしも先生に東大に必ず受かる〜なんて言われて舞い上がっていたけど、よく考えたら大学なんてその気になればいつ行ってもいいものだもんね。
あんたが行きたいと思ったときに行けばいい。
あたしは、あんたのこと、あんたの人生が幸せになること、疑いなしだと思っているからね。

それより、高校はちゃんと卒業しなさい。
世間体のためじゃないわよ。
一度始めたことは、きちんと終わらせなさいね。
中途半端なんて、気持ち悪いじゃないの!」
そういう母さんに、姉さんは抱き付いて、「母さん、大好き!」とはしゃいだそうだ。
これは、姉さんの卒業式の夜、母さんの特製ハンバーグを食べながら卒業祝いをしていた時に、母さんが話してくれた。
隣で聞いていた姉さんがどれだけテレていたか、今思い出しても笑い出したくなってしまう。

高校を卒業すると姉さんは、地元の農家へ働きに行った。
おもしろいじいさまがやっている農園だった。
いろいろなものを育てていた。
野菜や果物だけでなく、鶏や豚や牛も育てていた。
無農薬だか有機農法だかで儲かるそうで、けっこういい給料なんだよと姉さんは笑う。

朝が早くて寝坊の僕は朝の姉さんには会えなくなった。
けど、夕方には帰ってきていて、母さんの代わりに晩ご飯を作ってくれるのが姉さんの日課になった。
食材の多くが、姉さんが「職場」からもらってきた野菜や卵などの現物支給品だ。
これがまた、スーパーのとは比べ物にならないくらい美味かった。
器用な姉さんは、料理もうまかった。
ごめんな、母さん、母さんの料理よりうまかった!
その美味い料理を、僕らは必ず3人で食べた。

僕の人生で幸せベスト5を選べと言われたら、姉さんが農園にいて、僕が高校にいた、あの頃は絶対に当選するはずだ。
小さなアパートで、贅沢とは無縁の毎日だったけど、幸せだった。

幸せというのは、疑いがないということだ。
今ないものを欲しいと思ったり、今あるものが失われるのではないかと心配したりする必要がないというのが幸せということだと、今の僕は思っている。
母さんや姉さんがどうだったか知らないけれど、僕はあの頃、確実に幸せだった。
だから、家を離れて東京の大学に行くことに、何の不安もなかった。
やりたいことをやりたい場所でやることに、姉さんほどの頭を持たない僕は疑問を持たず、心から望んで向き合うことにした。
母さんと姉さんの応援を受けて、僕は受験勉強に没頭した。
なんとか第一志望の大学に受かった時は、家族それぞれが自分のことのように喜んだ。

それなのに。







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みんなで花見にでかけたのがついこの間のことのように思われるのに、あと何日かで梅雨という季節になっていた。
気付けば、小紫で働き始めてもう3か月になる。
なんだ、まだたったの3か月かと思う一方、もうずっと前から通い続けているような感覚もある。
自分は自分の居場所をちゃんとつかんだのだと実感する。

僕はこの、だんだんと空気が湿気を帯びていく季節が苦手だ。
これを「ベタベタ」ではなく「うるおう」と捉えれば、ここまで不快ではないだろうにと思ってはみるけれど、どうしても「ああ、今日もうるおっているなぁ」とは考えられない。
こめかみの少し上あたりが痛む。
なんとなく食欲も出なくなり、疲れやすくなるのだ。

雨の日は家にいて、窓から雨の筋を眺めていたい。
実は台風などは嫌いではないのだから、わがままだ。
荒れ狂う雨風を見ているのはドキドキワクワクする。
夏の夕立の頃、空一面の黒雲の中を稲妻が無暗に走り回る姿を見上げるのは大好きと言っていい。
だが、外に出て歩けと言われると、とたんにテンションが下がる。

濡れたズボンの裾、ぐっしょりした靴下、なかなか乾かない靴の中…。
それが毎日のように続くのだ。
ああ、梅雨は嫌だ。

そんなことを考えながらぼんやりしていたら、玄関のチャイムが鳴った。
お届け物ですという声がするので、ハンコを握ってドアを開けた。
立っていたのは宅配の制服ではなく、郵便局の人だった。
角が折れた一抱えの段ボール箱を受け取って部屋に戻りながら、差出人を確認する。

姉さんだ。

遠くグアテマラからやってきてくたびれた段ボールを開けたとたんに、コーヒーが強く香った。
手紙、読んでくれたのかな。
それとも、行き違った?
相変わらず筆不精の姉さんは、荷物にメモ書き一枚添えていない。
それでも、懐かしい宛名の文字を見て、僕はどこか温かな気持ちに満たされた。
姉さんは、僕に残された唯一の家族だから。

姉さんは、一言でいえば自由人だ。
ほとんど理解不能なほどの自由を謳歌している。
5歳年上という年齢差は大人と子どもの違いがあると思っていい。
中学や高校の時は、同級生からあれこれ卑猥なことを言われたものだ。
では僕自身はどうだったかというと、姉さんを女だと思ったことは、残念ながらほとんどない。

3人家族で暮らした2DKの狭い家を、湯上りの姉さんは平気ではだかでいる。
「おい、バスタオルくらい巻けよ!」
僕が目のやり場に困っていうと、
「だって、暑いんだも〜ん!」
微妙なお年頃の弟をからかうつもりは微塵もなくて、本気で暑いらしい。
「だからってさ、それはないだろうが。ちょっとは気を遣え!」
「なんであんたに気を使わなきゃならないの?」
もう!と言ってトイレに…ほかに場所がないから…逃げ込むのは、いつも僕の方だった。

一方で、頭のいいことといったら、驚くばかりだった。
大して努力している風ではなかったし、父親がいない家だから母を助けるためと、中学の時から新聞配達をしているような孝行娘で、勉学に集中していたかというと、どうもそうとは思えない。
それでも、成績は常によくて、のちに僕が必死の努力で入った進学校にポンと入学した。
その高校でもバイト三昧のくせに成績を伸ばし続けた。

このころになると、僕の記憶もハッキリする。
母と娘というのは微妙なものだなぁと感じるようになっていた。
あれほど仲の良かった姉さんと母さんが、何かと言い争うことが増えた。
姉さんが高3になってすぐ、僕は中2だった。
そうだ、あれは丁度今くらい、梅雨の少し前のことだ。

僕の目の前で諍いをするようなことは決してなかったが、夜になると…その頃は僕がひとりで奥の三畳間にいて、ふすまを隔てて居間のテーブルを片づけて、母さんと姉さんが布団を敷いていた…ボソボソと言い合う声が次第に大きくなり、時に激しい言葉を戦わせる。

それが、姉さんの進学についてだと分かったのは、ことが起きてからだった。
姉さんが高校にちゃんと通わなくなったのだ。
姉さんの担任が家庭訪問に来た時、僕はたまたま熱を出して学校を休み、ふすまの向こうで寝ていた。
「すみません、こんなところで。」
母さんの声の後、初めて聞くオジサンの声がこう言った。
「今、どこで何をしているのでしょう。
もう1か月も登校していません。
あれほど優秀な生徒の身に何があったのかと思うと…あの面談の時のことがきっかけではと思うと、気が気ではなくて。」

母さんの声が答えた。
「家には帰ってきています。
でも、学校のことを言うとすぐにケンカになるものですから。」
「きっかけは、やはり進学のことですか?」
「そうだろうと思います。けど、よくわかりません。
なぜ大学に行って好きな勉強をしていいという話が学校に行かないことにつながるのか、さっぱり…。」
高熱でぼんやりした僕の頭にも、今我が家に起きていることの大変さがしみ込んできた。

しばらく母さんと話し込んだあと、
「類まれな才能です。
彼女がこうなりたいと願えば、その願いは確実に形になるでしょう。
どうか、自分を大事にするように伝えてください。」
姉さんの担任は、そんなようなことを言ってから帰って行った。
姉さん、高校行ってないんだ…。
僕は自分のことでもないのに、ひどく動揺した。

その日、母さんは遅れて仕事に行き、入れ違うように姉さんが帰ってきた。
「どう?熱、下がった?」
家に入るなり、ふすまを開けて姉さんは僕の枕もとに座った。
「わからないけど、大丈夫だよ。いつものことだから。」
「プリン買ってきたよ。食べる?」
「うん。食べようかな。」
「昼は?」
「あんまり食欲なかったから、後にするって言って、まだ食べてない。」
だからダメなのよとひとしきり叱られた。
姉さんが買ってきてくれたプリンはどこにでも売っているものだけど、特大サイズで、トロトロに甘くて、うまかった。

「じゃ、もう少し眠ったらいいわ。晩ご飯は食べるのよ。約束。」
「うん。」
姉さんは静かにふすまを閉めた。
僕の部屋は、薄暗くなった。

「ねえ。」
「ん?何?」
「姉さん、高校行ってないの?」
僕はふすまを隔てたまま、姉さんに尋ねた。
「なんで?」
「さっき、先生が来たから。」
「そっか。」
「行ってないの?」
「うん。行かないことにした。」
「どうして?いじめられたの?」

ふふふ、と笑って、姉さんは否定した。
「そんなんじゃないよ。」
「じゃ、どうして?」
「…期待が重たいから…かな。」
「え?どういう意味?」

しばらく答えがなかったので、僕はそれ以上聞くのをあきらめた。
と、姉さんの深いため息が聞こえて、続けてぼそぼそと声がした。
「母さん、頑張ってるじゃない?
ひとりであたしたち二人を育ててさ。
楽じゃないのは分かってる。
だから、あたしも助けてきたつもり。
でも、それって、自分でそうしたいから、してきたんだよね。

勉強も学校も好きだよ。
知らないことがわかったり、できないことができたりするのは面白いと思う。
だけど、どこで何を勉強するのかとか、将来何をするかとか、そういうことは自分で決めたいの。」
「勝手に決められたの?」
「うーん、なんていうか…。」
姉さんは中学生の僕に分かるように、言葉を選んでいるようだった。

「東大に行けるから頑張れとは言われた。」
「すごい!」
「それがね、困っちゃう。」
「なんでさ?」
「あたしがね、東大行ってこういうことを学びたいって思うならいいのよ。
でも、あたし、進学することに全然興味がないのね。
東大行くと言ったら、今度はどうなる?
医者になれ、弁護士になれって期待されてさ…。」
「でも、まだ受けると決めたわけでも、受かったわけでもないのに。」
「そうなんだよね。
期待されちゃうとさ、応えなきゃって思うのよ。
で、その期待を裏切ったらどうしようって怖くなる。
やりたくもないけど、母さんが喜ぶならやろうかなとかね。
うちの娘は東大生なんですよぉって、嬉しそうに自慢している母さんを思い浮かべて、これで親孝行できたなぁなんて思ったりしてる自分を想像して、これだけ世話をかけてるわけだから、そうすべきだなぁと思ったりさ。
けどさぁ、しんどい。
逆にがっかりさせるところを想像すると、すごく怖い。」
「姉さん…。」
「それにさ、あたし、別に偉くなりたいとも思わないし、やりがいのある職業が欲しいとも思ってないんだよね。」
「変なの!」
「だってさ、幸せな人生に、そういうのって必ずいるわけじゃないと思うんだ。
大切な家族がいて、みんなで毎日笑ってて、時々けんかして、でも絶対仲直りできてさ。
それだけで幸せじゃない?」
「うん、それは、そうだね。」
「東大出て、そういう毎日を重視する文化っていうか、そういう気持ちを失わずにいられるのかなぁって。」
「行ってみないとわからないだろ?」
「ふん。生意気。」
「ごめん。」
「とにかく、好きなようにさせてもらうことにしたから。」

姉さんはそういうと、流しの水をジャッと出して、キュッと止めると、喉を鳴らして水を飲んだ。
僕はそのまま眠りに落ちたのだった。
今になってあの時のことを思い出すと、僕がもう少し大人で、姉さんに、いいから大学行けよと言ってやれればよかったのにと悔やむのだ。







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さよりさんが小紫をまた訪れたのは、それから3日後のことだった。
僕が余計な口をはさんで二人を破局に導いた翌日、別人のようにシュンとしてやってきた彼とは違って、さよりさんはやたらと明るく登場した。

「ママ!コーヒーちょうだい!今日もよく働いたぁ!!」
「はいはい。」
今日も仕事帰りなのだろう。
小紫も店じまいにしようかという深夜で、外はもうタクシーもめったに通らない。

「ついでに、ちょっとお腹空いちゃってるの。何かある?」
「あるけど、こんな時間だから、重たいものはいやでしょう?
待っててね、野菜スープでもこしらえるから。」
「んー。ありがと。これだからここを離れられないのよねぇ。」
さよりさんは満足そうにうなずいている。

コーヒーカップをカウンターに置いて、奥のキッチンへゆかりさんが行ってしまうと、店にはさよりさんと僕だけになった。
さよりさんは、平気な顔をしている。
でも、僕のほうは、はっきり言って気まずい。
今夜、僕はもう用なしだろうし、ちょっと挨拶をして帰ろうと思った。

ゆかりさんに言われて、僕は一生懸命考えた。
職業に貴賤はないというけれど、人にも貴賤はないかもしれないけれど、人の行いには、やっぱりいいこととよくないことがあるのではないか。
そうして、何をいいと思い、何をよくないと思うかが、僕という人間を作るのではないか。
うまく言葉にならないのだけど、そんなような感じの結論にたどりついた。

そして僕は、さよりさんが彼にしたことが、やっぱりいいことには思えなかった。
「あの、僕、今夜はこれで…。」
「あのさ。」
僕の言葉を無視して、さよりさんは話しかけてきた。
酔いに目の縁を赤くしているけれど、瞳がまっすぐに僕を見ていた。
僕は、その場に画鋲でとめられたように動けなくなった。

「なんでしょう。」
「こないだ、悪かったわね。」
まさか、そんなふうに言われるとは想像だにしていなかったので、僕はたじろいでしまった。
「いえ、僕のほうこそ、勝手なことをしてしまいました。すみませんでした。」
「彼とは別れたから。」
「…。」

僕は言いかけた言葉を飲んだ。
さよりさんは、彼が翌日ここへ来たことを知っているのだろうか。
仮に知っていたとしても、彼がここで語ったことを、この場で口走るわけにはいかない。
けれども、僕のどこか深いところで、彼がどれほど真剣だったか、せめて彼の代わりに分からせてやりたい、責めつけて、悪かったと言わせてやりたいという気持ちが沸々とたぎっている。

「穂高くんだっけ?」
年下のくせして、「くん」だと?
僕はカチンときたが、酔っぱらいの言うことにいちいち目くじらを立てていてはいけない。
「この世界、まだ浅いんでしょ?あたしは18の時からだから、もうね、けっこうなもんなの。」
5年か、6年か…そうなのか。
さよりさんはそのまま、問わず語りに話し続けた。

「毎日いろんな人が来てさぁ。
なんていうの?人間の本性っていうか、欲とかエゴとか見栄とか、そういうものを見続けてきてさ…。
でも、あたしも、生きていかなきゃならないじゃない?」
生存競争のためには、何をしてもいいことにはならないだろうに!
僕はやっぱり、この人がしたことを許せないらしい。

「お店にはね、ノルマがあるのよ。
月々のノルマを達成できないと、とんでもないことさせられるの。
それはどうしても嫌だから、ちゃんと頑張るしかないじゃない。
そうやってさぁ、毎日頑張ってたら、ある時気付いた。
あたし、もう、まともな人生歩けないんだなぁって。」

どういうことだろう。
「とんでもないこと」がどういうことかは、なんとなく想像できる。
いや、世間知らずの自分のことだ、本当はもっと何かすごいことかもしれないが。
けれども、まともな人生を歩けないってどういうことだ?
さよりさんは、カウンターに片肘をついて、指先で髪を撫でながら、もう片方の手で時折カップを持ち上げる。

「だって、仮によ。
好きな男ができたとするじゃない?
なんとかかわいい女を演じて、うまく結婚にこぎつけるとするでしょ?
でも、結婚式にやってくるあたしの友達はみんなキャバ嬢なわけ!
そりゃ、そういう場に顔を出さないのは暗黙の掟だからさ、現実にはそうはならないよ。
けど、昔の友達呼んだってみんな知ってるもん、あたしのこと。
そうしたら、会場でヒソヒソ言われるわけよ、知ってる?純白のウエディングドレスなんか着てるけど、あの人の中身は男の垢にまみれて真っ黒よーとかってさ!

それでもいいとかいう男がいたとしても、いつまで信用してくれると思う?
恋なんてね、いつかは冷めるものなのよ。
そしたら、長い現実が待ってる。
あたしの過去は過去、消えないんだからね。
そしたらさ、旦那はあたしがちょっと出かけただけで、以前の客と会ってやしないかって疑うんじゃないかしら?
子供ができて、参観日に、並んだママ友の間からも、あの人キャバ嬢だったのよーって声がしたりしてさ。
子供、肩身狭いわー。やってらんない。」

「そんなこと、わからないじゃないですか。」
彼女の言うことがあまりにネガティブだったから、僕は心にもなくフォローする言葉を吐いてしまった。
「わかるのよ。」
「どうして?試してみたとでも?」
「試して?違うわ。」
「じゃ、やっぱり思い過ごしってこともあるでしょう。」
「試す間もなく経験したからね。」
「え?」
「母さんがね、そういう仕事だったから。娘としてね…。」

なんということか!
彼女の告白の重みと同じ勢いで、僕は自分の薄さに打たれた。
「父さんが交通事故で死んだあと、母さん、どうしようもなかったんだね。
生まれたてのあたしを預けて、夜働くしかなかったんだろうねぇ。
物心ついたころには、入れ替わり立ち代わり、違う男が家にいたんだ。
けっこう長く続いた人もいたけど、結局揉めて、いなくなる。
その繰り返しだったんだぁ。」

後は言われなくても分かる気がした。
そんな母親のうわさが、幼い彼女を傷つけるような出来事が、繰り返し起きたのだろう。
まるで夕べのドラマのあらすじを語るような口調で軽々と話すけど、そんな生易しい経験ではなかったろうということくらいは、僕にでも理解できた。

「中にはさ、けっこう真面目で、いい人もいてさ。
ああ、あたしにも、やっとお父さんができるのかなぁって思ったこともあったんだよ。
けど、そういう人に限って、母さんから別れちゃうんだ。
意味わからなくてさ、あたし、反発して、家飛び出して、でも、結局母さんと同じことしてるんだから、笑えるよね。」

いや、笑えない。

「今なら、あんときの母さんの気持ち、よく分かるよ。
相手が真面目でいい人だと、申し訳なくなっちゃうんだよね。
目が覚めれば、もっと純でかわいい、あなただけって女がすぐに見つかるだろうからさ、こんなすれっからしに捕まっちまうのはもったいないって、好きだからこそ、身を引きたくなるんだね。」

僕は今、何かとんでもないことを聞いた気がする。

「はい、お待たせしました。」
丁度その時、奥からゆかりさんが、お椀のような形をした陶器をトレイに乗せて持ってきた。
「うわ、おいしそ。何これ?」
「缶詰だけどね、クラムチャウダーにしてみたわ。」
さよりさんはトレイが置かれるなり、スプーンを手にした。
「いい香りぃ!あれ?この丸いのは何?」
「ニョッキよ。」
「ニョッキ?」
「ジャガイモ団子と思えばいいわ。小腹の足しになるから、ゆっくり召し上がれ。」
「いっただっきまーす!」

さっきまでの深刻な会話がまるでなかったように、給食前の小学生みたいな挨拶をして、彼女はスープを味わい始めた。
「美味しいわぁ。こんな料理上手な女性を妻にしたら、男はそれだけで幸せね!」
さよりさんは、自分の言葉をかみしめるように手を止め、ポロリとつぶやいた。
「ほんとは、仕事抜きで、ちょっと好きだったな、彼のこと。」

僕の頭に、初めてさよりさんと会った夜の様子がブワッと蘇った。
彼女は、明らかに何かを悩んでいた。
ゆかりさんが言ったのではなかったか、あなたがそんな顔をする時は決まって、男のことよね、と。

「あの…。」
「ああ、忘れてた!」
彼女はスプーンを置くと、バッグの中をごそごそして、細長い箱を取り出した。
「はい、これ、穂高くんにあげる。」
「僕に?何ですか?」
「あたしね、男と別れると、そいつからもらったものぜ〜んぶ売っちゃうの。
だから、今、けっこうお金持ちなんだぁ。」
「受け取れませんよ、そんな…。」
「あ、いま、そんなものって言おうとしたでしょ!?」

さよりさんはまたスプーンを持ち、心底おいしそうな顔をしながらニョッキを食べている。
「いいから、開けてみて。」
断り方が分からず、僕はしかたなしに包装紙を解いて、箱を開けた。
中には、いつか銀座のデパートで見かけて気に入ったけど、高くて買えなかった腕時計が入っていた。
どうして知っているのだろう?僕がこれにあこがれていたことを!

「うわ、これ!」
「ま、あなたの薄給じゃ手が出ないでしょうけど、あたしにはおもちゃみたいなもんだから、飴玉もらったくらいの気持ちで受け取って。
お礼だからさ、あの時の。」
「お礼?」
「ありがと。あたしのこと、普通の女の子みたいに扱ってくれて。」

横目でゆかりさんを盗み見ると、小さく頷いている。
「あ、ありがとうございます。」
「んふふ。やった、これで共犯者よ〜。」

片頬で微笑みながらニョッキを口に運んださよりさんの両目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。







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さよりさんが袖にした男は、話してみたらとってもいい人だった。
そのことが、僕の心に言葉にならない何かを残した。
人は言葉だけでは測れない。
服装は人の鏡と言うけれど、鏡は内側や裏側まで映すわけではない。

彼は半年、さよりさんに夢中になったと言っていた。
たぶん貯金も使い果たしたのだろう。
昨夜、彼から話を聞いている間は、さよりさんのことがひどい人に思えた。
けれども、彼が言っていた通り、さよりさんは自分の仕事を忠実にしていたにすぎないのだろうと思うと、それがひどいとは言えないと思い直した。
何より彼は、最後の瞬間以外は、夢を追い続けたのだ。

でも、あんな純粋な人の思いを弄んだも同然ではないかと思うと、さよりさんにはやっぱりいい気持ちがしない。
彼女にどこか好感を持って幸せを願っただけに、自分まで騙された気がするのだ。

なんだか落ち着かない。
正解がないのは気分が悪い。
誰が悪くて、誰がいいのか。
どうなることが成功で、何が失敗か。
僕が間違いを犯したことは疑いない事実だけれど、さよりさんと彼とのことはどうなんだ?

もやもやしたまま家にいても落ち着かないので、朝食を終えると、僕は早々に小紫に向かった。
このところ、少し疲れを感じることが続いたので、開店2時間前…つまり午後4時…の出勤が多かった。
だから、無理くり詰めていた時に比べると、給料はずっと控えめになった。
それでも、過労で倒れて働けなくなるより、ずっといいだろう。

小紫では、ゆかりさんが例によって、店内の観葉植物の手入れをしているところだった。
「おはよう。来ると思ってたわ。」
ゆかりさんには敵わない。
「落ち着かないから…。」
「そんなことかと思ってね。」

ゆかりさんは手にしていた霧吹きと布を置くと、ふわりとカウンターに入った。
「コーヒーでも飲みながら話しましょうか。」
ゆかりさんのコーヒーは本当に美味しいから、僕はこれでようやく落ち着けるのではないかという気がしてきて、まだ何も話していないうちからホッとしてしまう。

「さて。なんでも聞くわよ。」
香ばしい湯気が立つカップをふたつカウンターに置くと、僕の隣に腰かけた。
「ゆかりさんがどうしてお客様の話に口を挟んではいけないと言ったのか、今回僕は身をもって知りました。」
「どう知ったの?」
「そこで話されていることの真意は、お客様にしか分からないから…でしょうか。」
「真意ね。。。」

どうやら、そのへんに引っかかるのは正解らしい。
「そうやって、人の顔色から当たりはずれを探るのは卒業しなきゃね。
いつまでも、独り立ちできないわ。」
話の方向がいきなり逸れて、僕は面喰った。
「え?」

「まぁ、今回だけは教えてあげるとしましょうか。
それとも、自分でもっと考える?」
「いえ、教えてください。僕は、なんだか割り切れないままなんですよ。」
「だから、割り切りたいわけね?」
「はい!」
「残念ね。」
「えっ?どうしてですか?」
「これからする話はね、割り切れない話だからよ。」

ゆかりさんの言葉に首を傾げながら、僕には尋ねたいことがいろいろとあった。
「ゆかりさんは、さよりさんがそういう人だということを知っていたんですよね?」
「そういう人って?」
「言葉巧みに男の人に取り入って稼ぐような…」
「非難がましい言い方ね。
でも、そういう商売をしていることを知っていたかと言われたら、知ってたわ。」
「どうして放っておくんですか?もっとまっとうな仕事をしたらいいとは思いませんか?」

ゆかりさんの目がギラリと光った気がした。
初めて見る恐ろしい目は、女豹と表現されるにふさわしく、僕が今まで見たことがないものだった。
背筋が凍る。
僕は何か間違ったことを言ったのだろうか。
ゆかりさんの視線はこれまでの仲間を見る目ではなく、獲物を狙う肉食獣の本気を湛えているではないか!

「まっとうな仕事って何?
あの子の仕事がまっとうでないなら、あなたの仕事はまっとうなの?」
「…そういう意味では…。」
「では、どういう意味なの?
あなたが昨日お客様に話していたことは何だったの?
その場の口から出まかせ?」

こんなゆかりさんは本当に初めてだ。
これまで、注意されたと思うことはあっても、叱られたというほどのことはなかった。
自分はなかなかうまくやっていると思っていた。
この道に向いていたのだと、密かに自負心を抱いてもいた。
それなのに、こんな言葉を浴びるなんて!!
何でも聞いてあげると言ったのに!
油断させておいて責め立てるなんて!!

「ねぇ、穂高。
ちょっと考えてみてほしいの。
たとえば、お医者様って誰もが認める素晴らしい職業よね?
でも、自分の思い込みで勝手で未熟な手術をして、たくさんの患者の命を奪ったかもしれない医者がいると報道された時、あなたはどう思うかしら?
学校の先生が、熱心さのあまり体罰を行ったと聞いたら?
恋に迷った警察官がストーカー行為を行ったら?」

それは極論でしょうとすかさず思う。
でも、言う気になれなかった。
どうせ否定されるに決まっている。

「そんなのは極論だと言いたいのでしょうね?
確かに、そんな人は全体のごく一部で、その職業の人は総じて善良だと言えますものね。
でも、私たちは、職業全体と向き合っているのかしら?
この小紫にいらしてお酒を楽しんでいらっしゃる方は、個人ではないの?
だったら、職業全体のイメージよりも大切なのは、その方個人がどうか、ということになるのではないかしら。」

僕の中で膨れ上がっていた悪意の風船から空気が抜けて、急速に萎んでいく。
その通りだ。
僕らはいつだって「その人」を目の前にしている。
目の前の人は、あらゆる可能性を持っている。
いい人か、悪い人か。

「この仕事イコール見下げた仕事という単純な等式もどうかと思うけれど、あなたのいい人か悪い人かという単純な分類も、どうかと思うわ。」
「違うんですか?」
「ええ。私は違うと思ってるわ。」
「どうしてです?
犯罪者は悪い、元さんたちみたいに地道に懸命に生きて人のことを思いやれる人は素晴らしい。
それのどこが間違っているんですか?」

「ある時点で、それは正解かもしれない。
でも、それだけが全てではないと、私は言いたいの。
犯罪を犯した人は、一生、あらゆる時点で悪いことしかしないのかしら?
地道に積み重ねたことは一つもないと言える?
一度も思いやりをもって人に接したことがないと言い切れる?
そんなことはないでしょう。

元さんたちはたしかにいい人たちだわ。
でも、元さんだって間違えることはあるし、思いやりとかけ離れたことを言ったりしたりすることだって、あるんじゃないかしら。
人はね、いいことをしながら悪いこともするし、悪いことを考えながらいいことも考えているものだと、私は思うのよ。
正しいことをしながら、身勝手で虫のいいことを考えていたり、疚しい気持ちでこそこそしながら、堂々と話していたりね。

でも、そんなことは、私たちには分からないでしょ?」

「分からない?」
「分からないわよ。
この店にいらしているのは、その方の人生のうち、ほんの一瞬みたいなものじゃないの。
その方の生き方とか、考え方とか、生活とか、理想と現実とか、そういうもののほとんどすべてが、この店の外で起きることでしょう?」

なるほど、確かにそうだ。

「だったら、こうは考えられない?
お客様の人生はお客様の問題で、知ることすらできない私たちにはどうしようもない。
でも、この店の中で、お客様がどう感じ、何を楽しんでくださるかには、私たちは責任を持たなくてはならない。」

責任?

「お客様が外の世界からここへ持ち込んでこられる何かには、我々は責任の持ちようがない。
でも、今ここで起きることには、全面的に責任を持つ。
美味しいお酒を飲んで、寛ぎたい方には寛いでいただき、喜びたい方には喜んでいただき、静かに落ち着きたい方には静けさを味わっていただく。
そうしてそのドアから出ていらっしゃるときには、外で流れている、もしかしたらけっこう厳しいかもしれない世界に、少し余分な元気を持って行っていただけたら、それが私たちの責任なのではないかしら。

私はね、そう思って店に出ているの。」

責任。

「人は白か黒かでは語れないわ。
出来事も、その場の理解だけでいいとか悪いとか言えない。
学校では教えてくれないけど、世の中は全部ひとつにつながっているの。
どこかに線が引いてあって、こっちだけが正しくてマルで、そちら側に入れば間違いない世界なんて存在しないのではないかしら?

どこまでも曖昧で変わりやすい。
だから人は悩みもするし、迷いもする。
答えがない世界を一生懸命生きるのが、この世だと思うわ。

誰も唯一の答えを持っていないし、教えられもしない。
絶対なんてもの、どこにもないのだわ。

絶対がないから、人は支え合って、話し合って、知恵も力も出し合って生きるの。
少なくとも私と私のこの店は、そういう人と場所でありたいわ。」

僕は立ち上がり、黙ってゆかりさんに頭を下げた。
納得するとかしないとか、そういうことではなかった。
僕もまた、迷いながら生きる人間として、彼女の言葉だけを正解と断じて自分で考えることを放棄してはいけないのだ。

でも、ひとつだけ確かなことがある。
これまでの僕の考え方は幼すぎたということだ。
あらかじめ用意された正解を探し当てるようなやり方では生き抜けない場所が、今、僕が生きている世界なのだ。

「もっと考えてみます。」
「ええ、それがいいと思うわ。」

ゆかりさんが、ようやくいつもの笑顔を見せてくれた。

「今日は時間がたっぷりあるから、床を磨き上げようかな。」
「あら、助かるわ。お願いね。」
「はい!」

僕はこの日、遅まきながらやっと、社会人になれたのかもしれなかった。








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