Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2014年05月


きっぱりと覚悟はしたものの、どうしても、自分の不安の正体は理解できなかった。
自分が子供のころからしてきた経験が尋常でなかったことは、今ではかなり客観的に理解している。
小学校の教諭という仕事に進む過程で、幼いころに虐待やトラウマとなるような心的外傷を負ったものがどのような影響を受けつつ成長するのか、ある程度の知識は得たと思っている。
それは、予想以上に深刻なものだった。
だから、私の人生がいつも屈託が多く、曇ってばかりいて、楽しいことは長続きせず、不愉快なことばかりに囲まれてしまうのも、仕方がないのだと思っている。

そうして、この、人間関係を壊すきっかけになる「つかみどころのない不安」も、きっとそのあたりに原因があり、私にはどうしようもないものなのだろうと、諦めるしかない。
スミレは、母は偉かったなと、不意に思った。
母は何年もかけて精神科に通い、カウンセリングを受け、傷つき泣きながらも、健康な心を取り戻したように見える。
私とはあまりうまくいかないけれど、それ以外の人とは良好な関係を築いていると思う。
それに引き換え私は、誰かに相談することすらできずに、ひとり堂々巡りを続けているだけだ。
「だから、ダメなんだわ。」


転入生が鳴り物入りなのは、スミレにとってだけでなく、学校全体にとっての一大事だった。
あの、姫君がやってくるのだ。
松重花恋。
中学1年のとき、スミレは松重会長に花束を手渡したことがあった。
「ああ、きれいですね。ありがとう。」
深みのある、やわらかな声だった。
これが、世界に冠たる大企業の総帥かと、まったく壁のない存在感にかえって戸惑いを感じた。

その総帥に娘がいることは、祖父から聞かされた。
「花音さんといって、お前より4つほど年上だそうだ。それが、シルクを着てなぁ…。」
初めて麹町にあるお屋敷に会長を訪ねたとき、その花音嬢に会ったという話を、祖父は時折たまらなく楽しげに語ってくれた。
「世の中には、本当に絵本から抜け出たような人がいるんだなぁ。」
祖父のそんな感想を聞いて、自分といくらも年が違わない花音さんに、なんともいえない興味を抱いたものだった。

その後もずっと松重会長のもとで働いた祖父から、花音嬢が高校から海外留学し、そのまま海外で大学を終えると、帰国してすぐ結婚したこと、すぐに娘ができたことなどを聞いていた。
それが、今回転入してくる花恋さんということになる。

「カレンさんかぁ。お父さんは日本人じゃなかったりして…。」
笑い飛ばすつもりで、教員にあるまじき発言をしたスミレに、情報通のチヨコ先生が教えてくれた。
チヨコ先生には、自分が松重とつながりがあることを話していないスミレは、得意げに語るチヨコ先生に、またもやそのことを言いだしそびれた。

「松重の人たちって、ほら、皇族と同じ、あの学校に行くのが決まりみたいなものでしょう?」
「そうらしいわね。私もそう聞いていたわ。週刊誌にも書いてあったし。」
「それが、最近帰国した、会長のお母さんと言う方が、なかなかすごい人らしいのよ。」
「会長のお母さん?ということは、花恋さんの…」
「大おばあ様って感じ?」
「うわ、その言い方、なんか迫力ありすぎる…。」
「なんでもね、ここ数年、海外でボランティア活動に没頭していたらしいの。」
「へぇ!ボランティア…。なんだか、すごいね。」
「うん。それが、さすがに疲れたらしくて、最近帰国したらしいのよ。」
チヨコ先生の情報は、まるで家政婦が覗き見たように詳しく、確信をもって語られる。

「今年は千鳥が淵の桜が見たいって言ったらしいのね。で、かわいい曾孫の花恋ちゃんと初めて会ったらしいの。」
「初めて?」
「うん。孫にあたるお母さん…花音さんっていうらしいわね…そのおかあさんが妊娠中に、海外に出てしまって、それきりで、今回が初帰国なんだって。」
「へぇ。だから、初めて会ったわけかぁ。」
「そういうこと。で、一目で惚れ込んだ。」
「惚れ込んだ?」
「この娘は、わが松重代々の当主の中でも傑出した逸材だ、つまらない学校になどやっている場合ではないってのたまわったそうなのよ!」

とんでもない話だ。
が、その有名私学が、このところレベル低下著しく、芳しくない噂も流れるようになっている。
それはスミレも耳にしていた。
大おばあ様のお眼鏡に適わなかったのもいたしかたないのかもしれない。
だからといってなぜ、選ばれるのが、良くも悪くもない、平凡な一公立小学校なのだ。 
確かに、松重屋敷は学区なのだが…。

「これからの当主は世情に疎くてはいけない、人々の中で人々と共に幸せを築ける人でなくてはならないと…。」
「意味わからない。今までは世情に疎かったってこと?そんなふうには見えなかったけどなぁ。」
「ボランティア活動を続けて、天啓を得たそうよ。」
「ますます、分からないわ。私たち、何を期待されているのかしら?」

スミレは頭を抱えた。






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転校生が来ると聞かされたのは、先週のことだ。
だいたい、小学校1年生の1学期に転入など、普通あり得ない。
しかも、今回の転入生は鳴り物入りだ。
仕事を辞めたい、人から離れたい、新しいクラスの立ち上げは何一つ予想通りには運ばないので、日々消耗し、疲れきっていく自分をどうしようもない。

いくらチョコちゃんがいても、焼き肉龍龍のカルビが美味しくても、私には抱えきれっこないと思っているときに、なぜ転入生なんだ!
しかも、2クラスあるのだから、うまく行っているチョコちゃんのクラスに行けばよいのに、もともとの人数が1人少ないという理由だけでウチになるとは!
ツイてないこと、この上ない。

テレビの音さえ聞きたくない、別れた男に未練とてなく、かといって、その後言い寄られた男性たちに興味が湧くわけでもなく、たま〜に仕事帰りに暴飲暴食するのが楽しみだけのカサついた女。
ひたすら教材を作り、事務仕事をこなし、ためいきまじりに学校と家を往復する。
へたすれば、スーパーすら営業を終えていて、コンビニしか開いていないのだ。
これでは心も体も病気になったって何も不思議はないと、我ながら思う。

だったら、転入生のことも「お断りします」と言えばよいのだ。
さっさと「仕事辞めます」と言ってしまえばもっとよかった。
そんなことをしたら、おじいちゃんを悲しませるとか、中途半端な時期では無責任だとか、いろいろな理由は後付けで見つけた、自分をごまかすための理由だ。

必要以上に丁寧に、小さな玄関の掃除をしながら、スミレはふと、捨てればよいのに捨てられずに残っている、男物のサンダルを片手に、小さくため息をついた。
それを一緒に買いに行った日の、胸が熱く高鳴る音を、さっきのことのように思い出せる。
なんて幸せなんだろうと思った。
この人となら、ずっとこんなふうに幸せでいられると思い、そうであってほしいと心底祈った。

でも、その祈りは、やがて裏切られていく。
ずっとずっと、相手との相性が悪いことに気付かなかったからだと思っていた。
愚かにも、人として許せない相手ばかり選ぶ自分が馬鹿なのだと。
だから、いつも別れ話は自分から切り出した。
愚痴を言いながらやけ酒を飲めば忘れられた。

でも…と、そのサンダルを片手に、スミレは何かが意識の端をかすめたのを感じて、手を止め、目を閉じた。
そう、これ。今の、何か。
今度こそ、そのかけらを見失わないように、スミレはそっとサンダルをおろすと、そのまま玄関の縁に腰を下ろした。
膝を伸ばせばつま先がドアに届くほど小さな玄関だが、上京して以来住み続けているこの部屋に訪れては来なくなった人たちを思い出すのには丁度よい場所だ。

スミレは意識をかすめた小さなかけらを追いかけた。
このかけらが通り過ぎると、いつも胸が急激に冷たくなるのだ。
息苦しいような、切羽詰まったような気分になる。
なぜかと言われると、まったく説明できない。
どうしたらと聞かれても、何も頼めない。救いようがない。

このかけらに敢えて名前をつけるとしたら…と、スミレは考えた。
不幸…ちがう。自信のなさ…近いようだが、何か違う。絶望…いや、そうではない。
不満…いや、そうだ、不安。「不安」だ!
そうか、私は「不安」なのか!
思い返せば、ひとり暮らしを始めるずっとずっと前から、このかけらは私にこびりついていた気がする。

では、いったい、何が不安なのか。
頭の中で、もうひとつの声が言い始めた。いいじゃないか、そんなに考えなくても。
多少の不安や不満があっても、なんとか我慢して昨日と同じことをしていれば、明日も無事に生きられる。
それでいいじゃないか。

「いやよ。」
スミレは小さいけれどもきっぱりした声でつぶやいた。
「私は、もういや。こんな気分で毎日を生きるなんて、もういやだもの。」
目をあけて、大きく深呼吸をすると、もう一度目を閉じて、考え始めた。
「私の不安は…」






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※すっかり長くなってしまったスミレさんの人生の軌跡を終えて、ここから物語が振り出しに戻ります。スタートはどんな話だっけ?と思った方、そもそもスタートは読んでいなかったとおっしゃる方は、下のリンクを押して、最初の20話ほどをざっくりと読んでみてください。 ついつい面白くなって、たらたらと書いております。どうもすみません。
 ★★スタートからちょっと読み直す★★


26歳か。
小学校教員か。
そうして、別れた男は…。
スミレはその数にげっそりした。
どうしても、長く続かない。
簡単に付き合い始めるわけでもないし、気軽に気を許してもいない。でも、続きもしない。
いったい、どうしてこうなんだ?と何度考えても、答えは分厚い雲の向こうにあるようで、一向に見えてこない。

再婚した母のもとで暮らすのが苦痛で、祖父の家で暮らすことにしたスミレは、そこで中学・高校の6年間を過ごした。
祖父は忙しい人で、時折海外も含め、出張に出て帰宅しないことがあったが、そういう時は、父の幼馴染である佐々木夫妻の家に行った。
今日子おばさんは、スミレも一時入所した児童養護施設の施設長をやめ、祖父と一緒に立ち上げたデイケア施設の施設長をしていた。
スミレは今日子おばさんを心の底から好きだった。
年齢を考えなければ、この人がお母さんだったらよかったのにと、何度も思った。
おじいちゃんには内緒だけど、佐々木の家に泊まるときは、よくおばさんのベッドに入れてもらった。
さすがに高校生になってからは布団を並べるくらいにしたけれど、とにかく何でも話せるし、なんでも聞いてくれる。

勉強は、マリアンヌに教わった。
学校の教室で習う授業には、あまり興味が持てなかった。
教科書はつまらない。
でも、マリアンヌがリハビリや診療の合間に教えてくれることは、どれも飛びきり面白かった。
だから、授業はあまりまじめに聞いていないのに、テストの点は悪くなかった。

「要は、教え方次第で教わり方も変わるってことね?」
高校生になって、真剣に進路を考え始めたころ、マリアンヌに言ったことがあった。
「そうね。そういうことだと思うわ。それを知っているスミレちゃんは、いい先生になれるかもよ?」
「そっか。いい先生ね…。」
今思えば、あれがいけなかった。
つい、信じてしまったのだ、自分はいい先生になれる、勉強嫌いの子供を出さないような、ステキな先生になれると!
甘かったなぁ。

東京の大学を選んだのは、別に母から逃げたかったわけではない。
ただ、父が進みたかったという大学に、密かなる興味を抱き続けていたのは確かだ。
母が狂気にあった時期、再三聞かされたから、忘れようにも忘れない。
母からはそれとなく反対されたが、受験したらあっさり受かってしまった。
女子サッカー部が強いから選んだと言い張ったので、父の無念を継ぎたかった本心は言わずに済んだ。
おかげで、父が進みたかった大学で、父がやりたかったサッカーを、私が代わりに続けた。
父は、喜んでくれただろうか。

あの時、家を壊すかという勢いで、祖父が隠した父の写真を探した母が、再婚したとたんに見向きもせずに置いていった写真は、今、スミレの小さなアパートの片隅に、父の位牌と共に置いてある。
生まれて間もないスミレを抱いた若い父と、寄り添う母。
背後には、これでもかと紫陽花が咲いている。
「神戸 頼光寺にて」
写真の裏に、母とは違う文字で書いてあることに、スミレは高校生になってから気がついた。
「笹山のお父さんもいい人だけどね…。」
スミレは今でも、「おとうさん」は自殺して亡くなった哲也のことで、自分の名字になっている笹山の父とは「笹山のお父さん」と呼び分けていた。
本人に向かってもそう呼ぶのを、ミドリは目を三角にして叱り続けたが、当の熊夫は「うん?なんだ?スミレ?」一向に気に留めるふうもなかった。

億万長者になりたいのは、人との関わりを避けたいからだと、心の底で気付いている。
結局、人は私を受け入れてくれない。
心のどこかでそう決めている自分がいる。
だから、人の中にいるのは、ひどく疲れる。
思い通りにならない。
ヒデ君のことなど、最たるものだ。

1年生は大変だ。
子どもたちとの信頼関係はできていないし、どんな子か、親か、それもまだわからない。
すべてが手探り、それも、暗中模索。
同じ学年のもうひとりの担任がチヨコちゃんじゃなかったら…想像するだけでゾッとする。

でも、土曜日は始まったばかりだ。
空が青い。ツバメが飛びまわっている。それだけでいいと思えば、気持ちも軽くなる。
それが現実逃避だということは、重々分かっているけれど、今だけは許して。
スミレは窓から離れて腕まくりをし、掃除機を引っ張り出すことにした。






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「ね、そろそろ時間じゃない?」
誰かの声がして、みながそれぞれの思い出から帰ってきた。
とても長いような、あっという間のような5年だったと、ひとりひとりの思いが視線になって交錯する。
「ほんとだ。」
「そうですよ、その知らせに来たのに!」
「なに?」
慌てた声を出す優に、真理が小首を傾げた。
「あと30分ほどで到着しますと、電話があったんです。秘書の方から!」
わぁっという声とともに、席を一斉に立つガタガタという音が重なった。
さざ波のような笑い声や、緊張した面々が玄関へと移動していく。

今日子が、その波を無視してスミレの姿を探し、急ぎ足で近づくと、歩きだす前のスミレを後ろから抱き締めた。
「大丈夫?」
「うん。今日子さん、ありがとう。今日子さんがわかってくれるから、私は大丈夫。それに、おじいちゃんも!」
今日子の後ろには新吉が穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。
「しょうがない、というと投げやりに聞こえるかもしれないけど、本当のことだから、しょうがないもん。」
スミレが心の内側の、どうしようもない気持ちを小さく覗かせている。

ミドリが笹山さんの跡取り息子と付き合うようになったのは、周囲の熱心なお膳立てによるものだったが、初めはまったく乗り気でなかったミドリが、だんだんとその付き合いを楽しむようになったのは、当然と言えば当然のことだった。
跡取り息子は熊夫という信じられない名前をしていた。
あたりに時折出没する熊よりも、強い男になれとの願いを込めた名前だそうだが、いわれを聞いたミドリは開いた口がふさがらなかった。
「なんてセンスのないネーミングなの…。」
声にならない悪口を心の中に響かせつつ、愉快な思いが肚の底から湧きあがってくるのだった。

熊夫は勇猛な名に似合わず、どこまでも人のよい、平和な人物だった。
いい人すぎてアピール性には欠け、資産もあるのにここまで独身だった理由も分かる気がする。
ミドリは、等身大の付き合いというものを、何やら初めて体験するような気持ちになった。
ミドリにはそれがかけがえのない魅力に思えた。

高校生のとき、部長だった哲也に憧れて、同じ思いの何人もいるマネージャーや同級生たちと競い、いかに哲也に気に入られるかを必死で考えた自分。そうやって、すべてを差し出してつかんだはずの幸せが、いくらあがいてもボロボロと崩れていくあの悲しさ、恐ろしさ。何もかもひとりで背負わなければならないと思う切なさを思い出すにつけても、この人はきっと、何があってもいなくならないだろうという確信めいた安心感を与えてくれる熊夫を、成長したミドリは心地よく感じた。

心を焦がすような恋愛感情があるわけではない。今後も、そんなものは湧かないかもしれない。
それでも、ずっと長く、毎日の平凡なくり返しを、笑ったり怒ったりしながら、際限なく続けていけるだろうと思えるだけで十分なのではないかと思った。
広大なリンゴ畑の所有者である笹山家は、家人だけでは手が足りないので、相当数の従業員を抱えた企業の形をした農家だった。
いずれはその社長となる熊夫だが、自らが誰よりも多く外に出て、リンゴの木と過ごしていた。
2年ほどして、そこばかりは名前通りに真っ黒に日焼けして、白い歯をこぼして笑う熊夫から、ぼそりと求婚されると、ミドリはそれほどの迷いもなく承諾した。

まさか、スミレが反対するとは思ってもみなかった。
実際に、声をあげて反対されたことは一度もなかった。
新吉の家を出て、いくつ部屋があるのかと思うような大きな平屋建ての笹山の家には、スミレも一緒に引っ越した。
が、1週間もしないうちに、スミレが突然新吉の家に戻ってきたのだ。

「おじいちゃんが一人で寂しいから。もしも病気になったら困るから。」
スミレは祖父の家で二人で暮らしたいと懇願した。
同じ町内のこと、学校の帰りに毎日寄ればいいと祖父からも説得されたが、スミレは頑として聞き入れない。
知らせを受けて駆けつけた真理や今日子は、スミレの思いをいち早く察したが、ミドリにはそれがわがままに見え、自分に対する不信の続き、抵抗、あるいは復讐かと感じたのは、しかたのないことだったのかもしれない。

母と娘の微妙な軋轢を成長させないように決断を下したのは、新吉だった。
「俺もスミレがいてくれるほうが安心だし、張り合いもある。本当は、引っ越す前に言いたかったけれど、言えなかったのだよ。スミレをもらえないか?」
邪魔に思う気持など微塵もないが、新婚夫婦にはその申し出を断る理由もなかった。
「よろしくお願いします。」
そろって頭を下げるふたりを、スミレがどんな思いで見つめているかなど、思いもよらないミドリだった。

新吉の家に戻ってもむっつりとしていたスミレは、それでも時間とともに笑顔を取り戻した。
5年生。多感な年ごろだった。
でも、しなやかで、のびやかな時期でもあった。
結局、ミドリは、スミレの微妙な寂しさや遠慮、気づかいに気付くことはなかったし、誰もそれを説明してやる者はなかった。
それが、大人というものだ。
大切なことは、自分で気付かなくてはならない。

今日子に肩を抱かれたスミレは、もう中学生になっている。
心のわだかまりは消えたわけではない。
きっと、一生消えないのだろう。
それでもいいと、スミレは言っているのだ。
理解者がいること、自分自身で選んだ道。
スミレはすっかり強くなっていた。

玄関の方から、大きなざわめきが伝わってきた。
「あ、会長さんが到着されたみたいよ。急いで!」
今日子に促され、新吉に頷かれると、スミレはパッとバラのような笑顔になり、長い脚で駆けだした。
「ようこそ!『おらほの家』へ!」
「お待ちしていました!5年も!!」
大きな拍手とともに、人々の声がこだまする。

玄関先に着いた今日子と新吉の前がすっと空き、そこへ松重会長がゆったりと歩を進めてきた。
会長の手には、スミレが贈る役に決まっていた、小さなブーケが握られている。
あの、トコちゃんの花壇で咲いた花のブーケだった。
「やぁ、星川さん、佐々木さん。やっと来ましたよ。」
会長は、爽やかに手を挙げた。
「お待ちしておりました。さあ、ごらんください。ここが、会長の夢を形にした『おらほの家』です!さあ、中へ!長旅でお疲れかもしれませんが、いろいろと見ていただきたいところがあります。まずは、こちらへ…」

会長の車を運転してきた倉橋運転手が、窓を開けて大きな黒い車をバックさせている。安曇野にはまだ早すぎる、雲雀の声が聞こえた気がして、倉橋運転手はふとブレーキを踏んだ。見上げた空は抜けるように青く、空気のどこかに初夏を思わせる風をはらんでるような気がした。






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ゴールデンウィークですね。
各駅停車以下のペースでのんびりと連載を続けていますが、楽しんでいただけているでしょうか。
例によって割り込みですが、読書記録を。

2014年4月に読んだ本は1冊だけでした。
忙しすぎて、通勤時間に爆睡するか考え事をしている時間が多く、読書ができませんでした。
でも、この1冊は、小説を10冊読んでも得られないような示唆をもたらしてくれました。
名著です。




Hikariの読書記録 - 2014年04月 (1作品)
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「なんで!?」
「そうじゃろう?わしらも、声をそろえて聞いたよなぁ。」
「ほんとに。」
その場にいた幾人かが頷いた。
先にその時のことを思い出している人は、すでにクスクスと笑っている。

「で?真理さんはなんて言ったの?どうしてイヤだと?」
幸吉じいさんは丸まった背中を精一杯伸ばして胸を張り、一世一代の声を張り上げた。
「『水田さんと結婚したら、私、ミズタマリになっちゃう!そんなの絶対にイヤ!』」
「水たまり…。」
バイトスタッフが目を丸くした。
振り向いて、そこに座っている真理を見たとたん、バイトスタッフは爆笑した。
それにつられて、広間中の人が大笑いした。
「やだ、ホントだ!今日まで気付かなかったけど!」
「だから、もう!」
真理は耳まで赤くしてふくれっ面になった。

「続きがあるんじゃよぉ。」
「え?聞きます!それでそれで?」
「真理ちゃんの断る理由が理由になってないから、もうまわりは遠回しのOKじゃと受け取って、おめでとうの嵐になってなぁ」
「うん、うん。」
「驚いたのはその先じゃ。
マリアンヌが笹山さんたちを起こして、怪我はないかと聞いて回ったんじゃ。
私はここのリハビリ担当医ですってなぁ。
笹山さんたちはようやく、ここが本当に老人やら寂しい人やらに本気で役立つ場所らしいと気付いたんだなぁ。
なんたって、本物のお医者様だもんなぁ。
笹山さんたちは急に、態度が変わってしもうた。」

「最初から誤解しすぎなんですよ!」
バイトスタッフは鼻息が荒い。
「笹山さんはいい人じゃ。ちょっと気がみぢかくて勘違いもするけど、根はいい人なんじゃなぁ。」
「それでやっと、私が知っている笹山さんですよ!」
「笹山さんはわしらに謝ってくれたんじゃ。それから、ミドリちゃんのところに行ってなぁ…」
「もしかして、うちの嫁に来ないか?って?」
「そうそう。あんたはいいお嬢さんだ、うちの息子の嫁に来ないかって、その時、突然なぁ」
「うわぁ!」






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