Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2014年01月


あれから、真理は時折今日子の家に立ち寄るようになっていた。
相変わらず仕事を始める気にはならない様子だったが、登山には定期的にでかけていた。
そこで撮影した写真が、隆三の目にとまったのだ。
いつの間にか隆三と相談して、新しいデジタルカメラを買ったりしいていたことに、今日子は密かに驚いていた。

「山登りって、そんなに楽しいの?」
ある日、今日子は聞いてみた。
真理がやってきたちょうどその時、優との打ち合わせが終わって、ふたりでミルクティーを楽しんでいたところだった。
真理と優とは、その日以前に、やはり今日子の家で偶然会い、挨拶を交わしていたので初対面ではなかった。

「楽しいというか…。なんだか清々しいんですよ。嫌なことも忘れられそうな感じ。」
「そうなの。今度私も連れて行ってもらおうかしら。」
今日子にとっては軽い社交辞令が7割の言葉だった。
「じゃ、僕も連れて行ってください。黒部渓谷とか白馬連峰とか、もうすごいじゃないですか!」
優が会話に加わった。

「水田さん、登山経験は?」
真理が訪ねた。
「ありません。あ、小学校の遠足で、高尾山に登りましたよ。」
「高尾山って、あれは山のうちには…。」
真理が吹き出した。
「それじゃ、いきなり白馬ではキツいかもしれませんよ。」
「そうかな?そんなことないと思いますよ。僕はこう見えて、高校まではサッカーをずっとやっていたんです。」
「へぇ。」
真理の返事は素っ気無かった。

「ミドリさんに聞いてみてくださいよ。彼女、サッカー部のマネージャーだったそうだから、僕のポジションがどれだけ走るか、きっと説明してくれますよ。」
「どこなの?ポジション。」
「サイドハーフです。」
聞いてはみたものの、サイドハーフがどこかもわからない真理は、話を続けられない。

「そういえば、スミレちゃんの亡くなったパパもサッカーをやっていたのよね。」
場を取り繕うように、今日子が言い出した。
「ええ。フォワードだったと聞いています。キャプテンだったそうです。それで今スミレちゃんもサッカーを始めて、フォワードを選んだのだそうですよ。」
「それ、ミドリさんから聞いたの?」
真理は思わず尋ねた。
「ええ。」
「へぇ。随分と立ち入った話をしているのね。」
真理もミドリと優の噂はよく知っていた。

「いつにします?
今日子さん、その日はふたりとも休暇にしましょうね。
長谷川さん…今日子さんが真理さんって呼ぶから、僕も真理さんでいいですか?
真理さん、それで、どんな用意をすればいいですか?」
今日子も真理も交渉のプロに巻き込まれて、あれよあれよという間に3人で山登りに出かける日や行き先、準備の買い物の約束まで決まってしまっていた。






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水田優はまもなく、東京から安曇野に引っ越してきた。
おかしなことに、松重が用意してくれた社宅用アパートを断り、一戸建ての家を借りたらしい。
「車も置きたいし、庭も欲しいし。
実家も戸建なので、地面に足が届かない暮らしはできればしたくないんですよね。」
といって、一人暮らしにはかなり広い家をのびのびと使っているらしい。
まだ27歳のくせに不経済な男だと、新吉はよくからかっていた。

事務所が出来上がっていなかったので、仕事は畢竟新吉の書斎で行われた。
毎日優が新吉の部屋に「通勤」してくるのだ。
専業主婦として家にいるミドリとは2歳しか違わないということもあって、すぐに親しくなった。
もとはサッカー部のマネージャーだっただけのことはあって、年の近い男性とでも少しも臆することなく仲良くなっていった。
新吉は、ミドリの心に同年代の男性に対する恐怖が植えつけられているわけではないことを知り、少なからずホッとしたので、二人の距離が近づくことを微笑ましく認めていた。 

ミドリが運転免許を持っていなかったから、優が運転している車にミドリを乗せて、買い物にでかけることもしょっちゅうだった。
優がミドリの手料理を昼も夜もご馳走になっていることも、周囲の人間なら誰でも知っていることだ。
隆三などは、ミドリちゃんもいい男を捕まえたもんだなどと、積極的に噂を立てていた。

おらのほ家の開所が、翌春4月3日と決まった。
トコちゃんの祥月命日だ。
半年も先のことと隆三はのんきに言うが、もみの木学園の立ち上げにも携わった今日子には、それが「半年しかない」であることが骨身にしみていた。
それでも、頭に血を上らせて準備することを、新吉は決して許してくれなかった。
今日子は退職後、元気を取り戻してからの主婦生活から変わらず、3食の用意をし、掃除洗濯をし、余力で仕事をし続けた。

そういう生活をしてみて、改めて働けることの幸せを思うとともに、ともすれば自分が食べたり眠ったりする時間を削って働いていた日々の異常さを思うのだった。
「ワークシェアリングです。」
新吉に説明を聞いたばかりの時には理解しがたかった。
とことん自分で責任を負い苦労するからこそ仕事の醍醐味があるのであり、誇れるのであって、適当なところで人に分けてしまっていては、働き甲斐がなくなると思った。

が、自分が実際にやり始めると、とても簡単なことだった。
所長の仕事はもちろん今日子がしているが、副所長に内定している優が、今日子と仕事を分かち合っていた。
優は若いが、ひとかどの仕事をやってのける。
ふたりでできる分以上の仕事は請け負わない。
そこが、公立の福祉行政とはまったく違う点だった。

「空きがあるかないか」よりも「必要があれば全て受け入れる」という公の責務は、それはそれで非常に重要だと今でも今日子は思っている。
しかし、もう自分はその世界にはいたくない。
物理的にも経済的にも無理なことを、ひとえに人の努力で解消していく世界には、もう戻りたくなかった。
自分にできることはたかがしれているけれど、その小さなできることで貢献しよう。
今の今日子は、施設長時代には考えもしなかった「新たな常識」の世界で生きていた。
それは、苦労を乗り越えて人に誇れるかどうかで仕事の達成度を量るのではなく、できることは力を尽くし、できないことは互いに力を出し合って価値を創造する、楽しみと喜びの世界だった。






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「もしも、私がその仕事をお引き受けしたとしたら…」
今日子は仮定の話をしただけだ。
しかし、セールストークに長けた二人は、その言葉を聞いてニンマリと笑顔を浮かべた。
その顔を見て、今日子は自分が断らないと思われていることに気付いて慌てた。
 
「いえ、やるとは言っていませんよ。けど、もしもです。もしも私がお引き受けしたら、私の要望も計画に入れていただけるのでしょうか?」
「当然です。」
新吉は即答し、胸を張った。
「何かご要望がおありですか?」

「採用に…スタッフの採用に、全面的に関わらせていただきたいと。」
「お安い御用ですし、それは当然のお仕事の一つですね。
採用について何かお考えがあるのですか?」
今日子は少し考えてから、言葉を選ぶように、ゆっくりと話し出した。
 
「…少ない人数で高品質の仕事をするには、スタッフ同士のコミュニケーションが欠かせないと思うのです。
私は、私を内部告発した人物を未だに知りません。
知りたいとも思っていませんが、残念で悔しいのは、なぜその告発を私に直接伝えてくれなかったのかという点です。
私と会話をしない職員はひとりもいませんでしたから、話すチャンスがなかったとは思えません。
けれど、その人は不満を私に伝えず、県に伝えた。
もしも私に伝えてくれていたら、私の思いを語ることもできたでしょうし、その不満に対して善処することもできたかもしれません。
けれども、私は私にとっての最善を尽くすに終わり、その人のために働くことができませんでした。
それは、とても悔しいことだったのですよ。
けれども、それは私の努力だけでどうにかなったことでしょうか?
私は同じ悔しさを二度と味わいたくないと思いますし、不満を伝えるコミュニケーション力がない人物とはともに働きたくないと思います。
それに、その程度の人物では、新吉さんの要求に応えることはできないでしょう。」

「同感です。何一つ訂正する余地のないご意見です。」
新吉は、ようやく今日子の本音を聞けたことに、内容を問わず、心から信頼感が湧き出てくるのを感じた。
やはり、今日子をおいて、この仕事を任せたい人はいないと確信した。
 
「でも、私ではあまりにも…」
決断を渋る今日子に、新吉は最後の切り札をきった。
 
「おらほの家はトコちゃんが名づけてくれました。
会長は言っています、もしもおらほの家があったら、トコちゃんは命を落とさずに済んだのではないかと。
私はどうしても、トコちゃんが命をかけて伝えてくれたこの事業を軌道に載せたいのです。
お願いします。一緒に、やってください。
第二のトコちゃんを生み出さないために。
あなたしか、いないのです。」

今日子にはもはや、断りの言葉が見つからなかった。 







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「いえ、待遇なんていいんです。そういうことではなくて。」
説明を遮って、今日子は大きく首を振った。
しかし、水田は表情一つ変えずに続けた。
さすが、新吉が育てた営業マンだけのことはある。

「いえ、大切なことですから、どうかお耳を。
給与は、この程度を考えております。月給制です。
多分、先のお仕事の1.3倍ほどかと思われます。
賞与は年2回。こちらは松重のルールによって支払われます。
それから、勤務日数ですが、ローテーションを前提に、週休3日といたします。
一日の勤務時間は朝9時から午後6時まで。1時間の休憩は数えませんので、実働8時間です。」

「は?週4日の勤務に、今までの1.3倍の給料を支払うと?」
今日子は狐につままれたような顔をした。

「そうです。そのかわり…」
「そのかわり、スタッフには少人数で高品質のサービスの提供を求めます。」
優の言葉を新吉が引き継いだ。
「これは、慈善事業ではありません。私たちが考えるデイサービス事業とは、利用者さんに自由と健康とプライドを売る商売です。」
「商売…。」
「そうです。私は物産の人間です。福祉のことはわかりません。でも、会長も私も、多くの人々に、自分の尊厳を損なうことなく、自由で健康な人生をエンジョイして欲しいと考えています。『おらほの家』は、そのためのエネルギーを売る場所です。家庭の代わりでも、病院の代わりでもない。」

今日子はだんだん、新吉の言おうとしていることが分かってきた。
「住むべき家があり、ともに暮らす家族がいる。信頼できる医者がいて、そのままでも別に生きていくことに支障はない。そういう人々が夢を持ったとき、夢はあるけれどもどうしたら叶えられるかわからないと思ったとき、ここに来てほしいのです。」
いつの間にか新吉は、ビジネスでしか使わない言葉とリズムで、今日子に向き合っていた。

「夢というのは、まだ実現していない可能性のことです。帰りに寄り道してケーキを食べるのを楽しみに今日一日を働くなら、ケーキは夢です。ハワイ旅行を楽しみに数ヶ月を働くなら、ハワイ旅行も夢です。医者になりたくて一生懸命勉強するなら、医者は夢です。夢を持つということは、今が不完全であることを受け入れるということだと思うんです。」

今日子は頷いた。
確かに、夢を生きるということは、夢が叶っていない今は不完全だというのと同じだ。
不完全な毎日を許容することが、夢を持つことの本質なのだ。

「でも、夢を叶えるまでの間には、何かしらあるものではありませんか?分かり合えない同僚とか、厄介な書類とか、理解しがたい課題とか、無能な上司とか。」
新吉は優を見てわざと顔をしかめてみせてから笑った。
「そういうものに気をとられて夢を忘れそうになったとき、そもそも夢を持てず、持ちたいと思ったとき、自分にはできるのだということを思い出してもらえる場所、それがおらほの家でありたいのです。」

「ですから、実働4日ですが、あと1日は、スタッフが夢を追う時間です。自分が豊かで健康な人でなければ、最高のサービスを提供するなんてできませんからね。なによりスタッフが率先して、生活をエンジョイし、健康で自由で尊厳ある毎日を送って欲しいと考えています。」
なるほど、そういうことかと今日子は納得した。
前職の1.3倍が、世間の標準で高いかどうかは分からない。
けれども、福祉職としては、たいへんな高級の部類に入ることを今日子は熟知していた。
その高い給料は、高い志を掲げて挫けない人に対して支払われる対価なのだ。






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新吉の説明はこうだった。
もともと『おらほの家』計画は、松重コンツェルンの新規事業として、全国展開を目論んでいる。そのテストケースとして、条例が政令指定都市よりも比較的ゆるやかな安曇野から始めようというものだった。
事業内容が固まるにつれ、プロジェクトチームが組まれた。
法務、財務のスペシャリストを筆頭に、新吉のアイディアに会長の夢を載せたものを、そのチームが形にしていっていた。

当初、新吉は当然自分が初代所長になると考えていた。
しかし、事業が進めば進むほど、自分が一事業所の長として縛られてしまうことは、その後の展開に大きな支障になるように思われた。
運営が軌道に乗ってから交代するのももちろん考えられるが、軌道に乗せるまでの様々ないきさつを知っている人間が安定するまで運営を続けることのほうが、双方にとってメリットが大きいと思われた。

しかし、そうなると人選が難しい。
新吉の思想を十二分に理解し、福祉分野に精通していて、かつ経営手腕のある人間など、そうそういるとは思えなかった。
新吉が事業構想をまとめるにあたり、参考にした施設のリーダーに幾人かあたってみたりもしたが、一笑に付された。
すでにできているものを引き継ぐならまだしも、すでに重責を担っている人物に、まだ形もないものに賭けてくれという話は、松重の名を出しても聞き入れてはもらえなかった。

今日子が不本意な形で退職したと聞いたとき、新吉には棚からぼた餅、濡れ手に粟の大儲け、とんでもないビッグチャンスが転がり込んできたと思った。
所長の席に今日子が座ってくれれば、なんの憂いもなく自分は次の事業所にかかりきりになれる。
これ以上の人材はいないと思った。

聞けば、トコちゃんのことが原因で引責させられたらしい。
しかし新吉には、この事業計画の名付け親になってくれたトコちゃんが、一番必要な人を必要な場所に連れてきてくれたとしか思えなかった。
疲れからか気落ちか、ほぼ寝たきりのように過ごしている様子を隆三から聞くにつけても、新吉は説得を焦らず、機を待った。

とはいえ、自分の思いとは裏腹に、ミドリのことで、自分が東京なり長野なりにずっと居続ける必要があるかもしれない可能性も、新吉を迷わせた。
それならば、次の事業展開を他の者に任せて、自分が所長でいることのほうがいいのかもしれないと思うからだ。
このあたりのやり方は、会長から一任されていた。
私情とビジネスの間で、新吉は揺れ動き続けた。 

しかし、ミドリとスミレが同居を始め、二人が安定した日々を送ることができることが確かになった今、新吉は本来の営業マンの血が騒ぐのを抑えられなくなった。
もとは世界を駆け回ってきたのだ。
もう一度、日本中にこの事業を展開させるために駆け回りたい。
男のロマンというものだと、新吉は思った。
残された時間は少なかった。
松重にも定年がある。

「一緒に、やっていってくれませんか、今日子さん。」
新吉の真剣な様子に心を打たれた今日子だったが、その夢を後押ししたいという思いとは別に、もう厄介事に巻き込まれるのはゴメンだわという気持ちも同居している。
今日子が返事をしないのを見て、水田優が膝を乗り出した。

「待遇面の説明をさせていただきます。まず給与ですが…。」







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長野の秋は早い。
東京が残暑だと騒いでいるうちに、すぅっと涼風がたち、朝晩のひんやりが増して夏の花が姿を消し、たちまちススキが勢力を伸ばす。

新吉から今日子に、家に来て欲しいと、やけに改まった声で電話があったのは9月も末のことだった。
スミレがもみの木学園を退所して新吉とミドリが暮らす家でともに暮らし始めてから1ヶ月が過ぎていた。
転校の必要がなかったので、スミレはそのまま元気に通学している。

なんだろうと思いつつ、言われた時間に訪ねてみると、2階から降りてきた新吉の後ろに、見たことのない青年が立っていた。
それが水田優だった。
「水田です。優しいと書いて『すぐる』と読みます。けど、全然優れていません。」
それが最初の挨拶だった。
「松重からこちらの仕事専属の社員として派遣された第1号でね。もともと僕の部下だったんだよ。出世頭だと思っていたのだが、自分からこの仕事をしたいと志願したらしいんだ。」
新吉が言い添えた。

話の展開がわからず、黙って見返している今日子に、優が語りかけた。
「世界の松重物産ですから、やりがいはあるし、ステータスは高いし。
でも、何か、こう、こっちのものをこっちに売って、書類書いてっていう仕事に魅力を感じなくなってしまったんですよ。
それに、尊敬していた部長がこちらの仕事に抜擢されていなくなってしまって。
聞けば大変面白そうなので、是非僕も連れて行っていただきたいと、社長に直訴しまして。」
「まったく、丹精込めて仕込んだ青年が、あっけなく仕事を捨ててこっちに移ってくるなんてね。」
「捨ててないっすよ。こっちの仕事も物産と変わらないと言ったのは部長じゃないですか。」
「あの〜。」
今日子がようやく割って入った。
「それで、私に何か?」

新吉はその声を受けて、居住まいを正した。
「今日子さん。」
「はい。」
「お願いがあって来ていただきました。」
「はい、なんでしょう?」
「あなたの、これからの人生を、僕にください。」
「はぁ?!」
今日子は絶句した。

「部長、部長、それじゃプロポーズっすよ!」
優がすかさず新吉の腕を小突いた。
「あー、いや、誤解しないでくれ。これはヘッドハンティングです。」
「ヘッドハンティング?」
「あなたに、僕が準備を進めている『おらほの家』の所長を引き受けていただきたいのです。」
「所長!?」
今日子は再び絶句した。






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施設内を歩き始めてすぐ隆三と行き会ったふたりは、そのまま連れ立って、歓迎の飾りつけや準備が終わっているのを確認してあるいた。
先程まで味噌餅を丸めていたテーブルや臼もきれいに片付けられている。
かつて体育館と呼ばれていた広い部屋には、長テーブルがいくつも出ていて、白いテーブルクロスがかけられている。
後で味噌餅だけでなく、利用者たちの心尽くしの手料理が所狭しと並べられる予定だ。

玄関も廊下もトイレも、床がピカピカと光っている。
窓ガラスには曇りひとつなく、遠くの山並みがそのまま見えた。
「いいねぇ。」
「はい、いいですね。」
今日子と新吉は顔を見合わせて頷きあった。

隆三がみんなと一緒に休憩しようというので、いつもの活動部屋に行ってみた。
少し前までリハビリをしていたトメさんとマリアンヌも今はお茶をすすりながら休憩していた。
別のテーブルでは、真理とミドリ、スミレ、幸吉じいさんが一緒にお茶を飲んでいる。
何を話しているのか声高な笑い声を響かせているのを見て、今日子はふと微笑んだ。
「水田君はいいお嫁さんをみつけて、幸せよね。」

唐突な今日子の言葉に一瞬目を丸くした新吉は、すぐに笑顔になって頷いた。
「本当に。幸せな若夫婦を間近に見られるというのはいいもんだねぇ。」
「あら、いやだ。ジジくさい。」
軽口をいったものの、今日子も気持ちは同じだった。

真理は今年で40歳になる。
スミレは13歳。
17で母親になったミドリももう30歳だ。
水田君はミドリの2歳上で32歳。 
同い年の新吉・隆三・今日子は58歳。
いつの間にかみな歳を重ねていた。

「水田君の嫁取り物語は、おらほの家の語り草ね。」
「あははは。まったくだ。あの都会生まれの若造に、あんな根性があったとはね。」
隆三も請け合った。

「あ〜!マリアンヌ、リハビリ終わった?お願い、数学教えて!」
スミレは席を立つと、マリアンヌに駆け寄った。
「いいけど、後にしたら?」
「いやだ!今日は楽しいことだけで終わりたいから、宿題なんか先にやっつけたいの。」
「まぁ、素晴らしい心がけね。スミレちゃんは偉い!」
相変わらず褒め上手のマリアンヌは東大医学部出身の才媛だ。
中学1年生の数学を教えるなど、焼き餅をひっくり返すより簡単なことだ。

幸吉じいさんがトイレに立つと、テーブルには真理とミドリだけになった。
二人で何事か言い合うと、コトコトと笑い続けている。
「まったく、子育て上手な旦那だからって、幼い息子を旦那に抱かせたままお茶なんか飲んでる場合かね?」
昔気質の隆三は気に入らないらしい。
今日子は3人分のお茶を用意して席にかけると、あの秋のことを思い出していた。






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「今日子さん、準備完了だと思います。点検お願いできますか?」
事務室に残っていた今日子を呼びに来たのは水田君だ。
腕に3歳ほどの小さな子供を抱いている。
「わかりました。新吉さんは?」
「廊下で庭を見ていました。あ、いますね、そこです。」
「そう。じゃ、見回ってきますね。あらあら、寝ちゃったの?」
「そうなんですよ。パパの腕の中はベッドと同じとでも思ってるんでしょうかね?」
大して苦に思っているふうでもないので、今日子はそのまま子供の頭を撫でると、事務室の外に出た。
「じゃ、戻ってくるまでお留守番お願いね。」
「了解です!」

相変わらず気持ちの良い青年だ。
初めて会った時は27歳だったから、もう32になるはずだ。
水田君も「安曇野 おらほの家」の立ち上げメンバーの一人だ。
今日子はいずれ所長職を水田君に譲りたいと考えている。
その前に、いいパパになったことを、今日子は心底嬉しく思っていた。

新吉は窓からミドリたちの様子を見ていたようだ。
中学生になったスミレは、かつて愛情遮断性低身長の診断を受けていたなど誰も信じないだろうと思うほど、スラリと手足の長い、背の高い少女に育っていた。
彼女の父親も背が高いスポーツマンだったらしい。
その血を引いたのだろう、スミレは小学校高学年から地域のサッカーチームに入った。
そこらへんの男の子顔負けのプレーを連発する、凄腕…いや、凄足のフォワードだ。

低学年のうちから、真理が登山に連れ歩いたので、足腰の強さは言うまでもなく、忍耐力がある。
それ以前に経験した様々な人生のスパイスは、スミレを魅力的な少女にしていた。
ただ明るいだけの浮かれた子供ではない。
かといって、無邪気さを失った、小生意気な娘にもならなかった。
その裏に、ミドリの献身的な母性の存在があることはもちろん言うまでもないが、新吉の形に見えない努力がどれほどあったか、今日子はつぶさに見てきていた。

「新吉さん、最後の点検をお願いしますって、水田君が。」
「そうですか。まぁ、大丈夫だと思いますが、見てきましょうか。隆ちゃんは?」
「さあ?」
「直したいところがあったら、隆ちゃんに頼もうと。ま、見かけたら一緒に行きましょう。」
新吉の方針で、おらほの家では、職員も利用者も、互いのことをファーストネームで呼び合うことになっていた。
職員と利用者が対等であることという理念が、こういうところでも形になっていた。
基本的にはしっかりと守られているこのルールの例外が2つだけある。

ひとつは、かつて松重物産での部下で、新吉がおらほの家の仕事を始めた時に志願してついてきた水田優を、新吉と今日子だけは「水田君」と呼ぶことだ。
水田の方も、長野に来てしばらくは新吉を「部長、部長」と呼んでいたが、その都度言い直しをさせられているうちに、なんとか「新吉さん」と呼べるようになった。それでも「なんだかすごく妙な気がするんですよ。大丈夫ですかね?」と今でも確認を怠らない。
新吉と今日子の方は、一度「水田君」で始めてしまったので、どうしても「すぐるくん」には直せなかったのだ。

もうひとつの例外は、幼なじみである隆三と新吉が、相変わらず「新ちゃん、隆ちゃん」のままであることだ。
今日子だけは「今日子さん」にできたが、男二人は生まれた時からの付き合いだ。
いまさら変えようもなかったのだろう。






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「はは、はははは。」
真理が乾ききったわざとらしい笑い声を立てた。
「お呼びじゃないってことね。」
それを聞いた今日子は何も言わず、一度ドアの中に入っていった。

真理はゆっくりと立ち上がり、膝についたわずかな砂をパンパンと力いっぱい払い落とした。
白いスニーカーのつま先の前を、アリが1匹ウロウロと通っていく。
「バ〜カ。」
勤勉なアリに八つ当たりをしていると、ドアが再び開き、今日子が涼しげな茶色のサンダルを履いて出てきた。
手には真理のバッグを持っている。

「さ、うちに行って久しぶりにおしゃべりしましょう。すぐそこだから。」
今日子の誘いを真理は断りたかった。
完全な敗北感に苛まれた心で、誰かと一緒にいるのは苦痛だった。
だから夕べ断ってしまえばよかったんだ。
私なんて全然いらないじゃない。

結局は母親なのよ。
どうやったって、母親の代わりにはなれないのよ。
なのに私ったら、母親から子供たちの関心を奪おうとしているなんて思ってた。
死んでしまった自分の子供と同じように愛すれば、私は母親以上の存在になれると思ってた。
バカみたい。
バカみたい!

頭が最低の言葉で自分を非難するのを止められないでいる真理を、今日子はなかば強引に引っ張って、自分の家に連れて行った。
隆三は2階の書斎で仕事中のようだった。
どうしても今日仕上げなければならないものがあると言って、新吉の家に行くのも断念したのだ。

真理が連れて行かれたリビングは本当に広くて、明るい色の木目が美しかった。
白い革張りのハイバックの3人がけソファーは、子供がいない家の特権のように悠然と客を出迎えている。
庭に向かっている大きなサッシの脇には、大きな葉の観葉植物が置いてあった。

汗ばんだ体に、エアコンの心地よい風が吹いてくる。
白いソファーに座らせてもらった真理は、大きく息を吐いた。
「アイスティーでいい?レモングラスで淹れたのよ。」
透明なガラスのティーポットと氷が入ったグラスをお盆に乗せて、今日子が戻ってきた。

「おつかれさまでした。」
つぶやくように言いながら、今日子がお茶をグラスに注ぐ。
ダブルグラスの内側に浮き上がるように、薄い黄色のアイスティーが止まって見えた。
手を伸ばさずにグラスを見つめる真理を、今日子は黙って眺めていた。






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「ママ!」
スミレは大きな声で叫ぶように言うと、真理の腕を振りほどいて走り出した。
真理の目の前をスミレが背負った赤い小さなリュックサックが通り過ぎていく。 
スミレの行き先では、玄関のドアが開け放され、はだしのミドリが立っていた。
スミレはそのミドリの胸に飛び込むように抱きついた。

「ママ!ママ!」
大きな声をあげて泣き崩れながらスミレを抱きすくめるミドリに、ゆっくりと新吉も近づいて行き、その二人をそっと腕に抱きしめている。
「スミレ、ごめんね。ママ、元気になったから。もう大丈夫だから。たくさんたくさん、ひどいことをしてしまった。ごめんなさい。」
ミドリは泣きながらも、はっきりと、スミレに詫びている。
スミレの返事は聞えない。

ミドリは顔をあげ、スミレの頬を両手でそっと挟んで上を向かせた。
その顔を覗き込みながら言った。
「スミレにお願いがあるの。おじいちゃんとスミレの新しいこのおうちに、ママも一緒に住ませてほしいの。もしもスミレが嫌じゃなかったら、ママはこれからずっとスミレと一緒にいたいの。スミレはどう思う?」

「ママと一緒に住めるの?」
「うん。いいかな?ママはね、だめなママなの。またスミレを怒らせたり悲しませたりしてしまうかもしれない。でも、やっぱりママはスミレといたいの。だから、もっといいママになれるように、これから一生懸命努力してみようと思っているの。それでも、いいかな?」

「うん、いいよ。」
スミレの高い声が響いた。
「私も、そんなにいい子じゃないんだ。ママはスミレがいい子じゃなくてもいい?」
「うん、いいよ。」
今度はミドリの優しい声がする。
「あんまりいい子じゃない同士で、頑張ろうか。」
「うん!」
「じゃ、おじいちゃんに、よろしくお願いしますしようか?」
「うん!」

母と子が、そろって新吉に頭を下げた。
新吉も嬉しそうに目もとを拭っている。
「新しいおうち、見たい!」
スミレのはしゃいだ声をきっかけに、一同は家の中に入っていく。
「あ、今日子おばさん!」
家の中から様子を見ていたらしい今日子にも気付いたスミレが驚く声が聞えているうちに、支えを失った玄関のドアが静かに閉まった。

真理は道路に膝をついた姿勢のまま、閉まったドアを見つめていた。
身体を支えたくなって道路についた右の拳が熱い。
なんだろう、この寂寞とした敗北感は。
スミレは一度も振り返ることなく行ってしまった。
トコちゃんと同じだ。
結局子どもたちはママの元へ帰ってしまう。
自分はいったい何なのだ?
どんなに力を尽くしても、命を削るように面倒を見ても、結局不出来な母親に叶わない自分はいったい?

「真理さん…」
家の中に入ってこない真理に気付いて、今日子が迎えに出てきたようだった。
道路にうずくまる真理の姿を見て、勘の良い今日子は全てを察したのだろう。
かける声もなく、その場に立ち尽くしたままだった。






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