僕に差し出されたイチゴの香りがする紅茶には強いアルコールが入っていて、なかなか冷めない。
だから、少し猫舌の僕でも、じっくりとカップを眺めるゆとりができる。
これは、何と言うのだろう。
きっと、ロイヤルコペンハーゲンだとか、ウエッジウッドだとか、ちょっと高貴な名前があるにちがいない。
もっとも僕は、それらを音として知っているだけで見たこともなく、区別もつかないのだが。
ふと、店内の空気に、木が燃えるような微かな香りがあることに気付いた。
この香りが、緊張しいの僕をいきなり和ませた原因かもしれないと思い、あたりを見回した。
しかし、暖炉があるわけでもなく、薪ストーブも見当たらない。
「何か、気になることでも?」
さりげなく彼女が問いかけるから、僕は素直に答えてしまった。
「木が燃えるみたいな暖かい香りがするから。」
「暖かい香り、ね。あなた、見かけによらず、詩人のようね。」
「シジン?」
「表現が豊かねってことよ。奥でごはんを焚いているの。炭火を熾して土鍋で焚くのが私のやり方なの。きっと、その炭の香りね。」
言われてみれば、木というより、確かに炭だ。
その点に納得してから、耳の隅にひっかかったところに意識が舞い戻った。
「見かけによらないですか?」
「少し前まで、長いこと手伝ってくれていたバーテンダーが故郷に帰ってしまってね。」
彼女は逆走してくる軽自動車を軽くよけて、自分の道をまっすぐに進むドライバーのようにして話を変えた。
「ご覧の通りの小さな店だから、私ひとりでも困ることはないのだけれど、私だけではお客様も飽きてしまうでしょう?
だから、誰か一緒に働いてくれる人はいないかと思っているのよ。
でも、こんなに小さなバーで、わざわざ働きたい人なんていなくて当然よね。
あの張り紙ももう2か月も貼ってあるけれど、見てくれたのはあなたが初めてのような気がするわ。」
全ての学生がそうだとは思わないが、僕は幼稚園に入って以来今日まで、一度も学校教育法の外に出たことがない人間だ。
学ぶ人間には、社会人にはない真摯さと言うか、学びに集中する誠実さと言うか、真面目さと言うか、そんなものが必要なのだと信じてきた。
だから、法律上、酒が飲めるようになってから5年たつが、バーなんていうところに入ったことは片手で余るくらいしかない。
それもすべて、院生の間、教授のお供でしかたなしについていった時に限られている。
もちろん、女性が隣に座るような場所へは、一度たりとも足を運んだことがない。
そんなわけで、僕は女性が言っていることの本質を理解できなかった。
客が飽きる?
酒を飲みに来るのに、誰が運んでくれようと、同じようなものだろう。
しかも、若い美人をというのではなく、なぜバーテンダーなのか。
客のほとんどは男性だろうから、見目良い女性をカウンターに置く方が集客できるだろうに。
それとも、女とは、こんな年齢になっても、同性の若さに嫉妬するものなのだろうか。
愚にもつかないことを考えながらカップを唇に運んでいるうちに、いつしか紅茶を飲み干していて、思いがけず冷えていた体がすっかり温まった。
「ありがとうございました。僕、これで失礼します。ご親切は忘れません。」
そう言ってスツールから降りる僕に、彼女は無理に引き止めるような言葉は言わず、白い紙片を差し出した。
「いいえ。お茶に付き合ってくださって、お礼を言いたいのは私の方です。
ここに連絡先が書いてありますから、もし働きたくなったらここへ連絡くださいね。」
受け取らないのも失礼な気がして、僕は差し出された名刺を両手で受け取った。
入社試験を受けるにあたり教わった「一般常識」だ。
そこには、『Bar小紫 江島 紫』とあって、住所と電話番号が添えられていた。
きれいな名前だなぁと思った僕は、名刺に目を落としたまま、軽口を言った。
「江島だなんて、大奥を思い出しますね。ステキな生島さんがご主人ですか?」
「あいにく、私の生島は海外公演が好きで、めったに帰国しないから逢いようがなかったわね。
あなた、若いのに、時代劇ファンなの?」
彼女がホホホと笑いながら答えた。
江島生島事件と言えば、時代劇が好きならば知らない方が不思議な、有名な出来事だ。
大奥御年寄の江島が、歌舞伎役者の生島に惚れ込み、大奥の女性としてはあるまじき行動に及んだため、それをきっかけに1400名にも及ぶ関係者が処罰されたという、江戸中期の綱紀粛正事件のことだ。
きっと、今までに何度も、そんなことを言われてきたのだろう。
「お名前がムラサキさんだから、お店の名前も小紫なんですね。」
彼女の答えにつられて、僕はついまた言ってしまった。
「いいえ。紫と書いて『ゆかり』と読みます。」
「ゆかりさんですか!なんて奥ゆかしい。もしかしてお父さんは源氏物語の研究者とか?」
僕の質問に、彼女は目を丸くして、意外だわと伝えてきた。
「ええ、そうよ。大学に勤めて、源氏を研究していたらしいわ。なぜ分かったの?」
「源氏物語の主人公、光源氏は、母親の桐壷更衣と幼い時に死別します。で、父親の帝がのちに、桐壷とうりふたつの藤壺を妻にします。光源氏はこの藤壺に恋をするのですが、義理の親子ですからね。叶わぬ恋なので、姪にあたる女の子を藤壺の代わりにしようと、幼いうちから引き取って、自分好みの女性になるよう育てて妻にするんです。その姪を紫の上といいます。」
「ええ。」
「藤の花は紫色ですから、その縁者である姪は、紫色のゆかりであると。ゆかりって縁のことなんですね。」
「ええ、ええ。」
「で、実は、桐の花も紫色をしています。」
「確かに!」
「つまり、光源氏が愛した母、義母、のちの妻、この3人の女性は紫のゆかりというわけで、源氏物語のことを『紫のゆかりの物語』と呼んだりしたようなのです。」
「驚いたわ。そういうことだったの!」
「え?」
「父はね、確かに源氏物語の研究者で、私の名前も源氏物語からとったそうなのだけれど、細かいいわれは知らなかったの。紫の上からとったのだろうとは思っていたけれど、なぜゆかりと読むのかは知らなかったわ。」
「教えてくれなかったのですか?」
「教えることができなかったの。」
「なぜ?」
「父はね、私が生まれて、まだ目も開いていない時に、交通事故で亡くなったから。」
「それは…。」
僕が何とも言えずにいると、彼女…ゆかりさんの方が先に声を出した。
「あなたはどうして源氏物語をそんなによく知っているの?さっきの大奥のことといい、なぜ?」
「……僕は文学部日本文学科で、源氏物語を研究して、修士課程を修了するところだからです。」
「まぁ!先生なのね?」
「違います。先生じゃありません。わけあって、就職しないと食べていけない、しがない学生です。なのに、働く先がない。お先真っ暗ですよ。」
「じゃ、ここで働いたらいいじゃありませんか。」
ゆかりさんは、閃いた!とばかりに手を打って言った。
柔らかい話し方なのに、有無を言わせぬ強さが秘められている。
「試しに今夜ちょっと、やってみるというのはどうかしら。」
「はぁ。」
「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、バーには通ってみよってね。」
「そんなことわざ、ありましたっけ?」
こうして、30回目の面接は、僕を不可思議な職業に結び付けた。
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