「俺は研究には向いているが、人をまとめるとかいうことにはとんと向いていない。
自分のことをしながら、他の研究員の研究がどうなっているかを気遣い、
その一方で、自分たちのユニットが他に遅れを取らぬよう、使える研究開発をせねばならん。
研究費がどうとか、スケジュールがどうとか、俺の都合ではどうにもならないことばかり、年中なだれ込んでくる。
競争と人間関係と研究との三角関係は、俺をとことん疲れさせた。
けれど、俺にはほかに生きる道はないと思っていた。
なにより、収入がよかったからな。
このポジションを手放すのは愚かな人間のすることだと思いこんでいたのだよ。
しかし、7年前のことだ。
俺はとうとう疲れきって、倒れてしまってなぁ。
ばたりと倒れたわけじゃないんだ。
ちょっとひいただけの風邪がいつまでたっても治らない。
少し疲れただけなのに、夜には熱が8度だ9度だと出るんだよ。
乾いた咳がコホコホと出続けて、夜は眠れず、昼は集中できず、何も食えなくなった。
今日子さんは、そのころ既に教育から福祉の分野に移っていて、もみの木設立を県議会に通すための仕事をしていた。
今日子さんは平気なのだよ、人の上に立つことと、自分の仕事に没頭することを両立できる。
けれど、さすがに具合の悪い旦那がいては、平気とはいかなくなった。
入院でもすれば苦労もかけなかったろうけど、そういう病気でもない。
大事な時だ、迷惑になってはならんと思えば思うほど、具合が悪くなってなぁ。
どうしても、立ち上がれない朝が増えた。
熱は下がらなくなり、咳はとまらなくなった。
しかし、医者は風邪ではなさそうだという。
仕事を休んで横たわっていたある日の昼間だった。
俺は唐突に気付いたのだよ。
人間には、自分にしかできないことがある。」
「自分にしかできないこと?天命とか、そういうことか?」
新吉は尋ねてみた。黙って聞くべきとは思いつつ、この話の先が読めなかったからだ。
「いや、そういうことではない。
眠ること、食うこと、出すこと、病気になること、治すこと、運動すること、何かを感じること…。これらは、他の人に代わってもらうことができないだろう?
誰も俺の代わりに眠ってはくれないし、俺の代わりに薬を飲んで病気を治すことはできないんだ。
俺はね、新ちゃん、研究所のいろいろに気をとられているうちに、この『自分にしかできないこと』をないがしろにしていた、無視していたと覚ったのだよ。
それでは、生きていると言えないじゃないかと思った。
俺は、呼吸しながら死んでいるのと同じだと。
丁度そのころ、今日子さんは県議会を通ったもみの木学園設立の責任者になることが決まった。
きっと、彼女は当分自分のことを棚に上げて、全身全霊でこの仕事に向かうだろう。
いい機会だと思った。
俺は、俺と俺の大事な奥さんの「生きる」部分を担う決意をした。
よい食材を手に入れ、美味い飯を作り、心地よい家で毎晩よく眠れるように。
顕微鏡や白い壁だけでなく、いろいろなものを見て、人と語り、心を動かしながら生きる毎日を手に入れることに決めたんだよ。
ついでに、俺には夢があった。
小さいころからの夢だ。
それが、文筆家だ。
俺はその夢も同時に叶えようと思った。
しかし、本を出版する小説家のような才能も根気もないことは分かっているし、何より本を書くために全てをなげうって没頭しては、研究者時代と何も変わらなくなるからな。
その時、ふと思いついたんだよ。
俺は自分が作ったものに対して、いつも情報がほしかった。
もちろん、リサーチ部だのマーケティング部だのの連中が、いろいろな情報をよこしてくれる。
だがなぁ、違うのだよ。
俺が心からほしかったのは、こちらがほしい情報ではなく、使う人が発する、生身の声だった。
だから、もし俺がそういう声を拾い集めて、ほしがっている奴らに届けたらいいのではないかってね。
さっき、聞いたろ?どこの研究員が、ドライヤーで白髪を染めようと考える?
しかし、できたら世紀の大発見だ。
ああいう声を、俺は掘り出したかったんだ。
今日子さんに相談すると、二つ返事で賛成してくれた。
あの時は、本当にうれしかった。
なぁ、今日子さん、俺は心から感謝したよ。
君が、収入より俺の考えを尊重してくれたことにね。
どうやら、世の中は、そういうふうにはなりにくいようだからね。
俺はきっぱり研究所を辞めた。
運よく、うちには公務員がひとりいるからね。
安定収入には事欠かない。
しかも、俺のそれまでの収入で、さして贅沢もせず、仕事ばかりして暮らしていたから、退職金も合わせたら、けっこうな小金持ちになったのだよ。
その小金を使って、この家を建てた。
俺と今日子さんが心地よく暮らすだけでなく、人々がやってきて、言いたいことを言い散らす場所を作ったわけだ。
初めはなかなかモノにならなかった俺の文章も、今では固定客が付いている。
最大の顧客は、あの頃一緒に研究していた仲間たちだよ。
儲かりはしないが、ふたりで食べて行くには充分だ。
このあたりは、野菜も米も、うまくて安いからなぁ。
俺は自分の選択が正しかったと、今では本気で思っている。
毎朝胸一杯に青空を吸い込む。
細胞のひとつひとつに沁み込ませるように水を飲む。
今日子さんは以前と同じように、よく笑うようになった。
くだらないことでも、話し合うようになったしね。
俺はなぁ、わざわざ言うのも気恥ずかしいが、俺の幸せの形はこれだなと思うのだよ。
まぁ、こんな曖昧な仕事では、借金するには信用されないだろうけどなぁ。」
新吉は何ともいいようのない気持ちになっていた。
隆三と今日子は、新吉を挟んで座ったまま、互いの顔をふわりと見つめ合ってニコニコしている。
「隆ちゃん、俺は…」
ふたりが互いの顔から視線をはずし、自分のほうを向くのを感じながら、溜息とともにつぶやいた。
「俺は、今のお前たちのように妻の顔を見たことがないかもしれない。
そんな記憶がない。
それどころか、彼女が生きている間に、俺は彼女の名前すら、呼んだことがなかったのだよ!」
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