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あなたも幸せ。私も幸せ。

2013年10月


康平君の手術は成功した。
難しい手術で、長い時間がかかったが、腫瘍は取り除かれ、命の危険はなくなった。
しかし、康平君の四肢にマヒが出た。
言葉もうまく出せなくなっていた。
医療ミスではない。
これは、脳の手術をするにあたって予測できる範囲のリスクだったからだ。
あまりにも残酷な結果だった。

脳外科病棟から小児科病棟へ戻ってきた康平君に、幸子はなんと声をかけてよいか分からなかった。
腫瘍のせいで歩けないことはなくなったはずなのに、康平君の足は体重を支えて立つことができない。
一人でモリモリと食べていた食事は、介助を受けなければ口元に運ぶことすらできない。
固形物は飲み込む時に喉に詰まる可能性があるからと、流動食を摂っている。
何より、大人でも考え付かないような聡明な思いを流暢に語っていた口は今、うなり声を出すだけで、言葉にならないのだ。

幸子が初めて手術後の康平君を見舞った時、康平君は幸子をじっと見つめると声もなく、真珠のような大粒の涙をボロボロとこぼした。
幸子は、その涙の意味を量りかねた。
再会を喜んでくれているのだろうか。
こんな身体になったことを嘆いているのだろうか。
こんな身体にした医者を恨んでいるのだろうか。
運命を呪っているのだろうか。

「お帰り、康平君。」
自分も医師のはしくれなのに、気の利いた言葉はひとつも出てこなかった。

その頃、真吾の方がもっと苦しんでいた。
真吾は詳しく話してくれないが、真吾も何事か、手術前の康平君と話し合い、胸に深く感じたことがあったらしい。
幸子と食事に行った夜、真吾は食欲がないといって、注文したくせにラーメンにはほとんど手をつけなかった。
「僕は、とんでもないことをしたんだろうか。」
「そんなことない。手術は成功したんだし、執刀医はシンゴじゃないし。」
「そういうことじゃないよ。」
珍しく、真吾はひどく苛立った声を出した。

「脳外科的には、あの手術は成功だった。
僕たち脳外科の医者は、手術をしたら終わりだ。
けど、本当にそうなのかな。それでいいのかな。

康平君に会っただろう?
動いていたはずの手が動かなくなり、あれだけ話せていたのに声も出せない。
リハビリすれば、いくらかは回復するだろうとは思う。
けど、麻痺が全部なくなるとは…。
彼の生活の質は、手術前よりずっと落ちることになる。
なのに、僕はこれからも続く彼の生活には無関係なんだ。
彼の生活の質を落とした責任者の一人だというのに。
僕は、どうやって康平君に責任をとったらいいのだろう。」

大学病院で働くことの意味は、高度な治療を施すことと研究にある。
研修医が終わっても大学病院に勤め続けることを選べば、臨床のほかに、康平君のようなことにならない手術の方法を研究することもできるはずだ。
しかし、真吾はいずれ、松本になる父の病院を継ぐことになる。
長野に東京と同じくらいの技術を持った脳外科医がいてもいいじゃないかと思っていたが、康平君の存在はその思いに大きな疑問を投げかけていた。







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有田病院の院長は幸子の義父なので、幸子も院長室には何度も訪れていた。
しかし、院長専用の仮眠室があることは知らなかった。
案内されて入ってみると、「仮眠室」とは名ばかりで、ちょっとしたホテルなみの設えがしてある。
真吾の手を借りて横になってみると、低反発のベッドの感触は高級ホテルそのものだった。
義父もそれほどこの部屋を使用しているわけではなさそうで、シーツもパリッと糊がきいている。

もう行かなくちゃ、とすまなそうにいう真吾に手を振って部屋から送りだすと、真吾はそっとドアを閉めて診察に向かった。
急ぎ足に遠ざかる足音はすぐに聞えなくなった。
よほど防音がよいらしく、もう何の音も聞えない。
ふと、ひのきの香りがするような気がして、幸子は肘をついて上体を起こし、豆電球のようなオレンジの明かりがついた部屋を見回した。

「あ、ライチョウ。」
それは、体長30センチほどの木彫りのライチョウだった。
長野に来て、幸子が好きになったもののひとつだ。
まるまるとしたお腹に太い足、きりりと持ちあがった首に小さな頭。
ひのきの香りは、このライチョウから漂っていた。

それを確認すると、もう一度身を横たえた幸子は、思っていた以上に簡単に眠りに落ちた。
夢を見た。
康平君だ。康平君と最後に話した時を思い出しているんだ。
幸子はそうと分かりながら、夢に身を委ねた。

「ねぇ、ユキちゃん。お願いがあるんだ。」
手術の前日、お見舞いに行った幸子が部屋から出ようとしたとき、康平君にこう言って呼び止められた。
「マリアンヌをもらってくれないかな。」
「マリアンヌ?」
「そう。うちで飼っている白文鳥なの。かわいいんだよ!」
「白文鳥。どうしてマリアンヌなの?」
尋ねた幸子に、康平君は信じられない言葉を聞いたといわんばかりに眼をむいて、あきれ顔をした。
「ユキちゃん、知らないの?『南の島のマリアンヌ』だよ。」
「ごめん、知らない。何それ?」

「アニメ。マリアンヌってお金持ちの女の子が、船で世界一周旅行をしている途中で遭難するんだよ。家族と離れ離れになって、無人島に漂着するの。そこで親切なサルとかヤギとかに助けられて、サバイバルするんだよ。」

なんだ、その荒唐無稽なストーリーは!
親切なサル?ヤギは家畜じゃないのか??どうやって人助けをするの?
お金持ちの女の子がサバイバルって、現実味ないなぁ。

「僕さぁ、一人っ子だから、妹がほしかったんだ。
マリアンヌみたいなかわいくて明るい子が妹だったら、僕すごくかわいがるんだけどな。
でも、なかなか妹できないし。
だから母さんに頼んで、文鳥飼ってもらって、マリアンヌって名前つけたんだ。」

アニメのストーリーに文句を言っている場合ではなかった。
そんな大切な文鳥を、どうして幸子に託すのだろうか。

「僕が手術をしたら、母さんも文鳥の世話を忘れてしまうかもしれないし、ユキちゃん、実家から通っているって言っていたでしょう?それなら世話もできるかなって思って。
それに、僕が元気になったらまた返してほしいんだ。」
「わかったわ。じゃ、預かるね。うちでもインコを飼っているから、世話は任せて。」
康平君は、なんともいえない嬉しそうな顔をした。

「ユキちゃん、ホントに優しいね。僕が大人だったら、ユキちゃんにプロポーズするんだけどな。」
「小学生は守備範囲じゃない。」
「じゃ、次に生まれ変わったら、僕とケッコンしてくれる?」
「未来のことはどうでもいいんじゃなかったの?」
「あ、忘れてた。」
「じゃ、明日の手術、頑張ってね。シンゴにも全力を尽くせ!って言っておくから。」
「うん。ユキちゃん、ありがとう。」

それが、康平君と最後にかわした言葉だった。








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