やじろべえには、新吉たち以外にも、思いのほか客がひっきりなしに入ってくる。
新吉にしても、最近の不景気は深刻で外食産業は閑古鳥と聞くにつけ、やじろべえも客が減って困っているだろうと思っていた。
しかし、客の中には新吉が見覚えている常連も数多く、相変わらず愛されているらしい。
もちろん、フルコースなど頼む客は滅多にないのはいつものことで、オムレツだグラタンだといっては、誰もが一口頬ばっては笑顔になる。
かあさんはくるくると動き回り、料理を運んでは食器を下げ、テーブルを拭き、客を案内している。
夫婦ふたりで切り盛りする店はそれほど大きくはない。
それでもかあさんだけでは運びきれなくなると、奥からオーナーシェフである主人が自ら料理を手に厨房を出てくる。
「かあさん、今日の生姜焼きは格別美味いね。」
「かあさん、このサラダに入っている見慣れない葉っぱは何?」
客はまるで家族に話しかけるように気軽に、忙しいかあさんを呼びとめる。
彼女はそのひとつひとつに、手際良く、愛想良く、おもしろおかしく答えていく。
いつ見ても、胸が喜ぶ光景なのだ。
すっかり興に乗った会長は、オフィスで見せた過去のトラウマなど微塵も見せず、今日子を相手にあれこれと子育て談義をしている。
花音嬢は元気にしているだろうかと、新吉も時折思い出す、あのキュートなお嬢様の父でもある会長は、大コンツェルンの総帥としての立場とは別に、娘がいつまでもパパを好きでいてくれるにはどうしたらいいのかなどと、庶民と変わらない悩みを抱えるのを知って、新吉はなにか嬉しくなってしまった。
こういう人柄だから、ミドリとスミレのことに悩む自分を拾い上げ、長野にやってくれたのだろう。
寒い冬に雪遊びをしてきた少年のように頬を染めた会長が、熱心に語り続けている。
かあさんが自分を会長に推挙してくれたのだと知った衝撃で耳が音を捉えなくなっていた新吉は、ふと現実に引き戻され、会長の声を静かに捉え始めた。
「私はね、今日子さん。物心ついたころから帝王学といういうのかな、一般的な子どもとは違う教育を受けましてね。
多分、歌舞伎とか能とか、そういう伝統芸能の世界に似ているのではないかと思うのだが、『型』を教わるわけです。
こういう時にはこう振舞う、こういう時にはこう答える、対処する。
王族と会った時はこうする、工場の工員とはこう、街の主婦とはこう、ってね。
初めは意味も分からず、ただただ覚える。
とにかく、覚えるだけで必死です。もちろん、学業もありますからね。
ところが、成長するにつれ、今度は反抗心が芽生えてくる。
自分はこうしたいとか、人によって接し方を変えるのはおかしいとか。
しかし、若いうちはそれが許されなかった。
修行といって、早くから海外に出され、家族からひとり離れて必死に『型』を身につけてきたのです。
どこか、批判しながらね。
けれども、歳を重ね、経験を積み、様々な苦境や思いがけない出来事に見舞われ、それを乗り越えるたびにわかるのです。
あの『型』は、知恵なのだと。
私と松重を守る知恵の表現が、私に一子相伝されたあの型なのだということが身に沁みて分かったのです。
そうして、その型をおしみなく授けてくれたのが、私の両親の、私に対する愛の証だったのだとね。
父の死に目には会えず、エキセントリックな母とは今も離れて暮らしていますが、私は住んでいる場所の距離が愛情の距離だとは思いません。
もしも、あの教えがなかったら、私は一日も、この職を全うすることはできなかったでしょう。
一方で、それが分かった今だからこそ、私は「型破り」に挑戦したいのです。
単なる事業戦略ではなくて、これは私の魂の根幹に関わることなのです。
それがあなたにお任せしたい「おらほの家」の、正体なのですよ。」
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