Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2013年10月


スミレが松葉が丘小学校に通い始めた2学期、疲れをためたスミレが熱を出したりしたこともあったが、同じクラスのトコちゃん、隣の2組のメグちゃんともうひとりの女の子、同室の4人はこれまで通り、にぎやかな毎日を過ごしていた。

時折トコちゃんに迎えが来て外出して行くと、残された3人には微妙な空気が生まれる。
初めのうちはその微妙さが3人共有のものだったが、メグちゃんに里親の話が来ているとわかってからは、思いの温度に差が生まれ、残る二人の幼い胸にいつもかすかな影が落ちるようになった。

「あのね、メグに新しいパパとママができるんだ!」
ある日メグちゃんは、職員がいない部屋のベッドに他の3人を呼んで、とても大切な秘密を打ち明けるように、小さな声でささやいた。
「へぇ。そうなんだぁ。」
他の3人は、それ以上コメントのしようがない。
パパ、ママ、という言葉に、なんらの温かさも嬉しさも感じていないスミレとトコちゃんたちにとって、それがどうしてそんなに自慢げな話しになるのか、さっぱりわからない。
それでも、友達のメグちゃんのいうことだからと、作り笑顔を浮かべているのだ。

女というのは、3歳だって女だと、誰かが言っていた。
女同士で平和に生きていくための術は、6歳にもなれば当然身の内から湧き出てくる。
DNAが慎重に受け継いできたもののひとつなのだろう。

「メグの本当のパパはすっごく背が高くて、カッコよくて、お金持ちだったんだよ。ママはね、美人で、モデルだったんだ。ふたりはコイに落ちてレンアイケッコンしたんだよ。」
コイに落ちてレンアイケッコン?
そんな言葉に弱いのも、女ならではなのだろう。
4人の額はますます近づいて行く。

メグちゃんのパパはガスボンベを運ぶ仕事をしていたサラリーマンで、ママはメグちゃんを保育園に預けてコンビニのアルバイトをしていた。
二人とも身よりのない、自分たちの力だけで生きていかねばならない境遇で、生活はいつもカツカツだった。
亡くなってから1年ほどたつうちに、メグちゃんの中で、二人は相当美化されたのだろうか。

「パパとママはすごくアイしあっていたから、いつでもチューってしてたんだ〜。」
チュー、が何かくらいは他の3人もわかっている。
「それでね、パパはメグのためにバクダイなザイサンを残してくれたの。」
どこか大きな誤解があるようだが、子どもたちはそんなことを知るはずがない。
いつも「予算がないから節約よ!」と言っている職員たちの言葉から察するに、ザイサンはたくさんある方がよいに決まっている。

「いいねぇ。すごいねぇ。」
トコちゃんが感心して見せる。
「でしょう?本当のパパとママは交通事故で死んじゃったけど、メグにザイサンがあるから、新しいパパとママができるんだよ!」
「うわぁ。そうなんだぁ!!」

そもそも、里親とはそういうものではない。
メグちゃんは明らかに考え違いをしていたが、ともかくこの里親の話は着々と進行していった。







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もみの木学園がどんなに住み心地がよくても、そこは「家庭」ではなく、共同生活の場だ。
多くの人が「家庭」という場で育つという経験を持つ以上、同じ経験を持てるなら持っている方がいいという考え方を否定する理由はない。
家庭を知らなければ不幸になるということはないが、経験知として知るチャンスすら与えられないのは不平等だろう。

しかも、「家庭」と学園の共同生活で大きな差になるのは、養育者をシェアするか、一人占めできるかだ。
さらに、「家庭」には休みがない。
勤務次第で定期的に休暇が入る職員と違って、家庭には養育者が必ずいるものだ。
幼い子供ほど、この二つの条件は何物にも代えがたい贈り物となる。

里親の申し出を受けることは、学園にとってこの上ない恵みとなる。
ましてメグちゃんの里親を申し出た柳沢夫妻は、学園の近くに住んでいて、これまで学園にもたびたびボランティアに来てくれていたこともあり、安心してメグちゃんを里子に出せると思われた。

メグちゃんの担当だった真理は、相手がだれであっても子どもたちを手放したくない気持ちを密かに抱き続けている。
かといって、今後この仕事を続けていけば、担当する子どもの数は増えていく一方で、それを自分一人が抱えていけるものではないということも、重々分かっていた。
それに、学園にいられるのは18歳までで、それ以降はみなそれぞれの生活の場を見つけて移っていく。
遅かれ早かれ、別れの時はやってくる。
それは親子であっても同じだろうと思うと、自分の思いは身勝手なもののような気がしてくるのだ。
しかし、職に就いて以来担当してきたトコちゃんにも帰宅の話が持ち上がっている時だったので、寂しさはどうしようもなく、二人も同時にいなくなるかと思うと、夏がやってきたばかりだと言うのに、心に木枯らしが吹くような思いだった。

柳沢夫妻の一人娘は大学生になったと聞いていたが、詳しくわかったところによると、アメリカに留学したらしい。
ゆくゆくはそのままアメリカに留まり、職をみつけていこうと思っているということで、職員たちは言葉にはしないものの、なおさら安堵をおぼえた。

というのは、実子がいる家に里子に行った場合、最初のうちはよいが、時間がたつにつれ、実子と里子との間にどうしても扱いの差が出て、里子が辛い思いをするというのはよくあることだからだ。
真理のように、養護施設での勤務が初めての職員には想像しにくいことかもしれないが、長く養護施設を渡り歩いているベテランたちの間では、これはほとんど常識といっていい事実だった。

また、里子にも二種類ある。
もともとの戸籍のまま、一定年齢までの養育を請け負ってくれる里親と、養子縁組をして戸籍まで自分の子として受け入れようという里親だ。
一定年齢の多くは18歳なので、そこから自活していく方向性は養護施設と変わらない。
また、そのような里親さんは、二人目三人目と里子を預かる場合が多く、決して親を独占というわけにはいかない。
ただ、居場所が公共機関でないというだけ…というケースもあるほどだ。

その点、柳沢夫妻はメグちゃんと養子縁組したい意向だ。
学園にボランティアに来るたびに、メグちゃんの明るい笑顔と闊達な姿に惚れ込んでしまったというのだ。
アメリカにいる娘もすでに賛成してくれていて…というあたり、手回しがよい。
どうしても、の情熱が伝わって、学園では歓迎ムード一色となった。
ひとり、真理だけが懊悩している。







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メグちゃんも、トコちゃん同様、スミレと同室の措置生だ。
トコちゃんほどではないが、スミレはメグちゃんとも仲がよかった。
トコちゃんとメグちゃんが仲良かったので、そこにスミレも入れてもらった形だ。
小学校は1年2組で隣のクラス。
学園の部屋でもベッドを並べている3人だった。

スミレが、何かの拍子にパパとおばあちゃんは死んじゃったのと話したら、メグちゃんは私はお父さんとお母さんが一緒に死んじゃったの、と答えたので、スミレは驚いてしまった。どうして?と聞いたら、交通事故だと言った。

スミレが事情を正確に知ったのはずっと後になってからのことだが、メグちゃんのご両親も施設の出身で、それぞれが天涯孤独の身だった。
それが、施設で信頼し合った同士結婚し、家庭を築いて仲良く幸せに暮らしていたようだ。
事故が起きたのはメグちゃんが5歳になってすぐだった。
家族旅行にでかけ、高速道路を帰る途中、居眠り運転のトレーラーに激突されたのだ。

メグちゃんも大怪我はしたものの、奇跡的に命はとりとめた。
しかし、ご両親は即死だった。
メグちゃんが両親の死を知ったのは、父親の会社の人々が葬儀を出してくれ、二人ともお骨になった後だった。
メグちゃんの怪我が重く、葬儀に間に合うように説明することができなかったのだ。

幸運にもメグちゃんは後遺症が残ることもなく全治した。
しかし、暮らしの場を失ってしまったので、傷が癒えると、もみの木学園に措置された。
学園は創立1周年を迎えたところで、トコちゃんが開園と同時に入所したころに比べれば、職員も利用者もずいぶん増えていた。

メグちゃんも、真理の担当だった。
全治したとはいえ、もうしばらくはリハビリも必要だった。
両親を恋しがって泣くメグちゃんを、真理はゆっくりゆっくりと育てていった。
それでも、両親の愛情を一身に受け、幸福の中で5年の月日を送ってきたメグちゃんは、根本的に明朗闊達な性格だった。
時間が薬になり、少しずつ元気を取り戻したメグちゃんは、屈託のない笑顔を見せるようになり、学園のムードメーカーとして、誰からも愛される存在になっていった。

そんなメグちゃんに、里親の話が来たのは、小学校1年の夏のことで、丁度スミレが入園し、トコちゃんの両親がトコちゃんを家に帰してくれと言い出した時期と一緒だった。

その夫婦は、すでに里親の認定資格を受けており、夏休みの過ごしの場として家庭を提供するような、短期間の養育を何度か経験していた。
一人娘が大学生になったのを機に、家庭という場に恵まれない子供たちの役に立ちたいと一念発起したとのことだと聞いて、職員たちはその美しい心にしきりに感激していた。







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翌朝、隣家の男性はどうにも気になって、出勤前にトコちゃんの家を訪ねた。
母親は、「トコはまだ寝ている」という。
男性は、ろくに礼も言えない母親がどういう人かはわきまえていたので腹も立たなかった。
「旦那さんはどうした?」
昨夜は帰らなかったという。

「お嬢ちゃん、風邪引いちゃったんじゃないかね。風呂には入れてやったか?身体が冷えていたろう?」
「寝かせてやれっていうから、寝かせました。」
母親の言葉を聞いて、男性は口をあんぐりとあけ、目を剥きだした。ぞくりと寒気がした。
「ちょっと、おじゃまするよ。」
ひと声かけると返事も待たずに、家の中に入った。
確かに、布団の中に少女が寝ている。
まさか、と思ったが、昨夜の服のまま布団に入っている少女に気付き、目の前の現実のあまりの恐ろしさに言葉が出ない。
少女は、はぁはぁと荒い息をして、真っ赤な顔をしている。
恐る恐る額に手を載せると、ビックリするほど熱かった。

「大変だ!やっぱり風邪ひいちまったじゃないか。医者だよ、医者!っても、わからないか。」
男性は、この地域を往診してくれる、親切な医者の連絡先を紙に書いて教えてやった。
「あんた、電話くらいできるだろう?」
「はい。」
「俺はもうでかけなきゃならないから、電話して、お医者先生に来てもらうんだよ。いいな?今すぐかけるんだぞ。」
「はい。」

まったく、この家の旦那はどうしたんだと呟きながら、男性は自分の車に向かった。
息が蒸気機関車のように真っ白な煙を挙げる。指先が早くもキンと冷えてくる。
大変なことだが、子どもの風邪だ。医者さえ来てくれれば安心だ。
まったく、あの家はどうかしている。
男性は、出勤前に立ち寄ろうと思い立った自分の勘を讃えながら車に乗った。
大通りに出る頃には、思考は仕事とすっかり積もった雪道を滑らせないことに切り替わり、トコちゃんのことはすぐに薄れていった。

母親は言われたとおりに、メモを見ながら電話をかけた。
たまたま、医者はその時電話に出なかった。
受話器を戻すと、母親はメモをポロリと指からこぼし、こたつに入った。
テレビをつける。
いつもの番組が、天気予報を伝えていた。
電話をかけろと言われたが、電話に出ない時にどうしたらいいかは教わらなかった。


男が帰宅したのは、その日の夜になってからだった。
久しぶりに遊びまわり、せいせいとして帰ってきた。
前夜から、その日の昼間も飲み続けていた男は、まだ十分に酔っていた。
が、小さな家で、寝ている女の子の様子が尋常でないことには、すぐに気付いた。

「おい、どうしたんだ?」
部屋の明かりをつけて、覗きこんだ。
「今日はずっと寝てた。」
母親の説明で事態を理解しようとしていたわけではないが、ふがいない答えに苛立ちが爆発した。
もつれる足で電話に駆けより、医者に往診を頼んだ。
折よく医者は病院にいて、すぐに来てくれると言う。
娘はもう虫の息で、男にはまだ生きているのかどうかも分からないほどだった。

駆けつけてきた医者は手を尽くしてくれたが、翌日の朝日が昇るのを待たずに、トコちゃんは息を引き取った。
肺炎だった。
医者から連絡を受けた児相や民生委員が家に着いた時、こたつの脇にトコちゃんの書き置きが落ちているのを見つけた。
広告の裏に書かれたそれは、鉛筆を力いっぱい握った力強い文字で、こう宣言していた。
「トコは おうちに かえります。さようなら。」


「どうして?
トコちゃん、どうして電話してくれなかったの?
そしたら真理さん、すぐに迎えに来たのに。
こんなに寒い思いさせなかったのに!
どうして、一人で歩いて帰ろうなんて!!」

経緯を理解した真理はトコちゃんの亡きがらに取りすがった。
ケースワーカーが、黙ってトコちゃんのカバンを真理に差し出した。
真理はカバンを開けてみた。
そこには、10円玉と、濡れて滲んで文字が読めなくなった紙が入っていた。
真理が渡した、学園の電話番号を書いたメモだった。

今日子と真理は、取り返しのつかない痛みに号泣するしかなかった。







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何が起きたのか問いただす今日子に、母親や民生委員がぼんやりとした事実を説明する。それをつなぎ合わせてみると、トコちゃんの気持ちがようやく分かった気がした。
それは、あまりにも切なく悲しいことだった。



トコちゃんが帰宅した3日目、早くも男は父親ではなくなっていた。
下品な言葉、乱暴な行動は、男が帰って来てから見せていた反省や誠意めいたものが偽りであったことを如実に物語っていた。
この男と共に暮らしていた時は幼すぎて何も覚えていなかったトコちゃんにとって、それは恐怖以外の何物でもなかったろう。
何度会っても好きになれない男だったが、父親だから一緒に暮さねばならないと言われると、どうしようもない気がしたのだろうと想像できた。

母親のことも、どうにも好きになれないと、トコちゃんは言っていた。
悪い人ではないのだろうが、とにかく居心地が悪い。
一緒にいても寂しくて寂しくてしかたがない。
粗末な食事は味気なく、まるで動物に餌を与えるようにしてつきだされるグチャグチャとした皿を見て、トコちゃんは、どうしても学園に帰りたくなった。
ひとりで帰ろうと決意するのに、時間はかからなかったようだ。 

4月が近いというのに、その日の長野は厚い雪雲に覆われ、真冬の風が吹いていた。
昼過ぎには雪が降り始め、解けきらずに残っていた雪の上に、真っ白に降り積もり続けた。
夕方、男は小言を言いながら家を出て行き、夜になっても戻らなかった。
母親は、こたつに入ったままうとうとしている。

トコちゃんはチャンスだと思ったに違いない。
そっと家を抜け出した。
学園を目指して、ひとり歩き続けた。

びしょ濡れになったトコちゃんを遠い町で見つけたのは、たまたま車でとおりがかった、隣の家の男性だった。
すでに、日付が変わろうという時間だった。
とうてい、小学生の女の子が一人で歩く時間ではないし、傘もささずに雪に降りこめられ、凍えながらバス停のベンチに座っている女の子を見て、驚いて車を停めて近づくと、知っている子だったのだから、尚更驚いた。

慌てて車に乗せると、家に連れて帰り、ドアを思い切り叩いた。
何軒も入っている安アパートのことで、うるせぇ!と他の家から怒鳴り声が聞えるほどに叩いて、ようやく母親がのそりと出てきた。
「トコちゃん、外にいたよ。何してんだよ。凍えているよ。早く着替えさせて、寝かせてやりな。」
そう言うと、ドアの中に押し込んだ。

父親は、まだ帰っていなかった。
イレギュラーな出来事に対処するのは、母親がもっとも苦手とすることだ。
母親は、寝かせてやりな、というさっきの男性の最後の言葉だけを覚えていた。
「トコ、もう寝なきゃ。夜だよ。」
そういうと、積もった雪が車の中で溶け、なおさらびしょ濡れになった髪も服もそのままに、トコちゃんを布団の中に押し込んだのだ!







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トコちゃんが去ったと同時に、学校は春休みに入った。
一日中子どもたちがいる学園はお祭り騒ぎで、今日子も真理も、トコちゃんのことを気にかけつつも、落ち込んでいる間がなかった。
それでも、真理は、トコちゃんの別れ際の声を思い出しては、不意に涙をこぼしている。
そんな真理をスミレや同室の女の子たちは、どうしたらいいのか分からずにいた。

トコちゃんがいなくなって5日目のことだった。
学園に入った一本の電話をとった今日子は、そのまま凍りついて動けなくなった。
受話器を握った形のままの手から、ボトリと受話器が落ちた。
その場にいた職員が、禍々しい予感と共に今日子の周りに集まった。
「施設長!どうかしたんですか?」
「トコちゃんが…。」

今日子は事務室を飛び出した。
真理の姿を探す。
いた。
プレイルームで子どもたちに絵本を読み聞かせてやっているところだった。

「真理さん!」
さすがに、子どもたちの前では言えず、今日子は口ごもった。
普段から冷静沈着な施設長の取り乱した姿を見て、真理はただ事ではないと思った。
子どもたちに、続きは後でね、と声をかけ、施設長の元へ歩み寄った。
今日子の白目が血走っている。
震える唇からどのような言葉が転がり出ても、それはろくでもない知らせに違いない。
真理は体中が緊張するのをどうしようもなかった。

「トコちゃんが、息を引き取ったって…今、電話が…」
「うそ…」
真理はその場にガクンと膝をつき、それでも姿勢が保てずに、両手を床についた。
最悪の話が出てきても驚かないつもりだったが、最悪を飛び越えて、思いもよらない凶報が信じられない。
「どうして?何があったんです??」
「わからないわ。児相からの連絡で、ただ、今朝がた息を引き取ったとだけ…。」

床についた両腕をわなわなと震わせてはいるが、真理は息が止まってしまったかのように見えた。
「行きましょう、真理さん。トコちゃんのところへ!」
今日子が真理の肩を思い切り揺すった。
のろのろと頭をあげた真理は、雷に打たれたように大きく身体を震わすと、真っ直ぐに今日子を見上げた。
「はい!」

トコちゃんの家に着くと、先に児相のワーカーや民生委員が来ていた。
乱れた部屋の中に敷かれた小さな布団の中に、白い布をかけられた小さな姿が横たわっている。
真理は、つんのめるように駆けよると、その布をさっと取り払った。
青ざめた顔。色のない唇。束になって額にはりついた髪。
真理が見たことのないトコちゃんがそこにいた。







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3日後、トコちゃんは何事もなかったかのように学園に戻ってきた。
真理が胸をなでおろしたことは言うまでもない。
スミレも大の仲良しの帰還に大喜びしている。
トコちゃんは、珍しくカバンを放り出したまま、スミレと遊び出した。
これが学校から戻ったところなら、「ほらほら、まず最初にするのは何?」と片付けを促すのだが、この日ばかりは何も言わず、それどころか、いそいそと、投げ出されたカバンを真理が片付けた。

その日から修了式まではあっという間だった。
トコちゃんは転校や自宅に帰って生活することが決まったと聞かされても、何も反論しない。
いつもより少しだけ無口になり、伏し目がちに何か考えている様子をしていることが増えたが、取り乱すこともなく時間は過ぎて行った。

学園で過ごす最後の夜も、トコちゃんはどこまでもいつもどおりだった。
職員たちが相談して開いたお別れ会でも、他の子どもたちと一緒にダンスをしたりして、はしゃいでいた。

スミレの後、学園の子どもたちの就学サポートには、いつもマリアンヌがついてくれていた。半年の間に4人もの子どもたちが世話になり、マリアンヌはもう学園の一員と言ってもいい存在だった。スミレの時と違い、転入学前から学園に通って子どもの様子を観察したり、遊んだりしていたからだ。
マリアンヌはトコちゃんとのお別れ会にも参加していた。

翌朝は、いよいよお別れだ。
食堂で最後の朝食をとった後、約束の時間にトコちゃんの両親が迎えに来た。
それほど多くない荷物を受け取ると、父親はぴょこりと頭を下げた。
その姿が、真理にはいかにも軽佻浮薄に見えた。

できることなら、このまま学園にとどめておきたい。
真理にとって、担当していた子どもを家に帰すのは初めての経験だった。
靴をはいて立ちあがったトコちゃんに、真理はバッグを渡した。
何と言葉をかけてよいか分からず、ただただトコちゃんの顔を見つめていた時だった。

「いやだ。トコ、行きたくない。」
ぽつりと、トコちゃんの口から、小さな声がこぼれ落ちた。
「やっぱりいやだ!トコはここにいる。学園の子でいる!」
今度は大きな声で叫んだ。

真理の目から唐突にぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「真理さん、トコ、いやだよ。行きたくないよ。」
真理の首にしがみつき、わんわんと泣き始めた。
トコちゃんが言う、初めてのわがままだった。
今までいくら言ってもいいよといっても、わがままは言わない子だった。
最後に、たったひとつ言ってくれたわがままを聞いてあげられないなんて!

「施設長!」
真理はトコちゃんを抱き締めたまま、今日子を振り返った。
今日子の頬も涙で濡れている。
「トコちゃん、大丈夫よ。また遊びに来られるわ。私たち、いつでもここにいるからね。」
今日子はトコちゃんの横に膝をついて、真理と一緒にそっと抱きしめた。
「お願い、トコを返さないで。いい子にするから。迷惑かけないから。園長さん、お願い!!」

父親は面倒くさそうに寄って来ると、泣き叫ぶトコちゃんを力づくで真理から引きはがし、抱きあげた。
「長らくお世話をおかけしましたね。さ、わがまま言わないで、行くぞ。」
父親はそのままいくらか歩くと、傍若無人に停めてあった白い軽自動車に荷物とトコちゃんを放りこんだ。
誰かに借りてきたらしい車は、あちこちにぶつけた傷がついていて、ことさらみすぼらしく見える。

「トコちゃん!」
駆けよろうとする真理を、今日子が引きとめた。
「真理さん、真理さん!」
車の中で叫び泣いているトコちゃんの姿が見えた。
が、それもわずかな間で、車は急発進して走り出すと、たちまち遠ざかって行った。







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トコちゃんと真理の思いをよそに、法律は二人の意思を貫かせる力を持たなかった。
来月には2年生に上がる。
トコちゃんの家は、松葉が丘小学校の学区ではない。
家に帰るなら転校しなければならず、それなら区切りのよい学年の変わり目を選ぶのが妥当だ。

2月中に、自宅での1泊を経験していたトコちゃんは、その日、2泊3日で自宅に帰ることになっていた。
真理は不安だった。行かせたくなかった。
学園を訪れた時の、あの父親の抜け目なくあたりを見回す視線、母親のたよりなさげな様子。
思い出すたびに、あそこに帰ってトコちゃんが幸せになれるとは思えなかった。

この外泊が成功したら、トコちゃんは1年生の修了式で松葉が丘小学校から転校し、学園を出て春休みから自宅で生活することが決まっている。

前の夜、いつものように女の子たちを寝かしつけに行った真理は、トコちゃんのベッドに腰掛けて尋ねた。
「トコちゃん、大丈夫?」
「しかたないよ。決まっちゃったんだもんね。」
トコちゃんは真理よりも肚が座っている。
帰りたくないと言ったことなど嘘だったかのようだ。
自分の希望とは別に、どんどん両親の思い通りになっていくのを、なすすべもなく聞くばかりなのだろう。
残り少ない学園での生活を精一杯楽しもうとしている様子が、真理の胸を締め付け続けてきた。

着替えを終えたトコちゃんを、両親が迎えに来た。
真理は自分の目にバイアスがかかって、この両親を信頼できないと見るしかできなくなっているのだろうと思いたかった。
私の目が曇っているだけで、本当はトコちゃんを幸せにしてくれる人たちなのだと思いたい。
けれども、この日も同じだった。
この男はどうしても信用できない。
トコちゃんを取り戻すと、生活保護の金額が増えるばかりでなく、就学援助費が受け取れる。それが目当てなのではないか?
未だに定職についていないという点が、それを証明しているような気がしてしかたがない。
しかし、学園の一職員の印象など、この際誰も何の参考にもしないのだ。

靴を履き終えたトコちゃんに、真理はカバンを渡しながら小声でつぶやいた。
「あさってには帰ってこられるからね。何かイヤなことがあったら、電話するんだよ。番号、これね。カバンに入れておくからね。我慢しなくていいんだからね。」
真理は白いメモ用紙に大きめの数字で書いた学園の電話番号を、トコちゃんの目の前でカバンに入れた。
「ありがとう、真理さん。心配しないで。いってきます。」
トコちゃんはなんとも言えない笑顔になると、くるりと背を向けて両親の方へ歩き出した。
 
スミレが、真理の足元にすり寄ってくる。
トコちゃんがこうして外出することに、スミレも言葉にならない不安を感じているようだ。
真理はスミレの肩をいつもより強く抱きながら、トコちゃんの姿が見えなくなるまで見送った。







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トコちゃんの学園での生活は静かに過ぎて行った。
はしかにかかったり、風邪をひいたりすることは当然あったけれども、トコちゃんは真理を困らせることがなかった。
入園した時には明らかな栄養失調状態だったが、みるみるうちに改善された。
健康そうな皮膚と肢体、色白の頬にはうっすらと赤味がさして、優しい笑顔が絶えない唇に華を添えていた。

学園には次々に新しい子が入ってくる。
年上も、年下もいる。
時にはとんでもない暴れん坊も入ってくる。
そんな時は学園に不穏な空気が流れる。
先に入所していた子どもたちがなんとなく不安になるときでも、トコちゃんは平然としていた。

真理は、トコちゃんのそんな姿を見ると、どこか悲しくなってしまう。
彼女は、こんなことでは動じないだけの痛みを知っているのだ。
そう思うと、トコちゃんが愛おしくてならない。
人生のスタートで受け取り損ねた幸せを、これから取り戻してほしいと祈らずにはいられなかった。

小学校に上がってからも、トコちゃんは至って穏やかに、何の問題もなく日々を送っていた。
真理も、トコちゃん自身も、これからずっとそんなふうにして過ぎて行くのだと信じて疑わなかった。
が、二人の知らないことろで、事態は大きく動いていた。

男が、母親のもとに帰ってきたのだ。
妻の実家に建ててもらった家を売り払った金を持ち逃げしていたが、帰ってきたとき、男は一文無しになっていた。
連れて行ったはずの若い女にも捨てられていた。
女が連れて行ったのは、この男ではなく、男の金だった。
似合いのふたりだったのだろうが、ご多聞にもれず、金の切れ目は縁の切れ目だった。

トコちゃんと離れてから、民生委員がついてくれ、母親は生活のしかたを、人生で初めて一から教わった。
障害者手帳を手に入れ、年金の支給も受けるようになっていた。
生活保護も受けられるように手配され、金銭的に困ることは少なくなっていた。
風呂に入るとか、洗濯をするとかも、できるようになっていた。
食事の支度は難しかったが、片付けはできるようになった。
お湯をわかしてポットに入れることも覚えた。

男は、夫として、父親として、深く反省していることを繰り返し申し立てた。
職もなく家もなくした男にとって、ここを居場所にできるかどうかは正念場だ。
持ち前の人たらし能力を全開にして、自分の愚かさと、子を思う気持ちを語り尽くした。

それだけではない。妻に家事を教える役も民生委員にとって変わった。
もとより、男は家事を自分でこなすだけあって、この家の生活環境は一気に向上した。
2年を経て、トコちゃんが1年生になった頃に帰ってきた男は、彼女が初めての夏休みを満喫していたころ、 娘を返してほしいと申し立てた。

職探しを始めていた男は、まだ定職にはついていないものの、時折アルバイトのようなことをしては、生活費を家に入れていた。妻の年金と合わせれば、贅沢はできないが、食べて行けないこともない。
ギャンブルもやめたと言う男は、帰ってからの4ヶ月ほど、本当に心を入れ替えたように見えた。
母親は、信じて待っていただけあって本当にうれしそうで、ふたり連れだって買い物に出かける姿を見るたびに母親の惨状を知っていた近所の人々は、ようやく訪れた幸せを祝福するように、胸をなでおろしていた。

児童相談所は、夫婦の申し入れを断る理由を持たなかった。
学園内での面会を数度経た後、外出の許可を出し、半日、一日と保護者と共に過ごすように計画が進んだ。

学園にやってきた夫婦と初めて会った真理は、その夜、トコちゃんに尋ねずにはいられなかった。
「トコちゃん、おうちに帰りたい?」
「全然!」
トコちゃんは即答した。
トコちゃんを預かってから2年半ほど、トコちゃんは確実に、より賢く成長している。
「ここがトコのおうち。トコはここにいる。」
その断固とした瞳に、真理は思わず涙をこぼし、強くトコちゃんを抱き締めた。







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トコちゃんは、家から離れた悲しみなど、かけらも感じなかった。
周囲の人々があれこれと話をすることが楽しかった。 
自分に話しかけ、話を聞き、一緒に笑ってくれる。
それだけで最高に楽しかった。

椅子に座って待っていると、ごはんが出てくる。
おかわりもできる。
児相でもごはんは食べさせてもらえたが、日差しが明るいこの食堂でみんなと食べるごはんとは、味が違う。
美味しくて、美味しくて、最高に幸せだった。

毎日お風呂に入ることも知った。
白い泡がボコボコ出てきて、身体を覆う。
温かいお湯の中では、身体がふわふわする。
真理さんにゴシゴシ洗われる時はちょっと痛かったけど、その分、お風呂から出てバスタオルでゴシゴシされるのは、胸がドキドキした。
そして、自分の身体からふわ〜っと石鹸が香る。
こんな贅沢は味わったことがなかった。

洗濯というのは、1週間か10日に一度するものだと思っていたが、違っていた。
シャツやパンツは毎日洗う。
枕カバーやシーツもしょっちゅう洗う。
トコちゃんは洗濯機がグルグル回るところが好きで、真理さんに頼んで、いつもフタを開けておいてもらった。
二槽式の洗濯機は、洗濯槽と脱水槽を洗濯ものが何度か行き来する。
全自動と違って、洗濯槽の蓋を開けておいても動いてくれる。
渦巻がぐるぐると洗濯物を丸めこむ姿は、いくら見ても飽きない。
真理さんが洗濯ものを干す姿も大好きだった。
パンパンパンと手で叩くと、洗濯ものがまっすぐになるのが不思議だった。
こうするとアイロンがいらないのよ、と教えてもらった。
けど、アイロンが何かを知らなかった。

夜、洗いたてのシーツで寝るのは本当に気持ちがよかった。
ちょっとゴワゴワするシーツからは、いつも決まって真理さんと同じお日様のにおいがした。

真理さんは、いつでも自分を見ていてくれる。
誉められても、叱られてもうれしかった。
家にいたころは、それが当たり前で、何か辛いとか苦しいだとか、感じたことはなかった。
けれども、学園に来てみて、自分がどれだけ寂しく辛い場所にいたかに気がついた。

二度と、帰りたくない、帰るものかと思った。
私の母さんは真理さんでいい。







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