きっぱりと覚悟はしたものの、どうしても、自分の不安の正体は理解できなかった。
自分が子供のころからしてきた経験が尋常でなかったことは、今ではかなり客観的に理解している。
小学校の教諭という仕事に進む過程で、幼いころに虐待やトラウマとなるような心的外傷を負ったものがどのような影響を受けつつ成長するのか、ある程度の知識は得たと思っている。
それは、予想以上に深刻なものだった。
だから、私の人生がいつも屈託が多く、曇ってばかりいて、楽しいことは長続きせず、不愉快なことばかりに囲まれてしまうのも、仕方がないのだと思っている。
そうして、この、人間関係を壊すきっかけになる「つかみどころのない不安」も、きっとそのあたりに原因があり、私にはどうしようもないものなのだろうと、諦めるしかない。
スミレは、母は偉かったなと、不意に思った。
母は何年もかけて精神科に通い、カウンセリングを受け、傷つき泣きながらも、健康な心を取り戻したように見える。
私とはあまりうまくいかないけれど、それ以外の人とは良好な関係を築いていると思う。
それに引き換え私は、誰かに相談することすらできずに、ひとり堂々巡りを続けているだけだ。
「だから、ダメなんだわ。」
転入生が鳴り物入りなのは、スミレにとってだけでなく、学校全体にとっての一大事だった。
あの、姫君がやってくるのだ。
松重花恋。
中学1年のとき、スミレは松重会長に花束を手渡したことがあった。
「ああ、きれいですね。ありがとう。」
深みのある、やわらかな声だった。
これが、世界に冠たる大企業の総帥かと、まったく壁のない存在感にかえって戸惑いを感じた。
その総帥に娘がいることは、祖父から聞かされた。
「花音さんといって、お前より4つほど年上だそうだ。それが、シルクを着てなぁ…。」
初めて麹町にあるお屋敷に会長を訪ねたとき、その花音嬢に会ったという話を、祖父は時折たまらなく楽しげに語ってくれた。
「世の中には、本当に絵本から抜け出たような人がいるんだなぁ。」
祖父のそんな感想を聞いて、自分といくらも年が違わない花音さんに、なんともいえない興味を抱いたものだった。
その後もずっと松重会長のもとで働いた祖父から、花音嬢が高校から海外留学し、そのまま海外で大学を終えると、帰国してすぐ結婚したこと、すぐに娘ができたことなどを聞いていた。
それが、今回転入してくる花恋さんということになる。
「カレンさんかぁ。お父さんは日本人じゃなかったりして…。」
笑い飛ばすつもりで、教員にあるまじき発言をしたスミレに、情報通のチヨコ先生が教えてくれた。
チヨコ先生には、自分が松重とつながりがあることを話していないスミレは、得意げに語るチヨコ先生に、またもやそのことを言いだしそびれた。
「松重の人たちって、ほら、皇族と同じ、あの学校に行くのが決まりみたいなものでしょう?」
「そうらしいわね。私もそう聞いていたわ。週刊誌にも書いてあったし。」
「それが、最近帰国した、会長のお母さんと言う方が、なかなかすごい人らしいのよ。」
「会長のお母さん?ということは、花恋さんの…」
「大おばあ様って感じ?」
「うわ、その言い方、なんか迫力ありすぎる…。」
「なんでもね、ここ数年、海外でボランティア活動に没頭していたらしいの。」
「へぇ!ボランティア…。なんだか、すごいね。」
「うん。それが、さすがに疲れたらしくて、最近帰国したらしいのよ。」
チヨコ先生の情報は、まるで家政婦が覗き見たように詳しく、確信をもって語られる。
「今年は千鳥が淵の桜が見たいって言ったらしいのね。で、かわいい曾孫の花恋ちゃんと初めて会ったらしいの。」
「初めて?」
「うん。孫にあたるお母さん…花音さんっていうらしいわね…そのおかあさんが妊娠中に、海外に出てしまって、それきりで、今回が初帰国なんだって。」
「へぇ。だから、初めて会ったわけかぁ。」
「そういうこと。で、一目で惚れ込んだ。」
「惚れ込んだ?」
「この娘は、わが松重代々の当主の中でも傑出した逸材だ、つまらない学校になどやっている場合ではないってのたまわったそうなのよ!」
とんでもない話だ。
が、その有名私学が、このところレベル低下著しく、芳しくない噂も流れるようになっている。
それはスミレも耳にしていた。
大おばあ様のお眼鏡に適わなかったのもいたしかたないのかもしれない。
だからといってなぜ、選ばれるのが、良くも悪くもない、平凡な一公立小学校なのだ。
確かに、松重屋敷は学区なのだが…。
「これからの当主は世情に疎くてはいけない、人々の中で人々と共に幸せを築ける人でなくてはならないと…。」
「意味わからない。今までは世情に疎かったってこと?そんなふうには見えなかったけどなぁ。」
「ボランティア活動を続けて、天啓を得たそうよ。」
「ますます、分からないわ。私たち、何を期待されているのかしら?」
スミレは頭を抱えた。
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