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あなたも幸せ。私も幸せ。

2015年03月


「穂高くん、今度の日曜日、空いていますか?」
唐突な質問の主は宮田医院の先生だった。
「は?」
「朝から晩まで、みんなで恒例の花見なんですよ。一緒に行きましょう。」
「花見ですか。用事も予定もありませんが。」
「よしよし。じゃ、今年は6人ということで。元さん、車出してくれるだろうね?」
「そりゃもちろん。ただし、助手席は…。」
「分かってるって。ママに座ってもらえばいいんだろ?」
徳さんがしたり顔に受けた。

気象庁の開花宣言から2週間、花見にしては少し遅いような気がする。
街はすでにどこもかしこも桜色に染まっていて、強い風が吹くと、花弁が雪のように降り注いでくる。
風は確実に暖かさを増した。
僕が一年で一番好きな季節だ。
冬が春になる変わり目を見逃した今年の僕でも、この花の美しさとはかなさは見逃しようがなかった。

常連さん方はグラスを持つのも忘れたように4人で額を突き合わせて、あーだこーだと盛り上がっている。
そういえば、日曜に行くとは聞いたが、どこへ行くかは聞いていない。
それとも、まだ決まっていなくて、今あそこで相談しているのだろうか。
すぐにも知りたかったのだけれど、僕は質問を禁じられている。
伝えてもらえるまで、心待ちに待たなくてはならなかった。

それが分かったのは、水曜の営業が終わった後だった。
「そうそう、穂高。今度の日曜日はお店をお休みしてお花見に行きますよ。」
「ああ、はい。僕も誘ってもらいました。元さんたちと一緒ですよね。」
「そうよ。毎年の決まりごとのようなものなの。車で出かける前に支度をしたいから、朝早くからになって悪いけど手伝ってもらえるかしら?」
「わかりました。ところで、どこに行くんですか?」
「今年は山梨だそうよ。」
「山梨!」

車でというところは聞いていたのに、僕はなんだか上野や皇居の周り、隅田川沿いなどの夜桜をイメージしていた。
「けっこうな人出になるから、朝早く出るのよ。」
「だったら平日にしたらいいのに。
みんな自由業みたいなものだから、どうにでもなるんじゃありませんか?」
「確かにね。でも、宮田先生は違うわ。
先生は夜と木曜日の午後と日曜日しか休まないの。
木曜の午後は学会だから、本当のお休みは日曜日しかないのよね。」

なるほど。
「もっとも、先生は『俺が休んでも周りにはいい医者がいくらでもいるから患者は困らないよ』なんて言うんだけどね。
でも、かかりつけのお医者様が頼りたいときにいてくれるかどうかって大きいでしょう?
先生はそれをよく分かってくださっているの。
ありがたいことよね。」

それを聞いたら、人混みが苦手だから平日がよかったなどと、迂闊な愚痴を言わなくてよかったと胸をなでおろした。
こんな時だ。
僕は自分がちょっと嫌になる。
いつも自分のことばかり考えていて、相手の深い思いに気付かない。
自分の都合で簡単に判断して、後からしまったと思うことばかりだ。

「山梨のどこですか?」
「私ね、詳しく聞かないことにしているの。」
「えっ?どうして?」
「ささやかな、いたずら。」
「いたずら、ですか?」
「そう。自分に対していたずらするの。」
「意味がわかりません。」
「いいのよ、分からなくて。」
「でも、スッキリしないですよぉ。」
「しょうがないわね。穂高は、知らないことをする時って、どんな気持ちになる?」
「知らないことですか?そうだなぁ。見通しが持てないと不安です。」
「そうなの。じゃ、ここ最近、毎日不安でしょうね?」
「はぁ。確かに。でも、だいぶ慣れてきたから、不安もあまり感じなくなってきましたよ。」
「じゃぁ、その見通しの持てない先に、何かとっても素敵なものがあるとしたら?」
「あらかじめステキなことだと分かっているってことですか?」
「そう。贈り物がもらえる。それが何かはわからない。 でも、絶対にもらえるの。それなら?それでも先に中身が分かっていないと不安?」
「いや、そんなことはないです。うーん、でも、どうかな。実はステキなものじゃないかもしれないわけですよね?」

ゆかりさんは片付けの手を止めて、僕の顔をじっと見つめた。
いつも朗らかなゆかりさんの顔に表情がなくなっていて、僕はぞくっとした。
「なんですか?」
「穂高って、人を信用していないのねー。」
「は?」
「贈り物を上げるよって言われたら、わーありがとう、何だろうなぁワクワク、って思いそうな顔していながら、実は、いや待てよ、そんなうまい話があるんだろうかって考えているなんて。人を信用していない証拠だと思わない?」

思わない?と言われると、そんな気がしてきた。
そうしてそれがバレたことが後ろ暗くて、なんだかムクムクと嫌な気持ちが湧きたってくる。
そんな僕に、ゆかりさんは助け舟を出してくれた。
「ま、都会で生きていくんだから、それくらい慎重な方が騙されなくていいかもしれないけれど。」
「そ、そう。僕は慎重なんですよ。」

僕は、その時気が付いた。
ゆかりさんは、いつも逃げ道を塞がずにいてくれる。
だから、安心して話せるのかもしれない。
育ちがそうなのか、元々の性格なのか、それともこの仕事をするうちに培った技術なのか。
ゆかりさんは決して相手を言い負かそうとしないから、言い争いにならない。
お客様たちも、僕も、それが心地よいのだろう。

「わかりました。ゆかりさんは、贈り物がどんなものが、自分の目で見るまでバラさないでおいてほしいわけですね?」
「そうそう。そういうこと。だって、その方が嬉しさが増すんですもの!」
少女のようだなと思う。
60歳を過ぎて少女のような心なんて不気味そうだけど、決してそうではない。
僕は、実はすごい人に出会ったのかもしれなかった。 









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そのことに気付いたのは、桜前線が東京にやってきて数日たった頃のことだった。
僕は毎日毎日アパートと小紫を往復していて、季節の移ろいが目に入らない。
それでも、そんなことは全くお構いなしに、時は流れていた。

「徳さんたら、そんな憎まれ口を言うもんじゃないわ!」
ゆかりさんの朗らかな笑い声が響く。
常連のお客様しかいない時で、源さん…じゃなかった、元さんや、宮田医院の先生や、八百屋の長さん…何かの折に「おいこの八百長!」と言われている…の席にゆかりさんも加わって、 楽しそうに話していたのだ。

ちなみに徳さんはすでに定年を迎えて今は悠悠自適…いささか暇を持て余している。
ほかのみんなは定年がない仕事ばかりで、バリバリの現役だ。
住んでいる場所は近くても、そこは異業種交流。
質問も、勝手に会話に割って入ることも禁じられている僕だけれど、傍にいるだけで十分に面白い話が聞ける。

「先生、水割り、もう一杯いかが?」
ゆかりさんは、会話が途切れた時にすかさずそんなことを言って、先生の返事を待たずに腕を動かしている。
「ママが作ってくれるんだから、断ったら病気になってしまうよ。」
おかしなことをいって、笑いあっている。

そこへ、カラリンコロンとカウベルが鳴って、二人連れの客が入ってきた。
「いらっしゃいませ。」
出迎えたのは僕だ。
初めて見る二人だったが、僕が勤めている期間が短すぎるから僕が会っていないだけということは十分ある。

「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ。」
ゆかりさんが後ろから声をかけた。
僕はコートを預かって、ハンガーにかける。
二人連れは興味深そうに店内を見回している。
「何になさいますか?」
ゆかりさんは親しげに問いかける。
「そうだなぁ。ビールで腹がいっぱいなんだが、久しぶりに会った友人でね、話が尽きなくて。」
「それはそれは。お楽しいですね。」

二人連れはゆかりさんより若く見える。
50代というところだろうか。
二人とも、ゴルフ帰りのような気楽な恰好をしている。
土曜の夜10時。
店に一番活気がある時間だ。

「どうしよう。」
二人はメニュー表を見て、注文するものを相談している。
本当に、飲み足りないわけではなさそうだ。
「ほんとは、俺たち二人とも甘党でね。酒も飲むけど、飲み倒れたい口ではないんだよな。」
「そうそう。大福の方が好きだったりする。」

「ええっ?そうなんですの?」
ゆかりさんは楽しそうに話を受ける。
「それでしたら、駅前のコーヒーショップでお話の続きでもよかったのでしょうに、こちらを選んでくださって、本当にありがたいことです。何か、お気にかかるようなことがありましたかしら?」
「わからないけど、なんとなく。なぁ?」
「そうそう。話しながら歩いていて、なんとなく、じゃ次はここにしてみようかってね?」

どうやら、初来店のお客様で間違いなさそうだ。
ゆかりさんは小首を傾げて考えてから、ポンと手を打った。
「でしたら、梅酒などはいかがでしょう。ソーダで割っても美味しいですし。ほどよい甘さのものがあります。」
「それはいいね。」
「あとは、カルーア・コーヒーもございます。若い女性好みと思われているようですが、コーヒーがお好きな方には楽しんでいただけると思うのですけれど。」
「そうか、その手もあったね。」

二人は梅酒とカルーア・コーヒーを一つずつ頼むことにしたようだ。
ゆかりさんがカウンターの奥に入ったので、僕は水とお手拭きをテーブルに届けた。

「ママ、こっちにも梅酒ちょうだい!」
「はい。おひとつで?」
「いや、ふたつ!」
「大丈夫ですか?もうずいぶん召し上がっているのに?」

常連さんのテーブルで話を聞いていたのだろう、4人のうち2人が、梅酒を飲みたくなったようだ。
「じゃ、穂高、これをあちらのテーブルにね。」
そういうと、常連のテーブルを僕に任せて、ゆかりさん自身は新規のお客様のところへ行った。
「なーんだ、穂高くんか。ママは来てくれないんだなぁ。」

徳さんが憎まれ口を言う。
聞こえているのだろうが、ゆかりさんは意に介さない。
新規のお客様のところでしばらく会話に加わった後、盛り上がるふたりを残して、ゆかりさんはそっと席を立った。

常連さんたちが先にお開きになり、新規のお客様もご機嫌で帰った後、静かに店じまいをしていた時、僕は気付いたことを尋ねてみることにした。
「ゆかりさんは、他のお客様がいるとき、常連さんの方に行かなくなりますよね?」
「あら、気付いたの?」
「なんとなく。それに、常連さんしかいない時は名前を呼んだりするけど、名前のわからないお客様がいらっしゃるときは、常連さんの名前を呼ばなくなる。」
「あらまぁ、よく見ていること!驚いた!」

やはり、そうだった。
「なぜですか?」
「なぜだと思う?」
「うーん、平等にしたいから?」
「うふふ。まぁ、そういうことね。でも、少しニュアンスが違うわ。」
「どう違うんですか?」
「そうねぇ、言葉にするのは難しいけど…誰もに特別だと思っていただきたいから、かしらね。」
「誰もが特別、ですか?」
「そう。名前を呼ばれる人と呼ばれない人がいたら、呼ばれる人が特別な存在って感じがするでしょう?」
「それはそうですね。」
「でも、お名前を知らない方は呼べないし、一見さんにいちいちお名前をうかがうのはかえって失礼よね。」
「はい、確かに。」
「だから、名前を呼ぶ以外の方法を使う。それだけのことよ。」
「そこのところを、もう少し詳しく聞きたいな。教えてください。」
身を乗り出した僕を、ゆかりさんは軽くかわして微笑んだ。

「センセ、だめよ、答えは自分で考えなきゃ。」
「だから、先生はやめてくださいってば!」
それきりゆかりさんは答えてくれず、僕はまた観察を続けるしかなくなった。







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僕が大学・大学院とかけて研究してきた『源氏物語』 に、源典侍(げんのないしのすけ)という女性が出てくる。
人生40年で長生きのお祝いをしたというこの時代で、60歳近くの”超おばあちゃん”なのだけれど、色事には見境がなく、光源氏に艶めかしい視線を送っていい仲になると、親友の頭中将(とうのちゅうじょう)が挑み心を起こしてこのおばあちゃんにアタック!結果、彼女は当代の美男トップ2とお付き合いをするという、世にもめでたいことになる。

時に光源氏は18歳。
現代なら十分犯罪の匂いすら漂う話だが、平安の雅に現代の刑法を持ち込んでも意味がない。
この源典侍は、もともと源氏の父・帝に仕える女性である。
典侍というのは役職名で、国からお給料をもらう、れっきとした国家公務員なのだ。
帝の身の回りの世話もするし、宮中祭祀の仕事もある。

あまたの女性とお付き合いする光源氏も、興味本位に手を出したものの長く付き合う気はなく、源典侍のキャピキャピした態度に辟易して、そっけなくなる。
すると、父の帝が源氏に注意するのだ。
「彼女も相当な年だし、あまり恥をかかせてはいけないよ。」

僕はこの源典侍という女性は、かつて帝のお相手もしていたのではないかと考える。
江戸時代の大奥と違って、一度トップの相手をした女性は誰とも付き合っちゃいけないなんてルールはまだないのだ。
そこらへんの根拠が、どこかからみつからないかと探したのだが…。

そんな事情で、僕は源典侍という色っぽいおばあちゃんがとても好きだ。
まぁ、源典侍に限らず、源氏物語に出てくる人はどの人も魅力的で、大好きなのだ。
こうなると、類は友を呼ぶというように、僕の周りは源氏物語にまつわるような人が引き寄せられてくる。
人付き合いは苦手だし、友達も多くはないけれど、どこか源氏につながっていくことがある。

この「小紫」もそうだし、ゆかりさんの名づけの理由も、源氏物語ゆかりの…文字通りゆかりのものだった。
そうして、源さんも現れた。
こういうことを密かに考えるのは楽しい。
いつか絶世の美女の「藤壺」さんや恨みがましい「六条さん」が出てきたりするのだろうか。


僕が小紫の仕事にだんだん慣れて、源さんをはじめとする常連さんたちのからかいにも動揺しなくなってきたある日のことだ。
その日、僕は日中、銀行だのなんだのを回って、開店間際に出勤した。
このころになると、店の正面のドアから入ったりはせず、台所の脇にある勝手口から入ることが習慣になっていた。

預かっている鍵でドアを静かに開け、音を立てずにそっと入る。
中の様子が分からないうちに、いきなり大きな声であいさつをしたりもしない。
早めにいらっしゃるお客様もあるからだ。

「ママ、あれはなかなかいいじゃないか。」
「あら、そうかしら。」
やっぱりそうだ。源さんが来ている。

鞄をロッカーにしまいながら、僕は二人の会話を聞くともなしに聞いた。
「その割には、少しも褒めてやってくれないのねぇ。」
ゆかりさんの声がからかうように言う。
「褒めてなんかやるもんか。でも、無駄口をきかず、よく客の声に耳を傾けている。若造のわりには、駆け出しの心得がわかってるようだ。ま、ママがよくよく仕込んでいるんだろうけどな。」
「うふふ。仕込んだところで、すぐにできるとは限らないことでしょう?」

二人はどうやら、僕の話をしているようだ。
しかも、悪い話ではなさそうな…
怖いもの見たさというか、なんともいえない興味に突き動かされて、僕は二人に気づかれないようにそっと話を聞き続けた。
「気に入ったのか?」
「そうねぇ。一緒にいて苦痛がまったくないのはありがたいわ。それに、本人はまだ気づいていないようだけど…。」

ママの言葉の最後が聞き取れなくて、思わず身を乗り出した刹那だった。
「なんだ、坊主!来てたのか。」
源さんに見つかってしまった!

「いらっしゃいませ、今来ました。」
僕は自分の言葉に不自然さがないかどうかを慎重にチェックしながら平静を装い、入り口脇に掲げられたボードに名札「穂高」をかけた。
注意深く二人の様子を観察したが、どちらも、僕が盗み聞きをしていたとは気づいていないようだった。

「そうそう。穂高、これを作っておいたから、お使いなさい。」
ゆかりさんはそういうと、プラスチックの小箱を差し出した。
受け取り、ふたを開けてみる。
中には「 Bar小紫 穂高 」の文字と、小さく店の電話番号が書かれた名刺が入っていた。

「うわっ!」
綺麗だなと、素直に思った。
厚手の紙は薄紫色をしていて、必要最小限のことしか書いていない。
余白のこの名刺はなんとも言えない存在感があり、このところ当たり前になりつつあった「穂高」という名前の漢字が、改めて美しく思えた。

「これ、どんな時に使うんですか?」
社会に疎い僕は、かなりおろかな質問をしたのかもしれない。
源さんが鼻から太い息を吐き出して、あきれたように言った。
「そりゃ、相手の名刺がほしいときに決まってるだろうが。」

なるほど。
そうすれば、質問をしなくても、相手の名前を教えてもらうことができるってことか!
僕は一番上の一枚をそっと取り出して眺めたあと、源さんに向かって差し出した。
「穂高です。よろしくお願いします!」
本当は、源さんの名前はもう知っているからいいのだけど、なんだかそうしたかったのだ。

「お、おうっ。」
源さんはいくらかあわてた様子で立ち上がると、作業着のうちポケットをガサガサして、白い名刺を取り出した。
「ふん。もらっといて…やるよ。ほれ。」
源さんが差し出した名刺を両手で受け取り、目を落として、僕は思わず「えーっ!」と声を出してしまった。

「ん?なんだ坊主。人の名刺見て『えーっ』とは何事だ?!」
「ゲンさんって、源氏物語の源じゃなかったんですね!」
「なんだそりゃ?」
「僕、勝手に源さんだと思ってしまっていて…。」
「そんな書きにくい字でたまるか!ついでに言うと、おれはゲンではなくて、ハジメだからなっ!」

『鈴木インテリアデザイン  社長 鈴木 元』
僕の膝からも腰からも力が抜けて、ずっこけてしまった。







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Bar小紫で働き始めた僕が最初に迎えたお客様は源さんだった。
もっとも、『源さん』という名前が最初から分かったわけではない。
いつも濃いグレーの作業服を着ている。
ひどくではないが、日焼けをした精悍な様子から、屋外での仕事が多いのだろうと思われる。
年齢は50代後半といったところか。
渋い声をしていて、なかなかの男前でもあった。

「ん?なんだ、坊主?」
カラリンコロンとカウベルが鳴ると同時に入ってきたその男は、僕を見て開口一番そう言った。
「あ、はぁ、あの…」
「いらっしゃいませも言えんのか、この未熟者が!」
いきなり叱られた。

「あら、いらっしゃい。」
「ママ、なんだこの青二才は。」
「昨日から来てもらっているバイトの子よ。穂高というの。よろしくね。」
いくら世間知らずの25歳でも、ここは僕も一緒に頭を下げるところだということくらいは分かった。
「ふん。なんだよ。これからはひとりでやってくんじゃなかったのか?」
その人はゆかりさんに文句を言いながら、まるで教室の自分の席に座るように、なんの迷いもなく一つの椅子に腰かけた。
そのあまりに砕けた口調と慣れた様子から、この人は常連さんで、この席がお決まりなのだろうと思った。

「ひとりでもいいつもりだったのだけど、ご縁があってのことだから。まあ、用心棒のようなものね。」
ゆかりさんはカウンターの中に戻って、何かを用意し始めた。
僕はそこに突っ立ったまま、何をしていいか分からない。

「用心棒がほしいなら俺に言えばいいだろが。
こんなひょろひょろしたヒヨッコに、用心棒が務まるもんか。」
坊主、未熟者、青二才、ヒヨッコ…もう、言いたい放題だ。
しかし、僕は黙って聞いているしかない。
これも、雇用契約に入っていたことだからだ。

『お客様には、注文のこと以外の質問をしてはいけない。
お客様がおっしゃることに言い返してはいけない。
お客様から尋ねられたこと以外、口を出してはいけない。
お客様から聞いたことは、いついかなる時でも口外してはならない。』


「守秘義務というわけですね。
それはわかるけど、もしも犯罪のにおいがするとか、危ない話とか、そういう時でも黙っているんですか?」
雇用契約を読んだとき、紙をテーブルに戻す前に、率直な疑問を投げかけた。
「そうねぇ。そういう時には、私だけに相談してちょうだい。」
それ以上、問いかけようがないほど明快に、ゆかりさんは僕の疑問を一蹴した。

「坊主、バイトなら突っ立ってないで、手伝ってやれ。」
「あ、はい!」
言われて慌ててカウンターに駆け込む。
でも、手際のよいゆかりさんの何を手伝うこともできない。
「使えないやつだなぁ。」
このときになってようやく、源さんの声が緩んで、攻撃からこき下ろしに変わった。

「ママはこんな優男が趣味だったのか?」
「どうかしらねぇ。」
ゆかりさんは用意したグラスをコトンと源さんの前に置いた。
きっと、定番になっているのだろう。
だって、店に来てから何も注文していないんだから。

「てめえ、ママに手なんか出したら承知しないぞ。」
やってきて30分もしないうちにグラスを飲み干して帰ろうとする。
手を出すなんて、いろんな意味でとんでもありません!、と言いかけて息を飲む。
それも、言い返すことに当たると気付いたからだ。
「は、はい。」
「よし。じゃ、またな。」

「またな」は僕に向けられたのではなく、ゆかりさんだけへの挨拶だ。
そこは僕に対する厳しい声とは別人のように、ツヤのある声だった。
カラリンコロンとドアが閉まり、僕は体中にたまっていた二酸化炭素を一気に吐き出した。
「緊張した?」
ゆかりさんは、明らかに面白がっている。
「いいわね。こういう感じは、新鮮で。」

今のお客様はこういう方で、こんな好みだから、こんなサービスを…
ゆかりさんからの説明が続くのを期待して、僕は全身を耳にして待った。
けれども、ゆかりさんは何にも言わない。
「お腹が空いた子犬みたいな目をしたってダメよ。」
心の中は見透かされていたのに!

「お客様のことは、いついかなるときも口外しないのだったでしょう?」
「何も教えてもらえないんですか?それじゃ、僕はどうすればいいんですかぁ?」
「自分でわかった分だけでいいじゃないの。」
「そんなぁ。また使えない坊主だって言われますよ!」
「使えない坊主のどこがいけないの?」
「は?」
「だって、実際にまだ使えないのだから、そう言われても当然でしょう?」
「それは…そうですけど。」
「見栄を張っても意味がないわ。
私はあなたが『まだ使えない期間』も雇うと言っているのよ。
お客様から何を言われようと、気にしない、気にしない。」
「でも、今のお客様の名前も僕には分からなかった…。」
「ふふふ。いいのよ、それで。」

取り付く島もなく、僕は引き下がった。
暗中模索。なんと心細いことか。
人から丸裸の言葉を投げかけられることに慣れていない僕は、この状況がとてもつらく感じた。

「小僧。今日もいるのか。もうやめたかと思ったのに。」
「いらっしゃいませ。」
「ふん。今日は挨拶ができたじゃねえか。」
翌日現れたあのお客様は、やはり容赦ない。
「よぉ!源さん、こっちこっち!」
翌日は、すでに客がいた。
その客が『源さん』と呼んだから、僕はようやく、彼が『源さん』なのだと分かった。
ということは、先に来ていたお客様たちも常連ということか。

その夜、店じまいをした後、僕はゆかりさんに尋ねた。
「源さんとおっしゃるのですね?」
「なぜ?」
「ほかのお客様がそう呼んでいたから。」
「ええ。そうね。それでいいわ。
尋ねず、口答えせず、そうやって黙って耳を傾けていれば、お客様のことは自然に分かってくるわ。
それでいいのよ。」

僕は、1級遮光のカーテンを引き開けて、2級に変えたくらいの気分になった。
例え見えずとも、この暗がりの向こうに明かりがあると分かることがこんなにありがたいなんて!

源さんは、2日と空けずやってくる。
そうして、言いたい放題にからかっていく。
僕の着こなしに一番の文句をつけたのも源さんだった。
でも、僕が新しいワイシャツを手に入れた日に、ふんと鼻を鳴らしてOKをくれたのも源さんだった。
「馬子にも衣裳って本当なんだなぁ。」
坊主に小僧、今度はとうとう馬子になった。
「ま、ちゃんとすればそれなりに見えることがわかって、よかったじゃねぇか。なぁ、坊主。」

僕の心に両腕があったら、思い切りガッツポーズを決めただろう。
それほど、この一言が嬉しかった。
僕は思う。
いつか源さんにちゃんと穂高と呼んでもらえるように、ちょっと頑張ってみようかと。







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僕は今、夢を見ている。
そういえば久しぶりだけれど、子供のころから何十回と見ているから、これは夢だと分かる。
この道は、僕の小学校へ通う、いまはもうなくなってしまった道だ。 
舗装なんてされていない。
小石を蹴りながら歩くと、どれが自分の石だったか分からなくなる。
転ぶと膝がとがった石に当たって大きく擦り剥けて、本当に痛かった、あの道だ。

その道を、小学校へ向けて僕は歩く。
しばらく行くと道は小川に沿って伸び、 少し先で交差する。
その、道と小川が交差する木造の橋のたもとに、太くて大きな木があるのだ。
僕は、いつもそこまでうきうきと足取り軽く歩いていく。
何も起きないことが分かっているから。
最初は今の僕だったのに、歩いているうちに体が小さくなって、小学生の僕に戻っていく。

小川のせせらぎが聞こえる。
空は真っ青、雲一つない快晴だ。
日差しは優しく僕を包み、花の香りが混ざった風が心地よく通り過ぎる。
スズメやシジュウカラの鳴き声もそこここから聞こえてくる。
笹がガサガサッと音を立てたから立ち止まって目を凝らすと、ニュッと鹿の頭が覗いた。
うそだうそだ。
僕の住む場所がいくら田舎でも、鹿はいかなったはずだ!

太くて大きな木に左手をピタリと合わせる。
どくどくと、木の温もりと脈動が伝わってくるような気がする頃、僕はさらに心穏やかになる。
「元気だった?何か面白いものを見た?」
僕は木に問いかける。
大木の割に、枝が茂って葉が小さい。
その小さくて絵にかいたような形をした葉っぱたちが、さわさわわと答える。
「そうか。じゃ、見てみるね。」

大きな木が教えてくれたのは、根っこのあたりを見てごらん、ステキなものがあるよ、という話だ。
今までも、いつもそんなことを教わってきた。
木がくれる情報は間違っていたことがないから、僕はすぐに信じて、太くて何本もある木の根っこを順に見ていく。
ふと、気配を感じて後ろを振り向くと、長い耳をぴんと立てた白うさぎが二匹、僕をじっと見ている。
「だめだめ。探し物をしているときは、誰にも見られちゃいけないんだ。」

両手を振ってうさぎたちに合図すると、ウサギたちは残念そうに振り向きながらも立ち去ってくれた。
かさささ。
今度は頭の上だ。
「りすさん、りすさん。今はだめだよ。内緒なんだから。後で遊ぼう!」
小さくて機敏なシマリスたちは、なかなか言うことを聞いてくれなかったけれど、約束だよ、あとでねと立ち去ってくれた。

僕は慎重にあたりを見回す。
もう、誰もいないようだ。
だから、足元に集中した。
えーっと、今日はどこだろう…あった!

殊更太い根元がボロンと掘れていて、そこに異質なものが見える。
しゃがみこんで手を伸ばす。
丸くて冷たい感触。
土にまみれたそれを掘り出すと、やっぱりそうだ。
10円玉だ。

それを合図に、僕は両手でそこを掘る。
地面に膝をつき、額まで地面にくっつきそうになりながら掘る。
100円玉も出てくる。500円玉も出てくる。
時々、金銀小判も混ざっている。

すごいすごい。
たくさん掘って、持って帰ろう。
そうしたら、母さんが喜んでくれるから。

ところが、そのあたりからなんだか雲行きが怪しくなる。
僕はだんだん焦って不安になり、不安を通り越して苛立ってくる。
もっともっと掘って、持って帰ろう。
母さんを喜ばせなくちゃ。

でも、焦れば焦るだけ、苛立てば苛立つほど、いくらでも掘れるはずのお金たちは、僕の指をすり抜け、膝に当たって転がり落ちる。
穴の中には一万円札もたくさん見える。
いつものことだが、この穴には無尽蔵にお金が埋まっているようなのだ。
なのに、僕の手には何も残らない。

どうしてなの?
僕はあたりの何もかもに怒鳴りつける。
どうして僕の手には何も残らないの?
だから母さんは喜んでくれないの?

「姉さん、助けて!」

その頃には涙も止まらなくなって、鼻水も垂れてきて、何が何だか分からないくらいぐちゃぐちゃになっている。
普段なら、どうした勝也?って言ってすぐに来てくれるはずの姉さんが、この夢の時はいつも助けに来てくれない。

「姉さん、どこ?助けて!苦しいよ!僕、苦しいよ!!」

振り向くと、あんなに青かったはずの空が鉛色に変わっていて、低く垂れこめたどす黒い雲から、今にも大量の雨が落ちてきそうになっている。
「姉さん!」



「…?…たか…穂高、ねえ、穂高!大丈夫?」
体を強く揺さぶられて目が覚めた。
まだ呼吸が荒い。
ゆっくりと体を起こしてみて、自分が、机に突っ伏して居眠りをしていたことが分かった。

「悪い夢でも見たの?うなされていたから。」
「あ、ゆかりさん…。」
ゆかりさんは僕の肩に手をかけたまま、心配そうに僕の顔をのぞき込んでいた。
僕はまだ夢と現実の間にいて、うまく言葉が選べない。
そのままもう一度目を閉じて、深呼吸を繰り返した。

落ち着きを取り戻してから目を開けると、ゆかりさんはもうそばにはいなくなっていた。
店の方で動く気配がするので行ってみると、いつものように白いガーゼをもって、店内の観葉植物の葉を丁寧に拭いているところだった。

「すみません。僕、なにか寝言を言いましたか?」
「いいえ。うなされていただけ。」
僕は少しホッとした。
母さん!とか姉さん!とか叫んでいるところを友達に聞かれて、散々からかわれた経験があるのだ。

「僕、思い出しました。」
スツールに腰かけながら、僕はゆかりさんに話しかけた。
「何を?」
「僕は何にでも話しかける子供でした。動物にも、木にも、石にも。すっかり、忘れてた。」
「そうなの。」
ゆかりさんは、葉を拭く手を止めずに答える。
「そんなことをするのは子供っぽいし女の子みたいだ、ってからかわれて、やらなくなったんだと思います。
でも、その前までは、いろんなものと話をしていたなって、今、夢を見ていて思い出したんです。」
「私はもうすっかりおばあちゃんだけれど、今でも話をするわよ。」

ゆかりさんが優しい笑顔で振り向いた。
そうして、僕の目をしばらく見た後で、また葉の方に向き直った。

そういえば、ゆかりさんは観葉植物を拭きながら、いつも何かぶつぶつと言っている。
「あなたを驚かせてはいけないと思って小さな声にしていたけれど、あなたがどんなものとも話せる子供だったのなら、もう遠慮はいらないわね。」
そんなことを言うと、大きなゴムの木の葉を丁寧に拭きながら言った。
「調子はどう?私はとても気分がいいわ。今日はどんなお客様がみえるかしら?私は何を支度しておいたらいいと思う?」

葉をすべて拭き終わる頃、ゆかりさんはゴムの木に向かって頭を下げた。
「わかったわ。今日もありがとう。そういうことなら、今日は早めにおにぎりを拵えておくことにしましょう。あなたは本当に賢くて、美しい、最高の木ね!」
そうしてキッチンに入ると、どうやらおにぎりの準備を始めたようだった。

その日の開店時刻になった。
僕が店の外に出て、「Bar小紫」と書いた看板をコンセントにつないだとき、常連の源さんが急ぎ足で飛び込んできた。
「やあ、ママ!悪いんだけどさ、焚いた米、残ってないか?」
「あら、いらっしゃい。どうしたの?そんなに慌てて。」
「お得意さんから急な仕事の依頼でね、今夜は遅くまでになりそうなんだよ。晩飯に、ママのおにぎりが食べたくてねぇ。」
「それなら、炊き立てのごはんで、もう作ってあるわよ。」

ゆかりさんは、あとは包むだけにしてあったおにぎりと、いかにも美味しそうなおかずたちを手早くひとまとめにすると、源さんに手渡した。
「これは嬉しいな。いつもながら、勘のいいことだ!どうも、ここの飯を食べつけてしまうと、コンビニのおにぎりでは満足できなくてね。じゃ、行ってくる。お代はつけておいてくれ。土産を買ってくるからね!」

源さんはさもうれしそうに、入ってきた時と同じ勢いで飛び出していった。

そんな源さんを見送った後、ゆかりさんはそっとゴムの木を撫でながら、ありがとう、と微笑んでいた。






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