Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2014年03月


やじろべえには、新吉たち以外にも、思いのほか客がひっきりなしに入ってくる。
新吉にしても、最近の不景気は深刻で外食産業は閑古鳥と聞くにつけ、やじろべえも客が減って困っているだろうと思っていた。
しかし、客の中には新吉が見覚えている常連も数多く、相変わらず愛されているらしい。
もちろん、フルコースなど頼む客は滅多にないのはいつものことで、オムレツだグラタンだといっては、誰もが一口頬ばっては笑顔になる。

かあさんはくるくると動き回り、料理を運んでは食器を下げ、テーブルを拭き、客を案内している。
夫婦ふたりで切り盛りする店はそれほど大きくはない。
それでもかあさんだけでは運びきれなくなると、奥からオーナーシェフである主人が自ら料理を手に厨房を出てくる。
「かあさん、今日の生姜焼きは格別美味いね。」
「かあさん、このサラダに入っている見慣れない葉っぱは何?」
客はまるで家族に話しかけるように気軽に、忙しいかあさんを呼びとめる。
彼女はそのひとつひとつに、手際良く、愛想良く、おもしろおかしく答えていく。
いつ見ても、胸が喜ぶ光景なのだ。

すっかり興に乗った会長は、オフィスで見せた過去のトラウマなど微塵も見せず、今日子を相手にあれこれと子育て談義をしている。
花音嬢は元気にしているだろうかと、新吉も時折思い出す、あのキュートなお嬢様の父でもある会長は、大コンツェルンの総帥としての立場とは別に、娘がいつまでもパパを好きでいてくれるにはどうしたらいいのかなどと、庶民と変わらない悩みを抱えるのを知って、新吉はなにか嬉しくなってしまった。
こういう人柄だから、ミドリとスミレのことに悩む自分を拾い上げ、長野にやってくれたのだろう。

寒い冬に雪遊びをしてきた少年のように頬を染めた会長が、熱心に語り続けている。
かあさんが自分を会長に推挙してくれたのだと知った衝撃で耳が音を捉えなくなっていた新吉は、ふと現実に引き戻され、会長の声を静かに捉え始めた。

「私はね、今日子さん。物心ついたころから帝王学といういうのかな、一般的な子どもとは違う教育を受けましてね。
多分、歌舞伎とか能とか、そういう伝統芸能の世界に似ているのではないかと思うのだが、『型』を教わるわけです。
こういう時にはこう振舞う、こういう時にはこう答える、対処する。
王族と会った時はこうする、工場の工員とはこう、街の主婦とはこう、ってね。
初めは意味も分からず、ただただ覚える。
とにかく、覚えるだけで必死です。もちろん、学業もありますからね。
ところが、成長するにつれ、今度は反抗心が芽生えてくる。
自分はこうしたいとか、人によって接し方を変えるのはおかしいとか。
しかし、若いうちはそれが許されなかった。
修行といって、早くから海外に出され、家族からひとり離れて必死に『型』を身につけてきたのです。
どこか、批判しながらね。

けれども、歳を重ね、経験を積み、様々な苦境や思いがけない出来事に見舞われ、それを乗り越えるたびにわかるのです。
あの『型』は、知恵なのだと。
私と松重を守る知恵の表現が、私に一子相伝されたあの型なのだということが身に沁みて分かったのです。

そうして、その型をおしみなく授けてくれたのが、私の両親の、私に対する愛の証だったのだとね。
父の死に目には会えず、エキセントリックな母とは今も離れて暮らしていますが、私は住んでいる場所の距離が愛情の距離だとは思いません。
もしも、あの教えがなかったら、私は一日も、この職を全うすることはできなかったでしょう。

一方で、それが分かった今だからこそ、私は「型破り」に挑戦したいのです。
単なる事業戦略ではなくて、これは私の魂の根幹に関わることなのです。
それがあなたにお任せしたい「おらほの家」の、正体なのですよ。」






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「かあさん、できましたよ!」
店の奥から豊かなバリトンが響く。
「はい!」
首をわずかにまわしただけで答えると、胸の前で指を組み合わせたまま、お兄様と呼んだ相手を懐かしげに見上げていた目は、一瞬にして懇願に染まった。 
それで、兄にはすべてが察せられた。

「ではマダム。席に案内を。」
会長が言うと、桜色の口元をほころばせて、かあさんは会長を店の一番奥の席にいざなった。
「ご予約席」と書いた札が置いてある4人がけの席で、会長は紳士らしく、自分が座る前に今日子からコートを預かり、椅子を引いている。

もとより余計なことを軽々に口走る権藤や新吉ではない。
新吉の驚愕は、顔のパーツをいくつか地面に取り落としそうなほどだった。
あの、気持ちの良い若妻が、会長の妹だと????!
プロポーズに行き合わせたのを縁に、これまでどれほど通い、愚痴を聞いてもらい、気付きをもらったことだろう。
それが、会長の?

新吉と会長秘書が今夜の待ち合わせについて相談していた時だった。
「星川さん、席を予約できるだろうね?」
一度仕事に戻ったように見えた会長から声がかかった。
「はい。そのようにしようと思っていたところです。」
「では、私たちのテーブルから少し離れたところに、もう4人分席をとっておいてほしい。」
「はい。承りました。離れたところが?」
「ああ。その方が気楽だろうからね。」

その意図が今ようやくわかった。
その離れた席に、二人のキュートで切れ者の秘書と、後藤佑輔氏がつこうとしている。
「後藤。みっともない。涙をおふきなさい。」
ドアの前で立ち尽くしている佑輔氏に、かあさんはそう言って、彼の意識を取り戻したのだ。
「1年以上のご無沙汰でございます。あの夜を境に、一度もお戻りくださらず、ご連絡先も存知あげず、後藤がどれほどご心配申し上げたか…。」
「小さな男だこと。ばあやを見習いなさい。」
戸の脇で、そんなささやきが交わされていたのだ。

店の戸がからりと開いた。
白い帽子を脇に抱え、白い手袋をはずしながら入ってきた初老の男性を、こっちこっちと秘書たちが手招きしている。
仕切りが合って新吉たちには顔が見えなかったが、きっとリムジンの運転手なのだろう。
「ああ、来たようだ。」
その姿を見て、会長が説明した。
「倉橋は私の父の代からの運転手でね。公用・私用を問わず、いつでもどこへでもついてきてくれる。そろそろ若い者に交替するように言うのだが、頑固で聞き入れてくれなくてね。たまには労をねぎらってやらねば。」

この店は「やじろべえ」という純和風の名前をした洋食屋だ。
調度も純和風で、椅子もテーブルも蕎麦屋のような作りをしている。
こういう店に足を運ぶことなどないのだろうと思い、失礼にならないかと新吉は心の底では心配の海が波打っていた。
しかし、なんとも言えない展開になった。
会長は極めてご機嫌麗しく、予め頼んであったコース料理とワインがかあさんの手で運ばれてくるたびに、細かな説明を頼んでは会話を楽しんでいる。

そうして二人を並べてみると、美男美女の二人は確かに似ていて、10歳以上の歳の差がありそうだが、兄妹といわれれば、頷かざるを得ない。
片やブランドの服に身を包み、洗練された雰囲気を店中にふりまく男と、それほどの化粧気も飾り気もなく、笑顔を最高のアクセサリーにしているマダムが、互いに臆することもなく言葉を交わしているのは奇観ですらある。

「おい、権藤。もしかして会長は…。」
「ああ、酒には強くない。実は笑い上戸でね。今夜はますますご機嫌になるぞ。」
向かい合わせに座った同期が、額を寄せてささやき合う。
向こうのテーブルでは、料理に舌鼓を打っている秘書たちを尻目に、佑輔氏がかあさんの後姿を目で追いかけ続けている。

「佑輔は妹と乳兄妹でね。」
新吉の視線の先に気付いたらしく、今日子と何やら話していたのをふと止めて、会長が言い出した。
「とにかく花亜が命だった。世の中には他にもたくさん女性がいると気付いていないのではないかというほどに。でも、代々我が家に仕えてくれている家柄だけに、その一線を越えてくることは決してない。それが気楽でもあったのだろう、花亜もずいぶん頼りにしていたようだ。実はね…。」
会長は意味ありげな視線を新吉に止めた。
「あなたのことを教えてくれたのも、佑輔だったのですよ。どうやらそれは、花亜の入れ知恵だったというわけだね。」






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リムジンなどという乗り物に、自分が乗ることになると、庶民の誰が思うだろうか。
初めてではないらしい秘書たちや権藤氏は楽しげに談笑を続けているが、新吉と今日子はどこを見ても物珍しく、視線を彷徨わせてばかりいた。
窓から外を眺めれば、輝くばかりのイルミネーションが天の川のように流れて行く。
美しいわねと今日子がため息交じりの声を出す。
月並みな表現だが、他に言いようのないこともあるものだ。
リムジンは都会の大通りを滑るように進んで行った。

新吉もよく知っている大通りで、リムジンは乗客を降ろした。
ここから先に入って行ってしまうと、胴体の長いリムジンが抜け出せなくなるからだ。
「佑輔。」
会長が小声で若い執事を呼んだ。
「心得ております。」
佑輔氏は運転席に何事か声をかけると、すぐに戻ってきた。

「さて、星川さん。ついてまいりますよ。」
会長の軽い口調にどぎまぎしながら、新吉は足をあの店へと向けた。
東京に来た時は毎回立ち寄ると会長には言ったが、前回、今日子の採用について相談に来た時には、とうとう立ち寄りそびれてしまった。
ひと月ぶりくらいだろうかと思いつつ、見慣れた引き戸の前に立った。

自動ドアなどではない。
新吉が引き戸に手をかけようとした瞬間、黒いかまいたちがヒュッと脇を過ぎたので、新吉は思わず手を引いた。
目を見開いて見直すと、かまいたちの正体はダークスーツに身を包んだ佑輔氏だった。
まるでドアを開けることに全人生を賭けているかのような勢いで飛びつくと、その勢いはどこへやら、優雅な動作で静かにドアを引き開けた。

「いらっしゃいませ!」
耳慣れた、鈴を振るような澄んだ声が聞える。
新吉が店内に入ろうとしたが、そこに佑輔氏が棒立ちになっていて入れない。
怪訝に思い、声をかけようとすると、なんと佑輔氏は瞬きも忘れた丸い目から、大粒の涙を滂沱と流している。
あんぐりとあけられた口は、閉じることをわすれてしまったようだ。

客を迎えに寄ってきたこの店の看板娘…いや、看板妻も、白い指をそろえた両手で口元を覆い、絶句している。
「どうかしたか?」
渋滞を縫って、会長が店内に足を踏み入れた。
途端に、看板妻の白い指のすき間から、小さな悲鳴が聞こえた。
呆気にとられた新吉の目の前で、彼女は静かに深呼吸をひとつ、それから、腕を下ろして胸の前で組むと、なつかしげな微笑みを浮かべ、小さな声で呼びかけた。
「お兄様!」






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待ち合わせ場所に最初に戻ったのは新吉だった。
あれこれ迷うのが苦手なので、買い物は目に着いたものをふと選ぶ。時間はかからない。
次に出てきたのは権藤氏だった。
先ほどはビシッとスーツで決めていたが、今はゴルフウエアを着ている。
新吉が、肩ひじの張らない街の洋食屋だから、その重役臭がプンプンするスーツはやめたほうがいいと、耳打ちしたからだろう。
新吉も腹がせりだして、スミレの格好のクッションになっているが、権藤氏も相当のものだ。
新吉は、毎週末ゴルフにでかけていてこの腹はどういうことだ?と胸の内で悪態をつきながら、ふと思う。
自分の腹の中身は間違いなくあり余った脂肪だが、こいつの腹の中は、これまでこいつが飲み込んできた、表ざたにできないいろいろなのかもしれない…。
そう思ってから改めて見ると、なんとなく布袋さんの腹のようにも思われて、ちょっと手を合わせたくなる。

「お待たせしてしまって申し訳ありません!」
明るい声がかかって振り返ると、今日子が小走りに寄ってきた。
左手にふたつ、右手にひとつ、誰もが知っているデパートの大きな紙袋を提げている。
気付けば、別れた時に着ていたはずのクリーム色のスーツではない。
コートはカシミヤのロングのままだが、黒くていかにも柔らかそうなニットの襟元が見え、下もパンツスタイルになっている。
裾が膝下くらいしかない。これは何と言うのだろう?
いかにも新しげに光をたたえた足元は、ロングブーツだ。
おやおや、オシャレなことで。

「お色直しですか。こちらも結構ですなぁ。」
早くも権藤氏が軽口をたたいている。
「気の置けないお店と聞いたので。」
今日子は笑顔で答えている。
答えながら、横目で新吉を睨みつけてくる。
さっき私が転びそうになったことは内緒よ、いいわね??その目が釘を刺す。

最後に登場したのは、二人の秘書を従えた会長だった。
秘書たちは多分、出勤した時の服なのだろう。
松重の会長秘書にふさわしい、かわいらしくも品の良い色合いを着こなしている。
特に、珈琲マイスターの彼女が着ている真っ白のカシミヤコートに新吉は目をとめた。
これはかわいらしい。スミレが大きくなったら、こんな服を買ってやろう。

会長はと目をやると、ジャケットにスラックスの、先ほどとは明らかに違う服装をしている。
が、こちらは着ているものの品質が明らかによい。
すらりと背が高いので、外国の俳優のようにも見える。
こうして集まってみると、自分のスーツ姿がいかにも浮いていると思いつつ、得体の知れない集団となった。

お待たせをいたしましたと、道路のほうから歩いてくる人物がいる。
新吉は、以前会ったことがあるこのダークスーツの男性が、会長の執事の息子…後藤と言ったか…であると、すぐに気付いた。

「お車の用意はあちらに。今日は大人数とお聞きしましたので、リムジンにいたしましたよ。」
リムジン?新吉は慌てて修正を試みようと一歩踏み出したが、もう遅い。
「そうか。では、みなさん、行きましょう。」
会長が厳かに宣言すると、秘書ふたりが遠足に向かう子どものようにはしゃいだ声をたてた。
今日子をエスコートする会長が先頭にたち、集団はリムジンに向かっていった。






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会長や権藤氏とは18時にまた本社前で待ち合わせることにして、新吉と今日子は会社を一度会社を出ることにした。
ビル前の広場に立つ時計台を見ると、もう3時を指している。
1時から話し始めたから、感覚的には30分ほどの短い面談に思われたものの、実際には2時間が経過していた。

新吉は、18時までの間、今日子をどこかで休ませてやりたいと考えていた。
しかし、どこがいいかと思うと、どこも思いつかない。
新吉が東京に持っていた家は、今では社宅として借り上げられていて、他の社員が住んでいる。
いくら旧知の仲とはいえ、人妻をホテルに誘ってひと休みしたらとは言えない。
かといって、そこらへんの喫茶店では落ちつかないだろう。

新吉が広場に張りめぐらされたタイルを見ながら考えあぐねていると、今日子から声がかかった。
「新吉さん。私ね、ちょっと銀座に行って、お買い物して来たいのだけど、いいかしら?」
「それは構わないが、疲れただろう?少し休まなくていいのか?」
「大丈夫よ!東京に来るのは久しぶりだし、もうすぐクリスマスだから、あれこれ見たいの。いい?」

もちろん、新吉には断る理由がない。
銀座は目と鼻の先だ。
春ごろから怪しくなった景気は、この秋口には崩壊が顕在化したと言える。
季節ばかりではなく、人々の懐も真冬を感じつつあるのだが、クリスマスとなると、やはり気持ちは沸き立つものらしい。
「わかった。じゃ、行こうか。」
新吉が銀座方向に向かって歩きはじめると、今日子が笑い声をたてながら制止した。

「やだ、新吉さん。私ひとりで行けるわよ!幼児じゃあるまいし、保護者同伴でなくてけっこうよ。」
一緒に行く気満々だった新吉は、拍子抜けした。
確かにそうだが…
「いや、別に保護者というわけでは…」
「店の外で殿方に退屈そうに待たれていたら、気になって、ショッピングを楽しめないじゃない。じゃ、行ってきます!」
新吉の返事を待たずに軽く右手を上げ、今日子は颯爽と身をひるがえした。
まだ腕に抱えたままになっていたカシミヤのロングコートを、歩きながらふわりと背に回し、腕を通そうとする。

と、コン!と爪先がひっかかったらしく、今日子は大きくバランスを崩した。
いくら見ても足元は平らで、つまずくようなものは何もなさそうなのだが、だ。
おっとっと、とたたらを踏んだ拍子に、羽織り損ねたロングコートの裾を引きずり、反対側の足で踏みつけてしまった。
さらにバランスを崩したのをなんとか転ばずに踏みとどまり、両膝に手を置いて肩で息をしている。
腰を起こすと同時に、地面を右のヒールでカツンとやっつけて、八つ当たりしたところで、新吉が見ていることに気付いたようだ。

「やだ、もー!」
爽やかに笑い飛ばし、何事もなかったように歩きだしたが、 また足がもつれた。
今度は、タイトなロングスカートのせいで、思ったよりも足が開かなかったのが原因らしい。
新吉はこらえきれずに吹き出してしまった。
腹を抱えて、涙がにじむほど笑えて、笑えて、止まらない。
新吉の身体から、会長室での緊張が、小川のようにほどけて流れ去っていく。
今日子はポリポリと頭を掻きながら、今度は慎重に歩いて遠ざかって行った。

ようやく笑いを収めた新吉は、通い慣れた珈琲ショップを目指して歩きだしたものの、ふと、先ほど飲んだ珈琲の味を思い出して、今日はやめておこう、と決めた。
昨年の今頃、スミレに大きなキティちゃんのぬいぐるみを買ってやろうと、探し歩いたことを思い出す。
あの時は、他のお友達の分を買わなかったと叱られて、たいそう恥をかいたっけ。
今年は忘れずに買おう。
スミレと、ミドリと…トコちゃんの分も。
新吉は新吉で、さて何がよいかと思案しながら、今日子とは反対の方向へ向かって歩き出した。






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会長が右手を軽くあげて秘書にサインを送ると、秘書は小さく頷き、静かに消えて行った。
間もなく戻ってくると、大きな銀色のトレイにコーヒーカップが4つ乗っている。
カップは、新吉でも知っているロイヤルコペンハーゲンだ。
白く滑らかな磁器に、シノワズリが漂う青いペイント。
珈琲の色が映える。

面接はこれで終わり、ということのようだ。
シュガーポットやクリーマーも、カップとおそろいの絵柄がついている。
緊迫感漂う面接会場が、テーブルに珈琲セットが並んだだけで、一息に和んだ。

新吉は、ブラックのまま、珈琲を口元に運ぶ。
得も言われぬ香りが鼻腔をくすぐり、思わず深く吸い込んだ。
一口。
「うまい!」
反射的に声を立てると、秘書が嬉しそうに肩をすくめる。
会長の方があからさまに喜んだ。
「でしょう?彼女はコーヒーマイスターの資格を持っていてね。いつも私好みの美味い珈琲を淹れてくれる。星川さんは二度目のはずですが…。」
そうかもしれないが、緊張していたのか、少しも覚えていない。
惜しいことをしたものだと、苦笑が漏れる。

「佐々木さん。」
ひとしきり珈琲を堪能してから、会長が静かに呼びかけた。
今日子はカップをテーブルに戻すと、
「はい。」
すっきりと顔をあげてから答えた。

「ご存知かもしれないが、我が家はどちらかというと女系家族でね。私の両親も、母が直系、父は入り婿でした。江戸時代にはすでに商売をしていた家系となれば、一般の家族の在り方がそのまま我が家にも通用するとは限りません。

私は、母に育てられた記憶がありません。血を分けたのは間違いないですし、毎日顔も合わせました。人生の要所要所では、彼女の意向を尋ねもしました。けれども、「育てられた」とか「愛情を注がれた」とは感じなかった。それでもこうして、大してひねくれもせずに成人し、この仕事をしていられるのは、愛情深い執事一家をはじめ、私を取り巻く大人たちが、私を愛してくれたからにほかなりません。けれど、それを理解するには長い時間がかかりました。」

今日子は黙って聞いている。
その目は、会長だけでなく、会長の周囲をとりまく空気の層までも視界に入れているような、不思議な目だった。

「年の離れた妹が生まれた時、私を母代りに育ててくれていた執事の妻も男の子を生みましてね。妹とその男の子は乳兄弟というわけです。が、私は私だけを見てくれていたはずの母のような存在を、妹に奪われたと感じました。けれども、そういってだだをこねるにはプライドが許さない程度の成長はしてしまっていましたからね。母が母らしくないことは最初から織り込み済みでも、あれは参りました。人生で初めて、さびしいという感情を知った時かもしれません。

そしてね…。」

言葉を切った会長は、何かに気付いたように戸惑いの表情を浮かべ、次いで頷いた。
ひとり合点している会長に、自分の役割を終えてからは新吉同様黙って様子を見ていた権藤氏がからかいの言葉を投げた。
「おや、会長。何やらよからぬことを思いついたようですな。下心が丸見えの顔をしていますよ。」
「下心?そんなはずはないですね。下、ではないですから。」
「ほう。」

ニンマリとする権藤氏を無視して、会長は今日子を見据えた。
「佐々木さん。私はどうやら、あなたにもっと話を聞いてほしいようだ。
あなたは大変刺激的な思想を持っていらっしゃる。
その話を聞きたいと、先ほどまでは思っていたのだが、それは建前で、本当は自分のことを聞いてもらいたいらしい。
どうでしょう、今夜、食事でも。」

今日子は少しだけ目を見開いてから、新吉に視線を巡らせてきた。
自分の雇い主となる人物からの誘いを、どうしたものかと問うている。
新吉は一計を案じた。
「会長。お言葉ですが、今日子さんは今夜、私と食事に行くことになっているんです。権藤も誘って、同い年同士の親睦会をと思っていました。会長はまだまだこの会にはお若すぎますが、いかがでしょう、お招きに応じてはくださいませんか?」

権藤氏は手を打って、会長の答えより先に図々しくも乗り出した。
「それはいい。店の当てはあるのか?ないなら俺が今から…。」
「いやいや、お前が行くとなったら、きれいな女将が迎えに出てくる料亭とかだろう。俺が今日子さんを案内したかったのは、東京の家の側にある、何ということはない街のレストランなんだ。とにかく、料理が美味い。それに若いオーナー夫妻が気持ちの良い人たちでね。孫も大変かわいがってもらった。東京に出てきた時は必ず寄ることにしているから、今夜は今日子さんと是非と決めていたんだよ。それでよければ、お前も来い。」
「その若奥さんは美人か?」
「ああ、とびきり美人だ。ついでに、品が良い。機転が利く。思いやりが息をして歩いているようだ。ああいう女性に俺は会ったことがなかったくらいだよ。」
「ならば行ってやろう。」

「それはご挨拶だわ。」
女性のひとりである今日子が笑う。そして、
「私もそのお店に是非行ってみたいのです。会長様もいかがでしょう。私、お話しの続きをお伺いしたいのです。でも、できれば…」
今日子はそこで辺りを見回した。
「できれば、もう少し緊張感のない場所で。」

あはははと明るい笑い声を立てた会長は、立ち上がって右手を今日子に差し出した。
「わかりました。あなたをこの企画の参謀として採用いたします。では、今夜は就職祝いとしましょう。それでいいか?星川さん?」

今日子も立ち上がり、しっかりと握手をする。
「よろしくお願いします。」
「ただし、ひとつ、条件がある。」
会長は眉間にしわを寄せた。
「もう一度『会長様』と呼んだら、解雇します。なにやら30も歳をとったような気がする。」
「まぁ!」

部屋の隅でぷっと吹き出し、慌てて退室したのは、珈琲マイスターの秘書だった。






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「それでは…。」
会長がようやく声を出した。
「それでは、あなたは、社会を弱体化させる福祉の世界になぜ、留まろうとするのです。矛盾ではありませんか?」
おや、と、新吉は目を上げた。
いつの間にか、新吉は床の絨毯を見つめていて、今日子の声だけを聞いていたようだ。
会長が、いつになく激している。
もちろん、それを垂れ流すほど修行ができていない人物では、この巨大コンツェルンの総帥など、務まるはずもない。
が、新吉にはわかる。
これは、トコちゃんの死のいきさつを話した時とはまた違う、どこか癇癪を起したようなニュアンスが漂っている。
権藤氏もそれに気付いたのか、新吉の目をそっと盗み見てきた。

「私は、それを矛盾でないようにしたいと、思うのです。そのためには、お力をお借りしなくてはならないと。」

会長は、両腕を欧米人のようにあげて手のひらを天に向け、わけがわからないという気持ちを表した。
今日子はそれを見ると小さく微笑む。
新吉は、自分が心底信頼を寄せてきた佐々木今日子という女性の本質を見失いそうになって、めまいがしてきた。

「私は、この数年、児童福祉の世界に身をおきながら、常に、『私があるからこの家庭は壊れたのだ、私の在りようを間違えば、なお家庭や社会が壊れるのだ』と自分を戒めて参りました。
福祉は、あくまで福祉です。
家庭や社会の機能を一時的に肩代わりするだけのこと。
それは、そうすることで、社会や家庭にその機能がなくてもよいと認めることであってはならないと思うのです。

一方で、特に子どもたちにとっては、必要な時期に、必要なものが与えられて当然とも思います。
それを社会や家庭が与えられないなら、代わりに与えられる場があり、人がいるのは当然とも思います。
けれども、それは、本来それを子どもたちに与える責任を持っていた人たちが手を抜く理由になってはならないと思うのです。

この複雑なバランスの中で、これまでにない、福祉を実現したいのです。
家庭を強くする福祉、社会を活気づける福祉、そうして、当然、人の心に生きる意欲の灯をともす福祉です。」

会長は、ようやく腑に落ちたようだ。
この女性が見ているものを、ようやく共に見られる場所に立ったのだろう。
「しかし、貴女はすでにそれができるポジションにいたはずでは?」
意地悪な質問を投げかけた。
しかし、今日子は微塵も動じることなく、過激な言葉をやんわりと吐いた。

「これまでにない壮麗なお城を築こうと思ったら、魔女の呪いと因習に縛られながら、古い城の古い材料を再利用して建てるより、ピュアでまっさらな土地に、それまで築城など無縁だった人たちの斬新なアイディアをいただきながら、使われたことのない素材で建ててみる方が、確実に『これまでにない』城になると思いますので。」

一瞬怪訝な顔になった会長は、破顔一笑、声をたてて笑い始めた。






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一目見て、品の良いスーツだと思った。
あと10日ほどでクリスマスを迎える都心は、日が落ちると冷気がキリリと身を引き締めるが、あたりの木々を彩るイルミネーションがいやがおうにも気持ちを盛り上げ、いくぶん気温の低下を忘れさせてくれる。
とはいえ、安曇野から来てみれば、まだ秋口のような印象だ。 
まして、今はまだ昼日中の大通り、曇天の下、枯れ枝が寒々と立ってはいるものの、雪もなく、ストッキングにパンプスの足元は、軽快な音をたててアスファルトを進んで行く。

列車の中で紺の長いカシミヤコートを脱いだ今日子が着ていたのはクリーム色のスーツだった。
だが、ただのクリーム色ではない。
なんともいえない厚みがあるのを、ふと不思議に思い覗きこむと、布の表面にバラの柄が織りだされている。
その柄のところどころに金や深緑、深いピンクに見える糸などが絶妙に織り込まれていて、深い陰影ができるのだ。
それで、布に厚みを感じるらしい。
なんとも美しいものだ。 

今日子の腕のあたりをしげしげと見つめている新吉に気づいて、今日子はフフフと笑うと、「似合わないかしら?」と言う。
とんでもないと答えようとして、自分の挙措があまりに不躾であったことにようやく気づいて思わず赤面してしまった。
今日子のスーツは丈が短めのジャケットと、タイトスカートという部類なのだろうが、足首の少し上あたりまでの長さで、後ろにスリットが入っている。
安曇野のどこにいけば手に入る服だろうか?などと考えることで、気恥ずかしさを誤魔化した。

そのスーツ姿は、今、会長室のハイバックのソファーに凛と収まっている。
権藤氏からのお定まりの質問が終り、いよいよ会長と言葉をかわそうというところだ。
新吉はそばに控えているだけで、「こちらが…」と最初に今日子を紹介した以外は、何一つ声を発していない。
権藤氏を見た時の今日子の驚きは、その日のスーツに似て、実に品の良いものだった。
「まぁ!あの時の。そうでしたか!」
権藤氏はすっかり、今日子が気に入ったらしい。
年齢も同じだから、若いとは言い難いが、しっかりと年齢を重ねた女性の美しさはまた、格別のものがあるのだ。

年の離れた弟のような会長が、満を持して問いかけた。
「佐々木さん。これから、福祉の世界はどうなっていくとお考えですか?あなたの率直なご意見を伺いたい。」
「はい。ますますニーズが増えて行くと思っています。」
「それは、なぜ?」
「福祉が手厚いからですわ。」
「なんと?」
「行政も、民間も、福祉を重要だと考えて、手厚く保護しているからです。ですから、今後、ますますニーズが増えて行くと思います。」
「もう少し分かりやすく説明していただけますか?」
会長は目を丸くしている。

「両親に問題があれば、児童相談所が子どもを匿ってくれます。それでもダメな時は、行政が子どもを安全な施設に措置してくれます。親は、うまく育てられなかった子どもを手放すことができる。好き放題に殴り飛ばしても、警察や行政がそれを止めてくれる。だから、平気でそういう行動を続けられます。自ら立ち止まり、己を律し、弱きものを労われるまで自分を高める努力など、しなくていいわけです。

周囲も同じことです。児相がなんとかしてくれるから、隣近所の者は、どうもあの子はひどい目に合っているらしいと知っていても、関わり合おうとしません。コミュニティの機能は低下する一方です。いまや、行政や法律の力を借りなければ、隣近所と共存することすら難しいのではないかと思われるほどです。

それは、子どもに限ったことではありません。
高齢者も同じです。
人はいつか老いるもの、子どもも老人も共にコミュニティの中に居場所をもっていた時代は終わりました。
今は、お金で居場所を確保できる人だけが、安心して老いられるのではないかというほど、高齢者は自分の居場所に悩んでいます。
 
医療は進歩し、人はずっと命永らえることができるようになりました。
けれども、延びた分の人生の質は向上したのでしょうか?
そこに、手厚いケア・サービスが登場します。
人は、さまざまな生活習慣病を発症し、認知症にかかったとしても、生き続けることができるのです。 
家族と共に、あるいは、コミュニティの一員として存在感を保つという、昔ながらの生き方とは違った人生でしょうが。

私たちは、必要があるから福祉を充実させていると思いがちです。
けれども、本当のところは、どうなのでしょうか。
福祉を充実させるから、家族や地域社会の在り方がますます弱まっているのではないでしょうか。

自己実現という言葉は、今では何物にも代えがたい宝物のように言われています。
かつて、親というものは、自分のことを置いてでも子の幸せを優先しました。
なぜなら、子どもの幸せは大人の責任だからです。
けれども今では、親の自己実現のために、子どもたちが犠牲になる時代です。
もちろん、全員ではありませんよ。

かつては、一つの時代を支えた人が隠居したなら、それを支えるのも大人の責任でした。
いずれは自分が歩く道だからです。
けれども、今は、大人自身の自己実現のために、厄介な介護は邪魔なものになりました。
親の方でも、子どもに頼って子どもの足手まといになるなら、老人ホームに入った方がいいと考えています。
子どもの自己実現は一生かからないと達成できないと決めてあるようです。
幸せに育った子供が大人になる過程で自己は充分に実現され、子や親と豊かに暮らしていけるとは、なぜ考えないのでしょうか。

そうやって、老人ホームは、いつまでも自己実現できない大人を容認します。
自己実現できない大人は、子どもの幸せに責任を持てないばかりか、高齢者を幸せなままにもできません。

この悪循環を断ち切らない限り、福祉はますます必要とされると思います。」

あざといほどの、強烈な思想だった。
それが、落ちついた、どうにも強気とは無縁そうに見える口元から、柔らかな声で語られている。
会長だけでなく、その場にいた新吉も、権藤氏も、重たいボディブローを食らったような衝撃で、言葉を失っていた。






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新吉は、聞いてしまってから身構えた。
本当は戻りたいのよと言われたらどうしようか。
東京からの帰り道、翌朝の電話、昨日の訪問。
ずっと考え続けてきたことなのだ。

君のしたいようにするのが一番だよな、とは言えない自分がいる。
世の中に、こんな仕事に向いている人はゴマンといるのだろうということは、重々分かっている。
けれども新吉は今、どうしても、今日子とこの仕事がしたかった。
だからといって、無理やりにも頼み込み、うんと言わせていいとも思えない。

今日子は、静かに座ったまま、答えない。
暖かそうな白いセーターの下に、明るい花柄のロングスカートをはいて、絨毯に座っている。
足さきに、モコモコとかわいらしいほどのスリッパが見える。
小首をかしげたまま、新吉をじっと見つめている。

やがて、きっぱりとした声が、こう答えた。
「県の仕事には、もう戻らないわ。」
「なぜ?」
体中を安堵が滑り下りていく中で、新吉は問わずにはいられなかった。
「おらほの家は、確かにトコちゃんやスミレも一緒に考えたことが基盤になっている。利用者も高齢者に限らず、利用したい人には利用してもらう。けれど、どうしたって高齢者が多くなるだろう。児童福祉というのか?そちらに関心があるなら、道が違うのではないか?」

今日子は、静かに立ち上がると、新吉の向いのソファーに腰かけなおした。
真っ直ぐに背筋を伸ばすと、ひとつ息を吐いた。
目が、ギラリと輝く。
今日子が本気で仕事をする時の目だ。

「県は、トコちゃんを救えなかった。スミレちゃんも、県のルールの中では守れなかった。」
今日子の言葉は、ずしりと重い。
「私がどれほど頑張っても、あのポジションではトコちゃんもスミレちゃんも助けられなかった。
これから何回、同じことが起きても、きっと同じだと思うの。
だから、私は戻る気になれない。
だいたい、人手不足を職員の努力のみで補わせるしかない仕組みの中で、どうやって理想を追求し続けたらいいの?
努力は、当たり前ではないと思うの。
どういうかたちであっても、報われていいはずではない?
なのに、私は彼らの命を削るような努力に、給料一つ増やしてやれない。
せいぜい努力を認めて労わりの言葉をかけるだけ。
あとは、努力して当たり前って言わなくてはならないの。
その結果が、私が体験したことよ。

私は前に進みたいの。
県にできないなら、他の力を借りてやるまでよ。
松重グループの巨大な資本と信用を背景に、私の理想を形にしてみたい。
トコちゃんにしてあげたかったことを、今度こそ、必要とする子に渡したい。
スミレちゃんを助けた真理さんを首にするのではなく、ボーナスを倍にして感謝したいのよ!」

新吉は、いつしか、思い切り握りしめていたズボンの生地ごと、ブルブルと震えていた。
「ありがとう!」
ほかに、言葉が出てこなかった。



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「隆ちゃんよ。よく、わかったよ。お前の選択の意味は、俺にもよくわかった。」
新吉はうなだれた。
「ミハルが生きている間に、もっとじっくりと見つめておけばよかった。
名前を呼んでやればよかった。
それを、俺ときたら、照れくさくてなぁ。
おい、とか、あの、とか、こらとか。
目が合うと、さっさと逸らしてたんだ。
ミハルは俺を家族に選んでくれた。
お前流に言えば、ミハルの夫としての時間は、他の誰にも代われないはずのものだった。
それなのに、俺は…。」

新吉は、自分が何を言っているのか、もう意味が分からなくなっていた。
言いようのない後悔と、取り返しのつかない喪失感に抱きすくめられ、身動きとれない自分を感じるばかりだった。
以前にも、こんな気持ちになったことがあった。
そうだ、あれはスミレをここに預けて、ひとり東京に戻った晩だった。

「新吉さん。」
今日子の澄んだ声がした。
「ありがとう。」
え?
新吉は顔を上げた。
「私たちに、心を開いてくれて、ありがとう。」
「そんな…」
「いいえ。誰でも、自分をよく見せたいものよ。歳を重ねれば重ねるほど、人に見せたい部分と、隠しておきたい部分とができていくわ。きっと、奥様とのことは、誰にも見せたくない部分だったはず。あなたは今、それを私たちに見せてくれている。私たちは、あなたの本当の友達になったのだと感じるわ。ただ長い付き合いというだけではない、本物の。」

返事のしようがないらしい新吉の顔がゆがむのを見つめながら、今日子は言葉をつないだ。
「ねぇ、新吉さん。トコちゃんが亡くなっても、私が真理さんほど苦しまなかったのは何故だと思う?」
それは、あなたが直接の担当だったからではないからでは?と思ったが、それが答えでないことは明白だった。

「それはね、トコちゃんは私の中で、生き続けているからなの。
私には、トコちゃんにしてあげたかったことが、まだまだたくさんあったの。
トコちゃんが死んでしまって、私はそれを彼女に贈ることができなくなった。
でも、それで終わりではないの。

トコちゃんが生きていたら、トコちゃんだけにしてあげたかもしれないことを、
私は今生きている他の子どもたちに、してあげたい。
そうするとね、トコちゃんがいてくれたおかげで、他の子たちが恩恵を受けるのよ。
それを続けている間は、トコちゃんは私の中で、私と一緒に生きているの。
だから、毎日彼女の声を聞き、身体に触れて、元気な顔を見られなくなったことは寂しくてしかたがないけれど、でも、絆が切れたわけではないの。
私は、そう思うの。」

「それなら…。」
新吉は、確認しないではいられなかった。
「それなら、今日子さん。あなたはやはり、もみの木の仕事に戻りたいのでは?おらほの家の仕事より、本当は、子どもたちの元に帰りたいのではないのか?」






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