Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2015年01月


僕に差し出されたイチゴの香りがする紅茶には強いアルコールが入っていて、なかなか冷めない。
だから、少し猫舌の僕でも、じっくりとカップを眺めるゆとりができる。
これは、何と言うのだろう。
きっと、ロイヤルコペンハーゲンだとか、ウエッジウッドだとか、ちょっと高貴な名前があるにちがいない。
もっとも僕は、それらを音として知っているだけで見たこともなく、区別もつかないのだが。

ふと、店内の空気に、木が燃えるような微かな香りがあることに気付いた。
この香りが、緊張しいの僕をいきなり和ませた原因かもしれないと思い、あたりを見回した。
しかし、暖炉があるわけでもなく、薪ストーブも見当たらない。
「何か、気になることでも?」

さりげなく彼女が問いかけるから、僕は素直に答えてしまった。
「木が燃えるみたいな暖かい香りがするから。」
「暖かい香り、ね。あなた、見かけによらず、詩人のようね。」
「シジン?」
「表現が豊かねってことよ。奥でごはんを焚いているの。炭火を熾して土鍋で焚くのが私のやり方なの。きっと、その炭の香りね。」

言われてみれば、木というより、確かに炭だ。
その点に納得してから、耳の隅にひっかかったところに意識が舞い戻った。
「見かけによらないですか?」
「少し前まで、長いこと手伝ってくれていたバーテンダーが故郷に帰ってしまってね。」
彼女は逆走してくる軽自動車を軽くよけて、自分の道をまっすぐに進むドライバーのようにして話を変えた。

「ご覧の通りの小さな店だから、私ひとりでも困ることはないのだけれど、私だけではお客様も飽きてしまうでしょう?
だから、誰か一緒に働いてくれる人はいないかと思っているのよ。
でも、こんなに小さなバーで、わざわざ働きたい人なんていなくて当然よね。
あの張り紙ももう2か月も貼ってあるけれど、見てくれたのはあなたが初めてのような気がするわ。」

全ての学生がそうだとは思わないが、僕は幼稚園に入って以来今日まで、一度も学校教育法の外に出たことがない人間だ。
学ぶ人間には、社会人にはない真摯さと言うか、学びに集中する誠実さと言うか、真面目さと言うか、そんなものが必要なのだと信じてきた。
だから、法律上、酒が飲めるようになってから5年たつが、バーなんていうところに入ったことは片手で余るくらいしかない。
それもすべて、院生の間、教授のお供でしかたなしについていった時に限られている。
もちろん、女性が隣に座るような場所へは、一度たりとも足を運んだことがない。

そんなわけで、僕は女性が言っていることの本質を理解できなかった。
客が飽きる?
酒を飲みに来るのに、誰が運んでくれようと、同じようなものだろう。
しかも、若い美人をというのではなく、なぜバーテンダーなのか。
客のほとんどは男性だろうから、見目良い女性をカウンターに置く方が集客できるだろうに。
それとも、女とは、こんな年齢になっても、同性の若さに嫉妬するものなのだろうか。

愚にもつかないことを考えながらカップを唇に運んでいるうちに、いつしか紅茶を飲み干していて、思いがけず冷えていた体がすっかり温まった。
「ありがとうございました。僕、これで失礼します。ご親切は忘れません。」
そう言ってスツールから降りる僕に、彼女は無理に引き止めるような言葉は言わず、白い紙片を差し出した。

「いいえ。お茶に付き合ってくださって、お礼を言いたいのは私の方です。
ここに連絡先が書いてありますから、もし働きたくなったらここへ連絡くださいね。」
受け取らないのも失礼な気がして、僕は差し出された名刺を両手で受け取った。
入社試験を受けるにあたり教わった「一般常識」だ。
そこには、『Bar小紫 江島 紫』とあって、住所と電話番号が添えられていた。

きれいな名前だなぁと思った僕は、名刺に目を落としたまま、軽口を言った。
「江島だなんて、大奥を思い出しますね。ステキな生島さんがご主人ですか?」
「あいにく、私の生島は海外公演が好きで、めったに帰国しないから逢いようがなかったわね。
あなた、若いのに、時代劇ファンなの?」
彼女がホホホと笑いながら答えた。

江島生島事件と言えば、時代劇が好きならば知らない方が不思議な、有名な出来事だ。
大奥御年寄の江島が、歌舞伎役者の生島に惚れ込み、大奥の女性としてはあるまじき行動に及んだため、それをきっかけに1400名にも及ぶ関係者が処罰されたという、江戸中期の綱紀粛正事件のことだ。
きっと、今までに何度も、そんなことを言われてきたのだろう。

「お名前がムラサキさんだから、お店の名前も小紫なんですね。」
彼女の答えにつられて、僕はついまた言ってしまった。
「いいえ。紫と書いて『ゆかり』と読みます。」
「ゆかりさんですか!なんて奥ゆかしい。もしかしてお父さんは源氏物語の研究者とか?」
僕の質問に、彼女は目を丸くして、意外だわと伝えてきた。

「ええ、そうよ。大学に勤めて、源氏を研究していたらしいわ。なぜ分かったの?」
「源氏物語の主人公、光源氏は、母親の桐壷更衣と幼い時に死別します。で、父親の帝がのちに、桐壷とうりふたつの藤壺を妻にします。光源氏はこの藤壺に恋をするのですが、義理の親子ですからね。叶わぬ恋なので、姪にあたる女の子を藤壺の代わりにしようと、幼いうちから引き取って、自分好みの女性になるよう育てて妻にするんです。その姪を紫の上といいます。」
「ええ。」
「藤の花は紫色ですから、その縁者である姪は、紫色のゆかりであると。ゆかりって縁のことなんですね。」
「ええ、ええ。」
「で、実は、桐の花も紫色をしています。」
「確かに!」
「つまり、光源氏が愛した母、義母、のちの妻、この3人の女性は紫のゆかりというわけで、源氏物語のことを『紫のゆかりの物語』と呼んだりしたようなのです。」

「驚いたわ。そういうことだったの!」
「え?」
「父はね、確かに源氏物語の研究者で、私の名前も源氏物語からとったそうなのだけれど、細かいいわれは知らなかったの。紫の上からとったのだろうとは思っていたけれど、なぜゆかりと読むのかは知らなかったわ。」
「教えてくれなかったのですか?」
「教えることができなかったの。」
「なぜ?」
「父はね、私が生まれて、まだ目も開いていない時に、交通事故で亡くなったから。」
「それは…。」

僕が何とも言えずにいると、彼女…ゆかりさんの方が先に声を出した。
「あなたはどうして源氏物語をそんなによく知っているの?さっきの大奥のことといい、なぜ?」
「……僕は文学部日本文学科で、源氏物語を研究して、修士課程を修了するところだからです。」
「まぁ!先生なのね?」
「違います。先生じゃありません。わけあって、就職しないと食べていけない、しがない学生です。なのに、働く先がない。お先真っ暗ですよ。」
「じゃ、ここで働いたらいいじゃありませんか。」
ゆかりさんは、閃いた!とばかりに手を打って言った。
柔らかい話し方なのに、有無を言わせぬ強さが秘められている。

「試しに今夜ちょっと、やってみるというのはどうかしら。」
「はぁ。」
「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、バーには通ってみよってね。」
「そんなことわざ、ありましたっけ?」

こうして、30回目の面接は、僕を不可思議な職業に結び付けた。






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「あら、バーテンダー希望?」
その女性は、柔らかな声で問いかけてきた。
こげ茶色のロングスカートに、白いモヘアのような、ふわりとしたタートルネックのセーターを合わせている。
髪を染めていない。
きれいに白くなった髪を、ほどよくショートカットにしている。
小さな顔はきちんと化粧しているけれど、刻まれたしわを殊更に隠す気はないようで、それがなおさら、ずっと前から知り合いのような親しみを感じさせるのかもしれなかった。

「そういうわけじゃないんですけど。」
僕はつぶやいた。
「そうなの。それにしては熱心に読んでいた気がしたけれど。」
「職が決まらないんです。今日も不採用通知をもらって…。」

僕は自分で自分が言っていることに驚いて、言葉を切った。
初対面の、ひとこと声をかけられただけの人物に対して言うことではなかった。
何を言っているんだ、僕は!それも、感情を丸出しにして。
彼女を見ていることができなくなった僕は、また視線を求人広告に漂わせた。

「それは気が塞ぐでしょうね。よかったらお茶でもいかが?」
「は?」
「まだ日も高いし開店前だから、お酒ではなくてお茶ね。丁度私も一息入れようと思っていたところなの。いかが?」
「はあ。」
「さ、寒いわ。入って。」

その時、彼女は僕に何を見たのだろう。
客商売をしている女性とはみな、こんなふうに警戒心がないのだろうか。
僕は、僕を警戒しない相手に、いつの間にか警戒することを忘れたのか。
それとも、自分で思う以上に傷ついて、人恋しくなっていたのだろうか。

ミルクの香りに誘われた子犬のように、僕は彼女の後ろについて暗い店内に足を踏み入れた。
見上げるほどの高さがある棚には、数えきれないほどのボトルがきれいに並んでいる。
カウンターの前には、スツールが5つ。向かって左端には腰よりも低い扉があって、カウンター内との行き来をするらしい。
向かって右の席は壁が隣になっている。
その右の席の背中に、ソファーとテーブル席。4人掛けだろう。
つまり、満席になっても客は9人しか入れない構造のようだ。
小さな店だなと思った。

少し迷ってから、僕は真ん中のスツールに腰かけた。
カウンターの向こうでは、女性がこちらを向いて紅茶を淹れているところだ。
一息入れるというから、簡易なものと思っていたけれど、見たことがない美しいティーポットに湯を注ぐと、彼女はその上からキルティングでできたカバーのようなものをかぶせた。
それから、後ろの戸棚の扉をひとつ引き明け、中に並んだカップ&ソーサーを楽しげに眺め、小さくうなずくと、2つを選んでそっと取り出した。

若いとはいいがたい年齢であることに間違いはないだろう。
髪だって真っ白だ。
けれども、なんとしなやかな動きだろう。
そういえば、話し方も物柔らかで、耳に心地よいだけでなく、心まで柔らかくしてくれるようだった。

「お好みはあると思うのだけれど、これはこのまま召し上がってみて。」
「あ、ありがとうございます。通りすがりの者に…。」
「おかしな人だこと。」
彼女は美しい琥珀色の液体を程よく満たしたカップを差し出しながら、笑い声を立てた。

「ここはバーですから、いらっしゃる方はみんな、初めは通りすがりの方よ。」
「あ、なるほど。」
うまく言い返されてしまった。
言われるままに口に運んだ紅茶は、かすかにイチゴの香りがした。
可愛らしい味だと思ったが、喉を通り過ぎた後に、体がパッと熱を帯びていく。
いつの間にか、度数の高いアルコールをブレンドしたようだ。

「これは…。」
「気付いた?ストロベリーティーに、スパイス代わりの仕掛けを、ちょっとね。」
「温まります。」
「よかったわ。今日はけっこう冷えるから。嫌いな味ではない?」
「ええ。おいしいです。なんだかホッとします。」
「それは何より。」

僕は、すっかり彼女の世界に取り込まれてしまったようだった。






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カラリンコロン。
その時、軽快なカウベルの音がしなければ、 僕はそこに店があることにすら気付くことはなかっただろう。

目的もなくほっつき歩いていた僕は、ただなんとなく、その音に引き寄せられた。
僕が住む街は、線路をはさんで向こう側にある。
7年暮らした街だけど、めったに線路を越えることはなかった。
こちら側に用事があることはなかったのだ。
でも、その日、僕は7年の延長にいることに耐えられなかった。
だから、線路を越えたのかもしれない。

それほど変わった出来事ではないと、自分に言い聞かせてきた。
いくら面接を受けても就職先が決まらない学生はが、掃いて捨てるほどいる時代だ。
自分だけが意地悪をされているわけでも、自分が格別劣っているわけでもない。
ただ、行った先と自分とが合わなかっただけだ。

頭では分かっているのだが、心が納得してくれない。
浪人時代1年と、大学学部の4年間、加えて大学院修士を2年。
後悔すべき点はないと思っていた。
でも、今日受け取った29回目の不採用通知は、僕の思いを根底から揺るがした。

あと1回受けたら、今度こそ合格するだろうと、僕は思った。
けれど、今まで声を潜めていたもう一人の僕が騒ぎ始めた。
お前は30回目の否定にも耐えられるのか?
そもそも高校生の時にもっと真剣になって、浪人なんかしなければよかったのだ。
大学院なんて、食えないのが分かっていて進んだのも間違いだった。
折々にあったはずの確実な道を、なぜ選ばなかった?

今まで押さえつけていた分、騒ぎだしたらなかなか口を閉じない。
静かな部屋にいるとその喧しい声しか聞こえなくなるので、僕は外に出ることにした。

しかし、外に出ても、あいつは僕に思い知らせようとする。
いつも見慣れた街が、この日は違って見えるのだ。
しょうもないオヤジギャグばかり言っている、洗いざらしてスケスケのシャツを着た八百屋のおじさんも、見方を変えれば、商売を長年維持させている立派な社会人だ。
陽が当たるカウンターに座っていねむりをしている電気屋のおばちゃんも、眠っていてもつぶれないビジネスを構築している凄腕経営者だ。
大きなトラックに満載してきた缶コーヒーを自動販売機に突っ込んでいるお兄ちゃんだって、僕がまだ一度も手にしていない「内定通知」を手にした成功者だ。

そんなことを考えながら歩く散歩が楽しいはずがない。
足早に商店街を抜けると、僕は踏切を越えて、あまり来たことがないこちらがわに回り込んだ。
線路一本挟んだだけで、こちらは人の気配もぐっと減って、静かな住宅街が広がっている。
時折公園や神社があるのが見えたり、車が入れないような細い道があるから何かと思ったら、お寺に続く道だったりした。

このころになって、僕はやっと、今日が冬でけっこう寒いはずなのに、雲のない青空が広がっていて、枝ばかりになった木をすり抜けたお日様が、僕の頬を照らしていることに気が付いた。
腕時計をする習慣はないので、時間はわからない。
でも、昼より後、夕方より少し前であることに間違いはない。

日が落ち始めたら ぐっと冷えることだろうから、今のうちに帰ろうか。
多少の理性を取り戻した僕は、渡ってきた踏切に戻るのではなく、隣の踏切を越えようと思った。
が、線路沿いに歩くのだけど、なかなか踏切が出てこない。
こんなに遠かったろうかと思ったとき、あのカウベルの音を耳にしたのだ。

カウベルが鳴った方へ歩いていくと、線路に面した住宅の1つが店になっていることが分かった。 
目立つ店ではない。
歩道に小さな看板が…コードをつなぐと明かりがつくのだろう…出ていたからそれと分かったのだ。
『Bar小紫』

飲み屋か…。
通り過ぎようとした僕が足を止めたのは、看板の裏側に張り紙が見えたからだった。
「バーテンダー募集」

人生のスパイスは、どこで振りかけられるか分からない。
僕がその求人広告を眺めたとき、また音がした。
カラリンコロン。
開いたドアから出てきたのは、一目でそれなりの高齢とわかる、小柄な女性だった。







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ひつじ年


2015年、明けましておめでとうございます。
穏やかな元旦でしたが、お昼前には冷たい空気が充満し、あっという間に雪が舞いました。
積もるというほどではありませんでしたが、草地や枝はたちまち白くなりました。
地域によっては深刻な寒波になっているようです。
みなさま、お気をつけてください。

ところで。
30回連載した『ルーの物語』を昨日で完了しました。
いかがだったでしょうか。

荒唐無稽なお話から、すぐそこにありそうなものまで取りそろえたつもりです。
連載中、いくつかご質問をいただきました。
お答えになるかどうかわかりませんが、書いてみましょう。

登場人物のモデルはHikariさんですか?について。
今回は、エピソードの一部分が実体験ということはあっても、登場人物の誰かがまるきり自分をモデルにしたものはありませんでした。
この連載を構想していた時に、一番最初に手掛けたのが、最終話の『ララルー』でした。
これは、実体験が着想のきっかけになっています。
でも、ドラマチックになるように、さまざまな脚色を施した結果、実体験とは別の話題になりました。
現実は小説より奇なりです。
実体験のルポの方がスゴイかもしれません。

面白いお友達が多いのですか?について。
人見知りなので、「多く」はありません。
ですが、魅力的な方ばかりです。
でも、知人をモデルにした話は書かないと決めているので、小説の中に出てくる面白い人々は、私の身の回りにはいません。

Hikariさんはどの話が一番のお気に入りですか?について。
10番目の『真剣勝負』が一番かなぁ。
しりとりで結婚後の苗字を争っていた二人の物語です。
あれは、書いていて笑ってしまいました。

甲乙つけがたいのが19番目の『カレーの味』。
一人の女性の心が揺れ動く様子がリアルに描写できたような気がして、お気に入りです。

それから9番目の『女友達』。
大好きで気安いからこそ出る失言のお話です。
みつばちマーヤのくだりを夫に話したら、大笑いしていました。

あと、13番目の『翻訳』。
いろいろ調べて、面白かったです。

8番目の『神無月の約束』と14番目の『行雲流水』の2作は、いつかどなたかのお力を借りて、絵本にできたら嬉しいなぁと思っています。どちらもとっても気にいっています。


そんなこんなで、短編は初挑戦でしたが、なかなか楽しい試みでした。
何度か繰り返し出てきたミノ君とルー君のその後なんかも、書きたいネタです。

仕事の都合で、毎週日曜日にしか更新できない状態は続くと思いますが、よかったら今年も遊びにいらしてください。
次の連載は、街の片隅にある、小さなバーを舞台に繰り広げられる予定です。


明日から秋田に帰省します。
皆様、楽しいお正月をお過ごしください。







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