Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2015年04月


桜が散り、気温が高くなり、春の嵐がいくつか過ぎた。
淡い桃色の代わりに、目を驚かすばかりに鮮やかな赤や紫がかったピンクが道端を彩っている。
この季節を新緑と呼ぶのだろうが、必ずしも緑ではないことを僕は知っている。
意外とベージュや黄、赤い新芽は多いものだ。
遠目からでは緑に埋もれてしまうが、一つ一つの梢は、花もみじに負けぬほどにぎやかだ。

年度末とか年度初めとか。
大学にいたころは「送別会」だの「新歓」だのとにぎにぎしかったが、Bar小紫では年度の切れ目など大した波ではなかった。
宴会の流れの客もいなくはなかったが、それほど多くもない。
お客様の言葉の端々に、「忙しくてやってられないよ」と聞こえてはいたのだが。
僕は平穏な毎日を心穏やかに繰り返していた。


その夜、彼女はすでに相当酔っていた。
「あら、さよりちゃん、久しぶりじゃない。いらっしゃい。」
ゆかりさんがそう言って迎えたから、僕にとっては初めてのお客様だったけれど、「小紫」にとっては常連さんなのだろう。

たぶん、きれいな人なのだ。
季節外れの黒革のロングブーツ、短いタイトスカートは白っぽく、加減によっては胸元がこぼれるのではないかと思うほど大きくあいた黒いブラウスに、きらきらした糸が混じっている襟のない白い上着をちょっとだらしなく羽織っている。
服の強いコントラストに負けないほど印象的なのは、長い髪だ。
椅子に腰かけたらお尻の下に敷いてしまうのではないかと思うほど、長くまっすぐに伸びている。
千鳥足と言っては失礼だけど、確かではない足元で店に入ってくると、自分からスツールの一つにすがるように座って、ゆかりさんに言った。
「ふう。ママ、コーヒ。正気に、戻りたい。」

はいはい、というゆかりさんの返事を聞いたかどうか、彼女はテーブルに突っ伏した。
あの、水を…と僕が氷を多めにしたグラスを届けると、何拍か遅れて急に身を起こした。
最初は怪訝そうに、そのうちやけに強い目力で、僕を睨んでくる。
「な、なんでしょう?」
「あんた、誰?」
「ほ…穂高です。新入りです。よろしくお願いします。」

じっと見つめてくる黒目が大くて、濡れ濡れと光っている。
そして、酔いのバロメーターのように、目のふちが真っ赤になっている。
目力をかけ続けるのは辛いのか、不意にどんよりしたかと思うと、「あ、そ。」と、またテーブルに突っ伏した。
僕は泥酔した女性がとても苦手なことに、働き始めて間もなく気付いていた。
なんだかもう、どうしたらいいのか分からない。
この人も、何か無理難題を言い出して絡まれるのではないかと思うと、突っ伏してくれたくらいで丁度良い。
僕はそそくさとカウンターの陰に隠れた。

「さよりちゃん、ほら、コーヒー淹れたわよ。」
ゆかりさんがわざわざカウンターの外に出て、彼女の肩をたたく。
うーん、とけだるい声をあげて、彼女はのっそりと身を起こした。
「あー、ママ、ありがと。うん、いい香りがする。」

他に客がいなかったからだろう、ゆかりさんは彼女の隣に座って、一緒にコーヒーを飲むつもりのようだ。
深夜0時を過ぎている。
こんな時間にコーヒーを飲んだら眠れなくなるだろうに、などと考えている自分が可笑しくなった。
何を言っているんだか。
どっちにしたって、僕らが眠るのは朝方じゃないか! 

「何?また何かしでかした?」
隣に座ったゆかりさんの声はどこか子供をからかうような口調をしている。
珍しいことだな、と思う。
彼女は何も答えず、酔った風貌のわりにはしっかりした手元で、コーヒーにミルクを注いだ。
「失礼ね。何もしてないわよ。」

「うそうそ。あなたがしばらく顔を見せない時は決まって、男に入れあげている時でしょ?
今度は?どんな人?」
彼女は一瞬険しい顔をする。
でも、ふっとその険しさが抜けていって、少女のような笑顔になる。
「あたし、頭悪いから、うまく言えないよぉ。」

それきり彼女は黙ってしまい、それでも表情だけは美味そうにコーヒーをすすった。
隣でゆかりさんも無理に畳みかけることなどせず、静かにカップを傾ける。
僕はふと、この女性には、何か悩み事…困りごと?…があるのではないかと考えた。
悩んだら相談すればよいというけれど、相談ができるくらい整理できた時には、案外答えが出ているものではないだろうかと、僕は思う。
もちろん、例外は多いだろうけれど、本当に悩んでいる時、一番苦しい時というのは、それを言葉にできない時なのではないかと思うのだ。
そんな時、周りの人にできることは、ただただそばにいてあげることかもしれない。

この女性もそうなのかな?
だからゆかりさんが、こうしてそっと寄り添っているのかな?
僕は二人の姿をカウンターごしに、グラスを磨きながら眺めていた。

すると、不意に彼女が僕を見た。
「何?」
僕の視線が強すぎのかもしれない。
しまった、と思うがもう遅い。
その、ドギマギした逡巡が余計にいけなかった。
「ホタカくんだっけ?あたしに何か言いたいことでもあるの?」
「いえ…そういうわけでは…。」
「じゃ、なんでジロジロ見ているのよ!」

ああ、穏便に済ませたい。
僕は心から祈らずにはいられない。
質問はいけない、お客様に逆らってもいけない、だけど今ここで、お客様は何か言うに言えない悩みを抱えておられるのかと考えておりましたなどと正直に言うことが、いい答えだとも全く思えない。
困った!

「いえ、あの、『さより』さんとおっしゃるのだなぁと思って。」
「はぁ?」
「ママがそうお呼びしているから…。」
「そうよ。それが?」
「サヨリといえば、こう、細いくちばしがついているみたいな、スマートな魚にもいるじゃないですか。そろそろ旬だなぁ、今度回転寿司に行ったら、サヨリの握りを食べようと考えてました!僕大好物なんですよぉ、甘みが何ともうまいじゃないですか。それに、干物にしても絶品ですよ。いい名前だなぁと…。」

ゆかりさんがプッと吹き出した。
しゃべりすぎたんだ!
僕は口を閉じたが、彼女の表情にはありありと、先ほどまで抜け落ちていたある種の感情が浮かんでいる。
あれ?褒めたつもりなんだけど…

「間違えられたのよ。」
「えっ?」
「だから、間違いなの。」
「間違い、ですか…。」
明らかに質問になるから、何が?と聞き返したいのをこらえる。

「名前よ。あたし、ホントは『さゆり』になるはずだったの!」
「さゆりさん…。」
「あたしの親だけあって、父親ってのがほんとにバカでさ、ろくすっぽ字も書けなかったらしいのよ。
でも、あたしが生まれたとき、どうしても役所に行って届けを出すのは自分がするって言って聞かなかったんだって。
それで、母さんがあたしにつけた名前は漢字で、ほら、吉永小百合と同じ漢字ね、でも父親には難しいからって、ひらがなでいいってことにしたんだって。
そこまでは、まぁ、いいわよ。」

ゆかりさんは、この話の顛末を知っているらしい。
微笑を浮かべたまま、黙って、残り少なくなったコーヒーを傾けている。

「で、役所に行って、緊張しまくって出生届を書いたんでしょ。
ひらがなを一文字書き間違えた!」
「ああ、「さゆり」の「ゆ」が「よ」になった!」
「そう!
まったく、あり得ないでしょ?
隣り合わせの字だけど、ひらがなだよ?!
どんだけバカかっつーの!」

彼女は残りのコーヒーをぐいっとあおって、ソーサーにカップをカチャンと戻すと、驚く話を続けた。

「しかも、ひらがなだからって、ふりがな欄を書かなかった。
きっと、窓口の人の確認もろくすっぽ聞いてなかったんだと思う。
母さんのところに飛んで戻ろうとして、役所を飛び出して、役所の前でバイクにぶつかって即死だよ。」
「えええっ!」
「まったく、横断歩道のわたり方、小学校で習わなかったのかねー?
あたしは生まれて1日で父親を失って、母さんはたった1日で子連れの未亡人ってわけ。」
「それは…。」
お気の毒ですなんて言えるわけがない。

「その後さぁ、予防接種だのなんだの、役所から呼び出しが来るたびに『さより』って書いてあって、母さんも、印刷が間違ってるなぁと思っていたらしいけど、小学校に入ることになって、いよいよおかしいと気付いて、役所に確認に行ったんだって。
それで、判明したわけ。
父親の手書きの書類も見せられたんだってさ。」
「間違いなら、その時直してくれてもいいのに…。」

「ううん。あたしがね、いいって言ったの。」
僕は質問の代わりに、目を大きく開けて見せた。
「だって、父さんが命がけでつけてくれた名前だから…。
その日から、あたしはさゆりをやめて、『さより』になったの。
おかげで、魚だ寿司だ干物だと生臭い話ばっかりなんだから。
やってらんないわよぉー!」
言葉は投げやりだけど、口調と表情が笑っている。
そのまま目を伏せた彼女が、なんだかとてもかわいらしく見えた。
そそっかしくて、急ぎ足に家族をおいて行ってしまったお父さんを、彼女はちゃんと愛しているのだろう。

「僕は女優の名前と同じ小百合さんより、おとうさんが間違えた『さより』さんの方が好きです。
あ、僕が好きかどうかは関係ないか…!」
「ううん。ありがと。父さん、天国で頭かきながら喜んでると思う。」

酔いが醒めてきたのか、店に来た時とは別人のような、角の取れた表情で言う。
幸せになってほしい女性だなぁと、僕はしみじみ思った。






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もう一人の花見客がもう来ていると言われて、僕は向かい側左斜めの、皿と御猪口が並んだ場所を凝視した。
誰も、いないよな?

何を言っているんですかと開きかけた口が開く前に、隣に座っていた徳さんが、僕の腕を引いた。
何も言うなという目で僕を見ている。
何だというのか?
風が吹いて、たわわに咲いた八重桜の枝がゆらりゆらりと動いた。

「今年で20年だね。」
元さんが呟くように言った。
「ああ。20年だ。長いような、あっという間のような。」 
宮田先生が遠い声で答えた。

長さんが、僕に目で言う。
何のことですかと尋ねてやれ。それが、お前が今夜ここにいる理由だからね。
「20年って何のことですか?」
「……私の妻は寿を加えると書いて加寿(かず)と言ってね。若くして亡くなったんだよ。」
「それが、20年前…。」
「そうだ。加寿さんはこの桜が咲くのを楽しみにしていたのに、見せてやることができなかった。だから、毎年こうしてみんなが花見の会を開いてくれて、加寿さんと一緒に夜桜見物をするんだよ。」

加寿さん。
宮田先生がそう呼ぶ時の声が、患者さんを呼ぶのとはまた違ったやさしさに満ちている。
「どんな方だったのですか?」
「まぁ、それはいいから、ママの手料理をいただこうじゃないか。」
宮田先生は自分からお重のおかずに手を伸ばす。
「ああ、これはうまそうだ。」

ゆかりさんが、加寿さんの席の御猪口に手を伸ばし、バッグから出した小さなビン詰の隣に置いた。
ゆかりさんは小瓶のふたを慎重に開けると、竹でできた小さなピンセットのようなもので、何かをそっとつまみ出した。
「なんですかそれ?」
「これ?これはね、去年この八重桜の花を摘んで塩漬けにしておいたものよ。」
一輪を小さな御猪口の中に入れると、魔法瓶から湯を注ぐ。
僕がのぞき込む目の前で、御猪口の中に桜色の花が咲いた。

ゆかりさんがそれを宮田先生に手渡す。
「加寿さん、ほら、ママがいれてくれたよ。」
ことりと、隣に置いた。

「加寿さんはね、看護婦だったんだ。
私は医師になってからしばらくは、大学病院に勤めていてね。
忙しくて忙しくて、恋愛だの結婚だの、考えようもない毎日を送っていたんだ。
若かったから志も高くて、離島医療に携わろうと、教授たちが引き止めるのも聞かず、ある時ひとりでここを出た。
宮田医院にはおやじがいたし、医局がどうの、教授がどうのという毎日より、医者として本当に大切なものを大事にしたいなんて本気で思って。」

僕は、宮田先生らしいなぁと思った。
「それでも40近かったからね、自分としては一世一代の決心だよ。
そうやって南の島に移住して間もなく、加寿さんから連絡が来た。
なんと、私と一緒に島の診療をしてくれるという。
すでに大学病院もやめてしまったって言うんだ。
彼女は腕のいい婦長さんだったから、病院は、私が抜けたことより何倍も痛かったと思う。」

僕たちはみな笑ってしまう。
「潔かったよ。彼女は鞄ひとつでやってきて、あっという間に僕の公私分かちがたいパートナーになった。
島の暮らしは、今思い出しても幸せだった。
内科だ外科だと文句も言えない。
赤ん坊を取り上げた翌日に、長老を看取るような日々だったが、満足だった。
大学病院では感じたことがない充実感を私も加寿さんも味わっていたんだな。」

若いとはいいがたい若夫婦が、助け合って島の人々に尽くしている姿の映像が僕の頭に浮かんできた。
二人で波の音を聞き、潮の香りを吸い込み、輝く夕焼けを眺めたことだろう。
「それでも、加寿さんは勉強をやめなかった。
僕が日々の診療にかこつけて、最新の医療から遠ざかるのを諌めてくれた。
だから、僕たちは折々に1週間ほど、大学病院からドクターに来てもらう代わりに、学会と旅行を兼ねてでかけるのを楽しみにしていたんだ。
東京まで来ることはあまり多くなかったが、その分、海外にも出かけたよ。
加寿さんは、文句も言わずにどこへでも一緒に行ってくれた。
今思えば、体調が悪い日も、都合が悪いこともあったのだろうに、そんなことは一度も言わなかった。
私が、加寿さんも一緒の方が喜ぶことを、よくよく分かってくれていたんだなぁ。」

こういうのを「おのろけ」というのだろうが、からかう気にはなれない。
本当に仲の良い夫婦だったのだろう。
「南の島でも桜は咲くが、種類が違ってね。
僕はよく、この八重桜のことを加寿さんに話して聞かせたもんだ。
物心ついた時から見てきた桜だからね。
僕にとって桜といえばこの木だ。
加寿さんは、いつか見てみたいといつも言ってくれたよ。
不思議と、桜の季節にこちらで学会がなくてね。」

先生が、ふと口を噤む。
また風がふわりと吹いて、枝を揺らした。
誰も話さず、先生をせかしもしない。
先生は、ゆかりさんが先生用にと作った桜湯をそっと口に含んだ。

「あの年、丁度桜の咲く頃に、ちょっとした集まりがあった。
是非にと言われて、私は参加することにし、当然加寿さんも一緒に上京することになった。
加寿さんにはその頃、ちょっと具合の悪いことがあってね。
上京に合わせて、私が勤めていた大学病院で、ちょっとした手術を受けることにしたんだ。
本当にちょっとしたもので、今なら日帰りできる程度、当時でも、一泊でいいようなものだった。
でも…。」

暗がりの中でも、先生の目がうるみかかるのが見えるような気がする。
「手術は無事に済んだ。
私は電話でそれを確認して、安心して、集まった仲間と晩飯を食ってから病院に行くことにしたんだ。
でも、病院に着いた時、加寿さんはもう、この世の人ではなくなっていたんだ。」

「ど、どうして!」
僕の声は大きすぎたかもしれない。
でも、そんなことは構っていられなかった。
「敗血症だったんだ。」
「敗血症?」
「ああ。難しい手術だったら、もっと術後観察をしっかりしたろう。
でも、朝いちばんにサッと終わったような簡単な手術だったから、異変に気付くのが遅れたんだ。
気付いた時にはもう、手の施しようがないほど悪化した後だった…。そこからは…あっという間のことだったのだそうだ。携帯電話なんか持っていなかったからね。」

「それって、医療過誤ってやつですよね?訴えなかったんですか?!」
「訴えてどうなる。金か?加寿さんのいた暮らしをいったいいくらと言えばいい?罰か?執刀医は、私の大事な友であり、仲間だったんだぞ。」
僕は何も言えなかった。

「東京で葬儀を済ませて、私は加寿さんの遺骨を抱えたまま、島に戻った。
島の温かな人々と気候が私を元気にしてくれると信じていた。
仕事に没頭すれば、心の痛みも忘れられるんじゃないかとね。
でも、だめだった。
島のどこにも、加寿さんの思い出が住んでいて、私は身の置き所がなかった。
そんな時に、おやじが帰ってきてこの医院を手伝ってくれと言ってきたんだ。
渡りに舟ってやつだな。
私はここに戻り、両親のもとで心の穴を埋めることにした。」

その頃の先生の気持ちを思うと、わがことのように心が痛んだ。
「その時に戻って正解だったんだよ。お袋もおやじも、相次いで亡くなってな。
私はひとりになった。
1年で、身内を3人見送ったわけだ。」

隣でゆかりさんがため息をついた。
「次の春が来て、この庭を見たとき、私は思い出したんだ。
手術の前の晩、ここを宿代わりにしていた私たちは、この庭を見て話したんだ。
まだつぼみばかりだけれど、帰るころには満開になるだろう。
そうしたらこの木の下にシートを敷いて、おやじもお袋も一緒に花見をしようって。
加寿さんはものすごく嬉しそうな顔をして、言ったんだ。
楽しみだわ、入院って一晩でもヒマだから、どんなごちそうを作るか考えておくわねって。
なのに、見せてやれなかった。
この桜、見たかっただろうに。
一緒に、見たかったのに。」

突然僕の瞼の上の方がジンと痛んで、次の瞬間に自分でも驚くほど大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
びっくりして吸った息がウウッと嗚咽になる。
「なんだ、穂高くん、泣いてくれるのか?」
僕には分からない。
この涙は、本当に僕が泣いているのだろうか。
もしかしたら、僕の目を借りて、誰か本当に泣きたい人が泣いているのかもしれない。

「ありがとう、穂高くん。」
宮田先生が幼子にするように、テーブル越しに腕を伸ばして僕の頭を撫でる。
「それからよ。私たち、加寿さんをお招きして、毎年ここでお花見の会をすることにしたの。」
「そう、でしたか…。」
長さんが店の名前が入った白いタオルを貸してくれ、僕は涙をゴシゴシ拭った。

ゆかりさんがみんなの御猪口を集めて、桜湯を作る。
それをひとり一人受け取り、加寿さんの席に向かって小さく掲げて乾杯した。
加寿さんの桜湯も、大輪の桜がたっぷりの湯の中で花開いているのが見える。

お重のごちそうがなくなるまで花の宴は続いた。
「さてさて、長話をしていたら、すっかり体が冷えてしまったよ。
そろそろお開きにしようか。
大事なママに風邪をひかせては大変だからね。」
宮田先生の言葉を契機に、みなテーブルの上を片付けにかかった。

使い終えた皿や御猪口を集めようして、僕は息が止まった。
さっき加寿さんのためにゆかりさんが入れた桜湯の御猪口に、こぼれんばかりに入っていたお湯が全くなくなっている。
御猪口の位置は置いた時のまま、少しも動いていないようだ。
なのに、中には水分を失ってすっかりしぼんだ桜が小さく横たわっているだけだ。
誰もこの御猪口に手を出していなかったはずだが…

「お粗末さまでした。今年も花をいくつか、摘ませていただきますね。」
誰に言うともないゆかりさんの小さな声が、背後から聞こえてきた。






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「それにしても、見事だったなぁ。」
山梨へ花見に出かけた我々は、まだ日も高いうちに帰路についた。
「2000年って、どれだけだか。
数字ではわかるけど、実感が湧かないわ。
なのに、なんとも神々しいのだけは伝わってくる。」

神代桜は、日本三大桜に数えられている銘木だそうだ。
無知な僕はいきなりその前に立ち、言葉を失ってしまった。
木と言うには大きく形を崩して、あちらこちらかから支えられている。
2000年の重みに耐えかねているかに見える幹とは裏腹に、花はあくまで初々しく、それが満開に咲き揺れている。
周囲に咲く桜たちも見事だが、この1本の存在感は他を圧倒してやまない。
そうして、この神代から咲く桜をぐるりと囲んで見上げる人のなんと多いことか!
今年は開花が少し遅れたそうで、都会の桜がすっかり終わった分、もう一度花見をしたい人々を呼んだのだろうか。

「僕が研究してきた『源氏物語』の平安時代でさえ、1200年前ですから、紫式部や清少納言の時代ですでにあの木は800年の古木だったのですよね…。すごいなぁ。在原業平は見なかったのかな。西行法師は…。いや、行基さんなら見たろうか。」
僕の頭の中は、悠久の歴史に湧きたっていた。
古典の中の登場人物と思っていた人々と同じものを、今日、僕は見てきたのかもしれない。

「穂高くんはすっかり学者先生の頭に戻ったようだ。」
宮田医院の先生がくすくすと笑う。
「いいですよ。自分が大切だと思うものは安易に捨ててはいけない。」
「すみません、なんだか本当に感動してしまって。」
「いやいや、小僧でなくても感動した。毎年見に行けばよかったと思ったよ。」
元さんもハンドルを握りながら心を熱くしていたようだ。

毎年の花見では、こうして都会を離れて評判の桜を見て、評判のよい店を尋ねて昼食にするのだそうだ。
今日は山梨だから「ほうとう」と来るのかと思ったら、蕎麦だった。
変わり蕎麦というらしい。
そば粉の多い黒い蕎麦と、柚子が香る柚子蕎麦と、愛らしいピンク色の桜蕎麦が小さなせいろに並んでいる。
添えられた天ぷらはサクサクとして、エビのプリプリとした感触と、衣の奥からわきたった舞茸の香り高さがたまらなかった。

それにしても、あの桜。
青空とのコントラストが…
いや違う。
対比ではなくて、調和だ…

などと考えているうちに、僕はまた寝入ったらしい。
「ほらほら、起きて!着いたわよ。」
「まったく、若いやつってのはよく寝るもんだ!」
元さんに言われて、僕は頭を掻くしかない。
車はいつの間にか小紫の前についていた。

「じゃママ、また後でな。」
口々に送られて、車を降りる。
腕時計を見ると、まだ16時だった。
元さんの車はほかの人を乗せて走り去り、店の前に立った僕は意味が分からない。
「また後でって、何ですか?」
ゆかりさんは店のカギを開けながら、あら言っていなかった?という顔で答えた。
「山梨は前座ね。真打は夜桜だから。」
「夜桜!へぇ。そうなんですか。」
僕は、胸をときめかせている自分にちょっと戸惑ってしまった。

桜は、本当に大好きだ。
僕の出産予定日は5月だったらしい。
それが、ひと月早く、4月に生まれた。
つまり、この間誕生日を迎えて、26歳になったところなのだ。
僕はそれを、どうしても桜が見たくて、母さんの腹から飛び出てしまったのだと思っている。
僕の故郷の桜は、丁度僕の誕生日頃に咲き始める。
桜が好きで好きでたまらない遺伝子か記憶かが、僕の中にあったのだろう。

それでも、これほどときめいたことはなかった。
今まで見た桜と何が違うのだろう?
一休みしていなさいと言われて、お茶を入れてもらい、熱い湯呑を指でつつきながら、僕はまた、今日見た桜の威容を思い出していた。
ゆかりさんは、ちょっとだけお昼寝するわねと言って、部屋へ引き取っていった。


「そろそろでかけましょうか。」
ゆかりさんに言われて立ち上がる。
あと少しで18時。
あたりは暮れかかり、刻々と夜が近づいている。
「これ、持ってね。」
「ああ、そういうことでしたか!」

今朝一生懸命に作ったお重弁当の出番は夜だったのか!
乾燥しないように、傷まないようにと丁寧にラップをかけていた意味がようやくわかった。
「魔法瓶」の熱湯も、なみなみと注いだから冷めてはいないだろう。
店を出て歩き出したゆかりさんの後に続く。
お弁当の重いこと重いこと!
どこへ行くのか教えてくれないので、しかたなく、お弁当の安全第一についていくと、ゆかりさんは宮田医院に入っていく。

「おお、来た来た!」
庭に回り込むと、すでに元さん、徳さん、長さんがやってきていて、大きなブルーシートを敷いた上に、布団を敷きまわしてコタツを置き、野外お座敷ができていた。
「うぉぉ!」
僕が歓声を上げると、面々は自慢顔にゆかりさんを座らせる。
「腰が冷えてはいけないから、ここにね、こうして。」
いかにも暖かそうな毛布も用意してある。
このおじいさんたちの、ゆかりママにかける思いの深さに、今更ながら驚いた。

宮田先生の庭には、大きな桜の木が1本住んでいた。
ソメイヨシノではない。
艶やかな八重桜だ。
八重桜はソメイヨシノよりも遅く咲く。
ああ、この花の盛りに合わせた花見だから、世間の花見よりも遅かったのかと、このときになってようやく合点がいった。

樹齢はどれほどなのだろう。
100年やそこらは経っていそうだ。
がっしりとした幹は2階の屋根と同じほどの高さになっている。
枝が大きく張り出していて、大きな花の重みにゆらゆらと揺れている様が、外の街灯に照らされて、神秘的にすら見える。

家の中から延長コードを引っ張って、コタツが温かくなっているから、夜気に冷えてきた空気も身に染みるというほどではない。
このコードといい、ブルーシートといい、元さんの仕事道具なのだろうが、粋な使い方だと思う。
その元さんはとみると、僕が抱えてきたお重だの、宮田先生の台所から出てきた箸や皿をせっせと並べている。

「あっちっち。ほら、できたできた!」
先生がお燗を小走りに持って出て、準備は整った。
「じゃ、今年も満開の桜に、乾杯!」

「あれ?」
僕はその時になって気付いた。
「先生の隣に、もう一人分、お皿が置いてありますね。ほかにどなたか見えるんですか?」
気軽に聞いたのだが、場の空気が変わったことに、僕はハッとした。
「穂高、もう来ていらっしゃるわ。」
「えっ?」





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息を飲む風景とはこのことだ。
見渡す限り一面の…


「穂高、じゃ、これとこれを重ねて…そうそう。そっちに風呂敷を置いておいたからお願いね。それと、そこの魔法瓶にお湯もね。」
そういうと、ゆかりさんは隣の家に戻っていった。

よく晴れた日曜の早朝のことだ。
ゆかりさんは薄手のベージュのカーディガンにチャコールグレーの暖かそうなロングスカートといういでたちでお弁当作りに励んでいた。
僕は言われるままにゴボウをささがきにしたり、から揚げにする鶏肉を密封袋にいれて下味をもみ込んだり、太鼓型のおにぎりに海苔を巻いたりした。
このおにぎりが実においしそうで、ついつい海苔を巻いた手でお重に戻すより、自分の口に放り込みたくなる。
緑は青菜、赤は紫蘇、ピンクに見えるのは鮭だな、黒っぽいのはワカメにしらすとゴマだろうか…ごはんにいろいろなものが混ぜてある。 

6人分の弁当は壮大なスケールで整えられ、今、きちんと風呂敷に収まった。
「それにしてもゆかりさん、『魔法瓶』だなんて、昭和だなぁ。」
独り言を言いながら、僕はトクトクと小気味よい音を立てながら、沸騰したお湯を溢れさせないように注ぐ。
一度『魔法瓶』と言われたら、今はこれを何と呼ぶのか、思い出せなくなったのが可笑しかった。

「ああ、できたみたいね。さ、でかけましょう!」
ゆかりさんはすっかり着替えて、遠足に行く小学校の先生のようないでたちになっていた。
「そんな服、持っていたんですね。」
僕が言うと、ゆかりさんは怪訝な顔をする。
「あら、私だってズボンはくわよ。」
「ゆかりさん。」
「なに?」
「今は、ズボンじゃなくて、パンツっていうんです。」
「ぱ…。あら、そう。」

僕は大きな風呂敷包みを抱え上げようとした。
「あ、いいのいいの。それは置いていくの。」
「えっ?どうして?せっかく作ったのに。」
「いいのよ。後で取りに来るから。」
「取りに来る?」
意味がさっぱり分からない。
ゆかりさんはさっさと店の外に出て、早くしましょう、カギを閉めるわよと急かしてくる。
僕は自分のリュックだけを片手に、ピョンと外に出た。

待ち合わせ場所は元さんの家だ。
僕は初めて来たのだが、思っていたのとは全然違う佇まいに愕然とした。
これって…
でも、口に出すと何か失礼な言い方にしかならないような気がして、一生懸命我慢した。
宮田医院の先生や八百屋の長さん、ご隠居生活の徳さんはすでにそろっていて、ワンボックスの荷台に何やら積み込んでいるところだった。
いや、積んであったものを下ろしている。

「おお、ママ。」
「おはようございます。楽しみで、夕べは眠れなかったわ!」
「嘘でもそういわれると、運転に張り合いが出るねぇ。」
元さんが嬉しそうに応じている。
我々は、集まってすぐ、この街を脱出した。

高速道路はまだ渋滞が始まる前のようで、元さんのワンボックスカーは滑るように進んでいく。
並んで走っている車の中をなんとなくのぞき込む。
二人連れ、家族連れ、こんな日でも仕事の人。
こちらの車はと見れば、常連さんたちが他愛ない話題で笑い興じている。

ふと思い立って、僕はゆかりさんを呼んだ。
「ゆかりさん、ゆかりさん。今日は僕、仕事じゃないですよね?」
「え?何?」
「僕、今日は仕事じゃないですよね、これ?」
「仕事のはずないでしょう。今日は時給にもならないわよ。それが、何か?」
「じゃ、今日は皆さんに質問しても、話に割り込んでもいいんですよね?」
「ん?何のことだ?」
ゆかりさんが答える前に、元さんや徳さんが反応した。

「なんでもないわ。穂高、今日は仕事じゃないと言った手前、好きにしてもらっていいわよ。」
ゆかりさんがバツが悪そうに認めてくれたので、僕は早速、車に乗る前も乗った後も気になっていた疑問を解消することにした。

「元さん!元さんは確か、インテリアデザイナーでしたよね?」
「ああ、そうだが。なんだよ突然?」
「さっきお宅を拝見したとき、なんだかいろいろな道具とか、ペンキとか、山ほどあったじゃないですか。
あれって、もしかして、内装工事とかする道具じゃないですか?」
「そうだよ。」
「デザイナーさんて、自分で工事もするんですか?この車にもペンキのあとがいっぱいついているし。」
「小僧、ケータイ持ってるか?」
「はい。」
「じゃ、調べてみな。」
「はい?何を調べるんですか?」
「辞書を出して、内装ってことばを英語にしてみな。」
「ああ、はい。えーっと、和英辞典を…っと、えっ?インテリアデザインって書いてありますよ!」
「そうそう。だから会社は『鈴木インテリアデザイン』、内装をする俺は…」
「インテリアデザイナー…うそぉ!そんなでいいんですか?」
「いいも何も。俺の職業を俺がどういおうと勝手だろうが!なんか文句あるのか、小僧!!」

「元さんの仕事は、そこらへんでは『塗装業』って言うんだろうなぁ。
内装だったら壁紙貼ったり、塗装したり、いわれりゃ照明だの棚だの。
こう見えて、元さんは腕がいい。
何でもこなすし、仕上がりがいいときてるから、評判の職人なんだ。
実際、いくらか前までは元さんところも『鈴木内装』だったし。」
説明してくれたのは、僕の隣に座っている宮田先生だった。

「けどよぉ、『鈴木内装』なんて、昭和の匂いがプンプンするだろ?
昭和がいけないわけじゃないんだが、なんだかパッとしないっていうか、貧相というか。
実際、仕事も細って、俺自身がなんだかやる気なくなっちまったんだよ。
そんな時、ママがヒントをくれてなぁ。」

「ヒントですか?」
「おう。名前を変えちゃえば?って。」
「それで?!」
「俺は考えた。
商売をしているとわかるんだが、名前を聞いただけでパッと、イケそうだとかダメだなこりゃとか、響いてくるものがあるのは確かだ。
だったら、せめて俺自身が名乗って愉快な名前にしてやろうと思ったんだ。」

「それから、小紫でみんなで考えたんだよなぁ。」
八百屋の長さんが面白そうに言う。
「いろいろ案が出た。でも、やたらとハイカラなのにすると、俺が気後れしちまう。それに、実際の仕事とあんまりかけ離れていてもダメだ。」
「そこで、落ち着いたのが『鈴木インテリアデザイン』だったわけですね?」
「そうそう。辞書にものっているし、うそはついていないものね?」
ゆかりさんが、その頃のやり取りを思い出しているのだろう、やさしい微笑みで元さんを見ながら言う。
「変えてびっくり。仕事がどんどん来るようになるし、話題にもなる。ママ様様だよ!」

元さんは、滑らかな運転を続けながら、僕の疑問を解消してくれた。
「そういうことでしたか!」
「ウチの八百屋も一緒に改名しようと言ったら、母ちゃんにケツを蹴られたよぉ。」
車内が爆笑に包まれる。
「長さん、なんて変えようとしたんですか?」
「『ベジ長』!」
「………やめといてよかったかも…。」

名付けるとは、その人の枠組みを決めるようなものなのだろうか。
僕も穂高という名前をもらって、なんだか以前の自分とは少し違う自分を生きている。
穂高になる前の僕は、年上の人に誘われたからと言って、のこのこと花見についてくるようなことはしなかった。
穂高は、僕に、今まで見たこともない風景を次々に見せてくれる名前だ…


早起きをしたせいか、僕はいつの間にか寝入っていたようだ。
「穂高、穂高。ついたわよ。起きて起きて!」
「え?あ!すみません!」
慌てた僕は車のどこかに頭をぶつけた。
「あいたた!」
「ほら、いいから見て!」

指さされた方を見てみる。
息を飲む風景とはこのことだ。
見渡す限り一面の、人の波の向こうにそびえる、桜、桜、桜…










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