Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2013年10月


トコちゃんが3歳になった頃、男は何かと干渉してくる祖父母の存在に耐えられなくなった。
建ててもらった家を勝手に売り払い、隣の市へ引っ越した。
もはや、何もできない妻の代わりに家事をすることにもうんざりしていた。
考え違いをしていて家事に価値を見出さないと言うなら、話し合いもできただろう。
家事ばかりではない。何一つ、自分の判断ではできないのだから、男手で娘を二人育てているようなものだ。
しかし、妻の場合、本人の努力ではいかんともしがたい。
そう思うとあまりにも重荷で、金に目がくらんで引き受けたこの結婚を後悔する以外なかった。 

隣の市で借りたのは、木造の安アパートだった。
6軒ほど入る2階建てで、どの家にも貧しげな人たちが住んでいた。
一軒家を売り払ったのだから、相当の金が手に入ったはずだが、トコちゃんの母親には、そんなことは難しすぎた。
男にしてみれば、人目のあるところにこの母子を置いておくのが、せめてもの思いやりだという気がしたのだから、金を惜しんだつもりはなかった。

最近付き合い始めた若い女を連れ、男は逃げた。
1週間たっても、10日たっても、男は帰ってこなかった。
母子はたちまち生活に行き詰った。
飲まず食わずの母子の様子に気付いた近所の人が通報し、警察がかけつけた。

隣の市から、祖父母が呼ばれた。
娘を連れて帰ろうとしたが、娘は頑として聞き入れない。
夫が帰ってくるから待っているのだと言い張って譲らないのだ。
娘を溺愛する祖父母は、とうとう娘の言うことを飲んだ。
祖父母は、娘の家事能力を本当の姿よりもかなり高く見積もっていた。
育てる過程で一切何も教えなかったのだから、 何もできないのではないかという思考には至らなかった。
さらに、祖父母には祖父母で、娘を無理に連れて帰れない事情もあった。

食材をそろえ、日持ちのする菓子などを持ち込み、身辺を片付けてやると、そこまで言うのなら頑張りなさいねと言って帰って行った。
しかし、頑張りがたりなくてこうなっているわけではないので、時間の経過でたちまち元にもどる。
警察は、何度目かの通報に応じた時、児童相談所に連絡を入れた。
そこで初めて、トコちゃんは児相に一時保護された。

トコちゃんはそのまま一時保護と帰宅を何度か繰り返したが、この母親では、養育を続けるのは不可能だと判断された。
祖父母に引き取らせることも検討されたが、とうとう家業の生地工場が不渡りを出して倒産しており、債務の取り立てに追われていた。
児相が何度目かの連絡をとったとき、祖父母は行方が分からなくなっていた。

母親には民生委員がついて、生活の道を探っていくことになった。
トコちゃんは児童養護施設に措置が妥当とされた。
そして、もみの木学園にやってきたのだ。

もみの木学園での生活は、トコちゃんにとっては信じられない天国だった。







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トコちゃんの祖父母は一計を案じた。
工場に出入りしていた卸業の何人かに、娘をもらってほしいと持ちかけたのだ。
これまで、製造するところに力を入れ、売りさばくところは卸に任せきっていた。
家業に、卸に詳しい男を加えることで、再起を図ろうと考えたのだ。
同時に、一生の安泰を娘に与えてやることもできる。

祖父母の打診に応じた男が一人だけいた。
それがトコちゃんの父親だ。
山っ気があるこの男は、生来の人たらしと言っていいだろう。
相手が勝手に信頼を寄せてくるのを、ゲームを楽しむように見ているところがある男だったが、腹に一物の祖父母には、そこが見抜けなかった。
傾きかけたとはいえ、工場主として財産をなしていた祖父母は、大枚の持参金をつけて、娘を嫁に出した。

持参金だけでは不安だったのだろうか、工場の近くに新築の一軒家も建ててやった。
1年ほどは、男も誠実そうに娘を大事にしたらしい。
それで祖父母は安心してた。
将来を約束するかのように、娘は早くも妊娠していたからだ。

しかし、男の見せかけの誠実は、長くは続かなかった。
次第に家に帰らなくなり、出張と称しては遠出するようになった。
もともとセールスが仕事の男のこと、販売拡張と言われれば、誰も怪しまない。
もうすぐ父親になる自覚の表れと、美談にすら思われていた。

しかし、実態は違った。
男は妻の持参金だった金を持って、水商売の女に入れ上げていた。
ギャンブル癖があったことも、祖父母が知らないことだった。
知的障害のある娘の将来を安泰させるために渡したはずの金は、あっという間に消えうせ、借金すら抱えた。

トコちゃんが生まれたころ、その借金が祖父母の知るところとなった。
男は巧妙だった。
祖父母の工場が生産した生地を売ろうとして、詐欺にあったのだと涙ながらに訴えた。
詐欺にだまされた自分が悪い、祖父母に迷惑をかけないため、言い出すことができなかったと言われ、人のよい二人は再びだまされた。
借金を肩代わりしてやり、当座の運転資金まで都合してやった。

男は、その金を持って、件の女と遊びまわった。
トコちゃんの母親は、自分の身の回りのことすらおぼつかず、夫が支度してくれなければ、食事を整えることもままらなかった。
まして、子育てなどできるはずもない。

それでも、男が根っからの悪人ではなかった証拠に、時折は帰宅して、家を片付け、洗濯をしてやり、食事を作って食べさせていた。
そんな環境で育つ方が不思議なくらいだが、トコちゃんは生き延びた。
しかし、そのままでは終わらなかった。







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あと1か月でスミレが2年生になるという、3月のことだった。
マリアンヌこと小林幸子のサポートは9月いっぱいで不要になるほど、スミレの成長は著しかった。
1年1組にもあっという間にとけ込み、トコちゃんとのつながりもあって、友達を増やしていった。
そうなると、学校が楽しい。
学力の遅れも、瞬く間に解消された。
学びの初めに、マリアンヌのようなサポーターを得られたことは、スミレにとって本当に幸運なことだった。
学習は楽しいものだということを、スミレの細胞が記憶して、決して忘れることはなかった。
学習とはどうするものなのか、その方法も。

「スミレちゃん、背が高くなったよねぇ。」
「うん。」
「最初に会った時はトコの方が大きかったのに、抜かれちゃったよぉ。」
「トコちゃんももっと背が高くなるよ。」

二人の会話を聞くともなく聞きながら、真理は二人に覚られないようにため息をついた。
これから、トコちゃんは外出する。
その外出に、真理は行かせたくないのだ。

「真理さん、今日はこれを着て行くね。」
トコちゃんが通学に着て行くいつもの服を指さしている。
「それでいいの?」
「いいの、いいの。」
トコちゃんの胸の内が伝わるような気がして、真理はまたため息をついた。

トコちゃんが初めて学園にやってきた日も、何の飾り気もない服を着ていた。
飾り気どころか、薄汚れて擦り切れ、もうずっと洗濯すらしていないことは明らかだった。
学園が開園したばかりで、真理が最初に担当したのがトコちゃんだった。

トコちゃんは児相…児童相談所で一時保護されていたのが、学園への入所が決まり、送り届けられてきた措置生だった。

真理は、児相のケースワーカーからの引き継ぎで、トコちゃんの境遇を知った。
トコちゃんの母親には、知的障害があった。
どこの教室にも一人くらいはいる、おっとりしていて不器用で、何をやらせてもうまく出来ない子。
トコちゃんの母親は、そんな子どもが大人になった人だった。
現在のような特別支援教育の制度が整う前のことだ。
時代も地域も、こういう子どもの存在を受け入れ、人々の間で暮らしていることに慣れていた。

トコちゃんの祖父母は、トコちゃんの母親を溺愛していた。
自分たちが守ってやらなければ、身の回りのことすらうまくできない我が子がかわいくて、かわいそうで、目の中に入れても痛くないという例えの通り、何でもしてやりながら育てた。
しかし、中学を出る頃になると、娘は高校には上がれないと悟った。
学力が追いつかないのだ。
目が不自由だとか、手足が動かないとかいうのなら理解できたかもしれなかった。
けれども、娘のことは、自分たちの育て方がよくなかったのと、この子が優しくてのんびり屋だからだと思うしかなかった。
誰も、他の答えを教えてはくれなかった。
今も健在の祖父母は、そう語ったと記録に書いてある。
確かに、そういう時代だったのだ。
それに、現在のように、誰もが高校に進学するわけでもなく、中卒で家事手伝いをする女の子は世の中にたくさんいた。
花嫁修業をさせていると言えばよいことだった。
かえって、女性が進学することの方が珍しがられる時代だった。

学校を卒業して、いつも家にいるようになってみると、祖父母は俄然心配になった。
いつまでも自分たちが生きているとは限らない。
丁度、家業の生地製造工場が傾き始めたところだった。
外国からどしどし安くて丈夫できれいな布が輸入されてくる。
受注は目に見えて目減りし、先行きに不透明感が漂い始めていた。








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「スミレさんが発熱でお休みと聞いたので、気になって…。」
幸子が頭を下げながら答えると、その声を聞きつけた真理がベッド脇の椅子から腰をあげて扉までやってきた。
「わざわざすみません。」
真理が頭を下げた。 

真理の後について、スミレのベッドまで行く。
部屋の中はいかにも小さな子どもの部屋らしく、おもちゃやぬいぐるみがあちこちに置いてある。
小学校1年生の女の子が好みそうな小さくて、柔らかくて、かわいらしいものばかりだ。
でも、案外片付いているのは、その数がけして多くないからだろう。

眠っているスミレの枕元には、キティちゃんのぬいぐるみが置いてある。
初めてスミレが学園を訪れた日に、ふたりは友達になった。
平日の昼間にベッドで眠っている友人を、心配しているのか信じているのか、キティちゃんの表情からはうかがうことができない。

「熱はもう、下がりましたよ。でも、本当によく眠って。こうなったら、起きるまで寝かせておくことにしようと思いましてね。」
「はい。私のせいで、こんなに疲れさせて。」
幸子は思わず目を伏せた。
「疲れるって、そんなにいけないことですか?」
「は?」
真理に問われて、幸子は思わず真理の顔を見上げた。
「熱が出て、もう動けなくなるほどまで頑張れるって、健康な証拠じゃありませんか。」
突飛な発想に、幸子には返す言葉が浮かばない。
「人生、疲れもせず、病気にもならず、怪我もしない範囲で生きていたら、それって生きている意味があるのかしら?って思うんですよ。
お医者様には、病気は悪いものかもしれないけど、私は、病気は身体の言葉だと思っています。」
「身体の言葉…」

「熱が出る、お腹をこわす、胃が痛い、腰が痛い、そういうのは全部、きっと身体からのメッセージです。スミレちゃんの身体は熱を出して、『ここは一回じっくり眠ろう』と語りかけてくれているんです。だから、むやみに薬を飲ませて熱を下げなくても、身体が本当に求めることをしてあげたら、熱は勝手に下がってくれます。」
そんな考え方を初めて耳にした幸子は、唖然として、ただ聞くばかりだ。

「熱が出たからと、何も考えずに解熱剤を飲むのは、不満を語る親友の口をふさいで黙らせるようなものです。そんなやり方、親友に対するものではありませんよね?親友なら、話の中身が不満や不安ならなおさら、一生懸命聞いてあげるでしょう?」
「確かに。口をふさいで話すなとは言いません。」
「そうですよね。他人にはできるのに、自分の身体に対してはそうしない人がとても多い。お医者様を信頼するのはいいけれど、自分の身体との対話を他人任せにばかりしていていいのかしら?って、私はいつも思うんです。増して、無視して耳を貸そうともしないなんて、言語道断だわ。
それでも身体は親切だから、もっとひどい症状を出して、分かりやすく語りかけてくれます。それでも無視したらもっともっと症状を重くして、今度こそ分かってほしいと訴えかけてきます。そうやって、身体が必死で語りかけてくれるのを無視し続けているうちに、歩けないほど悪くなったり、命がけになったりする。違いますか?」

幸子は、思い当たることがいくつもあるような気がした。
でも、それで全ての病気を語れるわけでもない気もする。

「身体も心も、過去も今も、全部まとめてスミレちゃんです。彼女はいま、文字通り全身全霊で愛を吸収しています。これからもいろいろなことが起きると思いますが、その全部を愛してあげたいと、私は思っています。」
真理の言葉は、さざ波のように幸子の胸に届き、沁み込んだ。

「はい。私にできることはわずかですが、そのわずかなことを、私も、愛を込めて、させていただきたいと思います。」
幸子と真理はそろってスミレの寝顔を見つめた。
看護学生がそんな二人を見つめている。
そんなベッドの光景を、今日子が廊下からずっと見届けていた。

丁度その時、大きく寝がえりを打つと、スミレが目を覚ました。
あたりに何人も人がいることに気付いたようで、不思議そうに見まわしている。
「あ、マリアンヌ!なんでいるの?」
スミレが愛着をこめた張りのある高い声で幸子を呼んだ。







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「愛という漢字を他になんと読みますか?」
真理は看護学生に尋ねた。
「愛ですか?え〜っと…」
真理は学生が抱えていた紙ばさみを借りると、何か書きつけた。
「こう書いて、何て読む?」
「これは…『まなむすめ』です。」
「正解。愛と娘でまなむすめ。ってことは、愛は『まな』と読むわけですよね。
一方で、『まなざし』という言葉があります。
これは、視線とか目つきとかいう意味でしょうけれど、私は愛を差し込む意味で『愛差し』 ではないかと思っているんですよ。」

「愛を差し込む?」
「そうです。私の視線で、私の愛を相手の心の奥深くに差し込むんです。 刺すでもいいかも。」
真理はナイフか包丁を、ドラマの殺人犯がするときのようにグサリと刺すしぐさをして見せた。
「私は子どもたちを注意深く見つめます。
そのたびに、私は愛が彼らに刺さって行くのだと思う。
子どもたちはいろいろなことをします。
時にはしてはいけないことや、危険なこともします。面倒なことも、汚いこともします。
でもね、いい子で大人の都合のよいときだけ見て誉めて、都合の悪い時は見ないでいると、子どもはいい子にしていないと愛されない、と感じてしまいます。」
「でも、それって、いいことではありませんか?どんどんいい子になれるし。」

真理は学生を見上げていた視線を、またスミレの方に戻した。
スミレは小さく身じろぎしたが、まだぐっすりと眠っている。

「いいえ。それが条件付きの愛情と呼ばれるものだと思います。条件付きの愛でしか愛されなかった子どもは、将来裏表のある性格になったり、自信が持てなかったり、不安が強い人に育ちます。だって、私たちは誰でも、よい子なだけではありませんものね。」
学生が答えないので、真理は続けた。

「条件付きの愛情で育った子と、まるごと愛された子どもとでは、物事の判断の仕方も変わってきます。
単純な図式で例えるなら…
例えば、電車やバスの中で大騒ぎをしている子どもに、「いけませんよ。静かにしなさい。」と叱ったとします。
両方ともそれで静かになった。
現象は同じです。でも、子どもたちの内面で起きていることは違います。
まるごと愛されて育った子どもは「ああ、騒いで迷惑をかけてしまったんだな。」と考えています。
条件付きで愛されて育った子どもは「しまった、怒られちゃった、嫌われたかな?」と考えています。
何が違うかわかりますか?」

「はい。まるごと愛された子は、なぜ叱られたのか、原因を考えています。でも、条件付きのほうは、叱られたかどうかが気になって、原因は考えていないみたいです。」
「そう、その通り。一時が万事でこの調子だとしたら、この二人の子供は将来どうなると思いますか?」
「ええっと、まるごと愛された子の方は、いろいろな物事を自分で考えて判断して行動する子になると思います。でも、条件付きの方は、人の顔色を見て、気に入られる方というか、怒られない方を選ぶというか、物事の本質を考えないというか…。」

「そういうことです。人の顔色というのは、相手によって違いますよね。判断基準が外にあると、人は不安になります。正しいかどうか自信が持てません。それに、同じ失敗を繰り返すのは、どちらだと…」
真理が全部を言い終える前に学生が答えた。
「条件付きの方です!」
「だって、相手の顔色ばかりみて、原因に気持ちがいかないってことは、叱られる原因が分からないってことでしょう?同じ失敗を繰り返してしまう可能性が高い。」
「それに、相手によって答えが違うとかいうことにもなるから、だんだん腹が立ってきそう。私は一生懸命やっているのに、あいつが悪いとかいう考え方、こういうところから出てくるのかも。」
「そうか、そういう時の一生懸命って、相手の顔色を一生懸命見ているってだけのことなのに、本人は自覚がないんだね。」

看護学生は二人で議論を始めた。
真理はにっこり微笑んで、学生を見上げている。
陽だまりのような温かな眼差しだ。
その視線には、ここから先は、自分たちで考えなさいね、あなた方ならきっとできるから、という真理の愛がこめられている。

「長谷川さん、今思いついたのですけど…。」
「はい?」
「愛って漢字は、めぐむとも読みますよね。それって目を組むなんでしょうか?」
「目を組む?」
「はい。いろんな人が視線を組み合わせてその子を見ているってことです。ひとりだといくら愛していても見逃してしまうことがあると思うんです。そういう時でも、他の人とか神様とかが視線を組み合わせて、いつでも何でも見守っていてくれる。それが恵みの本当の意味かもしれないなって思ったんです。」

「ああ、素晴らしい。」
幸子は思わずつぶやいた。
その時、後ろから「あ、小林さん。いらしていたんですか?」と声がかかった。
幸子はドキリとして振り向く。
声の主は、施設長の佐々木今日子だった。








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「お二人は、愛をどんなものだと考えていますか?」
真理が二人の看護学生を見上げて問いかけた。
学生は目を見合わせて、互いの表情の中に答えを探している。
「それは、思いやりというのでしょうか、相手のことを大切に思う気持ちのことだと思います。」
ひとりが答えると、もうひとりが、その通りとばかりに大きく頷いた。

「私は、愛は行動だと思っています。」
「行動?!」
二人が同時に問い返した。
「そうです。愛は行動です。」

真理は視線を学生からスミレに戻した。少し顔を近づけて、スミレの様子を見つめている。
スミレはよく眠っているようだ。

「相手を思う気持ちがあってはじめて行動が起きますから、思いはもちろん大切です。
でも、この仕事にとって、思いだけで終わってしまっては、愛していないのと同じです。
愛は行動で示されて、初めて相手に伝わるのだと思います。
そうして、子どもたちにきちんと愛していると伝わらないと、子どもたちは自分を愛される価値のない人間だと誤解してしまいます。
その誤解は、彼らの一生を損ないます。」

誠実そうな学生たちは、黙ってメモを再開した。
幸子は声をかけるのも忘れ、廊下に立ったまま、真理の話に聞き入った。

「どういう行動が愛ですか?愛しているよと言葉に出して言えばいいのでしょうか。」
そうでないことくらい、多分学生といえども理解しているだろう。
それでも、真理の確信を持った言葉に、もっともっとそれを聞かせてほしいという意欲がかきたてられているのが伝わってくる。

「具体的には、まず、見ることです。」
真理の答えが意外だったらしく、学生はまた手をとめて、真理を見つめている。
「見るって、こう、見るですか?」
「そうです。」
「でも、私たち、いつも何かを見ています。愛していなくても見ていると思いますが。」
片方の学生が、控え目な声で戸惑いながら尋ねている。

「確かに、目を開けていれば何かが見えています。でも、それは『見ている』と言えるほどの見方でしょうか。
例えば、学園の入り口に子どもたちが作った看板が出ているのですが、ご覧になりましたか?」
「はい、見ました!」
学生が同時に答える。
学園の正門脇には1メートル四方程度の掲示板があり、そこに子どもたちが毎月作る看板が掲げられる。
9月の看板には『秋はたのしい おいしい だいすき!』という文字を切りぬいた板と、どんぐりを抱えたリスの絵が貼り合わせてある。
幸子が前回訪問した7月には『まってました なつやすみ!』の文字に、スイカや浮き輪の絵がいくつも添えられていた。
とても印象的だったので、どうやって作るのかと尋ねたら、放課後や休日の活動のひとつとして、職員と子どもたちが熱心に手作りしているということだった。
近所からの評判も良く、楽しみにしているお年寄りからは毎月感想文が届くらしい。

「どんなものでしたか?」
「え〜っと、秋がどうとか…。」
「リスがついていました。どんぐり持っていたかなぁ。」
「ええ。そうです。お二人はきっと、この学園に興味を持ってくださっていたから、あの看板をよく見てくださったのでしょう。だから覚えていらっしゃる。では、ここに来る途中、小さな商店があったのを覚えていますか?」
「商店なんてあったかしら?」
「えーっと、道の左側ですよね。何かあったんですけど、えーっと…」
二人は考え込んだが、思い出せないようだ。
「あの店は『なぞの商店』という看板が出ている、この界隈では知らない人はいない有名店なんですよ。」

「なぞの商店?」
「どんな謎なんですか?」
「いえいえ。本当は『はなぞの商店』だったんです。でも、ある年の台風の影響で、『は』が取れちゃったんです。でも、それが面白いと評判になって、お店の人がわざと直さないでそのままにしたの。それで、『謎の商店』が誕生したというわけです。」
「へぇぇ!」
さっきまで敬語で話していた学生も、思わず本気で感心した声をあげた。
幸子も気付いていなかったが、帰りにじっくり見て行こうと思った。
「どうですか?関心がなければ人は目に入ったものでも見ようとはしません。でも今、お二人とも、『帰りにはよく見て行こう』って思っていらっしゃるのでは?」
学生と一緒に、幸子も深く頷いた。







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給食の時間の前に、幸子は1年1組の教室を出て、もみの木学園に向かうことにした。
スミレの容態が心配だった。
ひと目でも顔を見て、これまでのことを詫びたかった。
教頭先生が快く承知してくれ、学園に連絡を入れてくれた。
どうぞお越しくださいと言ってくれましたよという返事を聞いて、幸子はホッと胸をなでおろした。

「小林さん、来週からまたお願いします。スミレさんのことは、それまでの間に矢口先生と相談して決めておきますから、月曜日も少し早めに起こしください。」
「わかりました。よろしくお願いします。」
スミレさんのことはどうしたらいいと思いますか?と尋ねられなかったことで、幸子は真吾に言われたこと・・・昨晩改めて考えをまとめたこと・・・が、間違っていなかったことを確信した。

学園に向かう途中で軽く昼食をとったので、学園の来客用駐車場に赤いトゥデイを滑り込ませたのは丁度1時ごろだった。
受付で真理の所在を尋ねると、スミレの部屋にいるのでどうぞそのままお越しください、という伝言があった。
幸子はスリッパを借りて、見覚えのある廊下をスミレの部屋に向かった。

1年生の部屋は6人部屋で、今は4人で使っているのだそうだ。
廊下から部屋の中の様子をそっと窺うと、スミレのベッドの脇に置いた椅子に座っている真理の背中が見えた。
その横に薄いブルーのエプロンをした若い女性が二人立っている。
何度も見た光景だ。
多分、あれは、看護実習だ。

病院にも、ひっきりなしに看護学生たちが実習に来ていた。
でも、彼女たちは医局ではなく、ナースステーションを起点にしているので、それほど親しく語り合うことはなかった。
看護婦になるには、病院実習のほかに、こういった養護施設や高齢者介護施設なども訪れる。
きっともみの木学園にも年間何十人となくやってくるのだろう。

「私は、自分の仕事を養護だとか介護だとか、考えたことはありません。」
真理の声が低く静かに聞えてきた。
「この仕事に必要な能力は?とのご質問ですけれど、とても難しくて、私にはわかりません。体力はあったほうがいいと思いますが、絶対条件ではないような気もします。知識もあったほうがいいけれど、分からなければ周りの詳しい人に聞く方がよいようにも思います。」
学生が、左手に抱えた紙ばさみに、サッとメモを取っている。

「どうしても必要なのは…子どもたちを愛する力ですね。」
「愛する力?」
学生のひとりが聞き返した。
「愛するのに、力がいるのですか?」







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「マリアンヌ!スミレちゃんはお熱を出しちゃったんだよ。今日はおやすみだよ。」
その女の子は、スミレともみの木学園で同室のトコちゃんだった。
スミレからも、学園で一番仲がよいのはトコちゃんだと聞いていたし、学校の中でもすでに何度か会っていた。

「スミレちゃん、よくお熱が出るの?」
幸子は尋ねずにはいられなかった。昨日の出来事のせいならば申し訳なさすぎる。
「う〜ん、学園に来てからは初めてかな。でも、新しいカンキョーって疲れるから、熱ぐらい出てもおかしくないんじゃない?」
あれ?と幸子は思った。
この感触、知っている。
康平君と接している時に味わっていた、あの感触だ。
きっとトコちゃんも、年齢の枠組みではとらえきれない何かを持っているのだろう。
今度は、見誤ったりしない。

「そうだよね。 あとでお見舞いに行ってこようと思っているのよ。」
「スミレちゃん、喜ぶと思う。マリアンヌのこと、大好きだって言っていたから。」
「そう、大好き…。」
幸子は穴があったら入りたいような気持でいっぱいになる。

「トコちゃん、学校は楽しい?」
「楽しいよ。でも、学校より、学園が楽しいの。今ね、トコは人生で一番幸せ!」
「そうなんだぁ。」

もみの木学園は県立の児童養護施設だ。
その利用者には、2種類ある。
ひとつは、契約生と呼ばれている子どもたちだ。家庭の事情で両親などが育てられない状況になった子どもを預ける契約を、県と保護者とで結んでいる。保護者は利用料を支払うことで、養育を委託するのだ。

もうひとつは、措置生と呼ばれている。この場合の「措置」とは、法的措置のことだ。
具体的には児童福祉法第41条に基づき、児童相談所長の判断で、県知事が措置を決定する。
親と死別して養育者がいない、家庭はあるが養育環境が整わない、親が子供を虐待しているなどと判断された場合などがこれにあたる。

スミレは契約生だ。
祖父の新吉が手続きをして、利用料を支払っている。
トコちゃんは措置生だった。
もみの木学園ができた2年前、スタートから学園にいるのだ。
彼女が育ってきた環境を幸子が知るのは、それから半年ほどあとのことになる。

あ、授業が始まるから座らなきゃ、というトコちゃんに手を振って、幸子はまた静かにクラスの観察を再開した。







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スミレは、もみの木学園に帰ってから熱を出した。
風邪をひいたわけはない。いわゆる知恵熱というやつだ。
一生懸命になりすぎた証拠。
転校早々のことなので、学園ではよくあることとわかっており、周囲も落ちついている。 

知らせを聞いた教頭先生は、幸子に今日は帰宅してくださいと告げた。
けれども幸子は帰らなかった。
したいことがあった。
スミレが休みなら、心おきなくそれができる。

幸子は教頭先生にそれをお願いした。
出勤した矢口先生がすぐに幸子に気付き、飛んできた。
教頭先生から幸子の願いを聞いた矢口先生は快諾した。

朝の会が始まる前から、幸子は矢口先生の1年1組にいた。
教室の隅に座って、じっと子どもたちと矢口先生とを見ていた。
幸子は気付いたのだ。
自分が、いずれスミレが入るはずのこのクラスの子どもたちを少しも見ていなかったことに。
矢口先生がどのような授業をするのかさえ、知らないままだった。

真吾に言われたとおりだったと、改めて思い知らされた。
胃の底がジリジリと焦げる。
しかし、今大切なのは、私の自尊心じゃないわと、幸子は自分を励ました。

矢口先生の授業は、想像していたよりもずっと分かりやすかった。
それに、子どもたちにどんどん発言させる欧米的な進め方は、留学経験がある幸子にはなじみのものだったが、当時の日本では珍しかった。
先生の話はじっと黙って聞きなさいというのが、日本のスタンダードな教育方法だったからだ。
きっとこの教室から、将来意気揚々と自分の意見を主張するオピニオンリーダーが出ることだろうと思った。

さらに、理論を知っていてそうしているのか、経験からかは分からなかったが、子どもの集中が途切れる頃になると、矢口先生は話題をふと切り換えて、子どもたちの関心をもう一度かき集める。それがとてもうまいと感じた。
これならば、内容への理解が追い付けば、スミレも楽しく参加できるだろう。

1年1組は、担任の雰囲気そのままに、明るいクラスだった。
子どもたちは、矢口先生の方針が浸透し始めたところのようで、聞くべき時は聞き、騒いでいい時にはみんなそろって騒いでいる。
大人しい子ももちろんいるし、あれは利かん気が強そうだと思う子もいる。
しかし、矢口先生から聞いていた通り、教師が手を焼くようなタイプはいない様子だった。
そもそも、この松葉が丘小学校全体が、のんびりゆったりとした安曇野の空気のように、さわやかな過ごしやすい学校なのだろう。 

杞憂だったのか。
自分は何を警戒し、スミレを何から遠ざけ、守ろうとしていたのか、見つけられなかった。
スミレに噛みつかれなかったら、今日もまだ、勘違いしたまま無駄な時を過ごしていたのかもしれないと思うと、首筋に汗がにじんできて、耳たぶが熱くなった。

ひとり教室の隅で青くなったり赤くなったりしていた幸子は、見覚えのある女の子が近づいてくることに気付いた。







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2学期が始まって5日目は金曜日だった。
前年から、学校は隔週で週休二日になった。
明日の土曜日は休みの方だ。

いつもより、早めに学校に出向いた幸子は、まっすぐ校長室を目指した。
なにを置いても、昨日心配をかけたことを詫びなくてはならない。
折よく、教頭先生もそこにいて、驚いたような、心配そうな視線を向けてきた。

「昨日は本当にご迷惑とご心配をおかけしました。申し訳ありませんでした。」
昨日は動転して、社会人らしい言葉は何一つ言っていなかったことが気にかかっていた。
「お怪我はいかがですか。」
教頭先生が幸子の七分袖の下を気にしている。
「おかげさまで、少し痛みますが、なんともありません。すぐに治ると医師からも言われています。」
「よかった。ちゃんと受診してくださったのですね。診断書をお出しください。加入していただいているボランティア保険を申請しましょう。」

教頭先生の思いやりに感謝を感じつつも、それには答えず、幸子は校長先生に向かって深々と頭を下げた。
「私が勘違いしていました。でしゃばったことをして、学校にもスミレちゃんにも迷惑をかけてしまいました。申し訳ありませんでした。もうお許しいただけないかもしれませんが、もう一度やり直すチャンスをいただけないでしょうか。」 

しばらく、校長先生からの答えがない。
幸子は恐る恐る頭をあげて校長先生の顔色を窺った。
校長先生は何事かを考えているようで、じっと幸子を見つめている。

「そうですね。こちらも遠慮をしてきちんと申し上げなかったから、こういうことになってしまいましたが、あなたがそこまでおっしゃるなら…。」
そんな言い方をする校長に、教頭先生は冷ややかな視線を送っている。
今、目の前で、この学校の管理責任者が、己の判断ミスの責任を善意の一般市民になすりつけようとしているのだ。
ふん、小さい男。
教頭先生は幸子と同じ女性としても腹が立った。 
これだから男は、と思った。 

しかし、その思いを表情に上らせるほど、うぶでもない。
「小林さん、大変にありがたいお申し出に感謝いたします。小林さんのお怪我は私の責任です。小林さんにお願いする仕事について改めてご相談させていただきたいのです。よろしいでしょうか?」
教頭先生の言葉に、幸子は涙を浮かべて承諾した旨を深いお辞儀で表した。

校長先生はご満悦だ。
ボランティアを失わずに済み、事故の責任は教頭が勝手に負ってくれると言う。
一晩頭を悩ませた問題は、自ら姿を消し、身の安全も保たれた。
これも日頃の我が刻苦奮励が為せる業と思うと、自然と頬の筋肉が緩んだ。

「では、小林さん、あちらでもう少しお話ししましょうか。」
教頭先生に促されて席を立った。
職員室に行くと、スミレの欠席連絡が入ったところだった。







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