Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2014年04月


「そしたらなぁ。」
それまで黙ってニヤニヤと話を聞いていた幸吉じいさんが、ゆるりと割って入った。
ふだんはトンチンカンな言動で笑いをふりまくのに、今は冴えている時らしく、その続きは俺に言わせてくれとばかりにしている。

「そしたらなぁ。この、優君がなぁ、真理ちゃんのあとを追いかけて、飛び出して行ったんだなぁ。」
「へぇぇ。他の人は?」
「もちろん、後を追ったわよ。ものすごい勢いだったから、カッとなって掴み合いにでもなったら、取り返しがつかないもの。」
「わしも、行ったさぁ。」
「のんびり行ったんだろうねぇ。」
バイトスタッフは、思わず独り言をいって、はっと口元を押さえた。
「それで、それで?」

「優くんがなぁ、真理ちゃんをこう、抱えて、『あんたたち、何をしてるんですか!』って、笹山さんたちを怒鳴りつけたんじゃ。そりゃもう、鬼のような顔でなぁ。」
「優さんの顔が鬼のようなんて想像できない〜」
「真理ちゃんは、ぐちゃぐちゃになった球根を、こうして手のひらに乗せて、しくしく泣きっぱなしじゃ。当然じゃろ。わしも一緒に植えたからなぁ。切ない、切ない。」

「真理さんがあんまり泣くから、笹山さんたちも、気勢を殺がれたというか、つい見守ってしまったというか…。」
ミドリが口をはさむと、幸吉じいさんが両手をばたばたと動かして、うるさい、うるさい、話をとるな!とばかりに前のめりになった。
「あわ、あわ…慌ててしまう。黙っとってぇ。」 

「優くんは、笹山さんたちがそれ以上騒がないと分かると、真理ちゃんに言ったんじゃ。『泣かないで。もう一度、一緒に植えよう。』って。」
優の口真似をしようとしたらしく、それが小さな笑いを誘う。
「そしたら、真理さんが返事をせんのじゃ。そりゃそうじゃ。割れたり折れたりしてしまっては、また植えても芽がでるとは限らん。」
皆が一様に頷く。

「それでも、優くんは諦めなんだ。『つらいことは、これからもきっとある。でも、僕が一緒にいますから。』」
「えっ?やだぁ!それってプロポーズみたいなもんじゃない!きゃぁ!」
話が核心に迫ったことを知ると、バイトスタッフは胸の前で両指を組み合わせ、頬から耳まで赤くしている。
「そしたらなぁ、真理ちゃんが言ったんじゃ。『あなた、ミドリさんとお付き合いしているんでしょう?』泣きはらした赤い目で、こう、きっと睨みつけてなぁ。迫力あったなぁ。」
「ええっ?信じられない!それって三角関係?そうなの?うわぁ!修羅場ぁ!」
バイトスタッフは勝手に盛り上がっている。

「ちがう、ちがう。 優くんが何か言う前になぁ、ミドリちゃんが、こう、真理ちゃんのところで仁王立ちになってなぁ。」
幸吉じいさんはよろよろっと立ち上がると、ミドリがそのときにしたらしい様子で立った。
両足をしっかりと開いて、両手を腰に当てている。
幸吉じいさんの膝が外側に向いているから、ひどくガニ股の立ち方だが、ミドリならモデルのようにスッキリと立ったことだろう。

「こう言ったんじゃよぉ。『譲る!』」
「え?」
「つまりじゃ、ミドリちゃんは真理ちゃんに、優くんを譲ってあげるというわけだぁ。『真理さん、誤解しないで。私が勝手に片思いしていただけなの。お付き合いなんてしてないわ。私が勝手にあれこれ気を引こうとしていただけよ。でも、それもおしまいにする。優さんのことは、真理さんに譲るわ!』」
幸吉じいさんが時々舌をもつれさせながら、長いセリフを真似すると、 思わず周囲から拍手があがった。

「その機を逃さず、優くんは迫ったのじゃ。『真理さん、年下で頼りないかもしれないけど、僕と結婚してください!』」
熱演に拍手をもらい、幸吉じいさんはすっかり気を良くしている。
「うわぁぁ。私も言われたい〜〜〜!」
若い女性と、以前若かった女性たちが一斉に嬌声をあげた。
「でもなぁ。真理ちゃんの返事はにべもなかったなぁ。
『絶対に、ぜ〜ったいに、イヤ!』じゃもん。」






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「新興宗教って、なんですかそれ!?ひどすぎます!」
バイトスタッフは頬をふくらませた。
「そうよね。でも、新吉さんが言う通り、私もあれは私たちのミスだと思うわ。
地域に根差して活動していくことを考えていながら、地域の方に分かりやすく説明し、理解を得ておこうという努力をしていなかったわ。
こんなにステキなことをするのだから、理解されて当然と思う気持ちが、どこかにあった。
それって、とても押しつけがましいことよね。
誤解されて当然だったと思うの。」

「ですけど、そのときの教訓をもとに、新たな『おらほ』を作るときには、まず地域の皆様に趣旨を説明して、賛成していただけること、ご協力を取り付けておくことが第一という基本姿勢ができあがったのですもの。
貴重な経験でした。」
そういうのは、2号店を任されている施設長だ。

「私たちはもう、会長も見えないことだし、4月3日のオープニングイベントはとりやめて、内輪でささやかに門出を祝うだけにしようと言っていたの。
でも、笹山さんたちは、 会長が来ると聞きつけていたらしくて、ここにお仲間と乗りこんでこられた。
大きな声で出ていけ、出て行けと叫ばれて。
驚くし、怖いし、正直言って辛かったわ。」 
今日子が本音をこぼした。

「殴り書きの立て看板なんかも持っていたな。
最初は門の外で騒いでいたんだが、そのうちエスカレートして、敷地の中に入ってきたんだ。
それで、ほら、門の脇の花壇を踏み散らして、大騒ぎして…。」
隆三が、言いにくそうにする先を、今日子が継いだ。

「トコちゃんのことは、話したわね?」
「はい。おらほの家のマークになっているこの花の由来を教えていただいた時に!」
「4月3日はね、トコちゃんの命日なの。
その大切な日に、私たちはこの家のスタートを切ることにしたのよ。
それで、真理さんがね、雪が多い安曇野では無理と知りつつ、門の脇にたくさんの花が咲くようにと、チューリップの球根を秋から植えていたのよ。
それが、ほんの少し、芽を出していたの。あの花壇で。」

「できれば、開所に間にあって咲いてほしくて、早くから雪寄せして、土にお日さまを当てて。
寒い日もあったけれど、私の気持ちが通じたように、芽を出してくれたの。
分厚い葉の先が見えた時には、トコちゃんが応援してくれているような気がして、嬉しくて。
なのに…。」
真理がこの話をするのは、今日子たちも聞いたことがなかった。

「真理さんは、思わず飛び出して、笹山さんたちを止めに行った。
私たちは笹山さんたちを刺激しないように、見守るしかないと思っていたのだが、トコちゃんの花を踏みにじられるのが、真理さんには耐えられなかったんだろう、ね?」
「そうなんです。本当に、見ていられなくて。」
答える真理の肩に、優が黙ってそっと手を置いた。
真理の膝では、譲が大人しく抱かれて、安心した顔をしている。

「真理さんはね、なんと花壇でドタバタしていた笹山さんたちを突き飛ばしてね。
花壇の外で尻もちをついた男たちを放っておいて、花壇に膝をついて球根を確かめ始めたんだ。
でも、どの芽も無残に折れてしまって、中には掘り出されて踏みつぶされた球根もあってね。
ひどい有様だった。
真理さんは、思わず声をあげて泣き出してしまったんだ。」






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「あれは、この家のオープニングイベントの日のことよ。とても暗くて重い気分の朝だったわ。」
「そうだったね。」
新吉が、今日子の言葉に頷いた。
「イベントの主賓だった松重会長が急遽来られなくなったとわかったのは三日前の3月31日だった。
あの年はバブルの崩壊の影響がかたちになって現れた年だった。」
「ええ。世界の松重も、影響を受けないわけにはいかなかったの。」

事情を知っている人たちは、遠い眼をしてそれぞれの思いにふけっている。
「『人の松重』と言われただけあって、どんなに景気が悪くなっても、会長はリストラには消極的だった。
でも、仕事がないのよ。
売りたい人がいても、買いたい人はいない。
買える人がいないと言ったほうがいいかしら。

ホテルや旅館にしてもそう。
泊まってくれる人がいないの。
売り上げも仕事もないのに、従業員だけ雇い続けるのは、いくら体力がある松重でも難しかった。
丁度あの頃、会長もついにリストラにGOサインを出したわけ。」

「ああ、あの時はずいぶん報道もされた。
いよいよ松重も終わりだとまで言われたなぁ。」
そう言ったのは隆三だった。
「それでも、見事だったよ。
終身雇用が約束されていると信じて疑わなかった社員たちが切られていくというのに、松重ではあちらこちらで、従業員の方から去っていったのだよ。」
「従業員から?」

「ドキュメンタリーにもなったわね。
パートタイムで働いていた女性たちや、定年まであと数年というベテラン社員が、自らリストラされてよいと名乗り出たって。」
「ああ。それで何人もの友人が職場を去ったよ。」
新吉も、あの時の辛さを思い出していた。

「私たちは少しお休みしていますから、どうか松重を守ってください、景気がよくなって、また人手が必要になったらいつでも来ますからねと、涙ながらに手を振って去っていく人たちの背中は、テレビの視聴者の心を打ったわ。」
「そんな時に、新規事業の立ち上げだのパーティーだの、ナンセンスと言われてもしかたがなかったな。」
「そういう非難の対象にならないようにと、会長は深く慮って、こちらに来られるのを見合わせたのだ。」

「それにね、こちらも、お迎えできるような状態では、正直言ってなくなっていたのよ。」
「何かあったんですか?」
息を飲んで聞いていたバイトスタッフが、身を乗り出した。
「ええ。私たちね、壮絶な反対運動に遭っていたのよ。」
「反対運動?」

「あれは、私のミスとしか言いようがない。」
新吉はそういうと、周囲に集まっていた人々の顔を静かに見回した。
「ここが格好の物件だったため、すぐに家主と掛け合って買い上げたのはよかった。
自信を持ったビジネスプラン、誰もが認めるバックボーン。
それに甘えて、配慮を欠いたのだな。
思いあがっていたのだよ。」

優と真理が話をやめて、新吉の声に耳を傾けている。
「ほら、前の通りの向こうの笹山さん。
得体のしれない団体が人を集めるのは反対だと言いだしてね。」
今日子の言葉に、スタッフは飛び上がった。
「うそ?あの、笹山さんが???」
「ええ。それはそうよね。誰も聞いたことも見たこともないことをやり始めようとしていたのだから、当然なのよ。
笹山さんは、私たちが新興宗教団体で、お年寄りから金品を巻き上げる詐欺だと思ったの。
それで、お仲間たちと立ち上がり、 私たちを追い出そうと計画したのよ。」






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「ママ!」
さっきまで、父親の水田優が抱いていた3歳ほどに見える子どもは、飛ぶように駆けだしている。
「ゆずる!」
ミドリが席を立ち、両手を広げて待ち受ける。
「ママ!」
譲はもう一度呼んだ。 

「ゆずる!おいで!」
ミドリは膝をつき、駆けてくる譲に目線を合わせた。
つい今しがたまでざわざわと今日子や新吉と言葉を交わしていた各地の施設長たちも不意に言葉を切って、幼子のやわらかそうな足が高速回転して行く様を見守った。

あと一歩でミドリの腕の中に納まると思いきや、譲はミドリの脇をすり抜けて、真理の膝にしがみついた。
「ああ、ダメかぁ。」
片膝をついて振り向きながら、ミドリがため息をついて見せた。
真理は座ったまま譲を抱き上げる。
ぷっくりとした腕が二本伸びて、真理の首に巻きつけられた。

「おかしいなぁ。私の方が若いし、ママとしては先輩だし。何が不服なの?」
ミドリがそういって笑うと、部屋中に笑い声がこぼれた。
「ミドリちゃんはまだまだ修行が足りないからねぇ。子どもにはわかるんだろ。」
鶴さんや亀さんが容赦なくそんなことを言う。
「ああ、そうなのね。たまらないわ!」
頭を抱えて見せるミドリを見て、新吉はわが娘の心が、限りなく健康になったことを肚の底から喜んだ。

「譲ちゃんは大きくなったわね。」
施設長のひとりが今日子に声をかけた。
「ええ。丈夫な子でね。親思いよ。おかげで私たちはいい後継者を家庭に奪われることなく、両立してもらっているってわけ。」
「あの日のこと、ホントに忘れられないわ。」
「そうね。何といっても、この『おらほの家』のオープニングイベントだったから。」
「気がかりなことばかりだったのに、一気に吹き飛んだわね。」
「本当にそうだったわ。福の神よ、あの二人は。」

優が真理の椅子まで歩いていく。
途中、ミドリに向かっておどけた顔をして見せる。
ミドリは肩をすくめて、何か言ったようだ。
優が譲の頭を撫でながら、真理と楽しげに何か話している。
おらほの家の面々には見なれた光景だ。

「あの二人、何かあったんですか?」
最近バイトに来るようになったスタッフが、好奇心をおさえきれない眼をして問いかけた。
「姉さん女房だとは思っていますけど、福の神だなんて?」
「あら、知らないの?」
他の施設長が振り向いた。
「これを知らずに『おらほの家』のスタッフとは言えないわよ。」
「そうそう。伝説なんだから。」
「もう、じらさないで、教えてください!いったい、何なんですか?」

若いバイトが地団駄を踏んでせがむのを、今日子は微笑みながらなだめた。
「もちろん、教えてあげるわ。あれはね…。」






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連載の途中ですが、月が改まっていたことに今頃気がついたので、読書記録を。
2014年3月の読書は7冊でした。
私の読書は長い通勤を利用して行われますが、このところ本ではなく、手帳を開いて、その日絶対にしなくてはならないことの記録や優先順位付けに没頭し、それが終わると目を閉じて、一日の活動をシュミレーションしているうちに職場についてしまうため、冊数は進みませんでした。
けれども、『神様のカルテ』2冊からはよい刺激をもらいました。



Hikariの読書記録 - 2014年03月 (7作品)
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あれからもう5年経ったのか。
新吉の感慨は深い。
このところ、長野にいることはほとんどなく、各地に展開している、あるいは展開しようとしている「おらほの家」を巡り歩いている。
そのためには長野にしか家がないのはいかにも不便で、松重は社宅にしていた東京の家を新吉に返してくれていた。

パーティーの準備は準備万端整った。
広間でくつろぐ仲間たちを眺めやると、本当にあっという間だったなという気持ちと、胸を去来する数えきれないほどの様々な出来事に、長い道のりだったと思わずため息が漏れるような気持ちとが同時に湧きあがってくる。

「新吉さん、みんなが帰ってきましたよ!」
眠っている息子を片腕に抱いたまま、水田優が事務室からやってきた。

「やぁ、すごいなぁ。ものすごい歓迎だ!」
「きゃー、今日子さん、ご無沙汰しています。」
どやどやと広間に入ってきたのは、各地の「おらほの家」の施設長たちだ。
「いらっしゃい、みなさん。遠路はるばる、ありがとうね!」
今日子はひとりひとりの顔を見つめては握手をし、挨拶を交わしている。
始終彼らと会っている新吉と違い、今日子はみな別れの日以来の再会だ。

「『安曇野おらほの家』での1年間の研修が私たちの原点ですもの。」
「ここで学んだことがなかったら、私は絶対施設長なんてできなかったわ!」
「そうですよ。ここで今日子さんから教えていただいたことを元に、他の『おらほの家』でもう1年。たった2年の経験で新しい施設の運営などできるはずがないと思っていましたが、どうにかこうにかうまくいっているのは、まったくここでの日々があったればこそです。」
「それに、ここで得た仲間と連携して、日本中のおらほの家の利用者が交流する仕組みがなかったら、私の地域は資源がまだ少ないから、運営に行き詰っていたかもしれないのです。」
「お聞きですか、今日子さん。先日は私たち『那覇おらほの家』がこぞって『旭川おらほの家』にでかけて、動物園のお世話をお手伝いしたんですよ。まぁ、寒いのなんの!沖縄の元気なおばあやおじいの心臓も、あの寒さには負けそうだったの!」

各地の施設長たちが今日子をほめたたえるのを、後ろで隆三が嬉しげに聞いている。
どこかで待ち合わせて一斉にやってくるあたりも、この人々の連携のよさを物語っていた。
「ああ!亀さん、鶴さん、相変わらず似ているなぁ。元気そうだね!」
「ふん、年取ったからと言って双子が似なくなるものかね?」
利用者との会話も始まると、先ほどまで、パーティーの準備に一息ついて穏やかなお茶のひと時だった広間は、一気にボルテージが上がった。

大きなざわめきに気付いて、優の腕の中の男の子が目を覚ましたようだ。
うーんとひとつ身じろぎをすると、ぼんやりとあたりに視線を漂わせた。
3歳児にとって、眠る前と目覚めた後のこの環境の変化はどう映るのだろうか?と思っていたら、案の定、ぐすりと鼻をすすると、うわーん!と泣き出した。
優がなだめにかかるが、背中をのけぞらせて腕から逃れようとする。

仕方なしに優が男の子を床に下ろすと、男の子はキョロキョロと周囲を見回した。
そうして、窓際のテーブルにミドリと真理が座っているのを発見すると、「ママ!」と泣きながら走りだした。
それを見て、ミドリが立ち上がり、両腕を広げて呼びかけた。
「ゆずる!」






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デザートを終えてもまだ20時前だった。
早めのディナーになったのは、21時新宿発の最終あずさで新吉と今日子が長野に戻るからだ。 
香ばしい珈琲をゆっくりと飲み干した後、会長はゆるやかに右手をあげて、動き回るかあさんを呼びとめた。

「シェフに今夜のお礼をしたいのだが。」
一瞬はっとした顔を見せたかあさんだったが、お待ちくださいと丁寧にお辞儀をすると、厨房に隠れた。
すぐに、何度か料理を運んで出てきていたシェフ…かあさんの夫が、濡れた手を拭きながら現れた。
大きな身体に似合わぬかわいらしい目をしている。
いくら縮ませても大きい身体だが、全体から包容力と陽気さが漂い出ているような人物だ。

目を細めてその姿を確認した会長は、優しく語りかけた。
「今夜は大変美味しかった。ありがとう。これならとても愛されているのは当然ですね。」
オーナーは臆面もなく言う。
「はい!お陰さまで、いつもお客様に支えていただき、なんとかやっていけています。儲かりませんが、お金ではないものを、毎日毎日いただいております。」
「それに、かわいらしい奥様だ。」
黒クマとしか例えようのない顔をほころばせて、オーナーは照れている。
「そう思ってくださいますか!あれは神様からの授かりものです。私は果報者です。一生大事にしたいと思っています。」
「おやおや。料理も、そちらも、ごちそうさま。」

オーナーが頭を掻いて照れ続けている。
会長が席を立ったのに合わせて、一同は立ち上がった。
別の席で楽しげに笑い合っていた面々も、その様子を見て一足先に入口付近へ向かっている。
佑輔氏がいないと思ったら、会長とオーナーが話している隙に会計を済ませていたようだ。
これにはしてやられた。
新吉は自分が払う気でいたからだ。
営業で客をもてなすときには当然の動きを、今夜はすっかり忘れてしまっていた。

入った時と同じように、黒いかまいたちがレジの前から扉に向かってしゅっと動き、会長がたどりつく前に自動ドアのように開いた。
いったいいつ消えたのか、運転手の倉橋さんの姿がない。
先ほど席を立ちあがった時はいたと思うし、戸が開いた気がしないのだが…。
まったく、会長のお伴たちは忍者のようだ。
新吉は、時代劇ファンだった妻のミハルがよく見ていた『暴れん坊殿様』に出てきたお庭番という忍者のことを思い出していた。

店を出てコートを着込むと、たぶん、倉橋さんがリムジンを止めているのであろう大通りを目指して歩きだした。
すると、一度閉まった扉からかあさんが走り出てきた。
「お兄様!」
「花亜。会えてうれしかったよ。幸せなんだね。」
「ええ。お兄様、ありがとう。彼に黙っていてくれて。」
「また来るよと言いたいところだが、そうもいかないだろうな。」
「ええ。でも、本当に必要な時には。」
「ああ、そうしよう。お前も遠慮なく屋敷に足を運んでくれ。」
返事はなかったが、少しのためらいもなく、かあさんが会長の首に抱きついた。
「お兄様、お身体を大切にね。」
「花亜もね。時々佑輔を寄こすよ。」
「まぁ!結構よ!それより星川様、感謝申し上げますわ。是非またいらしてください。今度は、スミレちゃんも一緒に!」
「是非そうさせていただきますよ。」

手を振って見送ってくれるかあさんを背に歩きながら、新吉は油断すると目が潤むほどに感動していた。
歳をとると、どうも涙腺がゆるくなっていけない。

「佑輔。」
会長が振り返らずに呼んだ。
「はい、旦那様。」
「花亜の店は素敵だが、ひとつだけよくないことがあったね。」
「は?」
「花亜の周りには花がないといけないよ。」
「花、でございますか?」
「そうだ。あの店には、花が生けてなかったね。花亜の部屋にはいつも、花が溢れていたよ。」
「なるほど、そうでございますね。きっと切り詰めた経営で、余裕がないのでございましょう。」
「佑輔、お前が届けておやり。あまり始終ではいけない。大げさでもいけない。そうだな、季節が変わるたびに一度だけ、花亜の好きな花を選んで、お前が自分で運ぶのだよ。そうして、その時の様子を必ず報告するように。いいね。」
「かしこまりました、旦那様。」

東京の夢のような夜はこうして終わった。




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今日子は何度も頷きながら、会長の話を聞いていたが、思い立ったようにバッグを引き寄せ、その中から小さな袋を取り出した。
その袋からさらに折りたたんだ布を引き出す。
新吉も権藤氏も、その布地をみつめた。

「会長に、お願いがあります。」
「なんでしょう?」
「これを、ご覧ください。」
布は、小さな白いかっぽう着だった。
ポケットのところに、赤やピンクの花が縫いつけてある。
どうみても手作りのアップリケは、ぎこちない形のまま、そこに立ち止まったように張り付いている。

「これは?」
少しの間かっぽう着を見つめていた会長が問いかけた。
「トコちゃんの、給食用のエプロンです。このアップリケは、トコちゃんを担当していた女性職員が自分で描き、フエルトを切り取って縫いつけたものです。」
男3人は、黙ってその花を見つめることしかできない。
何故今、これなのか?と考えることすらできなかった。

「トコちゃんは、愛情を表現することが苦手な両親のもとに生まれ落ちました。
けれども、彼女は愛情を受け取る能力を損なわずに育ちました。
それは、奇跡的なことだと思います。

トコちゃんは私たちと暮らした歳月を、心から楽しんでくれました。
幸せで、幸せで、しかたがなかったのだと、今は確信しています。
新吉さんのお孫さんが施設に来た時、おばあちゃんが用意してくれたエプロンには、かわいいキティちゃんのアップリケがついていました。
皆さん、ご存知ないかもしれませんが、アップリケというのは、お金を出せば売っているものなのです。
買ってきて、アイロンでこう、押し付けると、くっつくように出来ています。
スミレちゃんは、愛情深いおばあちゃんから大好きなキティちゃんをプレゼントしてもらいました。
新入生にとって、お道具がそろうということは、本当にうれしいことなのです。

トコちゃんは、親御さんからそういう愛情の表現を受けることはありませんでした。
職員は、トコちゃんに何が好きかと聞いたそうです。
すると、お花だと答えたので、一生懸命かわいい花になるようにと、これを手作りしました。
ご覧の通り、できがいいとは言えません。
けれども、トコちゃんは、このエプロンを本当に大切にしました。
一緒に洗濯を干す時には、こうして、この花のところをそっと撫でて伸ばして、しわがつかないようにしていましたから。
きっと、トコちゃんには、これが職員から受けている愛情の証だったのでしょう。
お金では買えない、世界にひとつだけの宝物。
トコちゃんは本当の幼い少女でしたが、それに気付く能力がありました。
それだけに、自分が置かれた境遇を正しく判断することもでき、本当に本当に、辛く悲しかっただろうと、今でも思い出すたびに涙が浮かぶのです。

会長。
もしお許しいただけるのなら、これから日本中に展開していく「おらほの家」のマークを、この花柄にしていただけないでしょうか。
自分の家でなくても、いつもいられなくても、自分を愛してくれていると確信できる場所があれば、人は生きていけると教えてくれたトコちゃんの思いを伝え続けるためにも。
どうか、お願いします。」

会長は手にしていたワイングラスを静かに置くと、今日子の方に両手を差し出した。
今日子はその手に、かっぽう着をそっと載せた。
受け取ったまま自分の目の前でアップリケを見つめた会長は、赤い花に額を押し当てた。
そしてすっと視線を新吉にめぐらして言った。
「はからうように。」

新吉は黙って頷いた。






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