Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2013年10月


好物のラーメンと餃子でお腹を満たした二人が帰宅すると、愛犬のジョンがのそりと立って幸子に飛びついた。
ジョンは足が長くて背が高い。立ちあがると前足を幸子の肩にかけた。頭は幸子の上にある。
黒と茶が混じった毛に、だらりと垂れた耳。大きくて優しい目をした大きな犬。
ジョンは幸子が東京から連れてきたゴールデンレトリーバーとシェパードのハーフだ。

どういういきさつでその両親が子どもを持ったのかは定かでないが、ジョンはレトリーバーである母の穏やかさとシェパードである父の聡明さを兼ね備えた犬だった。
5頭同時に生まれ、4頭はそれぞれにもらわれていったのに、ジョンだけが最後に残ってしまった。
母犬の飼い主は、ドッグショーでトロフィーをもらっていた自慢の犬が起こした間違いのツケを払う気はなかったらしい。
貰い手がないなら保健所にやってしまおうとしか考えていなかった。
父犬の飼い主はもとより、警察犬の訓練まで受けた優秀な家族がしでかしたたった一度の過ちに対して厳しすぎる、南極に吹く風のような冷たい視線に耐えながら平謝りに謝ったのだから、後は知らないという態度だ。

この話を、たまたま幸子の父が聞きつけた。
日曜の朝食の、ちょっとした話題のつもりで話したのだが、普段は合理的なことにしか興味がない妻と、慣れない激務に疲れた娘が同時に強い関心を示した。
もとより、父は密かに、子どもの頃から犬を飼ってみたいという願望を持っていた。渡りに船とはこのことだ。

とにかく会いに行ってみようということになり、その日の昼には母犬の腹の下に隠れるように眠っている子犬を3人で見降ろしていた。
目を覚ました子犬が小さな体には重たすぎるように見える頭を持ち上げた。
幸子が声をかけた。
「あなた、うちの子になる?」
すると、子犬は言葉が通じたかのようによちよちと家族の方に歩いてきて、差し出された3人の手を順番にくんくんと嗅ぐと、そのまま父の足の間にもぐりこんだ。
子犬が佐川家の一員になった瞬間だった。

「ジョン、あのね、今日はいろいろあったんだ。聞いてくれる?」
妻は思考を整理する時に、決まって横たわったジョンを撫でながら話しかける。 
真吾は邪魔しないことにしているので、二人を残して風呂に入ることにした。
ジョンは常連のクライアントを迎えるカウンセラーのような目をして、ソファーに座った幸子の膝に顎を乗せた。







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「シンゴ。私、決めた。もう一度学校に行って、スミレちゃんのお手伝いをさせてもらえるよう、校長先生にお願いしてみる。今回のことは、私が悪かったわ。自分の立場も誤解してた。

立場の違いは責任の違い。
先生方は自分たちの思い通りに子どもたちを教え育てているけれど、その裏には、きちんと採用試験に合格して、長い歳月、この地域の教育を支える責任を負っていらっしゃる。毎日、長い時間学校に拘束されて、海外旅行だって届け出をしなければ行けない。海外旅行の許可が出るのは、長期の休みの期間だけなんだって。有給休暇で海外旅行は認められないそうよ。そうやって職務に専念する約束をしているから、子どもに自由に教えられるのね。

支援員は少し違う。1年間の契約で、お給料をいただくけれど、採用試験に合格した常勤の先生方とはやっぱり違うの。支援員は名前の通り、子どもや先生方の支援をするのが仕事で、自分が前面に立つのは本来ではないんだわ。

私は教育ボランティアなのだから、さらに無責任よね。交通費程度しか支給されない分、いつでもやめられるし、スミレちゃんが快適なように手を貸すだけ。それでもやってみたい、やらせてくださいと言ったのはこちらの方なんだもの。私のミスはきっと、矢口先生や校長先生の責任になるんだわ。

だとしたら、やり方を変えて、もう一度ちゃんとやってみたい。
このままでは、スミレちゃんに申し訳ないもの。
もちろん、スミレちゃんが受け入れてくれればだけど。」

「うん、わかった。それで、いいと思うよ。」
真吾の声が明るい。
「シンゴ、ありがとね。」
「なに?」
「シンゴがきちんと教えてくれたから、最短距離で考えがまとまったと思う。無駄に迷わなくて済んだのはシンゴのおかげ。それと、康平君が守ってくれたかな。」
「逆の時も頼むね。僕が迷っている時は、道しるべになってね。」
「じゃ、お互いさまってことで。ところで…」
幸子はクツクツと笑い声を立てながら言った。
「ちょっとお腹すいちゃったんだよね。来々軒の餃子定食が食べたいんだけど…。」
「しょうがない。退院祝いといきますか。」

真吾は、言われなければ言い出そうと思っていたお気に入りの定食屋へ、既に向かっているところだった。







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「私を喜ばせたかったって、どういうこと?」
助手席で身体の向きを変え、真吾のほうを向いた時、スミレに噛まれた左腕がズキンと痛んだ。何もしなくても、その傷は疼いて、重く熱く、存在を訴えてくる。だから一瞬たりとも忘れることができない。

「僕はね、康平君は、君に会いたかったのだろうと思っているんだよ。あの日、初めて一人で顔を洗えたあの日、康平君は一人で君に会いに行って、君を驚かせて、喜ばせて、二人でお祝いしたかったんじゃないかなって。」
「お祝い…。」
「そう。命あることのお祝い。」

真吾がなぜそう思うのかを確かめる前に、そう考えるといろいろなことが腑に落ちる。
なぜあんな時間に歩く練習をしようとしたのかは、いくら考えてもわからないことだった。
でも、練習ではなく、目的があったとしたら…。

4年生というのは微妙な年齢だ。
子ども扱いすると怒りを買うことからわかるように、本人はすっかり大人の気分でいる。
でも、知らないことや思い違いはまだたくさんあって、大人の常識の範囲からは飛び出してしまう。
もう少し大人になれば慎重になるようなことでも、根拠のない勇気を出して乗り越えてしまう。

「康平君が僕に教えてくれた最大のことはね、人を枠組みで判断してはいけないってことだった。」
「枠組みで判断するってどういうこと?」
「小学生だから、子供だから、病気だから…そういう枠組みは色眼鏡になる。その人そのものを見ないと、僕たちは大切なものを見落としてしまうと思うんだよ。」

確かに、その通りだった。
康平君は、さまざまな枠組みにはまらない子だった。
この「子」という枠組みにもはまっていない。
彼の個性はいつも輝いていて、言葉にも表情にも行動にも表れていた。

きっと真吾は、康平君が元気なうちから、そのことに気付き、生身の康平君そのものと向き合っていたのだろう。だから、学校の話や、何か未だに幸子に聞かせてくれないような秘密を共有する関係を持てたのだ。
それにくらべ、幸子は今の今になってそれに気付かされるほど、康平君を枠組みで捉えていた。重い病気の子、不運な子、印象深い子、まだ子どもなのに大人びた子…

いや、それだけではない。
康平君のことだけでなく、誰のこともそんな見方で見てきたような気がする。
スミレにしてもそうだ。
幼児の時から劣悪な成育環境だった子、父親を自殺で失った子、前の学校でいじめを受けた子、身体の発達が遅れている子…。
そういう情報は大切で、それを知った上で本人をよくよく見てみることは、理解を深めることに役立つ。けれども、自分は、情報を得たところで満足してしまい、本人にはさして関心がなく、情報に対して自分がいかにアプローチするかにフォーカスを移して、夢中になってきた。
医師をしていた時からそうだったと思う。

「康平君には教えられてばかりだわ。」
自分の思考を説明することはせず、幸子は左腕の傷を覆ったガーゼをそっとはがして、傷口を覗いてみた。
すでに日がくれた道を走る車の中は暗くて、傷はよく見えない。
けれども、フロントガラス越しにリズミカルに差し込む街灯のオレンジの光が、熱気をはらんだ歯型の奥に潜むスミレの叫びを浮かび上がらせた。
「私を、見て!」

幸子は低く唸り声をあげた。







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真吾と昼食をとってから、改めてベッドに横になった幸子は、今度こそ本当に熟睡した。
途中、義父である小林院長が幸子の検温にやってきた。
幸子は義父のお気に入りの嫁だ。
熱が上がっていないことを確認した後も、しばらく温かなまなざしを注いでいたが、そっと部屋を出て行った。
幸子はうっすらと誰かがいることに気付いたが、すぐにまた、眠りの世界に引き込まれてしまった。

「ユキちゃん、ユキちゃん。帰るよ。」
そう言って真吾に肩を揺さぶられて目覚めた時には、すでに外は真っ暗になっていた。
「なんだか、すごくたくさん眠ったみたい。」
「気分は?」
幸子は深呼吸を繰り返した。
「うん。すっきりしていますよ、先生。」
「それは何より。熱もないね。では、退院を許可します。」

病院関係者の駐車場に向かうと、真吾は幸子の赤いトゥデイの方に乗ろうとした。
真吾の愛車である白いハイラックス・サーフがいつもの場所に置いてある。
「車は?」
「僕のは今日は置いて行くよ。君の車がある方が、なにかと都合いいだろうからね。」
幸子から鍵を受け取ると、真吾は迷うことなく運転席に座り、エンジンをかけた。

しばらく無言で帰宅の道を走っていたが、ふと幸子が沈黙を破った。
「康平君は、やっぱり早く歩けるようになって、お母さんを喜ばせたかったのかしら。」
これも、何度も話題になってきたことだ。

康平君の母親から火葬場まで一緒に行ってほしいと言われ、真吾と幸子は同行することにした。
霊柩車の後ろのタクシーに康平君の遺影を抱いた両親が乗り、 親類や幸子たちはその後ろに続くマイクロバスに乗った。

動き出したマイクロバスの窓から見た光景は、今でもどうにも忘れられない。
たった10歳の男の子を見送るのに、町中の人々がみな出てきたのではないかと思われるほどの見送りの列だったのだ。大人も、子どもたちもいる。包丁を持ったままの魚屋や、キャベツを抱えた八百屋、調理服のままのパン屋もいた。みな涙しながら康平君の最後の行進を見送っている。
この人たち全部が、康平君との特別な思い出を持っているのだ。
そんな少年に自分たちが施した医療は、果たして正しかったのか。真吾も幸子も、考えに沈んだ。

「きっと、私のことを喜ばせようとしたのだと思います。」
康平君が煙になって天に昇って行くのを見上げながら、お母さんが話しかけてきた。
「病院や先生方のせいではありません。私が喜びすぎたのです。立てたから、顔を洗えたからと、大げさに喜んだから、あの子はきっと、もっと喜ばせようとしてくれたのでしょう。夜中にこっそり歩く練習をして、驚かせようと。」
母親はもう泣き過ぎて赤く腫れあがっている目頭を押さえていた。

真吾は、ゆるやかなカーブに合わせて滑らかにハンドルを切りながら、幸子の疑問に答えた。
「確かに、お母さんもそう言っていたよね。でも、僕は、あの時康平君が喜ばせたかったのは、君なんじゃないかと思っているんだよ。」
「私?」
真吾がそんなことを言うのは初めてだった。







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トントン、とノックの音がして、真吾が入ってきた。
院長室のソファーでぼんやりと康平君を思い出していた幸子は、それでようやく我に返った。
「起きていたんだね。どう、具合は?」
白い袋を提げた真吾は、院長室の明かりをつけ、カーテンと窓を開け放った。
一気に部屋の空気が入れ替わる。

「うん。少し眠ったら落ちついたわ。」
「熱は?」
「多分、ないと思う。」
「そうか。よかった。でも、もう少し休んで、今日は一緒に帰ろうな。
これ、どう?サンドイッチを買ってきたんだ。
大して食欲ないだろうけど、何も食べないのもよくないからね。
ユキちゃんが大好きな玉子サンドだ。」

そういって取りだしたのは、病院の近くにある、評判のよいベーカリーのものだった。
ようやく気付いて時計を見上げると、午後2時を指していた。
「あなた、いつもこんな時間に昼食なの?」
「いや、今日はちょっと遅いかな。1時まで診察で、そのあと少しやることがあって、それからこれ、買いに行ったりしたからね。」
「そうなの。」

よほど空腹だったのか、真吾は白い袋から次々にパンを取り出すと、机の上に並べ、幸子の動きを待たずにその中の1つを取り上げて、大きな口で頬張った。
「オレンジジュースと、コーヒー、どっちがいい?」
2つの缶を並べて真吾が聞く。
「オレンジ。」
「じゃ、コーヒーもらうよ。」

まるでハイキングに来ているかのように、明るい声の真吾に、幸子は自分の本来の日常を思い出させてもらった。
玉子がたっぷりと挟んであるサンドイッチをひとつ手に取り、口に運ぶ前に幸子は言った。
「康平君のこと、思い出していたんだ。」
「そう。康平君の最後のハイキングも、こんなふうにお弁当並べて食べたんだろうね。」
真吾はさきほど幸子が思い出したていたのと同じ映像を見ていたかのようなことを言う。

「そうだろうね。高尾山なんて、長野にいると山のうちには入らないようなものだけど、康平君にとってはエベレストだもんな。」
「ふふふ。私も聞いていたら、登頂記念のサイン、もらっておいたのになぁ。康平君、なぜか私には学校のこととか友達のこととか、全然話してくれなかったんだもの。」
「それは…。」
真吾は言葉を切って、変な含み笑いをした。
「なに?」
「子どもだと、思われたくなかったんだろうね。」
「子どもだと思われたくないって、子どもじゃない。」
「だからさ、余計にだよ。」

「なにそれ?もう、いい加減、説明してくれてもいいんじゃない?」
幸子はいままでも何度も同じことを尋ねた。
でも、真吾は康平君と約束したからと言って、いつもそれ以上は話してくれない。

「それより、明日から学校どうするの?」
真吾が話題を変えた。
「うん。今、考えているところ。」
「そう。そうだよね。よく考えたらいいよ。僕にできることがあったら力になりたいから、何でも言ってね。」
「うん、ありがとう。」
「それとね、お願いがあるんだけど。」
「なに?」
「学校でのボランティアが決まってから、君はいつもゴキゲンで、僕はすごく嬉しかった。キラキラしている君を見ているとホントに嬉しいよ。でも、少し寂しいんだよね。」
「寂しい?」
「君の幸せの設計図の中には、いつでも必ず僕の居場所も作っておいてよね。」
「なにそれ?」
「だって、いつもいつもスミレちゃん、スミレちゃんってさ。なんか、妬けるよ。」
「バカ。」
幸子はつい、吹き出してしまった。
「バカ?そうでもないと思うんですけどねっ。」
真吾も笑っている。
幸子は自分が座っているソファーから立ちあがり、向かいに座っていた真吾の隣に腰かけた。
そのまま、コトンと真吾の肩に寄りかかる。
「ありがとう、シンゴ。なんだかちょっと、お腹が空いた気がするわ。」







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康平君の葬儀には、両親のたっての希望で、真吾も幸子もそろって参列した。
白衣の替わりに喪服に身を包んだ互いを見て、いつものように交わす言葉もない。
康平君が住んでいた町内の小さな集会所を借りての葬儀だった。
昨夜の通夜にも、小学4年生とは思えないほど、たくさんの参列者があったそうだ。

告別式の焼香と読経が終わり、最後のお別れをと声がかかる。
幸子は、康平君の白い顔の脇に、白いハンカチに包んだマリアンヌの亡きがらをそっと置いた。
「マリアンヌも連れて行っちゃうんだね。大好きな妹だもんね。でも、これなら寂しくないね。」
自分の声に、こらえていた涙が堰を切って溢れだした。

康平君の遺影が中央にある祭壇も、棺の中も、ひまわりでいっぱいだった。
「康平は、ひまわりが大好きだったんです。あの花を見ていると元気が出るよねって。」
母親が、そっと教えてくれた。

合掌して棺の前から離れると、後ろで慟哭が聞えた。
日焼けをした、ショートカットで細い身体の、若い女性だった。
「静江先生、静江先生…」と呼び、母親が女性の肩にすがりついた。
二人はしばらく抱きあって泣いている。
周りにいるのは、静江先生と呼ばれた女性の同僚のようだった。

「静江先生は康平君の担任の先生だよ。」
真吾は幸子を椅子に座らせると、その女性を見つめている幸子に、そっと教えてくれた。
病室に見舞いに来ている静江先生に、幸子はたまたま会ったことがなかったが、真吾は面識があったらしい。

「担任…小学校の。」
「うん。静江先生は大学を出たばかりで、今年から先生になったのだそうだ。とても優しい先生なんだって、康平君、自慢してた。」
「そうなの。私のことはユキチャンで、あなたのことはシンゴで、静江先生には『先生』がつくんだ。」
幸子は、この時、康平君が亡くなってから初めて微笑を浮かべた。

涙の跡をつけたまま微笑む幸子を見続けることができず、真吾は自分の膝に目を落として、小声で続けた。
「最後の入院の前には、康平君はもう車椅子だっただろう。
丁度あの頃、遠足の計画があったそうだ。
高尾山のハイキング。」
「ロープウエイがあるとはいえ、山道に車椅子は厳しいね。」
「そう。だからお母さんは、遠足は欠席すると伝えたそうだ。
身体への負担も大きいからね。
でも、先生はどうしても康平君も一緒に行ってほしいと考えたらしい。
ほかのクラスの担任とも相談して、行き先を変更しようとしたんだそうだ。
都下の遊園地なら、車椅子でも動きやすいところがあるからね。
でも、お母さんは、息子のために行き先を変えては、他のお子さんの経験に悪影響になってしまう、余計に参加させられないとおっしゃったらしい。
そこで、先生たちは考えた。
車椅子に乗らなければいい。」

「乗らなければいいって、歩くのは無理よ。」
「だから、先生たちは交替で、康平君を背負って歩くことにしたんだ。」
「背負って?康平君は少し小柄だけど25キロは超えていたはずよ。」
「まぁ、本格的に山登りをする人のリュックはそのくらいの重さだそうだから、無理というほどでもないかもしれないけど…。」
「それで?」
「そう決めたと子どもたちに話したら、今度は子どもたちが考えた。
先生と康平君のリュックと車椅子を、子どもたちが交替で持ち運ぶと言い出したそうだ。」
「車椅子は置いて行かなかったの?」
「車椅子が使えるところは使って、そうでないところは先生たちがおんぶする。
それを、遠足に行く全員で協力しようということになったのだそうだ。
康平君も、是非遠足に行きたいと言う。彼は意志が強いからね。
みんなからそこまで言われると、お母さんも断れなくなった。
当時は登下校だけでなく、授業中もお母さんが付き添っていたんだけどね、遠足の日、お母さんは列の一番後ろにいてくれればいいからと、康平君が言ったそうだよ。」
「それで、実現したの?」
「ああ。本当に楽しかったと言っていた。エベレストに登る人だって、自分だけの力で登るわけじゃない、僕はまだ子どもなのに、もうこんなにたくさんのサポーターがいるんだから、すごいだろうって、散々自慢された。」

「静江先生、あの細い身体で、康平君を背負って歩いたのね。」
「他の男の先生たちよりも、たくさん背負ったそうだ。
きっと、康平君の人格を揺さぶるような感動を与えたのだと思うよ、あの先生は。
すごいね。それに比べて…」

康平君のお母さんが、ふたりの前にやってきた。
「小林先生、佐川先生、お願いがあります。
火葬場まで、一緒に行ってはくださいませんか。
あの子の骨を、拾ってやってください。」

腰を直角になるほどまげてお辞儀をするお母さんに、二人はだまって頷いた。







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連載の途中ですが、9月の読書記録です。
2013年9月に読んだ本は7冊でした。
池井戸月間継続中です。
もうこうなったら、出版されている限り読みつくそうかと思っているところです。

池井戸作品以外では、親友の勧めで読んだ『ハルさん』が秀逸でした。
ミステリーといえば人が殺され、犯人捜しをするものと思いこんでいましたが、池井戸潤さんのおかげで、そうでもないと知りました。『ハルさん』は、さらに進んで、日常にもミステリーがあるのだと教えてくれます。
また、出勤の電車の中で読むのが半分なので、あまりにもアットホームなノホホン感動ものでは、ヤル気が殺がれてしまいます。残念ながら私の仕事はあまりノホホンとしていないので、「倍返しだ!」くらいのテンションの方がうまくいきます。その点、『ハルさん』はぬるすぎることがありません。
ついでに、父と娘という設定そのものが、私の苦手分野です。が、どこか現実離れしているのに、どこにもいそうなハルさんのおかげで、読み始め1週間は1日1ページしか進めなかったのが、気付いたらどんどん読んでいました。
手に取る本をお探しの方に、ちょっとオススメです。


Hikariの読書記録 - 2013年09月 (7作品)
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幸子が知らせを受けて駆けつけた時、康平君はもう真っ白な布に全身を包まれていた。
すべてが静止した空間に、さらに静止した姿がぼんやりと浮き出ている。
康平君が死んでしまった?さっきまで、笑っていたあの子が??
どうしても信じられなくて、顔にかけられた布をそっとはがし、のぞきこんだ。

その刹那、幸子の背骨の下から2番目あたりの骨がひとつ、だるま落としの駒を飛ばすような衝撃を受けた。
いきなり、両足から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
幸子がよく知っている、ある種の共通した表情を、康平君は見せていた。
康平君は、本当に、死んでしまったのだ。

真吾が駆けつけてきた。
もう帰る時間だったからだろう、カッターシャツにデニム姿で、白衣を着ていない。
「ユキちゃん!」
枕元にうずくまっている幸子に駆けより、肩に両手を置いたまま、真吾も康平君の顔をのぞきこんだ。
幸子の肩に、真吾の震えがそのまま伝わってくる。

そのまま、どれほど経ったのだろう。
パタパタと足音が響き、康平!と叫びながら母親と父親が駆けこんできた。
少し前に面会を終えて帰宅したところへ、知らせが入ったようだ。

真吾は幸子を立たせ、枕元を空けた。
そこへ、母親が飛び込むように入って、康平君の頭を抱き締めた。
「どうして?どうして、こんなことに…。」

ドラマなどで、子どもを失った母がワッと泣き伏す場面がある。
身につまされて思わずもらい泣きをしそうになるが、あれは演出だ。
人は、本当に悲しいことに出会った時、泣くことさえ忘れてしまう。
康平君と、お母さんと、お父さん。
今、この部屋に、三つの悲しい彫刻が並んでいた。

そこから、どうやって病室を出て、どうやって帰ったのかは何度考えても思い出せない。
真吾が家まで送ってくれたということを、後で真吾から聞いた。
そんな夜に限って、家には両親がおらず、真っ暗で無音のリビングに明かりをつけなければならなかった。
そういえば、旅行に行くとかなんとか言っていたようだと、いい加減に返事をしたことを思い出した。

何時だったのだろうか。それも覚えていない。
不意に明るくなったリビングの端には、康平君から預かった白文鳥のマリアンヌがいる。
唐突な人の気配に目を覚ましたのかもしれない。
コトコトと動く音がした。

幸子はマリアンヌのカゴに近づいた。
止まり木にとまったマリアンヌは、いつもと変わらぬ愛嬌をたたえた表情で小首をかしげている。
「マリアンヌ。あのね、康平君が死んでしまったの。」
幸子はマリアンヌにだけ聞えればいいというような、かすれた声で報告した。
「転落事故だったの。なんでそんなことになったのか、まだよく分からない。でも、康平君はもう帰ってこない。それだけは分かってる…。」

マリアンヌは、止まり木とカゴの底とを何度か往復した。
次にひょいと飛び上り、カゴの鉄格子を掴んで、斜めに止まった。
いつもの動きだ。
「分からないよね、そんなこと。マリアンヌには難しいね。」

それ以上、少年が愛した小動物を見つめる気になれず、幸子はカゴを離れて自室に向かった。
リビングの電気をパチンと消した後も、マリアンヌが動き回る気配が背後から伝わってきた。

眠ったのかどうかも分からなかった夜があけ、習慣になった時間に自動的に目を開けた幸子は、着替えすらせずにいたことにようやく気がついた。
仕事はなくなってくれない。
鉛を詰めた袋のように重たい身体を無理やりベッドからひきはがし、階段を下りてリビングに入る。

南向きのリビングには太陽の光が降り注いで、明かりの必要がないほどだ。
両親は当然、まだ帰っていない。
ふと、何か大きな違和感を覚えて、幸子は部屋を見回した。
何かがいつもと違っている。

あ、と気がついて、幸子は磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、マリアンヌのカゴの前に立った。
信じられない光景だった。
白文鳥のマリアンヌは、あのクリクリとした目を閉じ、固く冷たくなって、カゴの底に横たわっていた。







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幸子は、仮眠室にかかった姿見で、自分の全身を映してみた。
鏡を見るのは好きではないし、こんなふうに爪先から頭のてっぺんまで全部見える鏡は家に置いていない。
誰にも漏らしたことはないが、自慢のスレンダーボディだった。
それが今日は、小さなおばあさんのように力なく立っている。

院長室への扉を開けると、義父である院長は不在で、締め切った部屋には静寂だけが漂っていた。
電気も消えており、カーテン越しにうっすらと日ざしが入ってくるだけだ。
その暗さに、ふと、先ほどまで見ていた夢を思い出し、さらに忘れたことがない光景を続けて思い出すのに時間はかからなかった。

幸子は、黒い革のソファーにどさりと腰掛けた。
そのまま肘かけに右肘をつき、手のひらで額を覆った。
眼を閉じると、あの日の光景がリアルに蘇る。

康平君は、事故死だった。

その日の午後、康平君は母親を感動させたばかりだった。
リハビリスペースをたまたま通りがかった幸子に飛びついてきた母親は、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、半ば叫ぶような声で言った。
「先生、見てください!あの子が、ひとりで顔を洗えたんです。ほら、ひとりで!」

見ると、洗面台の前に立った康平君は、両手の平を流れ出る水の下に差し出して、充分に濡らすと、その手を顔に持っていき、ごしごし、とこする動作を繰り返していた。
何度かそれをすると、ゆっくりと右手をのばして、水栓のバーを押し下げた。
水が止まる。
そのまま右手を、脇に置かれたタオルまで移動させた。
落とさずにタオルを掴むと、左手も持ちあげてタオルを広げた。
足は、何の支えもなしに立っている。
リハビリ用に着替えたらしいグレーのスエットの胸元がびしょ濡れになって黒く色を変えているけれど、顔をゆっくり拭い終えた康平君は、ギャラリーを振り返って、いつもの満面の笑みを見せた。

大拍手だった。
理学療法士は康平君に、優勝投手を迎えるキャッチャーのようにとびついて抱きしめた。
看護婦も、他のリハビリ患者も、康平君の頑張りを称えていた。
感動した幸子も、この分ならば、いずれもっと機能が回復して、 自力で歩いたり、もっと自由に話したりできるようになるのではないかと確信をもった。
康平君はタイトルマッチに勝利したボクサーのように誇らしげな、ギラギラと輝く眼をしていた。

事故は、消灯のわずか前に起きた。
ものすごい破壊音がして、ナースステーションにいた看護婦たちはすくみ上がった。
すでに面会時間は終わり、就寝前の服薬も済み、あとは寝るばかりのはずだった。
そんな状況で聞えるはずのない音だった。
音がした方向へ、看護婦たちが駆けだした。
彼女たちが見たものは、ナースステーションから少しずれた位置にある階段の下の踊り場に倒れた康平君の姿だった。
康平君の脇には、ポールが折れまがった歩行器が一緒に倒れていた。

この歩行器は、康平君がリハビリに使っていたもので、康平君が立ちあがった肘に手すりがくるよう調節された、車輪がついた半筒形の台のようなものだ。康平君は、これがあれば2、3歩は歩けるようになっていた。
康平君の部屋は階段のすぐ脇だった。

脳腫瘍の手術をしてまだ1か月ほどの頭を強打していた。
手足に骨折もあった。
すぐに懸命の処置が行われたが、康平君はほどなく息を引き取ってしまったのだ。







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有田病院院長専用の仮眠室で、幸子はみじろぎもせずに熟睡していた。
途中、夫の真吾や婦長が様子を覗きに来ていたことにも気付いていない。
康平君の手術後の様子を夢に見ていた。
今までに何百回となく見てきた夢というより回想だ。

その夢の中で、 今、康平君はリハビリに取り組んでいる。
脳というのは不思議なものだ。
機能が失われても、似たような機能を持つ部分が発達して、また使えるようになることがある。
発達を促すためには、身体を動かさなくてはならない。
それが、リハビリだ。

寝ていて動かさない期間が少しでも長引けば、身体は自分が動けることを忘れてしまう。
身体感覚が薄れると、人の機能は様々に低下する。
定価は認知や意欲といった精神面にまで及ぶ。
だから、可能な限り早くリハビリを始めることは、その人の尊厳を守る行為に他ならない。

康平君も、リハビリに取り組み始めた。
もう一度言葉を取り戻すために、康平君に残された機能を精査した言語聴覚士が訓練計画を立てた。 
もう一度立ち上がって歩くために、理学療法士がついた。

もともと動いていたものが動かなくなり、動いた記憶をとどめたまま、再度動くように訓練する。
ごくゆっくりとしか成果が出ないそれは、言葉にしようがないほどの苛立ちと徒労感を伴う作業だ。
その訓練に、康平君は懸命に取り組んだ。
時に悔し涙を流し、時にうなり声をあげながら、それでも諦めなかった。
「こんなに優秀な患者さん、いままで見たことがありませんよ。」
言語聴覚士も理学療法士も、頑張りぬく康平君に対し、言葉を尽くして誉めたたえた。

幸子は、自宅に預かった白文鳥の「マリアンヌ」の写真を撮り、康平君の病室に貼り付けるようになった。
すでに、力の限り頑張っている康平君に、それ以上「がんばって」などとは言えなかった。
それでも、何かできることはと考えた。
病室に大きめのコルクボードを持ちこみ、毎晩写真を撮っては、時間をみつけて現像に通った。
できあがった写真は看護婦に渡して、コルクボードに貼ってもらった。
キョトンとした表情のマリアンヌ、眠っているマリアンヌ、そのひとつひとつを、康平君はとても喜んで眺めているらしい。

子どもの回復力とはすさまじいものだと思ったのは、手術から2ヶ月もすると、康平君は自力で立ち上がったり、ゆっくり片言ではあるが、言葉を話したりできるようになったことだった。
手の機能も改善がみられ、自分でスプーンを握って食事ができるようになってきた。

「あーあん」
幸子にはそうとしか聞えなかったが、母親は、
「先生、今日、あの子が『母さん』って呼んでくれました!」
と、涙を流して喜んだ日があった。

幸子が白文鳥のマリアンヌの写真を持って病室を訪れたある日には
「あ・い・あ・お」
と康平君が笑顔になった。
これは幸子にも「ありがと」と言いたかったのだろうと伝わった。

康平君は、手術前、幸子に語った通りの人生を生きているのだと、その時に確信した。
手に入らないものを数えて生きるのではなく、今目の前にある、今すぐにできることに全力で取り組む。
長生きをして母さんを喜ばせることはできないかもしれないけど、今母さんを喜ばせる何かをしたい。

本当に、素晴らしい少年だと思った。

不意に、幸子は眼を覚ました。
一瞬自分がどこにいるのか分からなくて慌てたが、仮眠室で眠っていたのだと思い出して、ホッとした。
が、寝起きだからか、身体がぼわっと温かく、頭もどこかはっきりしない。

一度おこしかけた身体をもう一度ベッドに横たえると、自分が康平君のことを思い出しながら眠っていたことを思い出した。
「康平君。。。」
幸子は思わず呼びかけた。
天国の康平君に、私の声は届いているのかしらと思いながら。







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