Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2013年11月


「そうか。会いたいか。」
新吉は、静かな声で答えた。
いつ言い出すのだろうと待っていた。
その時にはどう答えようかと考えてもいた。
でも、事前の思考などはるかに凌駕する喜びが、さざ波のように押し寄せてくる。

ミドリと面会できるようになって以来この時まで、ミドリは一度もスミレのことを口に出さなかった。
気にならないのだろうか、心配ではないのだろうかと疑った。
もしかしたら、自分に娘がいることなど忘れてしまったのではないかとも思った。
しかし、担当医からは、新吉から娘や家族のことについて問いかけるのを厳重に戒められていた。
だから、聞けなかったのだ。

「スミレは、長野の施設にいるのでしょう?」
「そうだよ。誰から聞いた?」
「先生から。元気にしているから、心配いらないって。」
スミレが近所の小学校に上がってすぐ、悲しいいじめに遭ったことや、もみの木学園に入園した時のとてつもない葛藤を、ミドリに聞かせるわけにはいかなかった。

「少し大人になったようだよ。それに、背が伸びた。」
本当だった。
食欲の秋を迎えた頃、新吉が会いにいくと、なにやらこぶし一つ分くらい、大きくなった気がした。
気のせいかと思ったが、本当に背が伸びたらしい。

年末年始はミドリと過ごすことが決まっていたので、クリスマスプレゼントを抱えて会いに行った。
背は伸びてもスミレはスミレだ。
未だにキティちゃんを溺愛している。
新吉は、赤ん坊ほどの大きさをしたキティちゃんのぬいぐるみを買い、女の子が喜びそうな包装と大きなリボンで飾ってもらった。
カバンに入らないサイズの派手な贈り物を抱えた50代男性。
列車の中で会う人は、愛人に貢ぎに行くのではないかとおもっているんじゃないだろうか?と想像するのも愉快だった。
愉快に思えるようになった自分がおかしかった。

クリスマスのスミレは、落ち葉のころよりもさらに大きくなった気がした。
顔が、大人びたのかもしれない。

「ママがね、おうちに少し帰って来るんだよ。」
新吉は、そろそろベッドに入ろうか?というのと同じくらいさりげなく、そのことを口にした。
「そう。」
スミレの返事はそれきりだった。
ミドリが入院してから、スミレは一度もママのことを言わなかった。
スミレがママのことをどう思っているのか、こちらもわからない。
真理にも聞いてみたが、わからないと言われた。

新吉は、ふと、この親子にとって何が幸せなのかわからなくなったのだった。

親子とはあんなふうに温かく、美しくいられるものなのに。
会長の奥方とお嬢さんから受けた衝撃は、我が娘親子の悲しみを際立たせた。 





人気ブログランキングへ
 


「カノン、カノン、先程のご挨拶、本当に立派でしたよ。お母様は一番大きな拍手をしてしまいました。」
美しい女性は、そんなことを言っているようだ。
「よかった!平気そうに見えたかもしれないけど、本当はドキドキしていたの。でも、皆様カノンのこと、頑張れって応援してくださっている気がして、勇気がわいたわ。」

カノンと呼ばれた少女は、スミレと同じか、少し年上くらいの年齢に見えるが、あれは某国の王女だと言われたら誰でも信じてしまうだろうと思うほどの風格を備えている。
美しい女性は、王女様を抱き寄せた。
キラキラと光る真っ白い生地のドレスを着た少女の、くりくりとカールした長い髪が女性の豊かな胸に寄せられ、ふわりふわりと揺れている。
抱きしめられ、母を見上げる瞳はブリリアントカットのダイヤモンドだ。
本当に、絵画のような情景だった。

思わず足を止めて見とれていた新吉に気づき、数歩戻ってきた後藤氏は、新吉に尋ねられる前に教えてくれた。
「あれは旦那様の…いえ、会長様の奥様・麗花様と、お嬢様の花音様です。」
後藤氏の声には、心の底から湧き出る泉のように尽きない敬愛の情が溢れている。
「お嬢様はおいくつですか?」
「小学5年生におなりです。」
「ああ、やはり…。」
「何か?」
「いえ、私にも小学生の孫娘がおるものですから。」
「孫娘!?」
後藤氏は目をまんまるに開けて新吉を見た。やはり、信楽のたぬきだ。
「お若いおじい様でいらっしゃいますねぇ。」

お屋敷ではこの夜、大切なお客さま方を大勢招いてのパーティーが催されていたそうだ。
会計年度が改まったばかりだ。
コンツェルンとしては、ここで気持ちも新たに強い決意のもと、再スタートを切る気持ちになるのは大切なことだ。
そういう意味のパーティーであろうことは、容易に想像された。

その席で、どういう経緯かは知らないが、花音嬢が挨拶をしたらしい。
それが毅然として大層立派だったのだと、後藤氏がかいつまんで説明してくれた。
松重グループ直系の血をひくこの少女が、20年後、新吉の孫・スミレと出会い、大きな影響を与えることになるなど、誰が思いつくだろうか。

自慢の娘を胸に抱いている、美しい…新吉にはそうとしか表現できなかった…母親を見て、後藤氏に促されてその場を離れ、歩きだした新吉の胸に、娘・ミドリの様子が蘇った。



大晦日の夜だった。
紅白歌合戦が終り、国営放送は各地の寺の除夜の鐘を聞かせていた。
リビングにしつらえたこたつにふたりで入り、
言葉少なに起きていた。
こたつの上のミカンがツヤツヤとして、年末の気分を盛り上げているような気がした。

「スミレに、会いたいな。」
ミドリがぽそっとつぶやいた。





人気ブログランキングへ
 


「お父さん、なんだかちょっと疲れちゃったみたい。書斎の片付けは、そのお仕事が終わってからでもいいよね。」
ミドリが小さなため息交じりに言いだした。
「横になったらいいよ。帰ってきてから3日間、ずっと掃除をさせてしまったからね。どれ、お父さんが布団かけてあげよう。」
「いいわよ、子どもじゃあるまいし。」
「いいから、いいから。」
新吉は2階にあるミドリの部屋へ一緒に上がり、身体を重たそうにベッドに引き上げて、ゆっくりと横になったミドリの上に、馬鹿丁寧に掛け布団をかけた。

「お前は知らないかもしれないけどね、お前がまだ小さかった頃、お父さんは仕事から夜遅く帰ってくると、必ずお前が眠っているところを見に行ったんだよ。お前は寝像が悪くて、いつも足とか肩とか、布団から盛大にはみだしていてね。お父さんはその布団をかけ直すのが、毎晩の日課だったんだよ。」
「うん、なんだか、知っていた気がする。」

それ以上話しかけるのをやめて、そっと部屋を出た。
ドアを閉める前にベッドの中の顔を振り返ると、すでにコトリと眠りにおちた後のようだ。
こういうところが、まだ本調子ではないのだろうと思われた。



丁度約束の9時、会長のお屋敷玄関にたどりついた。
用件を告げた新吉は、待ち受けてくれていた案内役と共にさらに歩いた。
お屋敷の廊下は長かった。
 
案内に立ってくれたのは後藤という執事で、全身から礼儀正しさと誠実さをあふれさせたような、かといって堅苦しくはなく、どこか信楽のたぬきの置物を思い出させるような愛嬌をたたえた初老の人物だった。
先程お屋敷と間違えて尋ねた家の主人がこの人物なのだろう。
ということは、先程の婦人は、この男性の細君に違いない。

おのぼりさん、という言葉がある。
新吉は、大学進学のために東京に来て以来、40年近い歳月を東京で過ごしてきた。
それだけではない。
海外出張も多かったので、世界の美しいものは様々見てきている。
しかし、会長のお屋敷の様子は、その新吉を典型的なおのぼりさんのように、キョロキョロさせるのに十分なたたずまいだった。

廊下が切れ、直角に左に曲がるところに立った新吉は、後藤氏が直進するので、自分の行き先はそちらと知りつつ、左側に目をやった。
幸せを音にしたらこういうものだろうと言うような笑い声が響いてきたからだった。
見ると、廊下の先にはガラス張りの天井をしたテラスがあり、観葉植物や美しい女性の彫像などが置かれている。
中央には真っ白いテーブルと椅子がいくつか置かれ、さながら地中海のリゾートホテルを思わせる雰囲気だった。

そこに、ルノワールの絵に出てきそうな、磁器のように白い肌をした美しい女性と、頬をトキ色に染めた少女が戯れていた。





人気ブログランキングへ
 


「ごはん作ってもらって、薬運んでもらって、掃除も洗濯もする必要がない毎日って、生きている気がしないのよ。」
ミドリは手にした書類をとんとんと整えていきながら、言葉を継いだ。
「でもね、自分一人の力では、どうしようもないことも多かった。」

そうなのだろう。
ミドリの言葉に新吉を責めるようなところは少しもなかったが、新吉はすまなかったなと言う方がよいのだろうかと考えた。
高校2年生で妊娠したと気付いた時の、彼女の衝撃はどれほどであったろう。
しかし、自分も妻も、そういう彼女の気持ちに本当に寄りそえていたかと言われると、まったく自信がない。
その後、夫から暴力を受けるようになった時もそうだ。
彼女は自分たちにそのことを打ち明け、相談したりはしなかった。 
わずか2年ほど前のことだが、当時の自分が娘の相談相手として選ぶに足りない人間だったと思うと、今でも胸がジリジリと焦げるように痛む。

「私も、哲也も、逃げ場がほしかったんだと思う。」
ミドリの言葉は水の中に真っ直ぐに沈んでゆく鉛の塊のように重い。
「学校も、親も、逃げていいよとは言わない。社会は逃げる者を卑怯だと言うわ。けど、誰だって逃げたくなることはあるし、手も足も出ないって思いこむ時はあるのよ。 そういう時、どこか安心な場所に逃げ出して、愚痴って知恵をもらって、元気ももらって帰ることができたらってね、思うのよ。」

新吉に、娘の言葉は重すぎる。
これが娘ではなく、対等のビジネスパーソンだったらと考えてみる。
それでも、やはり落ちてきた鉛の塊が胸を圧迫するようで、どう受け止め、言葉を返したらよいかがわからなかった。
しかし、それがかえってよかったのかもしれない。
ミドリは引き締まった表情を不意にゆるめて、続きを話した。

「お父さん、そういうことならなぜ自分に話してくれなかった?って思ってるよね。けど、わかってよ。大切すぎる人たちを傷つけるとわかっていて、負担はかけられないよ。」
お父さん、と呼ばれて、新吉はまた言葉を失っている自分を突きつけられた。

「だからね、もうひとつ家があったらいいのにって思うんだよ。自分の家族っていうんじゃないけど、安心で信頼できて寛げる場所。なんかさぁ、仕事に一生懸命な男の人が浮気して、家庭とは別に女の人を囲っているって気持ち、こういうのと同じなのかなぁ。」
ミドリは、どこか寂しそうに微笑んだ。





人気ブログランキングへ

 


家の中から埃が一掃された。
ミドリが帰宅した翌日29日には、一緒にスーパーに買い物にでかけ、玄関に飾る松飾りとお供え餅を買いこんだ。
すぐにも飾ろうとする新吉を制して、ミドリは玄関のドアを水ぶきし、リビングの窓ガラスを磨きにかかった。
カーテンを片っ端から外す娘を手伝って、新吉はカーテン洗濯係になった。

近所の弁当屋で買ってきた海苔弁当が、二人で食べると本当にうまかった。
ミドリの箸を持つ指先が真っ赤になっていた。
きっと、窓ガラスを洗った水が冷たかったのだろう。
黙って温かい茶を入れて、ミドリに差し出した。
ミドリはそれを黙って受け取ると、両手の指をそろえて湯のみを包んだ。
頬に赤味が差しているのは、寒さのせいなのか、それとも心の温かさか。

家の中が清潔に片付くにつれ、新吉はこの家を建てたばかりの頃を思い出すことが増えた。
それを、問わず語りにミドリに話していく。
ミドリはこんなに大人しい子だったろうか?
不機嫌ではない表情で、手を動かしながら、黙って聞いていることが多かった。

掃除しなくていいと、最後まで手付かずにしておいた新吉の書斎を残して、たいがい片付いてしまった30日。
ミドリはどうしても掃除したいと言った。
新年を、何もかも新たな気持ちで迎えてみたいの。
そう言われると、断れなかった。

ミドリが先に立って書斎に入る。
後から続いた新吉は、何か言われる前に、申し訳なさそうに言い訳した。
「今している仕事がなかなかはかどらなくてね。調べることや考えることが多くて、片付けが後回しになってしまったんだよ。」
書斎は、新吉が歩く幅を残して、所狭しと書類や本が広げられたままになっていた。
「いったい、何を調べているの?」
ミドリは心底不思議そうに尋ねた。

別に隠す必要もない。松重ホームの企画を任されてからの経緯を語って聞かせた。
不思議なことに、いつの間にか娘に対して話していると言うよりも、一人の対等の社会人を相手に説明しているような感覚に襲われた。
ミドリは病気の娘だと思って扱っていたが、そうではないのかもしれないと感じた途端に、新吉は心がなんとも言えず軽くなるのを感じた。

一通りの話を聞き終えると、しばらく何かを考えていたミドリが、ぽつりと言った。
「やっぱり、一番の幸せって、自分の力で生きられるってことじゃないかな。」
新吉は、スミレの話を聞こうとする時の姿勢を、この時も自然にとっていた。
それはどういうこと?と言葉で聞き返す代わりに、ミドリがもう一度自分から言葉を継ぐのを黙って待った。
「生きていくって、本当に大変。楽じゃないし、簡単でもない。それでも、生きているってことは素晴らしいって思うようになったんだよね。けど、生きてさえいればいいとも言えない。」

ミドリは書斎の絨毯にそのまま座って、手近な書類をなんとなく手にとった。





人気ブログランキングへ
 


年末、松重物産も年末・年始の休暇に入った。
丁度その時期に合わせて、ミドリに外泊の許可が出た。
薬の効果から落ち着きを取り戻したミドリの回復は著しく、看護婦を伴っての一時的な外出から、ひとりで買い物にでかけたり、公園を散歩したりすることもできるようになった。
気持ちの激しい波が収まり、 時として心乱れる時には、どうしたらいいのかを思い出せるようになった。
これが、回復への大きな道しるべとなる。

人は誰しも、心乱れずに生きていくことなどできない。
正常と、そうでない状態との境目にあるものは、心乱れている自分を見つめるもう一つの目の存在だろう。
もう一つの目は教えてくれる。
さあ、深呼吸をしよう。
今は叫ぶがいい、けれどもその後は嫌な気持ちが湧きおこるかもしれないよ。 
人が見ている、人が傷つくかもしれない、今ここでなくてもいいことではないか?
その目がみるもの、語る声に耳を傾けられるかどうかが、実は「社会性」なのかもしれない。

12月28日、病院に迎えに行った新吉と一緒に、ミドリは帰宅した。
新吉は心の底で恐れていた。
かつて反発を感じた家。かつて彼女を狂気に誘い込んだ思い出の家。母が死んだ家。
そんなところに帰ることが、ようやく静かさを取り戻した彼女の心を再び掻き乱すのではないか。
しかし、帰宅を望んだのはミドリ自身だった。

新吉は、ミドリが妊娠したと言い出した前のごく普通の女子高生だったミドリのことを、うまく思い出せなかった。
それもそのはずで、当時の新吉は仕事だけに生きているようなところがあった。
家庭のことはすべて妻に任せてあり、休日でも接待だのゴルフだのと家を空けて省みることがなかった。
夜はいつも遅いので、娘の姿を見るのは朝食の時が多かった。
時折、大きくなったものだと思うことがなくもなかったが、それは、朝刊が毎朝届くのと同じくらい当たり前のことで、「出来事」ですらなかった。
かわいくなかったわけではない。
けれども、かわいいからこそ、この子が幸福な生活を送れるよう、せいぜい稼ぐのだ、それが自分の役目だと思っていた。

病院を出た二人は、真っ先に、ミドリの母で新吉の妻の墓に詣でた。
ミドリは母の死にも葬儀にも立ち会っていない。
墓の前で、新吉はミドリに初めて、母の最期の様子を語って聞かせた。
黙って聞いたミドリは、静かに長い時間、手を合わせていた。
ミドリが花屋で選んだ花は、黄色が鮮やかな水仙だった。
その花言葉が「私の元へ帰って」だということを新吉が知ったのは、ずっと後のことだった。

家に帰りつくと、ミドリはさして疲れた様子も見せずに家事を始めた。
娘の家事能力がどれほどか、いまひとつ分からなかったのは、新吉が真剣に娘夫婦の家を見るようになったのが、すでにミドリが壊れ始めた時だったからだろう。何一つできないのか?と思う状況だった。

しかし、幼な妻として家を守っていた時期があったミドリの家事は、しっかりとしたものだった。
父の汚れ物が洗濯機の前におかれたカゴに乱暴に投げ込んであるのを見つけると、微笑みながら洗濯機を回し始めた。
その間に、座布団だのマットだのを庭に干して日に当てると、掃除機を引き出してきて、丹念に埃を取り除き始めた。
新吉も、ミドリの視線の先を見て、ビックリするほどの埃がたまっていることにようやく気付いた。
そういえば、掃除機をかけたのはいつだっけ?
自炊はそれなりにしていたが、暗くなってから帰るのをよいことに埃の存在からは目を背け、掃除はいつもテーブルを拭くくらいだった。

ソファーの上に膝と新聞を抱えて座った新吉は、動き回るミドリを黙ってみつめていた。





人気ブログランキングへ
 


新吉は、オーナーの言葉を胸に、歩き慣れた道を自宅に向かった。
腕時計は夜10時を過ぎている。
日中は日差しさえあれば上着があれば十分だが、夜になると空気の冷たさは冬を思わせるものに変わり、コートがなくては身体の芯まで冷えてしまう。
それでも新吉はコートを片腕に抱えていた。
珍しく飲んだスペイン産の赤ワインと、オーナーの勧めで食べた牛ほほ肉を深く煮込んだトマト味のシチューが、充分に身体を温めてくれていたからだ。

口に入れるとほろりと崩れるあの牛肉は本当にうまかった。
それ以上に新吉が感心したのは、その牛肉と一緒に煮込まれていたカブだった。
なんと、近くの畑で老人たちが趣味で栽培している無農薬野菜を買い付けているそうだ。
これまで何度も足を運んでいながら、「やじろべえ」で使われている野菜が無農薬であることや、市場で買われたものではなく、近くで栽培されている…時にはオーナー自身が栽培しているそうだ…とは微塵も気付かなかった。
甘みがあり、しっかりと煮崩れることもなく、季節の味を届けてくれたカブに、新吉は舌鼓を打った。
カブなんて、漬物くらいしか知らなかったが…。
新吉のこの思いを亡き妻が聞いたら、さぞかし文句を言ったことだろう。あなたったら、私がどんなに工夫してこしらえても、少しも気づいてくださらなかったじゃありませんか、カブだって、何度もお膳に上っていたのに!

背の高い街灯に照らされて、真っ黄色に色づいた銀杏が輝いている。
明るい道の上に広がる夜空は、雲ひとつなくて、ところどころに星が瞬いている。
こんな風に星空を見上げたのは、いつ以来だろうか?
故郷・安曇野の星空は、こんなものではなかったと思う。
漆黒に、わずかに紺を混ぜたような夜空には、どれが星座か分からないほどの星が瞬いていた。
見ようとしなくても目に飛び込んでくるそれらの星々の間に、一層濃く星が集まった一続きの流れ…天の川が自分の名字であることに、新吉は言い知れぬ喜びを抱いたものだった。

東京の空はいつでも明るくて、大きく目立つ星以外は、探さないと見つからない。
自分はそれと同じように、会長の意に沿う何かを、いつの間にか一生懸命探していたようだ。
今日をよりよく生きるための何か。
今の自分を幸せだと実感できる場所。
安曇野の香りがする、自分だから考え付くような…自分にしか思いつけないようなアイディア。

明かりが消えている我が家が見えてきた。
いつもは、わずかな寂しさと疲れをカバンと共に抱えて帰宅する。
しかし、この夜、新吉の胸にはっきりと、ひとつの炎が灯っていた。





人気ブログランキングへ
 


「うまい言葉が見つからないんですけどね…」
オーナーは熊のような見た目を裏切らない言葉から話し始めた。
「自分はどうして料理を作っているのかと言うと、その人が死ぬ時に『ああ、あれはうまかった』と思い出してほしいからじゃないってのと、同じだと思うんです。」
それは、新吉にとっても至極当然の話だった。

「自分が毎日毎日料理を作ってお客様に召し上がっていただくのは、今この場で『ああ、うまいなぁ』と思ってほしいからで、まぁせいぜい、ここでうまい飯を食ってもらって、またいろいろ簡単じゃない毎日に出かけていく元気を出してほしいなというくらいだと思う。」
うんうん、と新吉は深くうなずいた。それはそうだろう。
どんなにうまい料理を提供されても、「どうですか、これで最高の味を知ったと満足で死ねますか?」なんて聞かれたら、馬鹿なことを言うなと腹が立つだろう。

「同じ事じゃないですかね。星川様の『終末期ホーム』というのは、よりよく生きるためではなくて、よりよく死ぬためにあるように聞こえたんですよ。」
オーナーはズバリと核心を突いたことが自分でもわかったらしく、一瞬はっと目を見開いた。そして、
「すみません、うまく言葉が選べなくて。」
と、フォローにならないフォローの言葉を付け加えた。

「言葉なんか選ばなくていいよ。本音で話してくれ。」
新吉の後押しを受けて、オーナーは少し背中を伸ばして居住いを正すと、盛大にひとくちワインを飲みこんで、話を続けた。
いつのまにか、愛妻が隣に座り、かわいらしいまなざしを彼に向けている。

「それに、会長さんが何を考えているかなんて、どうでもいいんじゃないですかね。」
「それは…」
今度は新吉が目を剥いた。

「もし、こうしてほしいという形が決まっているなら、手っ取り早く伝えてくれるはずじゃないですか。それが、四字熟語で戻ってくるということは、会長さんにも具体的なイメージがあるわけではなくて、星川様の内側から湧き出て来る何かに期待されているってことだと思うんですよ。会長さんの意を汲んでほしいのではなくて。」
細君が、うんうんと大きくうなずいた。
あっぱれ、わが夫と今にも声を上げそうなほどに目を輝かせ、頬を紅潮させて夫を見つめている。

「なのに、星川様は結局、会長さんの意に沿うかどうかばかり考えてないですか?」
新吉は息を飲んでオーナーをみつめた。
「すでに存在している答えを探すのではなくて、今ここにない何かを生み出してほしいんだと思いますよ。それに…」
オーナーの言葉が一度途切れた時、新吉はすっと息を吸い込んだ。
ようやく呼吸するタイミングを見つけたようなしぐさに、新吉自身が微笑んだ。

「おいおい、まだあるのかい?」
冗談めかした本音が、オーナーをも微笑ませる。
「すみません、どうせですから出しつくしていいですかね?」
「毒を食らわば皿までと言うしな。もちろん、聞きますよ。」
「毒とはひどいなぁ。いえね、これって、安曇野にできるんでしたよね?」
「ああ、そうだよ。」
「星川様のこれまでのアイディアって、全然安曇野の香りがしないなぁと思ったものですから。」





人気ブログランキングへ



 


終末期ホームのどこが本末転倒なのか、わけがわからないまま、新吉はその日の勤務を終えた。
足が自然と向かうのは、食堂「やじろべえ」だ。
ここのオーナーと、最近迎えたばかりの新妻は、新吉が心から大好きだと思える人たちだった。
たまたま通りがかりにオーナーのプロポーズを聞いてしまった新吉は、こっそり用意した祝いの品を贈ったことがあった。
以来、スミレのこともかわいがってくれたこの夫婦のもとへ、週に3日は食事にでかけている。

「赤ワインと、何か肉料理を。」
「おや、星川様、お珍しい。」
かあさんという新妻は、いつも驚くほど丁寧な話し方をする。
かあさんが珍しいといったのは、新吉がワインを注文したことだ。
新吉は、自分からは酒を飲まない。
飲めないわけではないが、敢えて飲みたいこともないというのが本当のところだ。

新吉のほかにいた、最後の客を見送った後、オーナーはもう暖簾をしまってしまった。
かあさんはよく磨かれたグラスに赤ワインを注いでテーブルに運んだ。
「どうかなさったのですか?何かお疲れのように見えますが。」
この女性のさりげない労りには、いつも心和む思いがする。
会社の外では滅多に仕事のことを話さない新吉だが、やじろべえでは時折ぽろりとこぼすことがあった。

この夜もそうだった。
これまでのホームの企画が差し戻された経緯と、昼間の「本末転倒」の意味がわからないことを、ワインを舐めながら語った新吉に、かあさんはあっけらかんと告げた。
「そんなにお悩みでしたら、その会長様とやらに、直接お問い合わせになったらいいのに。」
「いや、いやいやいや、それはいけない。」
思い切り否定する新吉を、かあさんは不思議そうに見つめる。
「なぜですの?」

「実はまだ、会長にはお目にかかったことがないのです。それに、この仕事は、会長が私を見込んでお任せくださった『特命』です。たった3度差し戻されたからといって、音をあげていると思われてはいけない。」
「あら、実際、音をあげていらっしゃるのでは?」
かあさんは、いたずらっぽく笑った。

「意地がおありなのですね、ご自身でこの企画を練り上げたいという。
それこそ、会長様が星川様を見込まれた点ですわ。」
新吉は、その確たる言葉の何かが心の奥にひっかかって、かあさんを見つめ返した。
かあさんは、どこか慌てたように、付け加えた。
「いえ、あの、わたくしも、星川様の特命が達成されるよう、お力添えしたいくらいですわ!って申し上げたかったんですの。」
「それは、ありがとう。こうして美味しい晩ご飯を作ってもらって、充分協力していただいていますよ。」
小さなひっかかりは、瞬く間に消え去った。

「星川様、先ほどのお話なんですけどね…。」
料理を終えたオーナーが、店の奥から、自分もワインを片手に出てきた。
大きな熊のような姿のオーナーは、細君ほどの丁寧さはなく、かえって気楽に何でも話し、聞いてしまう。
「おお、何か考えがあったら聞かせてほしい。」
「いや、考えというほどではないんですけどね、その会長さんが言う『本末転倒』ってのは、星川様が「死ぬ」ところに力を入れ過ぎているんじゃないかってことかと思ったんですよ。」
「死ぬところ?」
新吉は意味が分からないまま、オーナーの次の言葉を待った。





人気ブログランキングへ
 


新吉が2度目の企画書を仕上げたのは、気の早いコスモスが花を咲かせた頃だった。
理想を追うのは素敵だが、会社に損失を与えるわけにはいかない。
競合他社も多く、少子高齢化と言われ始めたこの国で、介護産業は成長分野だ。
松重の名に甘えた安易な企画は慎もうと新吉は考えた。

そこで、新吉が2度目の企画として提出したのは、純粋な高齢者ホームだった。
競合他社よりも若干低料金の利用料を設定し、その範囲内で可能な介護を実現しようというものだ。
自然と、高度な医療を要するような高齢者は対象から外す。
その分、入居時の契約金として500万円ほどを申し受けるほかは、毎月居室料と食費、その他の費用を前払いで受け取る。
これならば、会社に損失を与えることはそれほど多くないと思われた。
料金設定を誤らなければ、利益もあげられるだろう。

慎重に立てた案だったが、会長からは再び「再考」の朱文字で戻ってきた。
今度はメモが四文字添えてあった。
「首鼠両端」
読み方も意味も分からなかった新吉は、かつての部下だった男性から国語辞典を借りて、四苦八苦しながら調べた。
しゅそりょうたん。ぐずぐずと思い迷い、態度を決めかねていること。日和見的。
思わず大きなため息を吐いた新吉は、会長の痛烈な叱咤を感じた。
前回の理想はどうしたんだい?もう捨てるのか?

言われるまでもない。
最も居場所を必要としている人に、それを提供したい。
それも、喉から手が出るほど欲しくなるような形で。

銀杏の葉が黄色く色づき、灰色の歩道に絨毯を敷き詰める頃、新吉は第3の企画を練り上げた。
「終末期ホーム」が、それだった。
人はいつか死なねばならない。
その瞬間を恐ろしいと思うか、やむなしと思うかは、それまでの生き方に左右されるのだろう。
しかし、たとえそれまでの生き方がその人を孤独にし、誰ひとり彼もしくは彼女の死を悲しまない環境にあったとしても、松重ホームのドアをノックしてくれたら、そこには彼らの家族同然になる人々が、両手を広げて待ち受けている。
静かで温かく、安らぎのある住まいと、死後の一切までもに寄りそう人々を提供すること。

しかし、会長からはまたもや「再考」だ。
今度の四文字は「本末転倒」だ。
これは知っている。ほんまつてんとう。物事の大切なことと、そうでないことが逆転しているということだ。
何が?

この答えにたどりつけない。
新吉は頭を抱えた。





人気ブログランキングへ

 

このページのトップヘ