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あなたも幸せ。私も幸せ。

2013年09月


子どもたちを水着に着替えさせるのは、何度やっても大騒ぎだ。
トイレは行ったね?帽子は持った?ほら、パンツは投げない!バスタオルを引きずってるよ!あれれ?何で泣いているの?あ〜っ待った〜!まだプールに行っちゃダメ〜〜〜!
更衣室に響く先生たちの悲鳴に似た声と言ったら、夏の午後5時21分ごろのカラス並みだ。

知的障害児の男女比は、およそ4:1で、圧倒的に男児が多い。
たんぽぽ学級も見事にこの比率で、男児が7人、女児が2人だ。
そこにスミレが入っても、江夏先生とマリアンヌが着替えさせるのは3人。
大岡先生と田端さんは、すでにシャワーを浴びたかのように汗をかきながらようやく7人の着替えを終わらせた。
低学年の男児なら女性の先生が着替えさせることも許されるのだろうが、松葉が丘小学校では同性介助が徹底されていた。
先進的な学校と言える。 

子どもたちが教室から転がしてきたバランスボールは、きれいにプールサイドに並べられている。隣には、黄色いメガホンもたくさん置いてある。
全員でイチ・ニ・サン・シと準備体操をする。
前日ポンプを踏みながら何度も数えたせいだろうか、今日はいつもの何倍も子どもたちの声が大きいなと、大岡先生は気が付いた。
足洗い槽、腰洗い槽と通ってシャワーを浴び、もう一度プールサイドに並んだ。
 
子どもたちは、すぐにも水に入れるものと思っている。
多動なひろしなどは、今にも飛び込みそうだ。
いつもの水泳授業では、必ずどこかの学年が一緒にいる。
たんぽぽの子どもたちは無秩序に動き回るので、水泳授業となると教員3人では安全が確保しきれない。
そこで、他の学年と一緒にいることで、水面監視などを手伝ってもらうのだ。 

子どもにもよるが、知的障害を持った子どもたちは、なぜか非常に水を好む。
顔に水が飛ぶのが怖いという子でも、プールは好きだと言ったりする。
かっこいい泳ぎではないが、ざぶんざぶんと泳ぐ子もいる。
口の中に思い切りたくさんの水を含んで、マーライオンのように吹き出すのを楽しみにしている子もいる。
でも、他の学年と一緒の時は、たんぽぽの子どもたちが使える部分も限られてくる。
必ず足がつく浅い方を1レーン仕切って、その仕切りの中だけで動くのだ。
この日は、マリアンヌが増えたことで、たんぽぽ単独での水泳授業となった。
広々としたプールを独占できるらしいと知った子どもたちは、いつタガを外そうかと、手ぐすね引いて待っている状態だった。 

見上げれば、真っ青な夏空には雲ひとつない。
屋外プールのプールサイドにはギラギラと日が差して、水滴がついた子どもたちの肩を焼いていく。
それでも安曇野の秋らしく、グランドとプールを分けるフェンスには、赤とんぼがとまっていた。
 
先生たちは3人ずつ子どもを掌握しながら、飛び込み台の脇に立っているマリアンヌを見るように言った。
マリアンヌが羽織っていたTシャツを脱ぐ。
ほっそりした体を包んでいたのは、競泳用の水着だった。
子どもたちに向かって手を振ると、黙って飛び込み台に上がった。

と、スッとマリアンヌが水に飛び込んだ。水しぶきも、派手な着水音も立てずに、マリアンヌの身体は一度水中に隠れた。
頭が見えたかと思ったら、ひらり、ひらりと平泳ぎであっという間に25メートルプールのはじに着いた。
くるりとターンすると、今度は背泳ぎだ。子どもたちは黙ってマリアンヌが泳ぐ姿を見ている。
子どもたちの前を行きすぎてスタート地点に戻ると、もう一度ターンして、今度はバタフライで進みだした。
子どもたちには、マリアンヌの身体のどこがどう動いているのか、よくわからない。
最後のターンのあとは、クロールだった。水中を細い腕が普段の倍ほども長く伸びていくように見える。
3回ほど息継ぎをしただけで泳ぎきると、飛び込み台の下に立ちあがった。
あっという間の出来事だった。
両手で顔の水をはらうと、マリアンヌは笑顔でまた子どもたちに手を振った。

息を飲んで見守っていた子どもたちから、わぁっ!という歓声とともに拍手が響く。
かっこいい!すごい!
子どもたちはマリアンヌのように泳いでみたいと、心底思った。







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たいがいの小学校では始業式翌日から給食が始まることはない。 
松葉が丘小学校も同じだ。 
登校2日目、ほかのクラスは大掃除などをして半日の日課を過ごすのだが、たんぽぽ学級では、担任二人と支援員、それからマリアンヌと、スミレが将来所属するはずの1年1組担任・矢口先生で相談の末、この日はプールに入ろうということになっていた。

たんぽぽ学級の担任は、誰から見ても、どこから見てもデコボココンビだ。
ベテランの大岡先生は、名前は体を表すとでもいうように、時代劇の『大岡越前』に出てくる加藤剛にそっくりな美中年だ。子どもたちは大岡先生が怒ったところを見たことがない。スラリと背が高く、通った鼻筋、涼しげな目元、サラサラと音を立てそうに整えられた白髪一つない黒髪は、同僚だけでなく、たんぽぽ学級のお母さんたちにも絶大な人気を誇る。高校の時からサッカーをしてきたということで、細身の身体にはしなやかな筋肉がついている。低く通る声も魅力的で、保護者懇談会の時は、目を閉じて声だけ聞くのもいいのよなどという軽口がお母さん同士、真顔で語られたりする。

しかし、怒らない、というのは、たんぽぽ学級のような特別支援の世界では、必ずしもいいことだけではない。
カッとして暴力をふるうなどはあってはならないが、いつも笑っているのもダメなのだ。間違ったことや危険なことをした時、教師は子どもたちが五感で「ああこれはしちゃいけないんだ」と分かるように伝えなければならない。特に、障害の種類によっては、相手の気持ちを想像する力が育ちにくい子どもがいる。そういう子どもたちにとっては、笑いながら注意されても、いけないことだと理解できない。怖い顔、怖い声を出して、短くきっぱりと「いけません」と伝える演技力は、たんぽぽのようなクラスの担当者には不可欠なのだ。
もっとも、表情だけ怖くしてみせても気づかない子どもが多いのだが…。

そんなわけで優しさ一辺倒の大岡先生は、ときどき子どもたちに舐められてしまう。
そこで若い江夏先生がいい味を出す。
神様はなんとも絶妙の出会いを設定したものだ。

江夏先生のあだ名は「ドラえもん」だ。
本人はこのあだ名がよほど気に食わないらしい。
6年生と大差ない身長に、標準値を潔いほどオーバーした体重は隠しようもなく、汗っかきで、いつも首にタオルを巻いている。しかし、「なんだよ、ドラえもん!」などと言われた時の機敏さと言ったらない。丸い体であっという間に子どもに詰め寄ると、「なに〜っ」とすごむ。その顔の怖いことと言ったら、なまはげも泣きながら逃げ出すに違いない。

大岡先生のいうことに子どもたちが逆らって、ああだこうだと騒ぎになると、決まって江夏先生がコラァ!が出る。すると、蜘蛛の子を散らすように子どもたちが逃げていく。その恐ろしい顔を見ると、大岡先生も思わず一歩は逃げてしまう。しまった、また逃げてしまったと反省するのだが、何度見ても慣れることがない。自分の子どもとそれほど年の違わない江夏先生を見ては、ああ、このお嬢さんは嫁に行けるだろうかと心配になり、このお嬢さんを嫁に貰ったら…と相手の男に同情せずにはいられない。

この大岡先生と江夏先生にはとんでもないドラマが待ち受けているのだが、それは今回語りきれないかもしれない。 

支援員の田端さんは今年初めて学校現場に立った男性で、3月までは長距離トラックの運転手をしていたという変わり種だ。若いようなそうでもないような、年齢不詳の見た目をしている。エッサエッサエッサッサと応援するのが有名な体育大学を卒業していて、高校体育の教員免許を持っている。でも、高校ではなくて、どうしても小学校の先生になりたかった彼は、大学を出てから通信教育で小学校免許を取得したそうだが、採用試験にはどうにも受からないらしい。とうとう食うに困ってトラックの運転手をしていたという。

高校の時から大学までずっとラグビー三昧で鍛え上げたポパイのような腕の筋肉を、子どもたちに乞われるたびに筋立てて見せ、歓声を浴びている。その時のナルシスティックな表情をみると、江夏先生はなんだかイライラするらしい。きまって例のコラァ!が飛び出すので、田端さんは子どもと一緒に逃げている。身長が180センチもある田端さんにとって、150センチそこそこの江夏先生は、いまや過去の対戦相手のどの選手よりも恐ろしい。

新人ゆえに、田端さんはこの教室の個性的な子どもたちをどうしたらいいのかさっぱり分からずにいるが、カンどころは悪くないようで、担任の手薄なところを見つけては、機敏に動く。特に、教室から逃げ出そうとする子どもを捕まえるのがうまかったので、担任からは、なくてはならない存在として頼りにされているのだ。

ここに、いつも静かな笑顔を浮かべてやわらかな印象のマリアンヌが加わって、いつもにぎやかなたんぽぽ学級は1学期以上に活気を増した。

プールバッグを抱えて登校したたんぽぽの仲間たちは、朝の会を終えると、待ちきれないようにバッグを肩にかけた。マリアンヌに言われるままに昨日ふくらませたバランスボールを転がして押しながらプールに向かった。いったい、このボールがプールでどうなるのだろうか。






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他の子どもたちが始業式をしている間、スミレはマリアンヌと一緒にロッカーの位置やトイレの場所を確認したり、給食室をのぞいたりして過ごした。 存在は感じるのに、誰の姿もない学校は、どこかミステリアスな空気を運んでくる。
保健室の片桐先生は来年で定年を迎えるのだが、そうとは思えないきびきびした動きで、スミレの身長、体重、座高や視力などをサッと検査してくれた。 小児科の病院さながらに、あちこちの壁にはかわいいキャラクターが貼られ、ぬいぐるみもいくつか置いてある。片桐先生はニコニコと孫を見るような目で小さなスミレを見ていた。

校長室ものぞきに行った。
初めて会うのに、とても優しそうで親しみを感じる校長先生のことを、スミレは一度で好きになってしまった。
「なんだかおじいちゃんみたい。」
校長室を出て、廊下を歩きながら、いかにも秘密の告白みたいにいうスミレに、マリアンヌはちょっと戸惑った。
「おじいちゃんって…校長先生はまだおじいちゃんというには…」
言いかけて気がついた。
「そっか、スミレちゃんのおじいちゃんは、とっても若いんだよね。世間じゃあのくらいの男の人はおじいちゃんじゃなくて”おじさん”なんだよ。」
「へぇ!そうか。隆三おじさんと同じだね。」
「隆三おじさんは、えっと…そうだ、施設長さんの旦那さんだね。」
「そうだよ!優しくてね、おもしろいんだ〜。」
「そうなんだ。今度紹介してね。」

友達のようにおしゃべりをしながら教室に戻ると、たんぽぽの仲間たちも始業式を終えて教室に戻ってきたところだった。
夏休み明けの初日は帰るのも早い。
でも、あと30分ほどは遊べる。
マリアンヌは、ロッカーを開けるとバランスボールを取り出してきた。


K&G ジムボール パープル(小) GEB-550 55cm




全部で5つある。でも、どれも空気がぬけていて、ペシャンコになっていた。
たんぽぽの仲間たちがわらわらと集まってくる。
「これ、どうするの?」
スミレが尋ねると、マリアンヌは空気入れを用意して、やって見せた。
「こうやって、ここに差したら…足で踏むの。せーの!1,2,3,4,5,6,7,8,9,10!はい、交替。」
今度はスミレの番だ。
たんぽぽの支援員さんがやってきた。
担任の先生二人は、必死の形相で連絡帳を書いている。
「せーの!1,2,3,4…」
声をそろえる。
すでに数唱ができる子は、一緒になって大きな声を出した。

スミレが10回踏み終えると、今度はたんぽぽの子どもが替わった。次に踏みたい子どもが、自然と列になって後ろに並んでいる。10はすぐに来るので、割り込んだり待ちきれなくなったりする子はいない。
それどころか、リズミカルな数唱がみな気に入って、イチ、ニ、サン、シと声を合わせながら、片足を踏みならしている。踏み終わった子はすぐにクルリを身を翻して列の後ろに並んでいた。
スミレも並びながら、だんだん膨らんでいくバランスボールを見ている。
たんぽぽの子どもたちは全学年、全部で9人いる。
2周したあと、マリアンヌが仕上げをして、大きなバランスボールが1つ完成した。

スミレはこの直径80センチはあろうかという大きなボールを初めて見た。パンパンと音を立てながら床を転がるカラフルな姿を見て、スミレはすぐに遊べるものと思ったが、違っていた。
「はい、次、次!5個全部丸くするわよ〜!」
「え〜っ」
「はい、スミレちゃん、10まで数えて!」
「よ〜し!せーの! 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10!」
「はい、よくできました。交替!」

多少大きさの差があるバランスボールが5つ膨らんだころには、子どもたちは汗みずくになっていた。
「はい、5個完成!みんな、やったね〜!!Good Job!!」
マリアンヌの喜び方は弾けていた。
両手を突き上げて、ピョンピョンと教室を跳ねまわり歓声をあげながら子どもたちひとりひとりとハイタッチをする。普段のおっとりとした様子からは想像もできないはしゃぎようで、大人たちは目を丸くしている。
子どもたちは自然とマリアンヌのテンションに巻き込まれ、舞い上がって喜んだ。

「みんな、帰りの会を始めるよ!」
担任の先生の声がかかる。
「はーい!」
一番よい返事をしたのはマリアンヌだった。
子どもたちはつられるように返事をすると、席についた。

スミレの席はたんぽぽの仲間たちから離れている。
「マリアンヌ先生」
スミレが呼びかけると、
「先生はいらない。マリアンヌだけ!」
「え〜っ。じゃ、マリアンヌ、あのボールどうするの?」
「知りたい?」
「知りたい!」
「明日ね、教えてあげる。」
「えーっ、今日じゃないの?」
「明日、明日。さ、帰る準備しょうか。」

スミレとたんぽぽの仲間たちは、明日の登校が待ちきれないような気がした。






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小林幸子と書いてコバヤシユキコと読む彼女のことを、ここからはマリアンヌと呼ぶことにする。

真新しい上履きに履き替えたスミレと手をつないで、マリアンヌはたんぽぽ学級の教室に向かった。
「ここがしばらくの間、スミレちゃんの基地よ。」
「きち?」
「そう。ここに隠れていて、学校を探検するの。」
「学校を探検なら、東京でもしたよ。」
「うん。その探検とは、ちょっと、ちがうかも。」
「どうちがうの?」
「まあまあ、質問は後にして、まず探検第一号。スタート!」

教室のドアを開けると、そこに置いてあったのは”くねくねトンネル”だった。
三和体育(SANWATAIKU) くねくねトンネル500 (赤) S-7240


「何これ〜!」
スミレが叫ぶ。
「未来への、トンネル。さ、くぐって、くぐって!」
マリアンヌにうながされて、スミレはランドセルを背負ったままトンネルに入った。
四つ這いで前に進んでいると、トンネルの外から、マリアンヌがゆらゆらとトンネルを揺さぶる。
「きゃ〜やめて〜!」
トンネルの色が変わると目の前の色も変わる。もう少しで出口かと思ったら、急に大きくトンネルが動いた気がした。いつまでたっても出口がない。
マリアンヌが入り口と出口をくっつけてしまったのだ。
「あれ?まだ?あれ?」

たんぽぽ学級の子どもたちが何人か登校してきた。
くねくねトンネルをみつけると、カバンを放り出して入りたがった。
マリアンヌはすかさず、入口を開ける。
次々にトンネルに入って行った子どもたちは、慣れた動きでスミレに追いつく。
トンネルの出口から、スミレと一緒に子どもたちが団子になって出てきた。

「うわぁ、楽しかった〜」
「もう一回やってみたい?」
マリアンヌが茶目っ気いっぱいに尋ねると、たんぽぽの子どもたちがうん!と大きく頷いた。
「いこ!」
子どもたちは当然のようにスミレを促して、入口に向かう。
遊びは偉大だ。手続きなしに人と人を結びつけてしまう。
スミレはランドセルを投げだした。
他の子と一緒になってトンネルに入って行くスミレの姿を少し離れて見守っていた真理は、教室に入るというワンステップの間にスミレに友達を作ってくれたマリアンヌの手腕に、開いた口がふさがらなかった。






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あと30分もすればスミレが登校してくる。
学習ボランティアとして松葉が丘小学校1年1組の下駄箱前でスミレを待ちうけている小林幸子は、まだ時間があるから、もう一度部屋の様子を見直してこようと、下駄箱を離れた。

初めてスミレの様子を見せてもらった1か月前のことをありありと思い出す。
「ずいぶんと小柄ですね…。」
思わず独り言を言った幸子の言葉を、施設長は聞き逃さなかった。
「愛情遮断性低体重・低身長の診断が出ています。」
「そうですか…。」
「スミレちゃんは10代の両親の元に生まれ、物心つく前から父親から母親に対する暴力をずっと見続けていました。昨年、父親は電車に飛び込んで自殺、母親はその時受けた暴力が元で倒れていたところをスミレちゃん自身が発見しています。入院した母親に代わり、祖父母が養育にあたりましたが、祖母が間もなく心筋梗塞で死去。その間、母親の精神状態は悪化の一途をたどり、激しいパニックが続きました。精神科の診療とともに服薬していましたが、落ちついたのを機に親子二人で暮らしたいと言い出し、今年1月、独立しました。けれども、体調をくずしてしまったスミレちゃんの面倒をみられず、完全な育児放棄。スミレちゃんは1週間以上も飲まず食わずのまま放置されるという体験をしています。身体的暴力もふるわれたようです。その時の記憶をしっかりと留めていますが、父親のことはよく覚えていないようです。ところどころ、記憶が飛んでいるようです。」
「小学校でもいじめに遭ったとか。」
「はい。 入学わずか10日で、人殺しのこどもだとかバカだとか、ひどいことを…」
説明しながら今日子は涙を滲ませた。
「もうどんな重荷も背負えないほど傷ついていたと言うのに…。」

「今はずいぶん元気を取り戻しているように見えますが。」
幸子は細かな過去をそれ以上聞こうとはせず、同年代の女の子と追いかけっこをしているスミレを目で追い続けた。
「ようやく最近のことです。ここでの生活に抵抗が強く、これまでの不安が一気に噴き出す形で、苦しかったと思います。」
真理が言葉を添えた。
「愛着障害、ですか?」
幸子の口からその言葉が出たことに、今日子も真理も息を飲んだ。
「小林さんはお医者さんの免許もお持ちだそうです。」
校長が説明すると、二人は納得したように顔を見合わせた。

すぐにスミレを紹介しようと言う今日子を押しとどめて、幸子は帰って行った。9月に学校で出会いたい、という幸子の申し出に、校長も学園の職員も、なんとも言えない安心感を持った。


いきなり1年1組の教室に連れていく気はなかった。
しばらくは、たんぽぽ学級の片隅に机を置いて、ここからスタートしようと幸子は決めていた。
幸子に与えられた第一ミッションは「スミレがクラスに自然となじむように支援すること 」だった。
担任と細かく打ち合わせをすること、教頭に必ず許可を取ることが条件ではあったが、幸子のアイディアはことごとく受け入れられ、今日の日を迎えていた。
学校側は、幸子の発想に脱帽だった。突飛な発想に首をかしげつつも、それがどんな効果を発揮するのか見てみたいという空気が濃厚だった。いまや、東大出の医師であり教育学博士でもある幸子の動向は、松葉が丘の注目の的だった。

「よし!」
教室の点検を終えて、幸子は小さくつぶやいた。
「小林さん、そろそろ昇降口に行きましょうか。」
担任の矢口先生が迎えに来た。幸子と同年齢くらいに見える、小柄でぽっちゃりした矢口先生は子どもたちから密かに”たこやき先生”と呼ばれている。
「はい。なんだか、落ち着かなくて。」
おっとりと幸子が笑うと、矢口先生はあなたでも?と言いたそうに目を丸くしたが、口は違うことを言った。
「新しい子どもを迎えるのは、いつでもドキドキです。」

真理に付き添われて、スミレがやってきた。
正門をくぐる前に立ち止まって、真理から何か言われているところを、ふたりは昇降口から見守った。迎えに出ようとする矢口先生をひきとめたのは幸子だった。
「待ちましょう、自分で来たくなるまで。」
それは、たいして長い時間ではなかった。
スミレは、自分から歩きだし、昇降口までやってきた。

「はじめまして、スミレちゃん。担任の矢口です。」
矢口先生は膝を折ってスミレの顔を覗きこんだ。
「スミレちゃんと一緒に勉強する、マリアンヌです!」
幸子の挨拶に一番驚いたのは矢口先生だったかもしれない。膝を折った姿勢のまま、勢いよく首をぐるりと回して、背後に立っている幸子を見上げた。真理もキョトンとしている。
「マリアンヌっていうの?ガイジンなの?」
スミレはしげしげと幸子の顔を見上げた。
「日本人でもマリアンヌです。スミレちゃんもマリアンヌって呼んでね。」
「うん、わかった!」
「じゃ、仲良しの握手。」
二人で握手をすると、スミレはそれだけで大笑いし始めた。






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学習ボランティア応募期限の最終日になった。
最初の4名はすぐに応募があったが、それ以降、誰からも応募はない。
7月末日の締め切りはあっという間にやってきた。

応募はファックスで寄せられることになっていた。
校長は、書類から気が逸れるたびに事務室に行って、ファックスを覗きこむ。
もうダメかと、次の手を考え始めた時だった。

「校長先生、これが。」
応募ファックスを持って教頭がやってきた。
応募者は30代の女性だった。
校長は、すぐに履歴書を持って来校してくれるよう、応募者への連絡を教頭に指示した。

その女性は、翌日来校した。
小柄でおっとりした印象の女性を校長室に招く。
差し出された履歴書を見て、校長は目を丸くした。

東京大学医学部卒業。
医師免許取得後東京大学医学部附属病院に勤務。
ニューヨーク州立大学にて応用体育学修士課程修了。
東京学芸大学にて教育学博士課程修了。 

「なんですかこれは?」
驚き過ぎた校長は、失礼極まりない質問を発した。 
それを笑顔でかわした女性は、なかなかのしたたか者だと教頭は見た。
「なぜあなたのような方が、教育ボランティアなんですか?」
「1年生の学習支援とのことで。この時期ですから、何か事情があるのだと思います。私がお手伝いすることで、少しでも楽しく学校生活を送ってもらえるようになればと思いまして。」
「ボランティアの内容についてまだご説明していませんが、よいのですか?」
と突っ込んだのは教頭だった。
「はい。もちろんうかがいたいとは思いますが、本来行われている教育活動のサポートであることにかわりはないと思います。ご要望に応えられるよう努力いたします。」

「この応用体育学とはどのような。すみません、不勉強で。」
校長が尋ねた。
女性は微笑んだ。
「日本にはありませんので、ご存知なくて当然です。応用体育学は従来の体育学に特殊教育学と心理学を合わせた、比較的新しい学問です。 肢体不自由児など、従来の体育では補いきれない、個別の工夫が必要な体育分野について学びました。一口でいえば、子どもたちは楽しく遊んでいるだけなのに、実は筋力や身体感覚を向上させ、身体のバランスを整え、ひいては脳の発達を促し、精神的な発達も進むというような方法のことです。アメリカでは、障害児に体育を教える教師は、全員この分野を習得していなくてはならないことになっています。」
「ほう。その視点は健常児にも役立ちそうですね。」
「はい。私もそう思います。帰国後、教育学を改めて学び直したのは、 おっしゃるようなことを考えたからでした。」
「ならば、どうして教壇に立たれなかったのですか?」
教頭は手厳しい。
「はい、思うところがありまして。」
女性はしなやかにかわした。
「私にできることといったら、子どもたちの遊び相手になるくらいですが、少しでも学校生活が楽しくなるようにお手伝いさせていただければと思います。」

校長は、教頭と目を見合わせると、互いに頷きあった。
「合格です。よろしくお願いします。」
その場で答えがもらえるとは思っていなかったらしい女性は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに表情を和らげて頭を下げた。
「こちらこそ。ありがとうございます。よろしくお願いいたします。」

「それで…コバヤシサチコさん…」
履歴書をチラリと確認してから校長が呼びかけた。
「いえ、ユキコです。小林幸子と書いてコバヤシユキコと読みます。運悪く、夫の姓が小林でして。」
恐縮する校長を前に、もう慣れ切った対応らしく、ユキコさんは笑っている。
「いや〜失礼、失礼。ユキコさん、これから少しお付き合いいただけませんか?会わせたい人がいます。」
「はい。よころんで。」

校長はユキコを連れてもみの木学園に向かった。






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その学習ボランティアは、市の広報を通じて募集された。
ボランティアなので、交通費相当の謝礼とも呼べない、いくばくかが渡されるだけで、収入と呼べるようなものにはならない。スミレのような複雑なケースを理解してサポートできるような人材が見つかるとは、考えにくかった。

それでも4名も応募があったことに、校長は自分で言い出しながら、少なからず驚いた。
しかし、面接してみて、世の中そううまくはいかないと、溜息をつくことになった。
応募者のうち2名は男性だった。
広報に、女性のみを募集するとは書けない。性差別につながりかねない表現は慎まなくてはならない。
しかし、幼いとはいえ女児に身近くついてもらうので、できれば女性が望ましかった。
公表できない内部事情はどこにでも存在する。

これといって決め手を欠く人材だったことがかえってありがたかった。
残り2名は女性だったので、校長も自然と面接に力が入る。
しかし、面接を終えた後の校長の顔は、干からびたサボテンのようになっていた。

「ありゃ、だめだね、教頭。」
「はい。あれはいけませんね。」

ひとりは、人柄はまずまずと見えたが、高齢の域に達していて、膝や腰の痛みがあるから座ったままでできる範囲で…との申し出だった。希望を叶えてあげたいところだが、小学校1年生の活動が座ったままでできるはずもなく、お断りするしかなかった。

もう一人は40代半ばの女性で、子育ての経験もあり、教育学の修士課程を終えていた。書類上、大変好ましいように思われ、内定のつもりで面接を迎えた。しかし、実際に会って話しているうちに、校長はどうも自分の違和感の証拠を探すようになっていた。

理由がはっきりすると、校長は採用の意思をなくしていた。
彼女の話からは、自分のことしか出てこなかったのだ。これから一緒に学ぶ子どもに対する思いというか、好奇心というか、そういうものが一切感じられなかった。自分のやりがい、自分の決意、自分の経歴、自分の…。

校種を問わず、教育の主人公は常に子どもたちだ。
どんなに優れた授業技術を持っていても、知識が豊富でも、受け取り手である子どもたちを無視する教育者の活動は、教育ではなく自己満足にすぎない。

ボランティアに、それを求めるのは無理なのかとも考えた。
今はその点がわからなくても、スミレがやってくるまでに伝えていけばいいのかとも考えた。
しかし、何度かもみの木学園に自ら足を運んでスミレの様子を見続けてきた校長は、スミレに寄りそう人を選ぶにあたって、この点を妥協する気には、どうしてもなれなかった。
知識が足りないならば教えればどうにかなるかもしれない。しかし、教育者のセンスというものは、もともと持っている資質が大きいと校長は思っている。人に対する思いは、教えられて身に着くものではない。
即戦力を求めている今回のボランティア募集では、採用者自身が失敗しながら身につけていくのを待つゆとりはなかった。
かといって、誰もいないでは始まらない。

「でも、校長。応募の締め切りにはまだ5日ほどありますから。次に期待しましょう。」
能吏タイプの女性教頭は、不適格な応募者を切り捨てると、さっと気持ちを切り替えた。







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スミレは、祖父が安曇野に引っ越してくるなら、もみの木学園を出ることになるのだが、引っ越しの時期が決まったわけではないのと、当面、祖父は東京と安曇野を行ったり来たりするだろうということから、もみの木学園に留まることになった。

二学期が始まろうとしている。
一学期の間は学園での生活に慣れるため登校を控えていたが 、9月からはいよいよ松葉が丘小学校の1年生として転入する。

小学校と学園は、スミレの転入に当たり、カンファレンスを重ねてきていた。
学園でのスミレの生活が波乱の末にようやく落ち着きを得たとはいえ、学校生活は別のものだ。
もともと、いじめが原因で転学を余儀なくされているだけに、同じことを二度体験させるわけにはいかなかった。
松葉が丘の子どもたちは、学園の子どもに慣れている。
世の中には自分たちと違って、家から学校に通えないこともあるのだということをよく知っている。それを理由にからかったりいじめたりすることは考えにくかった。
しかし、それは学年が上がった後のことで、1年生には難しいことかもしれなかった。

加えて、スミレは読み書き計算などをまだ学習していないという点にも配慮が必要だった。
松葉が丘は、のんびりした土地柄を反映してか、入学時に読み書きができないなど、それほど珍しいことでもないのだが、すでに1学期に学習を積んで、みなそれなりに出来るようになっている。そこにポンと入ったら、周囲が何も言わなくても、スミレは衝撃を受けるだろう。

スミレをどの学級に所属させるかも慎重に話し合われた。
松葉が丘の1年生は2クラスある。それと、たんぽぽ学級だ。
たんぽぽ学級では、すべての学年の児童のうち、発達障害があったり、場面緘黙や何らかの配慮すべき状況がある子どもたちが所属している。

スミレの場合、愛情遮断性低体重・低身長が診断名としてついているので、配慮すべき事項を持ちあわせてもいた。学習も遅れている。たんぽぽ学級に入ってもおかしくはない。
しかし、学習の遅れは、遅れというより未経験なのだから、当然だ。
一般的な知能検査では遅れは認められていない。

大人たちは様々な可能性を話し合った結果、スミレを1年1組に入れることにした。
決定のきっかけになったのは、スミレと同室のトコちゃんの存在だった。
トコちゃんも1年1組だ。
「一緒のクラスだといいね。」
スミレとトコちゃんが繰り返し話し合っているのを真理が耳にしていた。
少しでもスミレが安心できる材料がある教室にということで、大人の意見は一致した。

とはいえ、30人の児童の中に、いきなりスミレを入れるのは乱暴なのではないかという話になった。
たんぽぽ学級ならば、担任のほかに支援員がいる。
この支援員にスミレのサポートをしてもらう案が話し合われたが、スミレがたんぽぽ学級に入らないとなると、支援員の守備範囲ではなくなる。これが年度初めなら、必要に応じて市から人的配置をしてもらえるのだが、年度途中での配置はない。

学園から誰かが付き添うことも話し合われたが、学校のことと学園のことはきちんと区別するのがしきたりだ。
皆が沈黙に沈んだ時、校長のツルの一声で学習ボランティアを募ることが決まった。
この決定で、スミレは真理に次ぐ、第二の運命の出会いを果たすことになるのだった。






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☆一昨日から発生していたコメントが書きこめない状況が解消したようです。ご迷惑をおかけしました。
 これを機会に普段無口な方も、よかったら何かお書きくださいませ。 Hikariの励みになります。
 これからもWin-Winをどうぞよろしくお願いします!



ぶどう


「真理。お前の心をよく見てみないか。今、ここで。」
「え?」
真理が聞き返す。

「もう一度、よく見るんだよ。いったい、どこに穴が空いているんだい?」
「ええ?」
「ほら、よくご覧。お前の心には穴なんかどこにも空いていないよ。それどころか、あっちにもこっちにも、優しくて面白そうなものが盛り上がっているじゃないか!」

たっぷり1分は無言の時間が続いたかもしれない。
祖父は自分で問いかけておきながら、ジリジリしてくるのを感じていた。
そのとき、ぽつりと、真理の声が聞えた。
「ああ、そうかもしれない。」

真理は目を閉じたまま、首を小さく左右に動かして、本当にあたりを見回しているようだった。
祖父はホッとして、静かに続けた。

「確かにかつて、そこは何一つない荒野だったのかもしれない。
嵐が吹き荒れて、砂粒さえ残らず飛ばされてしまったのかもしれない。
でも、今は違う。
肥えた土には木々や草花が生い茂って、小鳥や動物たちが豊かに暮らしているだろう。
聞えるだろう、楽しげなさえずりが。
青空から暖かな日差しが降り注いで、君の肌にあたっているだろう。
美味しそうな実も生っている。食べてごらんよ。うまいだろう!
どうだい、何か不足なものがあるかい?」

ああ、と、真理は深いため息を漏らした。
満足げな、安らぎを湛えた溜息だった。

それから真理は静かに目を開けると、祖父に向き直って、自分の頭にそっと乗せられていた祖父の手を取り、両手で包んだ。
「星川さん。私、今気付きました。
私の心が寂しいのは、仕事にしがみつくようにしているのは、娘を亡くした悲しみからだと思っていました。けど、それだけではなかったんですね。小さいころからずっと、自分の力ではどうしようもない寂しさを抱えていたんだわ。 私は寂しい風景をあまりにも長い間見続けていたから、今、風景が変わっていることに気付きもしないで、ずっと古い記憶を再生し続けていたんですね。」

祖父は静かに頷いた。
実際のところこんな芝居がかったことを、真理を癒せると確証を持ってしたことではなかったし、祖父自身、自分の言動の意味がわかっていない。
けれども、祖父の言葉をきっかけに、真理は自分の力で自分なりの答えにたどり着いたようだ。
それはただ、受け止めればよいものだ。
「考えようによっては、幼いころからの寂しさが、娘の死をより一層悲しくさせたのかもしれませんね。」

「真理さん。どうか今のあなたの仕事をさげすまないでください。信頼を盗んでいるなどと、考えないでください。」
「ええ、本当にそうですね。私、思い違いをしていたようです。もしも私が一生懸命にはたらくことで、心の穴を埋めたのだとしたら、子どもたちの力を借りながら、自分で立ち直ったということですよね。」
「そうですね。」
「だったら、子どもたちだって、私の力を借りながら、自分の力ではどうしようもない寂しさや苦しさを、いずれ撥ね退けていけますね。」
「あなたが手伝ってくださるなら、きっとできると思います。」
「そうだわ!たかが親に愛されなかっただけじゃない!それも、わざとじゃない。愛情を注ぎたくても注げなかった事情があったんだもの。それに、親の愛情はとても大切だけれど、それが全てではないですものね!」
「そうですね。きっと、そうだ。」

真理は力強く立ち上がった。
「星川さん、カウンセリングか何かを勉強なさったのですか?」
「とんでもない!この口が勝手に話してしまいました。」
「ありがとうございました。娘のことは、輝美のことは一生大事に思います。けど、いつまでも彼女の死を嘆いてばかりいたら、彼女に心配かけてしまいますね。」

 不意に真理が抱きついてきた。そうして、明るい声でこう言った。
「パパ。ありがとう!私、ずっとさっきの言葉を聞きたかったの!
それに、今まで心の中では自分みたいな者がこの仕事をしていてはいけないんじゃないかって、ずっと思っていたけど、これからは心から楽しめそうよ!」
今度は、無理に明るくした声ではなかった。

祖父は何とも言えない充実感に包まれていた。







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連載の途中ですが、8月の読書記録を。
2013年8月に読んだ本は10冊でした。
7月にまとめ読みした有川浩さんの、どこかラブコメな甘い香りにちょっと抵抗を感じ始めたので、話題の経済ミステリーでも、と思ったのが池井戸潤さん。
高視聴率のドラマは見ていなかったのですが、原作を先に読んでドップリはまってしまいました。
痛快無比ですね。
通勤の往復で1時間は確実に読めます。
行きも帰りも夢中になりすぎて、何度も降りる駅を誤りそうになりました。
ということで、8月は池井戸月間でした。



 
Hikariの読書記録 - 2013年08月 (10作品)
民王 (文春文庫)
池井戸潤
読了日:08月16日
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